スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
#244 動く村 「越波(おっぱ)」
~ 動く村 「越波(おっぱ)」 ~






 これまでにも何度かこのコーナーでご紹介している岐阜県の山村「越波(おっぱ)」。本巣市の最北部(旧根尾村)にあるこの山峡集落は、いつ訪れてもたいそう美しい季節の風景を見せてくれる山里らしい山里だ。福井県境に近いこの周辺には「越波」の他に「黒津」「大河原」という集落があるが、いずれも冬場は雪に埋もれ、年間を通して居住している人はもういない。冬季に無住となってからもうずいぶんと年数が経つが、それでも「越波」では、雪解けを待つようにして今も人々が帰ってきて、畑仕事、家屋や周辺の手入れなどに精を出す。数多く残る老家屋や耕された畑、神社や古刹、木造校舎などの風景は、多くの人が住んで大いににぎわっていた頃の面影を今も残す。













 その「越波」に昨年の秋と、雪解けの林道開通を待ったこの春に二度ばかり訪れた。それはある一通のメールがきっかけだった。そのメール、差出人は松葉三郎さんという「越波」のご出身の方で、その時に公開していた当サイト ‘たまに一言’『#238 越波(おっぱ)集落と、リキさんのこと』をご覧になって連絡をいただいたのだった。そして松葉三郎さんは、その『越波のリキさん』に登場する、現地でお話をうかがったご夫婦のご主人の弟さんでもあった。連絡をいただいた時の「私の兄だと思います。」というその文面に、何ともいえない嬉しさを感じたものだった。





 これまでに、いろいろな山の集落を訪問した様子などをサイトでご紹介しているが、やはり実際にそこにお住まいだった方やその関係の方から連絡をいただくのは、また格別なものを感じる。もしかすると「勝手に人の村をネットで晒すな」といった苦情も来るかもしれないな、など思いながら村を実名のまま公開する時もあり、それだけにこうした集落の方からの連絡には心安らぐものがある。この時も、「越波」を取り上げたことを喜んでいただけていたようで、本当に嬉しい限りだった。そして、こちらの「いろいろお話をうかがわせてください。」という早速のお願いにも快諾いただき、急遽、秋の「越波」訪問となった。





 山深く積雪の多い集落が廃村に至るまでの過程を見た場合、通常は過疎が進んでいくとやがてはこの「越波」ように冬季無住となり、そうなることで家屋の傷みが一冬ごとに進み、程なくして家屋は倒壊して廃村状態へとなっていく。豪雪地帯と呼ばれるような地域では積雪などによるダメージが大きく、それはより早い時間で進む。









 ところが不思議なことに、この「越波」集落は豪雪地帯でありながらも、そういった多くの過疎集落がたどる廃村への道とは違い、今も美しい村の姿が保たれている。もちろん主が来ず傷んでいく家屋もあるが、新たに家が立てられたり、毎年畑に作物が実ったり、分校校舎が改修されたり、なんと最近になって携帯電話のソフトバンクが通話圏内になったりなどもしている。驚くことに、ここ数年は村が元気を失わない、というかより元気になっているような感じさえするのだ。これだけの山深い所であるのに、‘村が動いている’この感じがずっと不思議でならなかった。そのこともぜひ知りたいと思いながらの、松葉三郎さんとの出会いとなった。





  昨年の11月の初め、いよいよ秋本番というある日「今、ちょうど山に散策道を作って作業しているから、そっちで会いましょう」という事前の約束のとおり、山の作業現場へ向かう。折越林道の峠を越えて少し行った所に2~3台の車が停まり、その横に散策道の入り口と思える場所を見つける。早速登っていくが、日頃の運動不足ですぐに息が上がってしまう。ハアハア喘ぎながら10分くらい登っただろうか、やがて人の声が聞こえ、あちらでも「誰か来るぞ」という声。その声のする作業現場につくと3人の男性の姿があり、ちょうど散策道の終点の展望台の仕上げをされているところだった。
 自己紹介をする。3人は、メールをいただいた松葉三郎さん、そして後藤さん、クマさんと呼ばれている方。松葉さんと後藤さんは「越波」のご出身で、クマさんは他所から作業のお手伝いに来られているとのことだった。山の中での肉体労働は大変だろうが、3人からはそういったしんどさなどまるで感じさせない清々しさがあった。それは、散策道がちょうどこの日に完成ということもあったのかもしれないが、何よりその道を作ることに意義とやりがいを感じられているから、など勝手に思ったりもした。





 山の散策道は、何もない全くゼロから工事で、全てが手作業で進められていた。もちろん観光地にあるようなコンクリートで固められた贅沢なものではなく、人一人が通れるくらいの幅の登山道だ。それでもこれだけの山道を数人の手作業で一から切り拓いていくのが大変な作業というのは、素人目に見てもわかる。その細い山道を少し歩いて辿り着く展望台、観光地でないこの自然に近い感じが、自分のような人間にはピッタリとはまる。そして、そこから見える越波の山のV字谷。その光景に思わず「うわー!」と声が出る。





 しかし「そんな驚くほどやないで、こんなん山に登ったらなんぼでも見えるで(笑)」ということで、地元の方にとってはごく普通に見慣れた風景であるようだ。あと少しというところで「越波」の集落そのものは見えないのだが、それでも腰をおろしてずっと見ていたくなる美しい山の風景。その幾重にも重なる遠くの山々のシルエットは、ここが山深い所であることを感じさせてくれる。この谷、そしてさらに先の谷にも集落があることなど、この風景だけではイメージし難いのだが、現実に視界のすぐ先に「越波」集落があるということで、ここが隔絶した山峡集落であることを再認識する思いだ。
 せっかくなのでそこからの越波谷の風景を撮影し、その谷をバックにして「越波」ご出身のお二人の写真も撮らせていただく。「春にはシャクナゲがきれいに咲くよ。」とのことで、春の越波谷への思いも高まる。下の写真は、左が松葉さん、右が後藤さんだ。









 山にこうして拓かれた散策道、自分などは山野草の盗掘などをよく話に聞くので、そのことが心配になってしまう。すると山野草どころか、集落では畑に育った芋なども平気で盗っていく輩がいるとのこと。そういう経験もされているのに、こうして散策道を拓いて外部の人を招き入れようというのは危険なのでは?などという思いがよぎる。せっかくのシャクナゲも乱獲されて持ち去られてしまったりしないのだろうか、とその時は理解できず不思議に思ったりもしたのだが、それは後になって実に視野の狭い発想であったことと気づかされることになる。









 この後、散策道現地から(旧長嶺小学校)越波分校跡に場所を移し、松葉さんにゆっくりお話をうかがうことになった。
 この木造校舎、自分にとってはずっと憧れだった。外からは何度も見ているが、分校の中に入るのは初めてなのでなんだか嬉しい気分だ。いきなり演歌のポスターが目に付く。「なぜ??ふるさと越波??越波ご出身の方なんですか?」「いや、違いますよ。」「??」
 この歌い手さんは、なんでも岐阜県のご出身で、「越波」とは全く縁の無い方ではあるが、「越波」のその風景に魅せられて「ぜひ歌にしたい」ということだったという。曲名からすると、「越波」に故郷のイメージを強く感じられたのだろうが、何だかそう感じられたことには大いに共感できてしまうものがある。自分も、「越波」には全く縁の無い外部者であるが、初めて見た時からその風景に故郷のイメージを強く感じたものだった。「越波」集落のこの風景、やはり訪れる者に何か訴えかけてくるものがあるようだ。





