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#239 福井・木造校舎の残る村にて
~ 福井・木造校舎の残る村にて ~






 「今年の雪はサンパチ(昭和38年の大豪雪)以来やったよ。あの時はほら、あそこの学校の電線が膝ぐらいの高さまできて、そら大変やった。」「雪も、ほらまだ残ってるやろ。」とお話をしてくれたのは、福井県の山間部、とある木造校舎の残る小さな集落で畑仕事をされていたオバチャン。80才を越えられても、こうして畑仕事を毎年されているという。「今は趣味みたいなもんやから」ということだが、このスペースを全て手作業でするのはかなり大変なことのように思える。ご高齢とあれば尚更のことだ。とはいえ、すぐに腰痛を起こしてしまう軟弱な自分を基準にするからそう感じてしまうのであって、何十年とこういう生活をされてきた方にとっては、これらの身体を使う作業は、毎日続けてきた日常普通のこととして体にしみついていることなのかもしれない。









 今、70才代後半から80才代、90才代の年齢の人たちが生きてきた時代は、まさに激動の時代。軍国主義、戦争、敗戦、どん底の貧困、それを乗り越えての戦後復興、高度経済成長、そしてバブル・・等々、まるで映画の中の物語のような時代をその身で体験されている。さらに、山で生活されていた人たちは、日本の多くの人々の生活が豊かになっていった高度経済成長の時代に逆に生業を失い、過疎が進み、苦労を強いられている。そんな中でも山で暮らし続けることで積み上がってきた経験の重さ、それらは我々の世代とは決して比較し得るものではないなど感じる。今に至る時代背景を知れば知るほど、山で暮らし続けた人々の経験の重さへの畏敬の念が、自分の中ではより強くなっていく。









 それにしても80才を越えた年齢で、こうして元気に畑仕事をされているのは本当にたいしたこと。その体力や気力、根気はもちろん、私のような人間にとっては、普通に作物を実らせる技術も憧れなのである。これまでに何度か、庭に小さな菜園スペースを作って野菜作りなどに挑戦してみたことがあったが、夏場の猛暑や雑草の猛威、様々な虫の襲来などに負けてしまって、まともな収穫ができたことがない。やはり人間には向き不向きというものがあるな、などいつも逃げ道を作っているが、できないながらも未だ憧れは強く、懲りずにぜひやってみたいなど今も思ったりする。





 実は今回この山の集落を訪れたのは、そこに残る木造校舎と桜の風景が見たかったからだ。ずいぶん前に、ここに木造校舎があることをサイトをご覧になった方から教えていただいて以来、この風景が好きで度々訪れている。そしてその度に、小さな木造校舎と小さな校庭に咲く桜の風景をいつか見たいと感じていながら、未だそれは実現できていない。そういえばここの木造校舎と桜のことは、ずっと以前のこのコーナーでも書いている。8年前の『#98 廃校の桜』だ。そこにもあるのだが、その時の「桜の季節に来たらいいのに。」という工事のオッチャンのことばがずっと自分の中に残っており、それにより「ここで桜を見たい!」という思いがより強くなったような気がする。





 そして今回の訪問は、下界では桜が散る頃。時期的に少し遅れて桜の開花が見られる山では、ちょうど桜が咲き始めていてもおかしくない時期で、今日こそ桜と木造校舎の風景に出合えるのではないかと思っての訪問だった。ところが現地に着いてみると桜は全く咲いておらず、まだまだ固い蕾が見られるだけ。残念に思いながら、その時に校舎横で畑仕事をされているオバチャンに桜の開花のことをうかがった時のことばが、冒頭のサンパチ豪雪のことばだった。






 「今年はちょっと前まで雪がいっぱい残ってたからねえ。桜が咲くのはもう少しかかるよ。」
 「4月末くらいですか?」
 「いやー、そんなに遅くないよ」
ということで、開花にはあと10日前後かかるようだ。決して立派な桜の木ではないが、満開になるときっと小さなその木造校舎を桜の花が覆ってしまうような光景が見られるはずだ。お話を聞きながらその風景をイメージすると「もう一度来たいなぁ・・」という気持ちが強くわいてくる。









 このオバチャンのお子さんはもちろんずっと以前に山を降りて独立され、今はお一人で、この山の小さな集落で生活をされている。「昔はにぎやかやったよ。ほら、その前の道の向こうにも全部家が建っててね。」と言われるように、道の向こうには今は畑や田んぼであろうスペースが大きく広がっている。それでもこの静かな山の風景の中では、その頃のにぎやかな集落の様子がなかなか想像ができない。
 「今は年寄りが少し住んでいるだけよ。わたし80才やけど一番若いのよー」と元気に笑うその姿が、何かとても爽やかな感じだ。









 そういえば4年前の秋、この畑の上の道で木造校舎の写真を撮っていると、その上にあるお宅から人が出てこられて「いい写真撮れますか?この庭からも木造校舎がよく見えますよ。」と声をかけていただき、庭から柿の木と木造校舎の写真を撮らせてもらったことがある。その時の男性はかなり若かったように思ったので、そのことをオバチャンに訪ねてみると、「あの人は下に住んでてね、帰ってきてるん」ということで、ずっとここにお住まいではないようだった。でも「よく帰ってこられてるよ」ということで、今も家屋はきれいに保たれている。この日はおられないようなので、道から校舎の写真を撮ることにする。下の写真は、4年前の時にその方の庭から撮らせていただいた柿の木と木造校舎の風景だ。









 今ここにお住まいになられるのは、高齢者の方が数人だけ。80才のオバチャンが一番年下だというから、平均年齢の高さが大変なものだということがわかる。この冬の豪雪でも「何回も雪下ろしをしなあかんかった」というが、高齢者だけの雪下ろしはさぞ大変だったことだろう。
 それでも角川地名大辞典を見てみると、この村の人口は平成になる直前でも25世帯71人という記録がある。さらに遡ると、昭和30年40世帯224人、昭和10年50世帯231人、そして大正9年には57世帯384人というすごい数字が見られる。とても大きな村だったのだ。もちろん大正の頃にはオバチャンはまだおられないが、昭和のその大きな数字を見ることで、なかなかイメージできなかった「その前の道の向こうにも全部家が建っててね。」という先のことばの風景が、現実のものとして感じられる。





