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たまに一言#212
〜谷の集落へ嫁いだ、山の集落の花嫁さん IN 鈴鹿〜






「うわぁ〜、ここはなんて町(まち:「都会」の意)なんやろ〜!」。これは今から約50年前、鈴鹿山中の山の集落『明幸(みょうこう)』から、同じく鈴鹿山中の谷の集落『河内』に嫁いで来られた若い花嫁さんが、嫁ぎ先の河内地区集落を見て思わず出たことばである。生まれてからずっと、麓の鳥居本中学校へ通う時以外、故郷『明幸』からはほとんど出たことがなかったという山育ちの花嫁さんの目には、嫁ぎ先の谷の集落の風景がとてもひらけていて町らしく見えたのである。

「でも、そう言ったら、みんなに笑われてしまったん。」と当時を思い出しながら懐かしそうに笑う。でもそう笑われたのも仕方の無いこと。若い花嫁さんを迎え入れた『河内』の人たちにとっても、自分たちの住む谷の集落はたいそう不便な山の村、決して町なんてことばが似合うはずのないということがよくわかっている。花嫁さんを迎えた人たちはきっと「こんな田舎を町やなんて、おかしいなぁ〜」と思いながらも、そのように言う『明幸』からの花嫁さんをさぞかし可愛らしく感じられたことだろう。このエピソード、『明幸』という集落が当時それだけ山深く不便な所だったということがよくわかる。





この話、2010年の大晦日に芹川上流の河内地区を訪れた時、そこにお住まいのオバチャンとの雪の中での立ち話でうかがったものだ。前回のこのコーナーでご紹介した、雪かきをされていたオバチャンである。この時の30分くらいの立ち話の中で、「うわぁ〜、ここはなんて町なんやろ〜!」と「でも、そう言ったら、みんなに笑われてしまったんよ。」ということばは、何度も出てきた。嫁いで来られてもう半世紀も過ぎているのに、やはり今でもそのことが本当に強い印象として残っているのだろう。そして、そのことばを言う時に出るオバチャンの笑顔は、当時のほのぼのとした様子をよく伝えてくれる。きっとその頃は『河内』の風景も、今とは全く違うにぎやかで活気ある風景が広がっていたのだろう。そのことも笑顔の向こうに感じられたりするのである。





『明幸』は、明治7年までは『明幸(妙幸)村』、その後『武奈村』の大字となり、明治22年に『鳥居本村』に編入されて昭和27年に彦根市となった集落。したがってオバチャンが幼少期をすごされた時は鳥居本村の大字『武奈』の字『明幸』、嫁がれた時は彦根市武奈町の『明幸』だったということになる。10戸にも満たない小さな集落も、すでに廃村となってから長い年月が過ぎ、もう家屋は一軒も残っていない。今は倒れかかった蔵や石垣、神社の祠などがわずかに残るだけ。そこの子どもたちが通っていた小学校、鳥居本小学校武奈分校がこの『明幸』に在ったのだが、それも今は姿は無く、分校跡の石碑と、その時のものだろうかトーテムポールの残骸だけが残る。武奈分校は昭和49年12月に閉校,翌昭和50年1月に休校となっている。分校の建物そのものは平成元年時にはまだ健在であったようであるが、残念ながら私はその姿を実際には見ていない。そればかりか、当時の校舎の写真もあまり目にすることはない。小学校が無くなり人が去ったのか,人が去ったから学校が無くなったのか、いずれにしても廃村となったのも閉校になった頃だと思われるので、『明幸』に人が住まなくなってもう30年以上もの年月が過ぎたことになる。









一方、オバチャン(花嫁さん)の嫁ぎ先となった『河内』は、その昔は『河内下村』『河内中村』『河内宮前村』『河内妛原村』の四村に分かれていたが,明治7年に合併して河内村、その後、明治22年に芹谷村の大字『河内』となり、昭和16年に多賀町の大字となっている。したがってオバチャンが嫁いできた当時は、すでに犬上郡多賀町の『河内』だったということになる。ここを訪れると今も昔の名が残っており、『河内下村』『河内中村』『河内宮前』『河内妛原』などの文字の消えかけた表示板を見ることができる。地元の方は、それぞれから‘河内’を取って『下村』や『宮前』というように呼んでいるようだ。ちなみに有名な河内の風穴は『河内宮前』にあり、ここには以前に芹谷分校にあった二宮金次郎像が今でも大切に置かれ、訪れる者を和ませてくれる。しかしこの芹川上流の美しい集落郡も全国の山村同様に過疎化が著しく、『妛原』より上流はすでに冬期は無住集落で、除雪なども行われることはない。時代の流れとはいえ、この先を考えると何とも寂しく感じてしまうのである。