 この日、松葉三郎さんからたくさんの貴重なお話をうかがうことができたのだが、今回は「村が動いている、村が元気になってきている」という不思議に思っていた部分についてをご紹介したい。

 「越波」でお生まれになった松葉三郎さんは、小学校を卒業されるとともにこの地を離れ岐阜へと出られている。お話をうかがった時のお年が73才というから中学校入学は60年ほど前、1955年(昭和30)頃となる。その頃の「越波」は戸数40・人口210で、まだ山仕事でも生活ができていた活気のあった時代。「子どもだけでも70人はいました。」というから、村は子どもたちの声でさぞかしにぎやかだったことだろう。三郎さんが「越波」を出て岐阜市内の中学校に学習の場を求めたのは、地元に通う中学校がなかったとかという山間部の事情によるものではなく、分校の先生の強いすすめがあったからだという。これはおそらく、三郎少年に潜在する能力の高さを見抜き、それをこの深い山中に埋もれさせてはいけないという担任の強い思いがあったからなのだろう。





 といっても分校の教育は4~6年生が1学級で、そこに教師が1人という複式学級。1つの教室で1人の先生が、違う学年の子どもたちを順繰りに教えてゆき、他学年を教えている間は自習という学習形態では、都市部と比較するとその6年間の学力差は天と地ほどの開きがある。さらに、進学した岐阜市の中学校が全校生徒2000人を超えるマンモス校で、山奥から1人出てきた少年はまるで大海に放り込まれたメダカ。






 「(越波の)言葉が通じない、僕の言うことが通じない。相手の言うことはわかるんだけど。だから毎日図書館へ行って本を読んで勉強しました。」
 というように、学力だけではなく全てにおいて違った新しい世界での生活は、わずか12才の少年にとっては大変な壁となった。通常なら、まだまだ親元を離れるには早すぎる年齢であっただろう。ただそれでも、「やらなければならない」という使命感ともいえる思いだけで努力を重ね、やがては志望高校へと進学し、一般会社への就労を経た後には新たに会社までも興す。そこに至るまでの努力や苦労は、我々では想像さえできない厳しいものだったに違いない。現在はそこでの社長業も引退され、「越波」への時間がと取れるようになっているが、現役で働かれている頃は、切った張ったの厳しい毎日の中で、「越波」に帰ってくることはほとんどできなかったという。
『#238 越波(おっぱ)集落と、リキさんのこと』でご紹介したように、三郎さんのお兄さんも故郷「越波」で、全国でも先駆けとなるアマゴの養殖を起業されて、それを軌道に乗せることに成功されている。「越波」で生きる、「越波」を離れて生きる、それぞれ活躍の場は違うが、生きていく中で共に時代の流れにつぶされること無く新たに起業するという志は、共通していたといえるのだろう。









 現在の「越波」を語る上で大変重要なものの一つとして、上大須から越波までの林道「折越林道」の存在がある。それ以前の上大須~越波のルートは、車がまともに通ることができない山道だけだった。したがって折越林道ができるまで、車で「越波」へ行くには、酷道なるありがたくない名前で呼ばれるR157を通っていくしかなく、しかも「越波」はその最奥の村として位置していた。
 ご存知のように、この国道157号線は、崖崩れや崩落などで通行止めが大変多い断崖絶壁の危険な道。「落ちたら死ぬ」の看板で有名な、あの道なのである。実際何名もの犠牲者も出ている。地形的に改修がなかなか難しいようで、もし折越林道の存在が無ければ、今のように楽に安心して「越波」には行けなかったことは、容易に想像がつく。そうなると帰ってくる人の数も回数も必然的に少なくなり、家屋も今のような状態には保てていなかったはずだ。畑が荒れ、倒壊家屋が増えていくと、帰る人はより少なくなる、するとさらに村は荒れ人が帰らなくなるという悪循環が発生し、村は荒廃を早める。このことを思うと、新しい折越林道の完成は、今ある「越波」とは切っても切れないほどの重要な関係にあったということがわかる。
 もちろんこの折越林道の開通以外にも、村を離れても人々の故郷への思いが強かったことや、村に杉の植林がされず鬱蒼とした林にならなかったこと、なども荒廃しなかった大きな要因ではあっただろう。ただそれでも、その村の人たちが安心して通える道ができたことのメリットはやはり大きかったように思える。そして、その折越林道の開通が、実は松葉さんと大いに関わっているのである。









 折越林道が通っている山の多くの場所は、松葉家が先代より引き継いできたもの。そこに道を造りたいということで、当時の根尾村から話が来たそうだ。所有地に道が建設されるのであれば、所有者は当然土地の買い取りや補償金などを要求するところであるが、松葉家は「お金もいらないし、土地も自由に使ってください。」と返事されたという。村の予算が乏しいことへの配慮もあったかもしれないが、何より、安全に「越波」へ行ける道が早くできることが第一、と考えての英断だったと思われる。
 道ができることによって、元の住民も頻繁に帰ってくることができるし、外部の者が訪れたりもできる。ひいてはそれが「越波」集落の存続にもつながる、そう判断されたのだろう。補償金や土地売買など目先の小さなことにこだわること無く、その先を見据える、背景にそういう事情があっての折越林道の開通だった。その結果、国道であるR157より、今や折越林道の方が遥かにメイン道として利用価値の高い重要な道になっているのは、R157の大型工事車両がこの林道を利用していることからも明らかだ。






 この話は、先の越波谷の見える散策道造りにも通じる。植物の盗掘など、目先のチマチマしたことにこだわって道づくりを中止にしたり遅らせたりするより、まずそこに人が訪れ「越波」の美しさを見てもらう、訪れた人が楽しめたり、また来たくなったりできるような環境づくりを先決と考え、それを整える。その結果、「越波」に人が多く訪れるようになって、‘動く越波’となり得る、ということだ。
 「シャクナゲとか大丈夫でしょうか?」と質問した自分が何とも恥ずかしくなってしまう。






 分校校舎の改修と将来計画、ソフトバンクの通話圏内なども‘動く越波’の一環で、この動きは今も進行中だ。‘地域おこし協力隊’の方もインターネット等で積極的に「越波」の情報発信をされ、それを見た若い人たちがやって来る。さらに三郎さん自らも「ふるさと越波」というホームページを立ち上げて「越波」の歴史や魅力などを詳しく紹介したり、facebookなどによる情報のやり取りの場も作る。それらを活用して、この春にはボランティアを募り、集まった若い人たちとともに雪で崩れた散策道の補修を行ったという。昨夏に企画した「蛇池で遊ぼう」という昔の遊び場を蘇らせたいというテーマのイベントでは、全国から多くの若い人たちが集まり、今年もいろいろ企画されるそうだ。おもしろいのはリピーターの人たちが多いこと。やはり「越波」の魅力を感じられたのだろう。
 このように 「越波」は、現在の区長でもある松葉三郎さんを軸としながら、地元の人たち、これらを応援・支援してくれる内外の人たち、など様々な力がうまく噛み合わさって、こういう厳しい状況下にある集落としては類い稀ともいえる‘動く村’を作っている、そう感じるのである。