 ちなみに今はこの村が、山を越えるまでの最奥の集落となっているが、以前はさらに奥にも集落があった。その村は、オバチャンの話にも出てきた「サンパチ豪雪」を機に離村が進み、昭和57年までに全戸が村を離れたという。
 10年ほど前に小雨の降る中そこを訪れた時は、何とも薄暗い山林の中にポツンと蔵が建っていた。その寂しい風景がとても印象的で、今も心に残る。山間部の廃村の多くは、離村後に家屋跡や田畑の跡には杉や桧が植林される。それらが高く伸びると辺りは薄暗い景色へと変わり、人が住んでいた頃の開けた明るい村の面影は大きく変わってしまう。この既に消えてしまった村も、人が住んでいた頃はもっと開けた空の見える風景だったのだろうなど思いながら、時の流れを感じたものだった。









 それにしても、このように山でお住まいの方やお住まいだった方にお話をうかがうと、「サンパチ豪雪」や「伊勢湾台風」そして「56豪雪」のことばが実によく出てくる。それは、それらの大きな自然の猛威が、こういった深い山間部で暮らす人々に多大なるダメージを与え、生活を変える転機となっていたからなのだろう。壊滅的な被害を受けた後についに見切りをつけ、先祖代々の故郷の地を離れる例は少なくないのである。






 帰り際に「今は何を植えているんですか?」とうかがうと、「ジャガイモよ。作ってもいっぱい余らしてしまうんやけどね。若い人はこんなん食べへんし。」とのことだが、自然に囲まれ、澄んだ空気と山の水や土で育つジャガイモは、とても美味しそうに感じる。7~8月頃が収穫というから、今は土しか見えないこの畑もこれからは緑でにぎやかになっていくのだろう。
 今はまだ雪が残り、冬枯れの色が多いこの里山の風景だが、もう少しすると春の花や新緑の色で彩られる。でもそれも、こうしてここに暮らす人たちがあってこそ見ることのできるもの。何百年と続いてきたこの日本の美しい風景を絶やすことは、日本を壊してしまうこと。それを思うと、これまでに消えていった多くの集落が作っていた山里の風景、その大切さをより強く感じるのである。







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【2015/04/20 18:55】 | 福井県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#217 ある山の集落にて(福井県)
~ある山の集落にて(福井県)~






「そらぁー、こっちの方がいいよー!」
このことばは、過疎化が大変進んだ山村に暮らす、あるご夫婦のことば。「町との生活と比べてどうですか?」という問いかけに対して返ってきたことばだ。質問に間髪入れずに返ってきたところから、それが迷いの無いことばだということがすぐにわかる。

山村などを訪問して、現地にお住まいのおじいちゃん、おばあちゃんとお話しをする機会があるとよくこのような質問をするのだが、これまで「町がいいなぁ」という答えが返ってきたことは一度も無い。山で生まれ山で育ち、山を知り尽くした人たちが今も山で生活されているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、中には働き盛りの頃に便利な町での生活を経験されている方も少なくはない。それでも「そらぁー、こっちの方がいいよー!」という答えが返ってくる。また、現在町と山との両方で生活されている方も、やはり同じようなことばが返ってくる。それどころか、年に数回しか山へ帰ってこられない方にうかがっても、そのような答えをされることが多い。そういった時に「住めば都!」という元気なことばもよく一緒に聞けるのだが、私がいささか愚問とも思える問いかけをする理由は、このことばを聞きたいからに他ならない。





一見不便に思える山の中の生活だが、このご夫婦の場合は畑で野菜などを作り、そこで足りないものは町に住む子どもさんが持ってきてくれるそうで、そう不便を感じることはないという。やはりそこには自然から受ける恵みも、自然の恐ろしさや不便さも、それら全て含めての‘自然の中での生活’をこれまでにされてきた逞しさが、土台としてある。便利な生活に浸り、不便を解決する術を持たず、自然からの恩恵もなかなか恩恵と感じられない都会の人間とは、その基礎の部分がまったく違っている。人間も自然の一部ということをやはり忘れてはいけない、そのように感じるのである。









この山村を訪れたのは、半袖ではまだ少し寒いかなぁと感じる頃。集落は、峠を越えて少し下った所の福井県の山腹にあり、四季折々の風景を見せてくれる大変美しいところ。聞こえる音と言えば、鳥や獣の声と川の流れる音、そして時折前の道を通る車のエンジン音くらいで、人の声が聴こえてくることは滅多に無い。今では年間を通してここで生活するのはわずか一世帯のみとなっている。しかし静かなこの山の集落が戦後たどってきた道のりは、現在の静けさとは正反対の激動の歴史といってもよく、社会の変化・時代の流れ・自然との戦いを強いられた。今お話をうかがっている老夫婦の柔らかな笑顔からはその激動の頃が想像できないが、それだけになおさら、たくましく生きてこられたこれまでの人生の重みを感じてならない。









私はこの集落の佇まいが好きで、これまでにも何度か訪れ写真撮影をしている。しかし、なかなか現地の方と出会うことができず、今まで一度も地元の方にお話をうかがえていない。この日は、たまたま写真撮影に立ち寄った時に、軒先にご夫婦が仲良く座っておられるのを見つけたので声をかけてみた。

橋を渡って川向こうの家屋へと向かう。得体の知れない男が近づいてきたということで、お二人は不思議そうな感じでこちらを見ている。肩と首に大層なカメラをぶら下げてウロウロするのはけっこうしんどいものがあるが、こういう時、相手方には目的がわかりやすく伝わるのでなかなか良い。挨拶を終え、「山の集落が好きでいろいろ写真を撮っている者です。」と声をかけると、「なるほど・・」と安心されたようで表情もゆるむ。この地域のことは以前からも関心を持っていたので、うかがってみたいこともたくさんある。早速、お話をいろいろうかがってみた。やり取りは、奥さんが90%以上お話をされて時折ご主人が話されるという感じだ。明朗な感じの元気で小柄な奥さん、がっしりとした中にも終始笑顔で柔和な感じのご主人、そのお二人が軒先の縁台にちょこんと座っている姿は何とも微笑ましい。この山の風景の中のベストショットだなぁ、など勝手に思ったりする。