で、オバチャンにうかがった話を少し紹介。このオバチャンのご実家は武奈分校のすぐ横で学校まで徒歩1分もかからない便利な所だった。といっても『明幸』自体が小さな集落だったので、ここに住んでいた子どもたちのほとんどが「学校まで徒歩1分以内」ということになってしまう。便利だったというか、もう学校も家みたいなものだったのかもしれない。分校には『明幸』の他『武奈』『男鬼』の集落の子どもたちが通っていた。オバチャンが通われていた当時、全児童数は「30人くらいやったかなぁ・・」というから、山の中の分校ということを考えるとかなりのものである。しかし、3つの集落の子どもたちがそこでどんな生活を送っていたのかを思い浮かべようとしても、今の分校跡の寂しさからはどうしてもイメージすることができない。いずれにしても、山一つ越えて通わなければならない『男鬼』の子どもたちに比べると、『明幸』の子どもたちは通学という面ではずいぶんと恵まれていたことになる。









ところがこの便利さは中学生になると一変する。麓の鳥居本中学校まで何と片道約2時間の徒歩通学となるのである。しかも通学路は昼でも薄暗い山道。もちろん、今のような車の通れる道があるわけではない。「暗くなるから懐中電灯を持って行くんよ。」と普通に話されていたが、今の時代から考えると本当に危険でとんでもないことだ。「怖くなかったですか?」と聞いてみたが「一人やないしね、10人ほどいたかなぁ・・怖いなんて思ったことないよ。」と返ってくる。朝は6時過ぎに家を出てひたすら山道を下り、帰りは同じ道をひたすら登って帰ってくる。日の長いうちは良いが、日の入りが速くなると帰る頃にはすっかり暗くなってしまう。そして先程の「懐中電灯の出番」ということになる。

今、周辺の山道を訪ねると、鳥や獣の声、そして風に揺れる木々の音などがたまに聞こえてくる程度で、静寂な山中というのを強く感じる。そういった中、子どもたちだけで暗くなった山道を懐中電灯を頼りに延々と歩いていた姿を想像すると、なんとも言えない思いがこみ上げてくる。ただ、誰もいなくて待っている人もいない所へと続く道と、誰もいないが待っている人がいる所へとつながる道とでは、同じ歩くにもずいぶんと気持は違うだろう。そして当時は待っている人がいる所へ続く道だった。山中を歩いていた子どもたちは、案外今の周辺の風景から想像するような寂しさは感じていなかったのかもしれない。そのことを話すオバチャンからも寂しさは伝わってこなかったのは、人柄ももちろんあるだろうが実際、寂しさをそんなに感じていなかったからなのだろうと思ったりもする。





この他にも『明幸』や『河内』などについてなど少しお話をうかがったのだが、最後に「今でも、明幸に行かれたりしていますか?」とうかがってみた。すると「もう10年くらい行ってないよ。誰もいないし、何も無いし・・帰ってないねえ。車に乗ってる頃は行ったりもしてたけど・・」というお返事が返ってきた。そして、この『誰もいないし」ということばが、なぜか心に残った。廃村となっているから人がいないのは当たり前。しかしそのことだけを言っているのではないということが伝わってくる。そしてそのことばの裏に、長い長い時間の流れを感じたりするのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2011/01/22 19:09】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
たまに一言#211
〜雪の芹谷にて〜






昨年の末から新年にかけて、全国で雪が降った。地域によっては道路が遮断されてしまって孤立した山の集落があったり、大規模な停電があったりなど、テレビや新聞で連日報道されていた。そういった地域に住んでおられる方は、自然からの恩恵を享受できる地であると同時に、自然の厳しさといつも隣り合わせであるということを改めて感じたりする。そういえば数年前、永源寺の奥にある木地師の末裔の集落『君ヶ畑』が、大雪のため道路が遮断され、少しの間孤立したことがあった。後にそのことを『君ヶ畑』にお住まいの方にうかがうと、「あんなん大したことあらへん。昔はもっともっと降ったもんや。」と元気に話されていたのを思い出す。その方がかなりのご高齢ということを考えると、これまでに何度もこういった経験されてきたのだろう。何十年と山の中で生活する人々の逞しさを大いに感じたりしたものだ。