 これまでにない新しい動きゆえ、地元の中でも全ての方が賛成しているわけではないのかもしれないし、外部の人が入ってくることで今後様々な問題も起こってくるのかもしれない。そこは、将来のどんな「越波」をイメージするかで分かれてしまう部分なのだろう。しかし何より、この時代の流れの中で、廃村になりかけていた一つの歴史ある山深き集落が新たに元気を取り戻していることは、本当に画期的なことであるように感じてならない。そしてそれが、一つの企業が営利目的でやっているのではなく、地元の人たちが中心になって動いていることに大きな意義を感じるのである。
 この従来の過疎集落とは違った「山深き集落の動き」はやはり注目されているようで、今はTVや新聞などの取材も少なくないという。岐阜、愛知など地元のテレビ局が中心で、残念ながらこちら(滋賀)では目にすることはできないのだが、そういった地域の方々なら目にしたり聞いたりしたこともあるのではないだろうか。









 不思議に思っていた ‘動く越波’のこと、お話をうかがう中で自分なりにその理由が理解できたように感じる。その‘動く越波’の中心となられている三郎さんだが、ご本人は故郷再生などの大それたことは思っておられないようで「ただ自分が動ける限り越波が生きててほしい」という気持ちで「自分でできることをやってみようかな」ということだそうだ。そしてその奥底には
 「自分が生まれた所って、全てのものに見覚えがあるものなんですよね、岩一つにせよ、せせらぎ一つにせよ、全部が子どもの頃と同じじゃないですか。朝起きて体の調子のいい時はついつい車に乗って、こちらにやってきて、あそこの草刈ろうかな・・とか」
 という故郷への温かい思いが流れている。それは「越波」集落をゆっくりと流れるあの小川のように、自然によどむことなく流れているように感じる。一方で「村を盛り返すということがどこまでできるか・・、ここで生業に出来るものがあるのかといえば・・、コンビニもないですしね・・。」という厳しい現実も冷静に見る。そして、個人や地域だけではどうしようもない問題が、そこには見えてくる。









 春の「越波」と展望台からの風景が見たくて、連休明けに急遽訪れた。ついた時刻が遅くゆっくりはできなかったのだが、展望台からの美しい越波谷を見ることができた。満開とはいえないがシャクナゲも咲いていた。この冬の大雪で散策道のあちこちは崩れていたものの、道は健在。集落を歩くと、あちこちにきれいに耕された畑が見える。そして、小川の清流と道に咲く花が春を感じさせてくれた。きっと連休に多くの方が帰ってこられて、春の心地よい故郷を味わいながら畑仕事に精を出されたことだろう。













 やがて村の端にあるお寺が見えてきた。願養寺だ。薄暗くなった寺の境内にある鐘撞き堂、最後にそこで鐘を撞いた。控えめに3度撞いた鐘の音が、静かな村に響く。その音の余韻にひたりながら集落をふり返ると、そこには春の山里の風景が見える。そして、しばらくボーッとしながらこの日見てきた風景を思い出す時、「春の越波は、より美しい」そう感じるのだった。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
スポンサーサイト

テーマ:岐阜県 - ジャンル:地域情報

【2015/06/24 11:20】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#238 「越波(おっぱ)」集落と、リキさんのこと
~ 「越波(おっぱ)」集落と、リキさんのこと ~






 山の集落にも紫陽花の花が咲き誇る頃、岐阜県本巣市にある旧・根尾村の山峡集落「越波(おっぱ)」を訪れた。徳山ダム湖の東側の山を2つ3つ越えたあたりに位置し、その北側を見れば、あと少しで福井県境という所。この集落が好きでけっこう訪れるのだが、それはそこが私の持つ「ふるさと」というイメージにすごく近いものを感じるからだ。周囲が山に囲まれてはいるが薄暗い雰囲気は全くなく、村の中央には清流が流れ、それに沿う道の両側には古い家々が建ち並ぶ。









 数年前に塗装し直されて、それまでの古びた木造校舎というイメージからずいぶんと変わってしまったが、村が子どもたちでにぎわっていたことの証である木造校舎は、今なお健在。そして、冬期無住となってからかなりの年数が経ってはいるものの、住民の人たちがけっこう頻繁に帰って来られていることは、きれいに手入れされた庭先の畑を見るとすぐに理解できる。連休やお盆には、親の里帰りについてきた子どもたちの姿が見られることもあり、その風景には廃村のイメージなど全く無い、まさに現役の「ふるさと」なのである。









 ずっと以前のこのコーナー、#43「越波(おっぱ)の美人三姉妹」でも書いたが、初めての「越波」訪問で炎天下の中、汗まみれになって写真を撮っている時、「ねえ~、こっちも写真撮ってー!。」と思いもよらず美人3姉妹に声をかけられ、いろいろお話を聞かせてもらったのもいい思い出だ。その時にもらったコップ1杯の冷水の味は、今も忘れることなく透明感ある越波の味となって、記憶の片隅に残る。その玄関先で撮影した3姉妹の写真は「(ネットに公開するのは)やめて~。」ということで、残念ながら公開することはできないのだが、この場所に来るといつもそのシーンを思い出す。その後、エゴマの収穫時にも撮影させてもらったりするなど、自分の中で「越波」は大変思い入れの深い村となっている。それにしてもあれから9年、このコーナーの文字数もやたら増えてしまったもんだと、当時と比較して感じたりもする。



2005年10月撮影


 その「越波」、滋賀からは150kmも離れていないのだが、山道を地道にくねくね行くしか方法はないので、行き着くにはけっこう時間がかかる。R157を走っていくルートが最短なのだろうが、途中「落ちたら死ぬ!」で有名な根尾能郷~根尾黒津間があり、その区間が通行止めになっていることが少なくない。そのため、いつも「樽見」からは「根尾上大須」方面を目指し、そこから折越林道(舗装)を通って「越波」へと向かうことにしている。
 山深いこのあたりは、古くから木地師の入っている所が多く、各地の木地師を記した氏子狩帳、氏子駆帳でも「黒津」「奥谷」「能郷」「大河原」「松田」「板所」「大井」「小鹿」「下大須」「越卒」・・などなど周辺のいくつもの旧・根尾村集落の名を見ることができる。そして、そういった木地屋集落を作り出した山の風景を見ながら走るのも、「越波」を訪れる時の楽しみの一つなのである。









 一見、滋賀とは縁の無い岐阜の「越波」集落であるが、実は滋賀で山の話を聞いたりする中で度々その名が登場する。以前「針川」にお住まいだった中谷幸子さん(『自由帳・ふるさと針川(現在公開休止中)』でお話をうかがった方)への聴き取り調査の際にも、「越波」の名が出てきた。昭和30年代頃だろうか、当時「針川(旧伊香郡余呉町)」や「尾羽梨(同)」の谷の奥の山々の木が製紙会社による大規模な伐採が進められており、その時に木挽き職人として「越波」から来られた方が活躍されていたというのだ。そのうちの数人は中谷家に泊まって仕事に通われていというから、その頃少女だった幸子さんにとっても身近に存在を感じたことだろう。当時の通学路を、木材を満載した王子製紙のトラックがさかんに走っていたというから、その規模がかなりのものだったことがわかる。