この集落は今でこそ一世帯となっているが、「ここだけでも7~8軒、この川の向かいや、少し下の道沿いや川のすぐ横、それに橋の手前の道を少し上がったとこにも家がありましたよ。」というように、かつては30軒ほどの家屋が並ぶ集落だった。ところが昭和28年の台風の大雨による土砂災害で、川沿いの多くの家屋が流された他、村は甚大な被害を受けたという。福井新聞の記録によると、昭和28年9月22日から26日にかけて風速20メートルの風を伴う台風13号が周辺地域を襲い、死者116人、行方不明21人、負傷者639人、家屋全半壊855戸、流出296戸という福井県内で戦後最大の犠牲者を出したとある。また平成21年6月に出された福井県の「北川水系河川整備計画」(県管理区間)ではその時の被災状況の写真が掲載されており、そこには小浜市や若狭町の「河内」集落の土石流や浸水、倒壊家屋など当時の生々しい被災状況が伝えられている。

そういえばここに初めて訪れた10年程前には、倒壊寸前ではあるが川沿いにまだ家屋が残されていた。川沿いというより川原と言った方が正しいのかもしれない。それほど川の真横に家が建てられていたことに、増水時にはどうするのだろうなど、大いに驚いたことが記憶に残っている。やはりここも平らな土地がほとんど無いという、山深い地特有の宿命を抱えている。その時に私が見た家屋は、おそらく昭和28年の災害以降に建てられたものと思われるが、増水時の危険を承知の上で、そこに家を建てざるを得ない状況にあったということは想像に難くない。それにしても雪害だけではなくこういった風水害や土砂災害、火災などあらゆる災害との戦いが山の集落では日常にあったことを思うと、山深い地での生活の厳しさを改めて感じる。









この昭和28年の災害により多くのダメージを受けた集落に、さらに今度は昭和30年代後半頃からの高度経済成長とエネルギー革命という時代の流れが、この小さな山村を大きく飲み込むことになる。これにより炭焼きを生業にしていた人々は大きな収入源を失い、それに加えて次世代を背負うべき若い人たちが次々都会へと出ていった。高度経済成長期という社会の変容は中山間部の若者の都会への流出を一気にうながしたのである。小さいながらも活気のあった山の集落はこうして急速に姿を変えていった。





過ぎ去りし時代の証は、この集落から少し上がった所にある木造校舎にも見ることができる。この小学校には、この集落ともう一つ上にある集落の子どもたちが通っていた。多い時で70~80人の児童がいたというから、今のこの静かな様子からは到底想像がつかない。今残る校舎より前に、2階建ての校舎があったが、山崩れが危険ということで現在の地に今の校舎が新たに建てられたらしい。「(廃校になったのは)30年ほど前かなぁ」ということで調べてみると、昭和60年に廃校となっている。「最後の卒業生は2人で、廃校になってからは家族で山をおりはった」ということばからは、教育の場を無くした地では、やはり幼い子を持った家族は山を下りざるを得ないということがわかる。廃校後は山の家として使われていたこの校舎も、ここのところ傷みが目立つようになってきており、この日も屋根にはブルーシートが被せられ、玄関の屋根も損傷し、痛々しい姿を見せていた。今後補修されるのかどうかはわからないが、こういった姿を見ると、時の流れを感じるとともに、やはり需要の少なくなってしまった古い建物を維持管理することの難しさを感じたりする。





ご主人は若い頃は炭焼きの他に猟師もされていたという。猟の獲物は、熊と猪と鹿が主だったようだ。冬眠中の熊からとれるクマノイは質が良く、大変高価に取引されたというが、最後のあたりになると熊が冬眠しなくなり、そのためクマノイの質がずいぶんと落ちてしまったらしい。ご主人は代々猟師をされていたようで、こういうお話を聞いた。祖父が猟に出た時のこと、襲いかからんとする目の前の熊を仕留めようと引き金を引いたが、なんと弾は不発。熊はそのまま襲いかかり祖父は何カ所も噛まれてしまった。しかし鉄砲を熊の口の奥に突っ込み、それに驚いた熊はそのまま逃げてしまったという。大怪我はしたものの、幸いにも一命は取り留めたということだが、まさに命がけの仕事だということがわかる。猟のお話をうかがった時にご自身の猟の体験よりまずこの話がでてきたのは、やはり当時まだ幼かったと思われるご主人に、おじいちゃんが熊に襲われ戦ったということが大変強く印象に残っていたからなのだろう。





現在多くの山間部で問題になっている鹿による害だが、以前はここではほとんどその姿を見ることは無かったという。「昔は鹿はここまでこんかったのにねぇ。今は畑をしてるすぐ横にまでくる。逃げやしませんのよ。」という奥さんのことば。鹿や猿による畑などの被害はここも例外ではなく、そのため畑は全面、網がかぶせられていた。それにしても畑仕事をしている横で、それを狙う鹿がいたら本当に腹が立つことだろう。しかし、それを語る奥さんの表情は、なぜか穏やか。このあたりにもホッとさせられるのである。









「ここは住みよいよ。野菜は自分のところで作るし、肉や魚は子どもが届けてくれる。2人でいる限りは、ここを出るつもりはないよ。」と語るお二人。仲睦まじく、表情もいきいきされている。自然の中で自然の流れに沿って生きるその姿は、本当に輝いて見える。それでも「1人では、よう住めません。」ということばの中に、自然の厳しさと過ぎ行く時の流れを感じたりする。いつまでもお元気で、これからもこの集落の歴史を刻んでいってほしいと願うばかりだ。

短い時間ではあったが、この他にもいろいろお話をうかがうことができ、私にとっては充実した時間がすごせた。しかし、お二人には畑仕事の合間の休憩だったようで、少し申し訳なく思ったりもした。この他にもまだまだお伝えしたいこともあるのだが、また別の機会で紹介できればと思う。