雪が降ると行きたくなる所がある。それは日頃から好んで訪れる滋賀県犬上郡多賀町の鈴鹿山麓にある芹谷。別に雪が降らなくてもここの風景には大変惹かれるものを感じるのだが、美しい山の集落を抱えるこの地が雪化粧を施した時はまた格別。「そういえば昨年は雪の芹谷を見てないなぁ・・」など考えながら訪れたのは、大晦日の夕方。年始準備などで世間一般では慌ただしく人々が行き来する大晦日だが、白く雪化粧した芹谷周辺はまことに静か。谷を流れる芹川沿いの白い道を通る車もほとんどない。雪の上にうっすら残る轍も、車の往来の少なさを物語る。積雪量はそんなに多くはないが、周辺は雪国の雰囲気を醸し出していた。

芹谷の入り口『下水谷』周辺でまず撮影する。かつては保育園もあったこの地、残っていたブランコ跡も今は撤去され、もうその面影を感じることはできない。赤い有線電話に時代を感じたりするするが、これがずっと残されているということは、今も有線電話は現役なのかもしれない。その、時代に残されたような赤い有線電話と赤く光る道路表示板が、白く雪化粧をしつつある景色の中では有彩色として彩りを添える。









もう少し奥に進んで河内地区の集落あたりで車を降りる。道が大きくカーブする所のこの風景が好きで、訪れる時はいつも写真を撮っている。当然この日も撮る。水を含んだ雪がこの頃からひどくなりカメラのレンズをタオルで包んでの撮影。「そういえばこの家のオバチャンにも以前少しお話をうかがったなぁ・・」など考えながら撮影していると、ちょうど中からそのオバチャンが出て来られた。もうあたりは薄暗い。そんな中、フードをかぶって雪まみれになりながらカメラをぶら下げて歩いている私の姿に少し驚いたようであるが、「よう降りますねー」と声をかけると「よう降るね。写真撮ってはんの?」の声。そして「ええ、きれいですねー」「ようがんばらはるなぁー」というようなたわいもないやりとり。以前お話をうかがったのはもうだいぶ前のことで、それもわずかな時間。覚えておられないだろうなぁ・・など考えながら撮影を続ける。その間にも雪はひどくなり、カメラやレンズを包んだタオルもすぐに雪で白くなっていく。





以前、川向こうにあった、まるで双子のような二軒のトタンの茅葺き家屋。2つが仲良く並ぶその姿がとても可愛らしくて好きで、よく撮影したものだが、今は一軒しかない。双子のような茅葺き家屋の風景はもう見られない風景となってしまっている。その風景をみようと歩を進める。ふと前を見ると、道の前方に雪かきをしているオバチャンの姿。近づいていっても目が合わないので「迷惑かな・・」とも思いながらも「こんにちは」と声をかけてみる。すると「こんにちはー」と元気な声が返ってきて少しホッとする。早速、双子の茅葺き家屋のことをうかがってみる。





「うん、あったよ。そやけど、もう潰してしまわはったわ。」とのこと。何でも、持ち主の方が県内の某地に完全に移ってしまい、もうこちらに帰ってくることがなくなってしまったので取り壊されたという。立派な老家屋だったので何か残念な気がするが、こればかりはどうしようもないこと。今ある1軒だけの風景、以前のイメージが強く「何か寂しげに感じたりするなぁ・・」など考えていると「こんな雪やのに何を撮ってはんの?」のことば。そして「山の集落の風景が好きで、今日は雪の風景を撮りに来たんですよ。」とことばを返す。そしてその会話をきっかけに、湿った雪の降る中で立ち話が始まる。





その方が『明幸(みょうこう)』からここに嫁いでこられたということを聞き、大いに驚いた。『明幸』とは芹谷の北側の山をずっと奥に入った所にあった小さな集落で、既に廃村となって何十年もの年月が過ぎている。『明幸』の隣、同じく廃村の『武奈』にはまだ建物が残っているが、『明幸』は倒れかかった蔵や神社の鳥居や祠、学校跡の石碑などが残るだけで、もはや家屋の姿は見ることはできない。「明幸には武奈分校がありましたよね?」とうかがうと「よう知ってはんねー。何でそんなん知ってはんの?」「山村が好きで、いろいろな集落や廃村を訪れたり調べたり・・」ということで、この後は『明幸』のお話を少しうかがうことになった。その内容については別の機会でご紹介できればと思っている。