中谷幸子さん所蔵






 なお同地の森林伐採自体は戦中から始められており、昭和17年に東洋紡績会社により伐採が開始されることになって初めて、「針川」まで自動車の通れる道が開通している。そして戦後になってからは、王子製紙会社によりさらに規模が広げられ大規模開発がされるようになった。以前針川谷を歩いた時、荒れ果てた山道の中にその頃の名残りと思われるようなものをいくつか目にした。そのどれもが今では遺構のような存在となっており、木々を満載したトラックの走るかつての山の賑やかさが過去のものであることを、静かに伝えてくれていた。









 ただ賑やかといっても、山の集落の人たちが得た森林伐採による恩恵といえば自動車の通れる道が着いたということくらいで、現実を見れば、一企業が主体となって何百年、何千年にわたって手つかずの貴重な自然林が破壊されたということにすぎない。それでも、そこで働いていた職人さんと地元の人たちとの間に生まれた交流は温かいものが多く、やはり同じ山で育ったもの同士、わかりあえることも多かったのかもしれない。下の写真は、その頃に小原分校で教鞭をとられていた肥田嘉昭先生が撮影されたものだ。先生ご本人も、同校在任中はトラックの運転手さんと仲良くなられて、毎日の食事の材料を、材木運搬の帰りに買ってきてもらうなどお世話になったという。



撮影:肥田嘉昭氏


 その時の中谷幸子さんのお話の中で、越波の木挽き職人の「リキさん」という方が登場する。中谷家に寝泊まりされていた方とは違うようだが、幼い頃の幸子さんに強いインパクトを与えた方だ。「運転も上手やったの。リキさんはいつも一反の腹巻きをしててねぇ・・」と語る幸子さんの、当時の思い出のエピソードを一つ要約してみる。
 小学校5年生の頃の台風の風雨がひどい中、いつも「針川」に行商に来るゴザ屋さんが崖から落ちてひどい怪我を負った。傷口から血が噴き出し、周囲が慌てふためく中、その場に居合わせた木挽き職人のリキさんは、すぐさまお腹に巻いていたさらしを外し、それを半分に切り裂いて手際よく応急手当をされたという。おかげでゴザ屋さんは一命を取り留めることができた。悪天候で危険な中、何もできない周囲をよそに迅速に判断し止血をおこなったリキさんの姿は、血だらけになっている人を見てショックと不安でいっぱいの幼い目には、実に頼りがいのあり、かっこよい姿として映ったことだろう。「とにかく男気があるっていうか・・」と、その時の印象を語る幸子さんの脳裏には、当時の光景が鮮明によみがえっていたに違いない。



2009.4 「針川」


 その後、木挽きの仕事を終えられたリキさんは越波に戻り養殖業を始められたらしく、幸子さんも後になって訪れ、お腹いっぱいイワナを食べさせてもらったそうだ。そのエピソードを聞いて以来、「越波に行ったら、リキさんのことを尋ねてみよう。」といつも思っていながら、なかなかその機会を得られずにいたのである。





 「下大須」の「越田土(おったど)」を起点とする折越林道を走り、峠を越えてしばらく行くと「越波」の手前に養殖場跡と思われる場所が残っているが、今はもう使われていない。そこがリキさんの養殖場だったのだろうか、など思いながら、この日も順調に「越波」に到着する。訪れたのは7月の半ば、初めて訪れた時のようにとても暑く、車を降りるなり汗が吹き出る。しばらく写真を撮りながら散策。美人3姉妹のお宅は今もきれいに手入れされており、人の出入りがあることがよくわかる。分校校舎は塗装し直されてずいぶんとイメージが変わってしまっているが、傷んで放置されていないことに、村の人たちの学校への愛情を感じる。






 残念ながらこの日はほとんど人の姿を見ることが無く、「今日もリキさんのことはうかがえないかな・・」など思いながら歩いていると、一軒のお宅の庭から出てくる車の姿。助手席の窓が開いていたので、遠くからだが挨拶をする。すると車が停まってくれたので、急いで車の方へ。

 車に乗っていたのは70代~くらいのご夫婦だった。いつものように「山の集落が好きで・・」と、簡単に自己紹介をし「越波にリキさんという方はおられないでしょうか?年齢は7、80歳代くらいの方で・・」と窓の空いている助手席側から尋ねてみた。助手席の奥さんが横のご主人に「リキさんだって。知ってる?」と伝えておられるが「リキさんていう人はいないなぁ・・。」というお返事。「実は滋賀県の針川という所の奥の山で、ずっと昔ですが木挽き職人をされていて・・」と事情を説明すると、そのご主人が突然車のエンジンを停めて車外に出て来られた。そしてもう少し詳しく「滋賀県から帰られた後は魚の養殖をされていたようで・・」ということや当時のエピソードを説明すると、何か納得されたように「ここは木挽き職人の村で、滋賀県の伊香に木挽きの仕事で行っていた人がいた。」「え?何という方ですか?」「名前はチカラってゆう人で・・」ということだった。そして、ここで針川のリキさんと越波のチカラさんがつながった。





 本当は「力(ちから)さん」というお名前で、針川では「リキさん」と呼ばれていたのである。そして、お話をうかがったご主人は「越波」で最初に養殖業を営まれたそうで、後に、「越波」に帰って来られたリキさんに養殖を教えられた方だったのである。お二人でされていた養殖業は、その後「越波」からそれぞれ他所に移されてはいるが、ともに今も養殖業を生業とされ、リキさんも健在で、現在は息子さんが後を継ぎ養殖業をされているとのことだった。





 それにしても、アマゴの養殖が成功するまでには多大なご苦労があったようで、今も残る養殖場に場所が決まるまでにいくつか場所を変わられたという。水に敏感なアマゴやイワナといった川魚は、最適な条件を整えないと病気を発生して死んでしまう。それでも試行錯誤の末に養殖業を軌道に乗せられたご主人は、さらにノウハウを積み上げ、アマゴを卵で全国にも出荷するなど、成功された。「今、徳島におるアマゴの元は、ほとんどがここのアマゴや。」といわれるように、特に徳島には多く出荷されたという。
 「この人はいろんなことしてましたよ。炭焼きもしてました。」と語る奥さんのことばからもわかるが、ご主人もリキさんも、高度経済成長やエネルギー革命による社会の変化の影響をまともに受けた世代の、山の男たちだ。当時の木挽きの仕事は、長期の仕事から帰ってきた人たちがクラウンなどの高級車を購入するなど、かなりお金になったようであったが、大規模な伐採や機械化が進むとともに仕事は減ってくる。その結果としての養殖業への転身だったことだろう。