話を終えて最後に「お二人の写真を撮らせてもらっていいですか?」とうかがった。‘この山の風景の中のベストショット’というべきお二人の姿を残したかったからだ。こういう時は「恥ずかしいわぁー、それだけはやめてー」など断られたりすることも少なくないのだが、お二人には「どうぞ、どうぞ」と快諾していただいた。そして縁台に腰をおろしたお二人をパチリ。いやぁー、ここ数年の中でもマイ・ベストショットともいえる何とも笑顔が最高の写真が撮れた。お二人の了承が得られていないので公開することができず残念なのだが、最高の山の風景が撮れたと自分では思っている。山がまったく写っていない山の風景だ。それにしても、このお二人から感じられるこの空気、なんて表現していいのかわからないが、本当に心温かくなる。自然の中で自然に生きる、自然からの苦も楽も受け入れた上でうまく共生して、自身も自然を味わう、そんな感じだ。時間をさいてお話を聞かせてくれ、普段決して体験できないような素晴らしい時間をすごさせていただいたお二人には、心から感謝なのである。





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【2012/06/22 18:10】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#196 『上根来』の山の郵便屋さん
~『上根来』の山の郵便屋さん~






この秋、福井県小浜市の山村『上根来』を訪れた時のこと。この日は滋賀県との県境の峠へ向かう一本道を福井県側から入り、『下根来』『中の畑』『上根来』の3つの山村を順に訪れ、そのまま小入谷林道に入って滋賀県へと抜けた。このコーナーで何度も書いているが、小入峠を挟んだ滋賀と福井の県境の周辺の雰囲気が私は大変好きで、年に何度も訪れる。福井県側、滋賀県側のいずれの集落も美しく、林道越えの風景も絶景。さらに旧・上根来小学校の木造校舎も健在で、その周りの自然にとけ込んだ小じんまりした古びた木造校舎の風景は、思い切り心を癒やしてくれる。そのため訪れた時は必ずここで長めの休憩を取り、至福の時を味わうのである。





『下根来』では、昨年の3月に統廃合により廃校となった下根来小学校に立ち寄った。やはり、子どもの来なくなった小さな白い校舎は寂しげに感じる。校庭の隅に建てられている閉校記念の碑の真新しさが目を引く。終わりを告げるものがここでは一番新しく作られたもの、ということに何とも寂しさを感じてしまうのであるが、これから向かう二つの集落(『中の畑』『上根来』)と比べると、家屋数も多い『下根来』の集落は大変元気に感じたりする。閉校時にいた数人の村の子どもたちは、今は新しく遠敷小学校に通い、多くの友達の中で元気に過ごしていることだろう。

次に訪れた『中の畑』、ここに残された家屋は本当にわずかとなっている。初めて訪れた時に見た家屋の何軒かも今はもう崩れてしまい、ただその残骸を残すのみ。確か河原にも廃家屋が残っていたと思うのだが、それは残骸さえなく、その跡も全く見当がつかなくなってしまった。時代の波とともに人々が去っていったこの集落、やがては消えゆく運命にあるということなのだろうか。バックの山の大きな木々の自然に、そして家屋や石垣や橋を覆おうとする苔や雑草などの小さな自然に、そのどちらにも飲み込まれてしまいそうな中で最後に残る老家屋たちは、全く自然体で時をやり過ごしているようにも感じる。そしてその自然体が、私などには実に美しく感じられたりする。





『上根来』集落では紅葉の風景が撮りたかったのだが、残念ながら時期を逸してしまったようで、色鮮やかな紅葉は見ることはできなかった。しかし、紅葉が無くても美しいこの集落であるので、特に気にすることなく集落内を歩きながら写真を撮る。ここは何度も来ているのだが、村の人と出会った記憶がほとんどない。姿を見るのは、大抵は登山客か写真愛好家。しかしこの日出会ったのはそのどちらでもなく、郵便配達人だった。





道から集落を見おろす形で写真を撮っていると、一軒一軒をまわる郵便屋さんの赤いカブの姿が見える。赤いカブの荷台には集配物を入れる赤いカゴ。おなじみの郵便屋さんのスタイルだ。そして集配が終わったのか眼下の集落の視界からその姿が消える。「もうすぐこの道にやって来るはず・・」とカメラを構えて待つ。しかしなかなかカブは現れない。あきらめかけた頃に、あの独特のカブの音が聞こえてきた。そしてカメラを構える。エンジン音か近づき、ついにカメラのファインダーにその姿が入ってきた。慌ててシャッターを切る。するとそんな私に気づいたのか、カブはスピードをゆるめエンジンが切られ、私の横に停車した。「写真を撮らないでくれよ。」なんて言われてしまうのだろうか、など思ったりもしたが、郵便屋さんからは「今年はあかんやろ。もう(紅葉は)落ちてしもたなー。」の言葉。少しホッとする。

お話によると「今年の紅葉は2~3日前の雨と風で多くが散ってしまった」ということだ。散る前に撮影された紅葉の写真を見せてくれるということで、郵便屋さんは携帯電話の中からデーターを探すのだが、なかなか出てこない。その代わりではないが、見せていただいたのは熊が捕獲された写真。このあたりで捕らえられたものらしい。やはりこのあたり、けっこう熊がいるようである。





郵便屋さんは、途中で違った地域での勤務もあったが、この地の郵便配達人として何十年も勤務されているという。それではこのへんのことをよくご存じなのだろうと、仕事中に申し訳ないなぁと思いながらも、郵便屋さんにお話をうかがってみた。以前から、ここから少し上の林道入り口付近にある鎮魂碑が気になっていたので、そのあたのことを聞くと、やはり今の集落よりも上(鎮魂碑あたり)に『境尻(さかじり)』という小字名の集落があり、3軒程の家があったという。またその頃は、今の『上根来』集落あたりは、小字名で『段(だん)』と呼ばれていたという。当時は上根来小学校が現役で、子どもたちが賑やかに通学する様子など見られてたんだなぁなど思うと、その風景を見てこられた山の郵便屋さんを本当にうらやましく思ったりする。