雪が降りしきる中であったが、とても元気に明るくお話ししていただき、一年の最後が何か爽やかな気分になったりした。そしてしばらくの立ち話の後、まだまだうかがいたいことはたくさんあったのだが、寒さが体の芯までしみわたって冷え切ってしまうとともに、雪がカメラやレンズに積もって凍り始めたり、辺りが暗くなってきたりなどで残念ながらこれ以上お話をうかがうことを諦めることにした。寒い中で雪かきの仕事を邪魔してしまったことを申し訳なく思いつつ、お話が聞けて嬉しい気持ちも含めてお礼を言う。そして最後に「写真撮らせてもらっていいですか?」と、オバチャンの写真を1枚。あたりはもうかなり暗い。雪の中の街灯の光がボウっと光り、その光りの中に降りしきる雪が見える。そのボウっとした光で手元を見ると、カメラの軍艦部とレンズを包んでいるタオルが雪で白くバリバリになっていた。白くて静かな、2010年最後の芹谷の風景は、なかなか印象深いものとなった。






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【2011/01/10 14:58】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
たまに一言#210
〜山の集落で出会った二人から〜






谷からの坂道を車で10分程のぼった所にポツンとある集落、四季折々の美しい風景を見せてくれるその集落が好きで、私はよく訪れる。もう何十年も前から過疎化が進んでいるその集落に、年間を通して生活している人はほんの数人。いずれもご高齢の方ばかりだ。まわりの家から次々と人が去り、助け合いがあってこそ成立していた山の生活は、もうとっくに崩壊してしまっている。今では、自分で車を運転する、もしくは誰かが生活に必要なものを届けてくれる、という形でのみ生活が成立するのである。そういう所での高齢者の一人暮らしの生活、おそらく息子さんや娘さんはさぞかし心配しているはず。「一日も早く山から下りて一緒に暮らしてほしい」・・と。集落の機能を失ってしまった村に今も頑なに生活をするその姿は、外部の私などからみると「故郷を守っている」などという風にも見えてしまうのだが、そこで生活されている方にとっては極々普通の思いでしていることなのかもしれない。





その村を初めて見た20年程前は、過疎集落というイメージよりも普通の美しい山村という感じの方が強かった。当時、廃村を中心に撮影していた私がここを撮っていないのもそのためだったのだが、実際にはその頃から過疎化が深刻で常時お住まいの方は少なかったのである。そういうイメージを感じなかったのは、常時そこに住んでいなくても、折にふれては帰ってきて故郷の家を大切に手入れをされていたからに他ならない。今はその頃から比べると、倒壊してしまったり、更地に整理されてしまっていたり、大きくゆがんで崩れるのを待つばかりといった家屋などが目立つ。時折帰っては掃除をしたり草を刈る、窓を開けて空気を入れ換えたり食事や風呂で水や火を使う、そういった普通のことが普通にされていた老家屋たちが、流れる年月の中で主と別れざるを得なくなり、少しずつ風景を変えてしまったということを思うと、時の流れの寂しさを感じるのである。





この夏、その村を何気なく訪れた時に一人の方と出会った。その方は、私が集落の写真を撮っている時に庭の片付けをされていた。お邪魔かなとも思いながらも声をかけてみると、この村で生まれ、この村で育ち、この村で嫁ぎ、そしてこの村を離れて、今は大阪で生活をされているとのこと。年に何回か、遠く大阪より空き家となった故郷の家に帰ってこられるのだが、今回は、たまたまお盆に帰ってこれなかったので少し遅れての帰郷。ここに住んでおられた頃は、仕事が無い、子どもの教育の将来が心配、重労働ともいえる毎日の生活の厳しさ、など不安いっぱいで、「何とかしてここを出たい」とずっと思われていたという。そして、嫁いで10年近くが過ぎた昭和37年、ついに若い夫婦は両親と住んでいた故郷の地を離れる決心をする。大阪の地での、夫と幼子だけでの新しい生活のスタートだ。その新しい故郷となるべく大阪の地でも懸命に毎日を暮らし、やがて10年、20年と年月が流れ、幼子たちも立派に成長し独立していく。そうした長い時が流れていく中で、遠き山の故郷の地を守っていた両親も亡くなり、故郷の家が主の無い家となっていくことになったのもまた自然な時の流れといえるのかもしれない。





かなりのご高齢と思われるが、この方は大阪から電車に乗り、駅からタクシーで来られたという。駅からといってもかなりの距離だ。料金も半端ではないだろう。何より、猛暑を通り越したこの夏の酷暑の中、遠い大阪から一人でこの山の故郷に帰ってこられた、そのことに驚く。「息子は仕事があるし、迷惑かけとうないから」と普通に語るそのことばや表情からは、故郷への思いを強く感じる。この山の中腹にある小さな村は、大阪と比較にならないほど不便な所。もちろん近所に店など無い。バスも無い。それどころか人さえほとんどいないのである。そんな所に一人で帰ってくる・・・いったい何のために?