 木挽き職人として食べていけた頃は、「針川」「尾羽梨」の他に合掌造り集落で有名な白川村などへも、「越波」から多くの人が仕事に出られていたそうだ。その仕事先でお嫁さんを見つけ越波に嫁いで来られた方もおられたという。また、お話をうかがったご主人のお父さんは、「最初に江州に行った。」そうで、越波から初めて滋賀県(江州)に行った木挽き職人だった。「伊香へ行った。」「針川?尾羽梨ですか?」「おばなし(尾羽梨)・・!それや!」というように、お父さんは尾羽梨の奥山の伐採の際の木挽き職人として来られていたようである。時代でいくと、先に記したように昭和17年からの東洋紡績による針川・尾羽梨の奥山の木々の伐採時期だったと思われる。





 それにしても、山仕事で潤っていた時代が終わり途方に暮れる中で川魚の養殖業をゼロから始められ、ついには成功まで導いた、そのご主人の探究心とねばりは見事としかいいようがない。また、始められた頃は人口も多く賑やかだった「越波」も、時代とともに人々は山を降り、冬季に人がいなくなる集落へと変わっていく。それでも魚の世話を欠かすことはできないということで、雪で閉ざされる中でも食料を買い込んで1人越波に残られたというご主人、たった1人の冬を4度経験した後に、ついに養殖場移転を決断されるのだが、その時のご苦労が並大抵のものでなかったことは、現地を知るものであれば想像がつくだろう。ちなみに、今でこそ「下大須」からの林道で車で簡単に車で行けるようになった「越波」だが、この道ができたのはけっこう最近のことで、それまでは能郷から黒津、そして越波へと向かう道しかなかった。つまり「越波」は、最奥の行き止まりの集落だったのである。その中で、雪のために陸の孤島と化す冬の越波に1人残るのは、本当に苛酷なことだし、奥さんもさぞかし心配だったことだろう。









 現在は休止中の越波の養殖場が、復活されるかもしれないという。ご主人が養殖のノウハウを教えられ、越波の外部の方であるが新たに始められる予定があるそうだ。また、新しく塗り直された越波分校校舎も、さらに改装され宿泊所として生まれ変わる計画があるという。シュラフ持ち込み、自炊を主とした超格安料金の宿を想定されているというから、釣りやツーリング、登山、キャンプなどを目的とした人にはうってつけだ。これらが実現すると人の出入りも増え、冬季無住の「越波」集落も、活気ある山の集落へと変貌するかもしれない。ふるさとを醸し出す風景の中で、新鮮なアマゴやイワナを焼きながら食べて、自然溢れる中で一夜をすごす。目覚めた時の早朝の集落の風景は、さぞかし美しいことだろう。きっと至福の時間がすごせる、そんな気がする。私のような人間にとっては、三ツ星レストランで高級料理を食べることなど足下にも及ばない素晴らしいこと、そのように感じる。









 過疎化が進行し、やがて廃村となって朽ち果てる集落が多い中で、このように美しい集落の姿を保ちつつ村が活気づいてくれたとしたら、今の山の風景も変わっていくのかもしれない、など思いながら「越波」集落の端にある古刹を訪れる。すると「鐘をついてもいい」という表示。そして、そこに書かれてあることばが何とも素晴らしいことば。最後に、そのことばを紹介させてもらって、この項を終わりにしたい。

 もちろん私も鐘をつかせていただきました。控えめに3度ですが・・






              越浪和願の鐘

願いを込めて、何時でもご自由に撞いてください。
鐘の「音」(ね)の響きは、あなたの心を癒すとともに、村内に安寧を与えてくれます。何度でもお撞き下さい。
             故・成厳院釈来照法師  総代 川辺栄松









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

テーマ:岐阜県 - ジャンル:地域情報

【2014/08/08 11:36】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#194 帰郷(秋の加須良)
~帰郷(秋の加須良)~






何かと慌ただしく過ぎる毎日、そうした中、約1年ぶりに富山県との県境にある、かつての秘境の地『加須良(岐阜県白川村)』を訪れた。こういった所へは単独による訪問がほとんどなのだが、今回は、かつて『加須良』にお住まいだった二人の方と、その方を紹介いただいた方のNさんの4人での訪問。加須良のお二人のうちの一人は今も白川村にお住まいであるが、もう一人の方は加須良を離れて実に40数年ぶりの訪問になるという。今回の『加須良』行き、私にとっては訪問であるが、お二方にとっては帰郷という表現のほうが正しいのかもしれない。





庄川の支流、境川の上流に向かって車を走らせる。10月末の周辺の山々は、木々の色づきはあるものの紅葉の最盛まではあともう少しという感じ。昨年は11月の初めと中旬に訪れているが、その時に比べると山の色はまだまだ緑が多い。舗装路の終点にある橋を渡り、加須良へと向かう林道入り口付近に車を停める。昨年もそうだったが、今年も境川ダムの水位が下がり、かつての『桂(越中桂)』集落の石垣などが姿を見せている。ダム底に沈んだ集落跡はこうして時折姿を現し、生活在りし頃の面影を訪れる人々に感じさせてくれる。桂といえば富山県上平村立西赤尾小学校桂分校の教員をされていた寺崎先生の書かれた「さよなら、桂(寺崎満雄:著/桂書房)」を思い出す。小高い山をはさんだ加須良と桂の二つの小さな合掌集落は、秘境の地で一心同体で歴史を歩んできただけあり、お互いに助け合い交流も深く、今回同行された方も桂のことを当然よくご存知だった。桂の集落跡の石垣を見て「そこは~さん、その向こうは~さん」というように詳しく教えてくれる。桂分校の位置も「この指の先の方にあったんですよ」と、迷うこと無くすぐに指差す。私の眼には石垣しか見えない泥色の荒涼とした風景でも、この方には桂の合掌集落が当時のまま浮かんでいるはず。橋から乗り出すようにして眺めるその姿に、そのことを強く感じたりした。





橋の上からしばらく桂集落跡の写真を撮る。その間、加須良にお住まいだった二人は林道を歩いていくという。お二人の姿が、林道脇の長くのびた草木で見えなくなると間もなく、二人の歌声が聞こえてきた。加須良で田畑の仕事をする時に一緒に唄った歌なのだろうか、私には何の歌なのかはわからなかったが、故郷への懐かしさと,久しぶりに出合えることへの喜びに溢れた歌声だ。「ほんとうに楽しそうですね」というNさんのことばに大きくうなづく。

加須良に向かって車を走らせる。思ったより早い車の迎えに少し残念そうなお二人を車に乗せ、林道をゆっくりと進む。峠を越え加須良に近づく。その間「わあ、山のにおいやわぁ。加須良のにおいがする」の声が何度か聞かれる。そして集落跡に着き、蓮如上人の伝説のナラカシワの木の前に車を停める。40数年ぶりに踏みしめる故郷の地。「わあ、加須良のにおいやわぁ。なつかしい、ホンマになつかしい・・」と加須良の空気を大きく吸うその姿に、40年ぶりの帰郷の喜びや感動、積もりに積もった望郷の思いなどが、加須良の澄んだ空気の様にストレートに私にも伝わってくる。