燃料革命が起こるまでは炭焼きで生計を立てていたこの山の集落も、時代の流れに逆らうことはできず、林業そして酪農に生き残る道を見出そうとするが、いずれも後を継ぐ若い者が無く廃れていくこととなる。酪農は最盛期には400頭もの牛がいたそうである。しかし今はその牛舎跡だけが残り、牛たちの声の代わりに風の音だけが聞こえるだけとなってしまった。時代の波に飲まれ、大きくその姿を変えてきた『上根来』と周辺集落の生活と風景。そして、それらを間近に見てこられたであろう、この山の郵便屋さん。もっともっと話をうかがいたかったのだが、そういうわけにもいかない。ちょうど車で通りかかった人が登山道入り口の場所を尋ねてきたのを機に、話はおひらきとなる。この時も、山の郵便屋さんはわざわざカブをUターンさせて登山道入り口まで車を誘導してあげていた。





山で生活する人たち、というか地域の人たちの生活に密着した‘山の郵便屋さん’は、過疎地域の高齢者の方達にとってなくてはならない存在であったということを、以前テレビの番組で見たことがある。そこには高齢者の方達と、そこを1軒1軒まわる郵便屋さんとの心のふれあいが描かれていて、それを見た時は大いに感動したものだ。しかしそれも郵政民営化によって大きく崩れてゆく。この日出会った山の郵便屋さん、そういう心のふれあいのある時代を生きてこられ、今なおその思いを持って一軒一軒まわられていることだろう。

全国で何百、何千という集落が姿を消し、今も消えようとしている。そこには何百、何千という山の郵便屋さんがいたはず。地域やそこの生活に密着した山の郵便屋さんそのものも姿を消さざるをえないのは、時代なのか社会なのか、など考えてしまう。






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【2009/12/26 10:04】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#174 春の香の木造校舎
~春の香の木造校舎~





ここ数日、やや冬らしい姿を見せてくれてはいるものの、今年の冬はやけに暖かい。いつもならば白く見えるはずの滋賀県周辺の山々の風景も、全く雪がなかったり、まるでゴマ塩をふりかけたような雪山の風景となってしまっている所も少なくない。この時期は例年ならば県内の雪景色を求めて近くの山村に撮影に行くはずなのだが、今年はあきらめざるを得ない状況がほとんどだった。

暖かい冬のある日、そんな滋賀の山々を越えて福井県のある廃校(木造校舎)を訪れた。やはりこの日も気温は非常に高く、前日には地域によっては25度を超えているところもあったという。道中の山間部も、雪は残ってはいるものの‘雪の風景’というのとは程遠く、一部の日陰などに融け忘れたかのような雪が見られるだけといった感じ。このまま暖かいまま春になってしまうということはないのかもしれないが、それでもおそらくこれら残雪が例年よりずっと早く姿を消してしまうことは間違いないだろう。

この日訪れたのは小浜市の堅海(かつみ)という集落にある、平成3年に統廃合により閉校となった堅海小学校(中学校は昭和46年閉校)。この木造校舎、建物の一部はすでに取り壊されてしまって現役の頃の完全な姿を見ることはできないが、残された校舎だけでも当時の面影を十分に感じさせてくれる。グランドへと入る校門付近には見事な老木が今も残る。かなりの樹齢と思われるこの老木、開校当時からこの堅海小学校をずっと見守ってきたのであろう。その老木に並ぶのは、たくさんの桜の木。グランドの周囲を囲む桜の木は春になればきっと見事な花を咲かせるはず。それらの木々を見ながらグランドに目をやると、今も残る木造校舎の姿。低い山を背景に田園風景の中の木造校舎はポツンと寂しげでもあり、誇らしげでもある。色あせた木造の壁面を見るとその歴史を存分に感じさせてくれるのが嬉しい。海に程近い冬のある日の集落風景であるが、ここだけを見ると山の集落の春の風景なのである。

一通り周囲から撮影し校舎に近づいていく。ふとグランドに目をやると白いタンポポの姿、そしてさらに近づくと清楚な白い水仙の花が目に入る。廃校となったのが平成3年というから、20年近くもの歳月が流れていることになる。この水仙の花が当時に植えられたものの名残かどうかはわからない。それでも水仙のこの可愛らしい姿を見ると、子供たちの声でにぎやかだった当時の姿が勝手にだぶってきたりする。アップで撮ろうと水仙に顔を近づける、するとほのかに香ってくるのは春の匂い。久しぶりのような、そして懐かしいような水仙の香。今まで水仙の花の匂いを意識したことはなかったが、今回は廃校となった木造校舎をバックに香ってきたこの春の匂いは、何とも爽やかで新鮮なものに感じられた。いつもならば雪景色を味わうこの時期に、新春の風景。春の訪れというには早すぎるはずのこの日、思いっきり春を感じることができたのも新鮮なこと。地球温暖化という心配ごとをしばし心の隅に追いやり、この春を味わう。

青空そして田園風景、時折聞こえる集落の人たちの声、残念ながらこの校舎に子供たちの声が聞こえることはもうないのかもしれないが、この美しい木造校舎の風景は訪れる者にほのかな癒しを与えてくれる。そしてこのような古き木造校舎を大切にし、今も残し続けている人々の温かさを伝えてくれるのである。









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【2009/02/20 02:34】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#146 学校跡の風景
~学校跡の風景~

「文」という学校マーク、少し前の地図では山奥の山村にもずいぶんとたくさん見ることができた。中にはもうずっと以前に姿を消してしまっているにかかわらず、「○○分校」という表記のみが残っているものも少なくない。それらを見ると、建物はとっくに取り壊されてしまっているだろうと思いつつも、もしかして‥とついつい訪れてしまう。これはもう、私にとっては‘性(さが)’のようなものなのかもしれない。その時は、滋賀県との県境に近い福井県敦賀市のとある集落に「文」マークを見つけた。そこはまだしっかりと分校の表記がされている。ネットで調べると、数年前までは確実に分校校舎が残っていたようで、写真も掲載されている。そういうことでかなりの期待感を持って、その地を訪れることとなった。