「ここに帰ってくるとね、ホッとするん。本当にホッとするんよ」

「でも、大阪は便利ですよね?」

「便利やけど・・・人間関係がねぇ・・。薄いっていうか・・隣がどんな人かもわからへん。こっちやったら何でも話したり・・ちょっと何かが無くなったら○○貸してって隣に行ったり・・」

今はこの集落にはほとんど人がいなくなってしまったが、それでも帰って来た時は、集落の旧知の仲の人と出会うという。

「本当はすぐにでも帰ってきて、ここに住みたいんよ。でも近くにお店も無いし、何も買いに行けへんし・・生活できゃしませんよ。昔は麓の村のお店から車が上がってきて、それで食べもんとか買ってたんやけどねぇ。」

その麓のお店も、ずっと昔にご主人が亡くなってからは車の販売も無くなり、店自体が閉められてからも、もうかなりの年月が過ぎているという。それでも店だった茅葺の家屋は今も健在で、当時の面影を感じることができる。

「もしお店があって、生活用品や食料品の不便さがなかったらどうですか?」ときいてみる。すると間髪入れず「そりゃぁ、もう、すぐに帰ってくる!すぐにでも帰ってきたいよ!」という元気な声。出たくて出たくて仕方なかった故郷の地なのに、何十年という月日は故郷への思いをまた違ったものに変えていき、その望郷の念は日に日に強くなってゆく。「そらぁ、ここに帰ってきたら昔のこと、よう思い出しますよ。もう、それにふけるっていうか・・」と話されることばの中に、故郷の存在の大きさ、故郷の存在の大事さが感じ取れた。人にとって故郷の存在は?というのは常日頃の私のテーマでもあるのだが、この日のこの方との出会いでも、人間にとっての故郷の存在の意味の大きさを再確認した思いであった。





もうあたりは暗くなっていた。もっといろいろお話をうかがいたかったのだが、せっかくの限りある時間の故郷の滞在を邪魔してもいけないと思い、お礼を言って帰ることにした。先程までいろいろな話したことを思い出しながら、谷へ下りる薄暗いくねくね道をゆっくりと車で下る。ふと前を見ると、坂道をゆっくりと上ってくる人の姿。女性でかなりの高齢であることはすぐにわかった。滅多に車が通ることの無い道、こちらの車に少し驚いているような感じだ。さらに近づくと、その背中には山菜取りに使うような籠が背負われているのも見えてきた。やはり地元の方だ。この道は一本道、行先は先ほどお話うかがったあの山の集落しかない。ということは、この方が、何十年と暮らし続けている方のうちの一人?どこから坂道を上ってきたのかはわからない。麓から?途中にある墓地から?いずれにしても、何か用事を済ませて自宅へ帰る途中なのだろう。集落まで距離はそんなに無いが、日は落ちてもまだまだ蒸し暑く、薄暗い中にもその姿や表情からは疲労の色がこちらにも伝わってくる。私の中で「挨拶をする?それとも上まで送るよう声をかける?・・でも、山育ちの方にそれは失礼?かえって迷惑?何よりもこんな時間にこんな所で得体のしれない男から声をかけられたら怖がられてしまう?」などなど様々な思いが交錯する。そうした葛藤の中で、すれ違うわずかな時間が妙に長く感じられた。昼間の明るい時なら普通に挨拶できたのだろうが、結局、声をかけずに横をゆっくりと素通りすることになってしまう。

何かその後もずっとそのことが気になっていた。山菜取りで遅くなったのだろうか、それともお墓にお供えをした帰りだったのだろうか、大丈夫だろうか・・等々おせっかいであることはわかってはいるのだが、あの薄暗い山道を一人でゆっくりとのぼっていく老女の姿に、いろいろなことを考えてしまうのだった。何十年も不便極まりない故郷の地にとどまることを選択し、年老いた今なお頑なにその生活を続ける。その限りなく強い思いと精神力、それとあの薄暗い坂道をゆっくりとのぼってくる姿。その対比と、内にある様々な思い、それらを考えると何か胸にこみ上げてくるものを感じて仕方なかった。





山の中腹にある、不便きわまりないもののどこか桃源郷のような感じさえする美しい集落。この日、そこを故郷とする二人の方と出会った(一人はただすれ違っただけなのだが・・)。姿を変えゆく故郷にとどまり、いかに不便になろうとそこに生活し続けることを選んだ者、また一度は故郷に憂いを感じて自らの意思で去ることを選びながらも、何十年の時を経てその地に戻ることを心の底から望む者。故郷の中にずっと居続けた者と、故郷を外から見ることになった者。これまでの生きてきた過程は大きく違っており、今ある状況も大きく違っている。しかし故郷に寄せる思いの重さはどちらも限りなく重い。ただ、その故郷の中で生活している者とそうでない者とでは、重みの中身も違うだろうし故郷の感じ方もかなり違っているはず。一年の内のわずかな期間であるが、その2人が同じ故郷の地でリンクする。その時、二人の間ではどんな会話が交わされるのだろう。昔話?それとも今の生活のこと?そのお二人の会話を思う存分聞いてみたい、聞ければ幸せだろうなぁ、そんな風に思ったりするのである。