お二人はまず、離村碑の横のお地蔵様へ向かい、新調された赤い前かけと後ろかけ??と帽子を地蔵様に着ける。長い歴史の間、加須良そして桂の人々に大切にされ、秘境の集落を見守ってきた地蔵様。祠が狭いため手が後にまわせず、前かけがうまく結べない。そこでよそ者の私ではあるが、地蔵様を「よっこらしょっ」と少し前へ動かし、前かけのひもを背中で結ぶ。ほんの少しのお手伝いであったが、何か妙に素朴な嬉しさを感じたりする。色鮮やかな真新しい衣装に身をつつんだ地蔵さん、これから迎える寒い冬を前にしてきっと喜んでいるに違いない。その地蔵様に改めて4人は合掌。





この日、4人で過ごした加須良での時間はそんなに長いものではなかった。しかし故郷の地でのお二人の姿に、他では決して得ることのできない多くの感動をいただいた気がする。また故郷を語り、故郷にふれる際に見たお二人の涙からは、たとえ荒れ地に姿を変わろうとも、何十年という年数がたとうとも、決して変わることの無い故郷への思いの深さや愛情を強く感じた。それとともに今の時代に失われつつあるものの大切さを、お二方から改めて感じたりもしたのである。この二日間の加須良への旅については、改めてご紹介できればと思っている。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2009/11/09 12:41】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#189 合掌造りの郷で
~合掌造りの郷で~





山村などを訪ねた時に現地の人たちと関わる中で、何ともいえない‘人の温もり’を感じることがある。都会では決して味わえないような、ごく自然でどこか懐かしくもあるような温かみだ。そしてそういったものに触れた時、何とも心癒されるとともに、そこから教えられることが実にたくさんあるなぁ、など感じる。

私は昨年から、岐阜県と富山県の県境周辺の合掌造り集落やかつての合掌集落跡などをたびたび訪れている。昭和40年頃に撮られたある古い写真について、現地の人たちにいろいろとうかがっているのである。昨年は富山県の五箇山あたりからずーっと南下して白川村の平瀬周辺まで、いろんな人たちにお話をうかがった。日中ということもあり、どの方も仕事や畑仕事など慌ただしくされている。しかし、いきなり声をかけてきた得体の知らない私に対して、どなたも大変親切に応対してくれた。

畑仕事を途中でやめて、寒い中ふるえながらも長時間、集落の様々なことをお話ししてくださった相倉(あいのくら)合掌造集落の方、一枚の写真に写った吊り橋の構造から様々なことを考察して、場所や年代などていねいに教えくださった方、いきなり訪ねた会社の事務所で、仕事中であるにも関わらず快く向かい入れてくれて写真についての貴重な情報をたくさん教えていただいた建設会社の方、などなど他にも多くの方に声をかけさせてもらったが、どの方も本当に親切だった。初めは、たまたまその人が親切だったのかな??などと思ったりもしたのだが、やはりその土地の風土や人々の人柄は固有のものがあるのかもしれない、など感じたりもした。







そして先日、暑さの厳しいある日、白川郷の中心街ともいえる白川村の荻町を訪れた。昨年の訪問で、先ほどの建設会社の方からいただいた写真の情報の追取材である。世界遺産の観光地ゆえ混雑する土日を避けての訪問であったが、それでもかなりの人がいる。誰にお話をうかがおうとウロウロしていると、とある合掌造りの民宿の横で洗濯物を干している方が一人。早速声をかけてみる。古びた写真を見せると「私より母が詳しいから」「お話聞かせていただけますか?」と聞くと「いいけど、高くつくよ~」と笑いながら家の中へ。気さくに応対してもらえたことに何かホッとする。そしてすぐに「こっちへどうぞ」と民宿の中へ案内される。

生活の営まれている合掌造り家屋に入るのは初めてだ。ドキドキしながら入っていくと、案内された部屋にはおばあちゃん(先ほどの方のお母さん)と民宿で働いておられる方が一人。「どうぞ、どうぞ」と笑顔で迎えてくれたおばあちゃん、早速写真を見て「これは隣の○○さん、いつもここにくるよ」とすぐに電話連絡(残念ながらお留守だった)。先程の洗濯物を干していた気さくな娘さんもこられて一緒に写真を見る。すると「あ!これは妹!もうすぐ帰ってくるよ。」の言葉に大いに驚く。取材前は、写真に写っている人物が誰かわかれば上出来かなと思っていたが、まさかこんなに早くわかるとは、さらにここにお住まいだった方だとは・・今から40年以上も前の写真なのである。

このような感じで写真に写っている人たちのことが次々わかり、その後も三人の方から当時の貴重なお話をたくさんうかがうことができた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。そして荻町で他の取材に行こうと話していると、おばあちゃんの「おいしい茄子料理を食べさせてあげるから、またお昼においで。妹も帰ってきているから」の言葉。これにも大いに驚いた。大変嬉しかったのだが、本当にいいのだろうか?という気持ちもあり一瞬考えたものの、やはり喜んでお言葉に甘えることにした。




約束の時間に再び来ると、そこには茄子料理だけではなくお昼ご飯が用意されていた。そして妹さんも帰ってきておられる。「この写真のキレイな子は私。今もキレイやろ~」と先ほどのお姉さん同様、大変気さくな方だ。お姉さんは実家の方に帰られたということでもうおられなかったが、ここでもいろいろな貴重な情報をうかがうことができた。そして目の前に並んだ食事、こんなにご馳走になっていいのだろうかなど思ったがここも遠慮せずにいただくことにした。

茄子料理は民宿で働いておられる方(この方も地元の方でいろいろよく知っておられる)が作られたもので、大きな茄子に味噌が乗っている料理。これが食べ応えがあり実に美味しい。ご飯が何杯でもいけそうである。食べ終わってから「写真を撮っておけばよかった」など思ったのだが、それは後の祭り。ご飯には薄茶色の小さな粒が混じっている。稗(ひえ)だそうだ。米を作っていない頃はこれが主食であったという。聞いたことはあったものの食べるのは初めて。でも何の違和感なく美味しくいただくことができた。

おかわりの稗入りご飯をいただきながら、その後もいろいろなお話をうかがった。合掌造りの民宿で過ごしたこの時間、ごく自然な感じでもあり夢の中のような感じでもある、何か不思議な感じの時間だった。そして、これまでに体験したことのないような人の温かさにふれることができた、そんな感じがした。




夏休み時期の民宿という、大変忙しい時期に思いっきり甘えてしまったことを申し訳なく感じながらも、白川村の人々の温かみを思いっきり味わえたことを本当に嬉しく感じた。いきなりの正体不明の人間をこのように親切に受け入れてくれるなど、都会では考えられないこと。今でこそ道路が整備されているが、極めて自然の厳しい山深き地という歴史を長く刻んできた中で、「訪れたものを受け入れる」という人々の心が遠き古より受け継がれ、それが今なお残っていると考えるのが自然だと思えてきたりもする。人を思う心・・多くの地でそれらが失われていく中で、白川村にはまだそれが残されている、ということなのかもしれない。まず人を疑うことから入っていかないと安全に生活できなくなってきている今の時代、それが残されていることの大切さを何より強く感じる。