集落に着いた。山間部のその村は、小集落と言うイメージがピッタリの雰囲気で大変静かな所だった。寺や神社、そして何軒かの家屋が健在であるのだが、今ではもう人が住むのは4戸のみになっているという。早速、分校らしき建物をさがす。しかしそういう感じの建物は全く見あたらない。ちょうどここの住民と思われる方が道を歩いてこられたので、うかがってみた。すると「学校はそこの空き地にあったけどな、2年ほど前やったか、壊されてしもたなぁ‥」と先程車を停めてきた空き地の方を指差す。うかがうと学校跡の碑も、それを示すようなものも何も残さず「知らん間に」壊されてしまったという。実際そこには全く何も残されていない。こうしてうかがうこと無しには、絶対に学校跡ということはわからない感じなのである。こういうのも何とも寂しいものだと思いながら、集落をしばらく散策した後にそこをあとにする。

車で15分ほど走っただろうか、隣の集落が見えてきた。ここもかなり過疎が進んでいるようだが、先程の集落よりははるかに戸数が多い。ふと見ると、集落のはずれに何か学校跡らしきものが見える。早速立ち寄ってみる。やはりそこは学校跡。敦賀市東愛発小学校という碑と門塀が残されている。校舎などの建物はもちろんもう残されてはいない。統廃合により閉校となったのが昭和59年というから、姿を消したのは25年ほど前のこととなる。

その昔は、登下校の子どもたちで集落からの通学路が賑わい、時を知らせるチャイムが集落に鳴り響いたことだろう。そして春の訪れとともに、小さな新入生が期待に胸を弾ませやってくる。そんな光景が普通の光景としてこの地でも見られたはずだ。しかし今その地から子どもたちの声が聞こえることはなく、聞こえてくるのは風の音、そして遠くを走る車のエンジン音くらい。校庭跡に作られたゲートボール場にお年寄りたちが集うのは、もう少し暖かくなってからだろう。今は本当に静か‥なのである。

ふとグランドに目をやると、何か視界に‘賑やかな感じ’が入ってきた。ふきのとうだ。いくつものふきのとうの芽が、何とも可愛らしく学校跡を賑やかに彩ってくれている。子どもたちの声が聞けなくなった寂しげなこの地を、春を知らせるたくさんの薄緑色のふきのとうの芽が賑やかす。この元気な春の住民、過疎が進む風景の中では、何とも微笑ましく可愛らしく、そしてたくましくも感じたりするのである。山村の春、もう間もなく本格的にやってくる、と感じさせてくれた。













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【2008/03/31 02:46】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#137 林道からの風景と廃村『山中』
~林道からの風景と廃村『山中』~

前回のこのコーナーで、滋賀県と福井県の県境にある栃ノ木峠の集落を紹介させていただいた。すでに林道のコーナーでも紹介しているように、この栃ノ木峠からは‘林道・栃ノ木~山中線’が延びている。栃ノ木峠と福井県の旧今庄町の『山中』を結ぶ全線舗装の林道だ。途中いくつかの分岐があったり、日本海が臨めたり、また今庄365スキー場内を突っ切ったりなど、なかなか走っていて面白い林道である。既に全舗装というのが何とも残念であるが、それでも変化のある景観は十分に訪れるドライバーを楽しませてくれる。

訪れたこの日、やや鮮やかさにかけるものの、連なる山々はすっかり秋の色に変わっており、美しい紅葉の風景を見せてくれていた。全舗装とはいえ訪れる人はほとんどなく、時たま観光と思われる車とすれ違うだけ。また北国街道を離れてしまうと、峠を目指す大型車の低いエンジン音が風の加減でたまに響いてきたりするが、聴こえてくる音は風の音くらいのもの。太陽の日差しを浴びたススキの穂は風に揺れながら黄金色に光り、木々の影が路面に落ちて強いコントラストを作る。そして周りを見渡すと、山また山。これら、林道に広がる山々の秋をほとんど独り占めというのは何とも贅沢の極みで、心身とも思いっきり心癒やされるのだった。

紅葉の山々を眺めながらボーっとする。これがまた最高に心地よい。しばらくして頭の中が空っぽになって落ち着いてくると、いろいろな映像が脳内に勝手に浮かんでくる。この日まず出てきたのは、先に訪れた『栃木峠』の集落の風景だ。栃の木の巨木の傍らの茶屋が多くの旅人で賑わっていた頃の風景、そして人が通らなくなって廃屋となった頃の茶屋の風景。一軒、また一軒と人が去っていった集落の風景、これらが次々と浮かんでは消える。しかし当然ながら現実に見たことのない風景ばかり。したがって全てがモノクロのイメージとなっている。あれやこれや脳内イメージを楽しんでいると、あることが思い出された。そしてそれによって脳内イメージは途切れることとなった。

あることとは、この林道の北側の起点となる‘山中’のこと。今は杉林となっているその地にも、かつては『山中』という集落があった。昭和40年の時に既に3戸となっており、その年の秋に全戸が移転を決め廃村になったという。今から40年余り前のことである。まだ集落『栃木峠』に数軒の家屋が残っている時、既に山向こうの集落『山中』は廃村の道を選んでいたのだった。製炭と鉄道勤務に多くを頼っていた豪雪地域の集落は、燃料革命、38(サンパチ)豪雪、そして旧国鉄の北陸本線の電化による影響などで、急速に人々が離れていかざるを得なかった‥と言うことなのだろう。

私が『山中』を訪れたのは昨年の秋、10月。集落があったと思われる辺りは杉林となっており、40年もの年月の流れの中に、当時を思わせるものは何も残されていないように思えた。しかしその地を歩いてみると、わずかではあるがかつての集落の名残りと思われるものを見ることができた。崩れた土壁の小屋(蔵?)、倒れた木製の電柱、細い溝にかかる苔むした石橋、そして墓石‥。杉林に同化したかのように立つ電柱も見られたが、こちらはコンクリート製のものなので後に設置されたものかもしれない。人の温かみから遠ざかって久しいように感じられた中で、お墓の周りの草が短く刈られているのに、心休まる思いがしたものだった。