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【2010/10/24 21:33】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
たまに一言#209
〜『椚平』(長野県諏訪市)にて〜






酷暑という表現がピッタリの夏のある日、久しぶりに長野県にある『椚平(くぬぎだいら)』という集落を訪れた。諏訪市大字湖南字椚平、つまり諏訪市の大字『湖南』地区の小字『椚平』ということで、少し南に下がれば箕輪町なので諏訪市の南端あたりということになる。地図で探すなら、箕輪ダムの上流部といった方がわかりよいかもしれない。『椚平』は、明治7年10月に北真志野村、南真志野村、大熊村、田辺村、後山新田村、板沢新田村、椚平新田村が合併して湖南村となり、昭和30年4月に諏訪郡中洲村とともに諏訪市に編入されている。そして集団離村により無住の集落となったのは、それから17年後の昭和47年のことである。





『椚平』にある離村記念の碑には、養蚕を主として生計を立てていた村が養蚕・水田・山林で生活できなくなったこと、町へ働きに出て現金収入を得なければならなくなったこと、青年層が流出してしまったこと、バスの運行が中止されてしまったこと、子どもたちの教育に支障をきたす環境となったこと(昭和43年の分校閉校による影響?)、等々で地区を維持することが難しくなって集団離村を決意したということが書かれてある。最終的には村は八戸となったというが、もっと少ない戸数でも人が暮らしている集落がある現実からすると、集団離村を決断したことが少し不思議に感じられたりもする。しかし、一つの集落というだけではなく、一つの区として動いて来た経緯の中で、様々な自治活動ができなくなってきたことや将来に向けての明るい展望が持てなくなってしまったこと、これらの不安が若者のいなくなって残された住民たちに重くのしかかってきたことが、集団離村という苦渋の選択だったのだろうと思われる。今から40年近く前のことである。





山の浅い谷の一本道沿いに細長く続く集落は、今も何軒かの家屋が残っており、その中には家屋だけではなく畑や庭の花などもきれいに手入れされている所もある。地元の方が今でもけっこう帰ってきておられるようで、この日も暑い中、庭で畑仕事に勤しむ人の姿が見られた。と思えば、今にも倒壊しそうな廃家屋、すでに倒壊してしまった家屋などもあり、その違いの大きさにそれぞれの事情を感じたりする。比較的近くに移住された方は、定年後や休みの日などにはこうして帰って来て畑仕事をしたり、気候の良い時には生活をしたりしているので家屋もきれいに保たれる。しかし離村して遠くへ住まわれた方は、故郷へ帰ることもできず、主無き家屋はそのまま朽ち果てていくということになるのだろう。

ここは、5年ほど前の夏に一度訪れている。その時は、周辺をウロウロしていてたまたま通りかかったのだが、寂しげで静かな村の雰囲気と、鮮やかなオレンジに近い黄色に咲き誇るオオハンゴンソウが大変印象的であった。倒壊しかかっていた家屋が倒壊してしまっている以外は、その時の風景とそんなに変わりがないのは、今もここを故郷とされる方が帰ってきておられる、そういうことなのだろう。人の温かみを受けている集落は、まだまだ村が生きている、そんな感じがするのである。





じつは今年の初めより「いちまい写真」という写真ブログを公開している。といってもことばや説明文など全く無く、毎日1枚の写真のみが更新されるだけという単純なものなのだ。「道をゆく」のサイトさえ更新ままならないのに何ということか、と思ったりもしたのだが、その時その時に気ままに好きな写真を更新するという気楽さでやっている。で、そこでこの『椚平』の写真を何枚かアップした時に、幼い頃にそこに住んでいたという方からコメントをいただいた。かつてそこに住んでいた方からことばをいただくというのは、大変嬉しいことであると同時に、今の人のいない風景しか見ていない自分にとっては特別の意味がある。朽ち果てた廃屋にも命を与えられた、古びて干からびてしまったものに水分・湿りけを吹き与えられたような、そんな感じがするのだ。この時も、頭の中の廃村の風景に息吹が与えられた、そんな気がした。そしてそうなると、もう一度『椚平』の風景を見てみたいと思うようになるのである。