今、白川郷は観光地として大いににぎわっている。国内だけではなく海外からも多くの人たちがこの地を訪れる。そうした中つらい話も聞く。民宿の床の間に飾ってある花を黙って持っていく宿泊客がいる。そういうことが起こりだしてから、床の間に花は飾れなくなってしまった。ホテルのように出入りを厳しくチェックすることのない民宿、家族連れできたある宿泊客は、朝まだ誰も起きないうちに荷物をまとめて宿を出ていってしまった。もちろん宿泊費を払わずである。吸い殻のポイ捨ては当たり前、郵便受けには多くのゴミが入れられる。丹誠込めて育てた花を平気でちぎって持って帰る。黙って家の中に入りのぞき込み、民家とわかるとお詫びどころか捨てゼリフをはいて出ていく・・・などなど、観光地となったゆえの苦労をあげていくときりがない。そして村自体も人とのつながりなど、年とともに少しずつ変わってきているという。

これらの話を聞くと、人が何を大事にしなければならないのかということが見えてくる気がする。しかし、それが現実の社会に照らすとなかなか明かりが見えないところにジレンマを感じたりする。こういう時代だからこそ、今、人が何を大事にしなければならないか、そのためには何をしなければいけないのかを考える必要があると,改めて感じるのである。




http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2009/08/13 09:48】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#170 秋の『加須良』
~秋の『加須良』~




豪雪の辺境の地で、寄り添うようにして長い歴史を刻んできた二つの集落『桂(かつら)』(富山県旧上平村)と『加須良(かずら)』(岐阜県白川村)、ともに地図から姿を消して約40年という、今は無き合掌造りの集落である。

前回にも書いたが、幸いにもこの二つの集落はいずれも村在りし頃の写真をネットや写真集などで目にすることができ、当時の美しい風景を今も感じることができる。中でも秋の紅葉の頃の写真は実に印象的だ。そういう写真を見ると、どうしてもその地を訪れてみたくなって我慢できなくなるのは、もはや私にとっては性のようなものなのかもしれない。残念ながら『桂』はダム湖の底だが、『加須良』ならまだ集落在りし頃の面影を感じることができる。以前当サイトの掲示板で、桂から加須良へつながる林道の情報をいただき、その直後(春)と夏に二度現地に訪れてみたが、その時から「何とかして秋の加須良も見てみたい」という思いを強く感じていた。

過去二度の訪問時は、いずれも『加須良』へと向かう林道にチェーンはかかっておらず車による移動が可能だった。しかし今回はしっかりとチェーンがかかっており、峠越えの林道を歩いていくこととなった。その昔、二つの村はお互いに何かあると峠越えの道を行き来して助け合っていたというが、今の両村を結ぶ峠道は昔のそれとは違っているので、当時の雰囲気をそのまま味わえるわけではない。それでもこうしてゆっくり歩きながら峠を越えると、少しでも当時の人たちに近づいた気分になったりする。林道途中からの集落を見下ろす風景は、村なき今は当然ながら見ることはできない。それでも周囲の山の景色などを見ながら歩いていると、「写真で見た地に来たなぁ」ということを感じたりもする。この日、『桂』から林道を少し行ったところを振り返ると、かつての桂集落の跡が、水位を下げたダム湖から一部姿を見せていた。今は石垣が見えるだけだが、その昔はここから美しい桂集落の合掌家屋やそこに生活する人々の姿、分校の子どもたちの声などの生活の温もりが感じられたはずだ。「桂分校はどの辺にあったのだろう」など考えてもみるが、今水面から見えている『桂』はほんの一部、ただ湖の水に遮られるだけである。

林道の木々は紅葉の雰囲気を作ってはいるが、まだ少し時期が早いのか遅いのか「秋真っ盛りの紅葉」というイメージは薄い。それでも所々に真っ赤に色づいた木々の葉が見られる。それらを味わいながら歩くと程なくして峠に着く。峠といっても見晴らしが良いわけではなく、何か標示があるわけでもない。そのまま愛想の無い峠を下ってゆくと木々の間から眼下に加須良川が見えてくる。このあたりに『加須良』集落や田畑が美しく広がっていたはずだとイメージが膨らむ。『桂』と違ってここは水に沈んでいないぶん、当時の写真とイメージをだぶらせやすかったりする。

さらにしばらく下ると『加須良』集落跡に着く。明るくひらけていた村の道は、周囲の木々が伸びたせいで、今はこの時期でも薄暗い。家屋の跡に石垣や水路のコンクリート跡などを見ることができるものの、ここも何十年という年月で伸びた木々の枝葉が空を覆い隠すため、昼なお薄暗い状態となっている。川の上流に向かって一本道がのび、その両側に堂々とした合掌家屋、そして一点投視法の先に見える特徴的な形の山。そういった『加須良』のシンボルともいえるような景色はここではもう見ることができず、「家屋が無くてもせめて道と山の風景を」という願いも、のびきった木々に遮られてしまうことになる。

それなら、ということで河原に下りてみた。河原には大雨時に土砂とともに流れ着いたであろう木々が不自然な形で立っていたり、そこに根を下ろしてのびていたりはするが、先の集落跡に比べると遥かに開放的で、村のあった頃の山の見える風景を思い出させてくれる。川向こうの山はかなり紅葉が進んで山肌はオレンジ色。そしてそれが秋の青空、清流の音とともに今の加須良の秋の風景を作り出している。写真で見た田畑の広がる風景は見れないものの、ここは写真で見た風景とつながる秋の加須良の風景だということを実感する。河原に腰を下ろし周囲の風景を眺めていると、写真で見た昔日の村の風景が次々と浮かび、谷に響く村の人たちの声までが聞こえてくるような気がしてくる。

間もなく厳しい冬がやってくる。そうすると真っ白な雪が全てを覆いかくしてしまうだろう。この地で人々が懸命に雪と戦ったのはもう昔の話。雪下ろしの男たちの声が響き、深い雪からほじくられるようにして合掌家屋の屋根が顔を出していたのも、もう遠い記憶の中だけのこと。今、この『加須良』はわずかに村の記憶を残しながら、ただ静かに自然に身を任せるだけなのである。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/11/16 20:55】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#163 寝そべった金次郎像
~寝そべった金次郎像~





金次郎像といえば、仕事の合間にも寸暇を惜しんで学ぼうと、背中に薪を背負い勉学に励む姿‥のはず。しかしここの金次郎は少し違っていた。何と金次郎が寝そべって勉強をしているではないか。私たちが目にする金次郎像の全てが、薪を背負って歩きながら本を読むスタイル。ちょっと珍しい金次郎像だ。二宮金次郎像については、掘り下げれば深い意味があるようであるが、「金次郎さんのように勤勉・勤労な姿勢を見習いましょう」というのが一般的。その金次郎が寝そべって本を読むなど言語道断。

実は種明かしをすればこの金次郎像、両足首の部分が折れてしまって台座から金次郎がとれてしまってこのように置かれているのだった。決して金次郎さんが怠慢して腰をおろしている訳ではない。しかしこれはこれで普段見慣れない金次郎の姿に、何か不思議で新鮮な感じがしたりもした。たまには休憩しながらもいいじゃないか、そんな感じだ。それにしても少し像の角度が変わるだけでも、ずいぶんと違った感じに見えるものなのだなぁと妙な所で感心してしまう。