林道から見える風景。単に山が見えるだけに思えるこの風景も、その奥深くには別の風景が見えてきたりする。今はおそらく冬枯れの木々の色に山々は変わっていることだろう。そしてもう間も無く全てが雪に覆われ、真っ白な無彩色の風景に変わるはず。今は厳しい冬が訪れても、それを待ち焦がれていたかのように、周辺のスキー場に多くの人が集まってくるこの山深い県境の地。しかしその昔、ここには何百年もの歴史とともに繰り返されてきた豪雪と戦う人々の生活があり、温かみがあった。そしてそれらの跡は、ちょっと振り返ってみることで今でも見ることができ、感じることができるのである。













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【2007/12/16 10:09】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#107 いろいろな風景/海と棚田
~いろいろな風景/海と棚田~

これまでに見たことの無いような風景と出合った時、その受けるインパクトにより様々な思いがわきあがってくる。驚き、感動、喜び、悲しみ、笑い、寂しさ、切なさ、そして時には恐怖や不安なども・・。この日、京都府との県境付近の福井県大飯郡高浜町の『日引(ひびき)』という集落で出合った棚田の風景は、とても新鮮で力強く、そして爽やかな印象を私に強く与えてくれた。

棚田はこれまでにも何度か見てきて、その美しさには大いに惹かれるものを感じていた。しかし実際にそこで生活し田を耕す方たちにとっては、棚田は美しいものというより辛いものなのだろうと思ったりもしていた。急な坂道、機械も入れず作業効率も悪いゆがんだ形、そこで田を営んでゆくには大変な労力が必要なことは素人が見ても明らか。そういった過酷な条件の中で人々の苦労の上に存在する棚田、それでも訪問者にとっては、やはりその風景は日本の山村風景を代表するものの一つとして美しく感じるのである。

これまでに見てきた棚田は、山深き集落の棚田がほとんど。だから当然その周囲の風景も山の緑。しかしこの日見た棚田は、その背景が今までのものとは全く違っていた。『日引』の棚田は、その背景が海なのである。しかもこの日は風がかなり強く、海の波しぶきが海面を這うようにして巻き上げられ、白いしぶきとなって海面を走ってゆく。バックが雄大な海なので、本来なら大変開放的な雰囲気であるはずなのに、その強風と休むことなく海面に吹き上げられる波のしぶきのせいで、広々とした開放感というより、やたらと緊張感の強い不思議な開放感となっていた。のどかな風景が当たり前の棚田であるが、ここでは静かな棚田の風景と、力強くエネルギーいっぱいの海の風景の対比が強烈で、それがとても新鮮に感じられたのである。決して規模は大きくないのだが、初めて目にする者に強い印象を与える日引の棚田だった。きっと天候や季節、時間帯などによって様々な美しい表情を見せてくれるに違いない。

強い風の中、無心で写真を撮っていると、棚田の横の道を登ってくる一台のトラック。ちょうど私が車を停めてある空き地の資材を積みに来たようだ。邪魔になってはいけないと思い、私は慌てて空き地に戻り車をのけようとした。するとトラックの運転手から「大丈夫!」と返ってくる。その言葉に甘えてお礼を言って、車はそのままに写真撮影を続けさせてもらうことにした。しかし後から考えると明らかに資材を積むのに私の車は邪魔だった。おそらく他府県ナンバーで、明らかに観光客とわかる奴が一生懸命に棚田と海の写真を撮っているということに気を遣ってくれたのだろう。何か申し訳ない気持ちと、爽やかな気遣いに嬉しくなる気持ちで一杯になった。そしてその感情が海と波と風と棚田の風景と混じり、日引の棚田の風景は心の中に強く残ることになった。

帰宅後調べてみると、この日引(ひびき)の棚田は「日本の棚田百選」の一つに認定されているということが、わかった。そして写真をもう一度見なおし、改めてその美しさ爽やかさを思い出すことが心地よかった。








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【2007/04/22 19:25】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#83 続・峠をまもる一軒家
~続・峠をまもる一軒家~

山で出会う一番危険な動物といえば「熊」という答えが一般的だが、実際に出合う確率が高く、一番戦闘的で注意しなければならない動物といえば「猪」、というのはよく聞く話。しかも子連れの母猪となると危険度は極めて高い。できれば出合いたくないものだ。

その子連れ猪との視殺戦の話である。

いつも生活を共にしている犬たちの、けたたましく鳴く声が家屋裏の山道から聞こえてきた。その異常な鳴き声から、普通の状況でないことはすぐにわかる。そして山道から逃げるようにして帰ってきた犬たちの後ろには、大きな猪・・そして横にはウリ坊。この家屋のご主人はすぐに鍬を手にし、犬たちを守るべく立ちはだかる。大猪とのにらみ合いが始まる。視殺戦の開始だ。戦闘体制に入った猪の二本の牙が、今目の前にある。母猪も我が子を守るためには死も辞さない覚悟。僅かでも弱気を見せれば、本能的に猪は襲い掛かってくるだろう。視殺戦をする主人の後ろで犬たちも吼え、威嚇する。人の武器である鍬の届く範囲内に、決して入ってこない大猪。間合い合戦である。その間も視線をそらすことのない両者。しばし続いた視殺戦。周囲に緊張感がはりつめる。しかしやがて猪は視線をはずし山へ帰ろうとする。犬たちがあとを追いかける。

これで緊張がとけたかに思えた。しかし再び、けたたましく吼える犬たちの声。そして山道を、威嚇する犬たちを蹴散らして興奮しきった大猪が戻ってきた。一度は戦いをやめた大猪だが、犬たちに追われることで危機感を感じたか、プライドが傷つけられたのか・・。そして再び始まる人との視殺戦。人は唯一の武器である鍬の柄を猪の鼻先に突きつけ、向かってくるなら突いてやる!と身構える。共に体を張った戦いだ。
しかし二度目の刺殺戦でも、大猪は自ら視線をはずし山へ帰ることを選ぶ。人の気合が二度の視殺戦を制したのだ。こうして子連れ猪との危険な戦いは終わった。