この日は5年前と同様、南の方の箕輪ダムから沢川上流へと走り『椚平』にむかうことにした。まずダムの堰堤で少し休憩を取る。ダムは平成4年に完成というから、けっこう新しい。ダム湖はもみじ湖と言うそうだが、連日のうだるような暑さのせいか水もよどみ、緑色の濃い水は何とも酸素不足で、そこで元気なくユラユラと泳ぐ大きな鯉も息苦しそう。また、湖岸では、暑い中であるが鯉釣りかヘラ釣りかの釣り人の姿も見られる。そういえば山の風景が好きになったきっかけは、以前凝っていた山上湖でのヘラ釣りだったなぁなど思いながら、人のいなくなった村の風景を求めて車を発車させる。途中、箕輪ダム建設の際に廃村となった集落の名残をいくつか見る。大方はダムに水没してしまったのだろうが、やはりここでも故郷を訪ねてくる人たちの温もりを感じることができた。









天竜川水系の沢川も細くなり、その川沿いのそう深くはない谷の峡路を走ると離村の碑が見えてきた。『椚平』に到着である。前回見た二階建ての半壊家屋はやはり倒壊が進み二階部は崩れてしまっている。自然の中で傷み始めた家屋の末路の訪れを感じる。雪深い地域での、人の住まなくなった家屋の倒壊までの進行の速さには驚かされるが、やはりここでも進行は確実に進んでいる。見慣れてるとはいえ、こういった風景は寂しさを感じざるを得ない。川沿いの一本道には、以前は多くの家屋があったのだろうが、今は数戸が残るだけ。そういう中でちょっと雰囲気が違うのが、‘諏訪市消防団第八分団’と書かれた、ツタに覆われてしまって実体の見えない火の見やぐらと消防車の車庫であったと思われる建物。この風景は『椚平』のシンボル的な風景であり、ちょっと他とは違う風景。前回よりさらにツタがからまっており、ツタの塊のようになってしまっているのがおかしな感じだ。









ブログにコメントをいただいた方は、4歳までここに住まわれていたという。幼いその年齢では、鮮明な記憶は残っていないかもしれない。しかし川横の細い道を元気に駆けたり、追いかけっこしたり、川で小魚を捕ったり、畑や田んぼで虫を追いかけたり、きっとその頃の『椚平』での生活の記憶は埋もれることなく残っているだろう。子どもたちの賑やかな声が谷間にも響く当時の風景、そういう風景を勝手にイメージしながら道を歩くと、初めて訪れた時とはまた違った雰囲気を村から感じるから不思議だ。一本道沿いの家屋、狭いながらの田畑、そんなに深くない谷道なので当時はもっともっと明るく開けた感じだったはず。どのような故郷の風景の記憶が,その方の中に残っているのだろうか、など考えたりする。寂しさだけを感じた廃屋の風景が少し温かみを感じたりするのも、何か嬉しく思える。





ここから少し行くと『後山』地区に着く。ここには映画「ひぐらしのなく頃に」のロケにも使われた美しい木造校舎‘湖南小学校後山分校(昭和43年閉校)’が残る。そして周囲には典型的な日本の里山風景が広がっている。この校舎、大きさからいくと現役の頃はけっこうな児童数だったと思われるが、かなり傷んできており、今後が何とも気になってしまう。椚平地区には分校は無かったので、集団離村をする4年前までは、『椚平』の子どもたちもこの後山分校まで通っていたはず。『椚平』から『後山』までの一本道を歩く集団登校の子どもたちの風景、今ではもう見ることのできない風景ということはわかっているが、なぜか身近に感じてしまうのが不思議だ。





『後山』は周囲の田畑が美しく大変静かな集落。この『後山』ほど開けた感じではないにしても、『椚平』にもかつてはこういった里山の風景があったのだろう。今、静かで美しい後山地区の風景を見ながら、にぎやかだった頃の椚平地区の風景を考えると、当時の風景が何となくイメージできてくる。今その風景を見る術はないが、現在の風景から昔の風景を思った時、またこの先の風景を考えてみた時、見えてくるものは少なくないのである。日差しの強い後山分校の校庭でボーッとしながら、そんなことを考えたりした。





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【2010/09/20 22:27】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
たまに一言#208
〜「講演会〜廃村茨川に生まれて〜」を聴いて〜






鈴鹿山脈の最奥に位置し、昭和40年に廃村となるその時まで電気が通ることの無かった集落『茨川』、その歩んできた歴史や数奇な運命、さらに最奥地の孤村という地理的な条件、今の時代の感覚からはかけ離れた生活が高度経済成長まっただ中の時代に存在していたという事実、これらによって登山家や渓流釣り師に限らず、この地にロマンを感じる者は少なくない。ネットでも、未だ多くのサイトで取り上げられているのもそのためだろう。