これは 「たまに一言#75」で紹介させていただいた峠の一軒家に、先週再び訪れた時、そこのご主人からうかがった話だ。自然の厳しいこの峠で、茶屋番(関所のような役割も担っていた茶屋?)として何百年という歴史のある老家屋を今も守る。領地を争う戦いの時代もとうの昔に終わり、便利になった今の時代にこのような生活をしなければならない理由などどこにもない。それをさせるのはやはり「血」と「誇り」か・・。しかしそのことをうかがっても「どこも居心地悪かった。ここが一番ましだったからだけ」と、薄暗く炎の燃える囲炉裏の前で栗の皮をむきながら語るご主人。ちょっと・・、その答ってかっこ良すぎるのでは?・・なんて思い、一人うなる。まさに男の美学。

昔の風景のままの峠で、3匹の犬と1匹の真っ黒な子猫たちとともに歴史のつまった老家屋を今も守り続ける。この風景、おそらく日本全国ここでしか見られない風景・・。この時見た風景と焼き栗の味はずっと忘れそうにない。








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【2006/10/22 00:00】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#75 峠をまもる一軒家
~峠をまもる一軒家~

そこは別世界だった。そこだけが時間が止まっているような、そんな気がした。見たこと無いはずだが、この風景、どこかの古本の小さな白黒写真で見たような、そんな感じがする、そんな「峠の風景」であった。

以前何かの古い本で、この峠には一軒家が残っていて今でも人が住んでいる、ということを見た記憶がある。でもそれもだいぶ前のこと。それからかなりの年数が経っているので、気になっていながらも「もう人も家もないのだろう」と思っていた。
しかし最近その峠近くの集落を訪れた時に、地元の方から「まだ一軒茅葺のお宅がありますよ。住んでいる方もおられますよ」とうかがい、非常に驚いた。そして早速訪れてみた。

林道に車を停めるとその峠の一軒家の屋根が見えた。今でこそすぐ下にまで林道ができて楽に行けるようになったが、以前は険しい山道で、冬になると豪雪が襲う難所であったという。歴史も古く、多くの有名な歴史上の人物がこの峠を越えている。また地理的に見ても大変重要な交通の要衝であったようで、大きな合戦の舞台などにもその名を残している。
おそらくこの峠の老家屋、その時代から何百年も峠の茶屋としてこの地を見守ってきたのだろう。本当にタイムスリップしたような、そんな感じがする風景。そこだけをみれば昭和はもちろん、もっと前の時代にいるような気さえする。
この時、ご主人は山仕事でおられないようで、2匹の犬が迎えてくれた。草の生えた茅葺屋根が美しい。建物はまさに時代を感じさせてくれる。何百年と生きてきた、そんな美しさを醸し出しているのだ。それらに見とれているうちに、いつの間にか犬がもう1匹。最初は見知らぬ訪問者を威嚇して吼え続けていた犬たちも、やがて落ちついて目を細めて眠りに着く。

たった一軒で峠をまもる。豪雪に見舞われる冬も、たった一軒で残り続ける。しかも不便極まりない所。これまで多くの廃村、過疎集落を見てきたが、こんなのは初めてである。峠の茶屋として何百年も通行人の心を癒し続けてきた、そして峠で起こった多くの悲哀のドラマを先祖代々に渡って見守り続けてきた、そういう者としての時間を越えた誇りがそうさせるのか・・。

生ぬるい生活に浸りきった私のような者には到底理解できないような誇りと信念、そして時間を越えた美しさを感じさせてくれる、そんな峠の風景を私はこの夏、味わうことができた。






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【2006/08/27 00:00】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#69 板取宿(福井県)のこと
~板取宿(福井県)のこと~

福井県の今庄町の『板取』を訪れた。南に下れば栃の木峠を境に近江の国となるこの地、かつては北国街道沿いの宿場町として大いに栄えたという。豪雪地帯であるこのあたりであるが、古くから交通の要衝であったということは、ここに関所があったことからもよくわかる。

北国街道(R365)は年に何度も利用する。そしてその度に道沿いにあるこの『板取宿』が気になっていたのだが、実際に訪れるのは初めてである。角川地名大辞典で調べると、この集落は世帯数も人口も0となっている。だから私の中では、廃村となって以来、建物のみが文化財のような形で保存されている、という認識なのであった。
しかし訪れて驚いた。きれいに整備された石畳の道沿いに何軒か立ち並ぶ茅葺家屋(「甲造り」というらしい)。その庭先には洗濯物が干され、犬がいる。車も何台も停まっている。人が住んでいるのである。全く自分の認識のいい加減さにあきれる・・。
うかがってみると、この地は廃村となった後に一般に居住者を募り、人がそこに住むことによって家屋や家並みの保護が進められている、ということだそうだ。話をうかがった方は「応募してみたものの、まさか当たるとは思わなかった。」ということであったが、住み始めて既に13年が過ぎたという。最初は床も抜け落ちボロボロの状態であったというが、やはり人が住むということは、建物がきちんと手入れされ空気が流れる、いわば息吹きが与えられるということなのか、本当に建物が生き生きとして見える。「家は人と共に生きる」ということを改めて感じる次第だ。
北国の雪と違い水分の多く含んだ雪であるがゆえ、屋根の萱が非常に分厚く造られた独特の茅葺屋根は、色といい形といい実に美しい。日差しの中で黄金色に輝く茅葺屋根をしばし眺める。
しかしここは豪雪地帯。特に今年の大雪は大変だったそうで「二階から出入りしなければならなくなるかと思いましたよ。」「三日間孤立して、二日間電気が来なかった。」など例年にない多くのご苦労をされたようだ。しかしそのことを話される表情は明るい。

一度は廃村となり無住となったこの集落であるが、今は人が住み、庭先に色とりどりの美しい花が咲き誇り、その横ではのんびりと犬が昼寝をする。町なのか県なのかは確認していないが、廃村となった地の廃屋を人が住めるように自治体が整備し居住者を募る、そして村を、街並みを存続させる。これは本当に素晴らしいことだと思う。もちろん古くから伝統ある地ゆえのことなのだろうが・・。








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【2006/07/16 00:00】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
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