この廃村へと続く林道起点、八風街道(国道421号線)からの分岐周辺は、鈴鹿をぶち抜くトンネル工事のため以前の静かな山道とは大きく変容しており、行き交う工事車両や重機の音で今は大変にぎやかだ。古くは銀山でにぎわい、また伊勢へと抜ける旅人の茶屋としての役目を担っていた茨川も、集落内を流れる川にその名残を残すだけで、今は大変静か。そしてそこを通っての鈴鹿越えの古道も、今訪れるものは登山客くらいとなっている。一方、一本下の八風街道は大変にぎやかで、トンネル開通の暁にはさらなる変貌を遂げていくことだろう。なんでもこのトンネル、平成11年に開通するというからもうあとわずか。しかしそれとともに、峠越えの旧・八風街道の部分は廃道となるのは間違いのないところで、少々寂しい気もする。









ちょっと前のことになるが、東近江市の永源寺産業会館という所で「イワナとススキの思い出〜廃村茨川に生まれて〜」というテーマで講演会が行われた。講師は茨川の地で生まれ、小学校の4年生に離村するまでこの地で育ったという筒井正さん。その地で生活した人にしか語ることのできない貴重なお話をたくさんうかがうことができ、大変有意義な時間をすごすことができた。茨川の簡単な歴史から始まり、筒井さんが生活されていた頃の当時の生活の様子、廃村となるまでの経緯、そして今振り返った時に故郷に対して思うこと、故郷から学ぶこと・・等々、本当に貴重なお話ばかりで、多くのことを学ぶとともに、昔を振り返ることで知ることの大きさ、大切さを改めて感じたりした。





どの話も大変印象的なのだが、中でも印象に残っているのは廃村に至るまでの経緯、村を離れることになるまでの経緯である。それまでは炭焼きを生業にしていた山奥の小さな集落に林道が通り(1954年)、自動車を使っての割り木の出荷が始まる。さらに燃料革命で炭の需要が減り、それに拍車をかける。炭焼きは、木を切って炭になるまでにそれなりの時間、期間を要するが、割り木は切ったらすぐにトラックに満載して出荷。その結果、周囲の山の広大な雑木林は見る見るうちに無くなってゆく。そこに杉などの植林が始まり、四国などからも大勢の入植者がやってきて、一面は杉林へと変わってゆく。林野庁の植林事業で各地の山々が杉林へと変わっていった時代だ。結果、炭焼きを生業にしていた集落で炭焼きの仕事が無くなり、次々と離村してゆく。





離村前の1964年の秋、教育委員会の人が筒井さんのお宅に来て引っ越しをうながしたという。ここにいてもらったら困る、ということである。子どもが一人でもいたら、どんな僻地であろうと教育を保証しなければならない。一人の子どものために大きな金は使えない、ということなのだろう。引っ越しできないなら、子どもだけでも寄宿舎に入れるようにと母親に告げる。そしてついに一家は離村を決意する。小さな子どもと離れ離れの生活を望む親などいないだろう。やむを得ない離村、苦渋の決断であったことは間違いない。「母は、泣いていました。」という筒井さんのことばが印象的であった。









今、過疎化が進んで集落によっては住人が数人という所も全国では少なくないはず。おそらくそういう所では、同じようなことが役場の者からお年寄りに告げられていることだろう。「一人の人のために大きな金は使えない。だから引っ越しをしてください。」また言い方は違うかもしれないが「冬は除雪もしませんよ。これ以上ここに住んだら、町(市町村)としては責任はとれませんよ。」なども似たようなこと。それは事実だろうし、無駄を無くし効率よく金を使おうとするのも当然のこと。しかし、それだけで進めていくと、何か大事なものを捨てていくように感じたりする。





人が山で生活できなくなり山を去る、人が米作りで生活できなくなることで田畑を捨てる。その結果山は荒れ里地は荒廃する。学校が姿を消し、人は村を離れ多くの集落が姿を消す。一方、都会では仕事のない人たちが溢れかえる。今、これまでの長年の国の政策の失敗事例を多く見ることができる。これらを振り返り失敗として認めていくこと、それを繰り返さず正しい道を探っていくこと、それらを考えることで次は何をすればよいのか、ということが見えてこないのだろうか、など単純に思ってしまう。今回、筒井正さんの講演を聴かせていただき、昔を振り返ることで学ぶことは大変多く多岐にわたる、そして今を考える、未来を考える、そのことの重要性をやはり感じるのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2010/09/14 21:32】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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