この金次郎さんを見たのは、滋賀県との県境近くの岐阜県の旧坂内村川上地区の坂内小学校川上分校。昭和58年に休校そして冬季分校となり、昭和63年にその冬季分校も休校となっている。もちろんもう校舎も残っておらず、今は新たな建物が建てられている。校庭の隅に遊具が少しと、この金次郎像が残るだけだ。ちなみにこの分校、その昔は今の場所よりもう少し上手にあった。しかし昭和14年の雪崩により校舎が押しつぶされてしまい、この場所に新たに校舎が作られたとのこと。地元の方にうかがったところ、この金次郎像が折れてしまったのもやはり大雪が原因という。こちらは今から2~3年前のこと。この地区の自然災害の厳しさを物語るエピソードである。

で、この金次郎像、ふと台座を見ると「寄贈、株式会社間組」と書かれてある。「なぜ建築大手の間組が金次郎を?」など思っていたが、地元の方のお話でその疑問はすぐに解けた。実はこの川上地区の少し上手の坂内川上流に神岳(かみがだけ)ダムというダムがある。1934年着手、1935年竣工のこのダム工事を請け負ったのが間組。そしてその際に、坂内小学校本校と川上分校にそれぞれこの二宮金次郎像が間組より寄贈されたということだ。寄贈は昭和11年というから今から73年前、もうずいぶんと古い話である。早速、坂内川をさかのぼり神岳ダムを見に行った。日頃見慣れた大規模なダムとはまた違ったこじんまりとした雰囲気で、何ともレトロな感じがして少し不安な感じもするのだが、今でも立派にダムとしての役割を果たしているようだ。発電用水の取水だけではなく、長きに渡って豪雨の際には下流地域を土砂災害から守ってきたのだろう。遠い昔から豪雪や山崩れ、地すべりなど自然災害と戦ってきこの地域、一見穏やかで平和な山村の風景だが、その裏にはこういった厳しい自然との戦いの歴史があることを忘れてはならない。

揖斐川町のサイトの坂内小中学校のページを少し調べてみた。かつての川上分校の本校である坂内小中学校だが、現在、小学校が3学級(複式学級)で全校児童17人、中学校が3学級で全校生徒9人というように非常に小規模校となっている。川上地区にも小学生が3人おられるそうだが、その子達が卒業してしまうと川上地区の小学生はもういなくなってしまうという。そのことを語る時の地元の方の寂しげな表情が、今もずっと心に残る。自然との戦いには心折れることなく向かっていった人々であるが、過疎との戦いにはその術が見つからない、というのが山村につきつけられたありのままの現実なのかもしれない。







http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/09/08 20:04】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#162 旧・坂内村川上にて
~旧・坂内村川上にて~

国道303号線の滋賀県の木ノ本町と岐阜県の旧坂内村川上地区周辺は、以前は‘酷道’などと表現されるほどの山間峡路だった。今では八草トンネルが開通し、滋賀県側はトンネルまでの全てのバイパスが今年で開通する。そして岐阜県川の川上地区も道路工事はあとわずか、といったところか。細いくねくね道を何時間もかけて走り、峠越えをして滋賀から徳山へ行ったというのも、もうずっと以前のことなのである。

まだまだ暑さの厳しいある日、この道を通って旧坂内村(現・揖斐川町)の川上地区を訪れた。すると川上集落の手前あたりで道路工事を行なっている為、迂回せよとの看板。仕方なく川上集落に入ることにした。山村などでは、集落までの道が立派な道に着けかえられていても、集落内はまだまだ昔のままの細い道ということが少なくない。そしてその道は集落住民にとっては生活の場。そういうこともあって、私は集落内を車で走ることはやむを得ない場合を除いて極力避けることにしている。生活道はそこに住む人たちの道であって、部外者の車は似合わないと考えるからだ。

やはりここの生活道も思っていたように、その大部分が一車線とちょっとの細い道。そこを遠慮がちにトロトロと車を走らせる。幸い人も車も通らない。静かな集落の風景を味わいながらゆっくりと進んでいくと、前に一輪車を押して歩いてゆく麦藁帽子のオバチャンの姿。畑仕事か何かの帰りなのだろうか、一輪車には何か荷が積まれている。山奥の小さな集落の中の生活道、日頃通る車は少ないのだろう。道の真ん中をゆっくりと歩いてゆく。気づいてくれるかな?など思いながら車をゆっくり進めるが、どうも気づいてくれそうな気配は無い。といってクラクションを鳴らすには何か申し訳ない感じがする。というわけで結局、一輪車を押すオバチャンの後をゆっくりと車で行く。

1分くらいその状態だっただろうか、ふいにオバチャンがこちらに気づき笑顔とともに頭を下げて、慌てて一輪車を道の傍に寄せてくれた。その「あら、ごめんなさいねー」という感じがなんとも爽やかだった。しかし「ごめんなさい」は、こちらである。狭い生活道にでかい車で入っていってるのだから。そこで車の窓を開けて「ありがとうー、すいません」と一言お礼とお詫び。それに対しても爽やかな笑顔が返ってくる。で、こちらも頭を下げて横を抜け、爽やかな気持ちで先に進ませてもらうことにした。

生活道を出て空地に車を停め集落を散策する。すぐ裏が山というこの集落は道と川に沿って細長くのびており、山と川の間が狭い。雨量が多い時などは山崩れなどの恐怖にさらされることが、砂防ダムが集落のすぐ上の山肌に造られていることからもよくわかる。晴天の今は何とも穏やか雰囲気だが、悪天候や大雪の時などはそれが一変するのだろう。通りすがりの者では所詮わかりようのないことかもしれないが、現実の厳しさは地形を考えるだけでも想像がつく。

そんなことを考えながらふと下を見ると、三段になった洗い場。ひかれたパイプからは、水が流れ続けている。おそらく山からの湧き水を引いてきたものなのだろう。洗い場は上・中・下の三段に分かれている。上段にためられた水は飲用水、次の中段は野菜や果物を洗ったり冷やしたりする、下段では食器などの洗い物に使用などという‘水舟’が郡上八幡で有名だが、同じような用途で使用されているものなのだろう。いっしょにタワシが置かれていることからも、ここが現役だということがわかる。夜叉ヶ池の竜神様を祀るこの地、豊富な水は竜神様からの授かり物といったところか。

一通り村を散策してふと見ると、先程の一輪車のオバチャンが石段に腰を下ろして休憩中。「こんにちは」と改めて挨拶を交わす。さっきのこともあり、初対面でありながらも初対面で無いという感じで話がはずむ。日焼けした笑顔が何とも健康的で爽やかで、80歳を越えられるという年齢だそうだが、とてもではないがそれが信じられない感じだ。こちらの質問にもハキハキとしっかりと実にわかりやすく丁寧に答えてくれる。その為、暑い中にもかかわらずついついいろいろうかがってしまい、長話になってしまった。もっとお話をききたかったのだが、あまり長くなってしまってはいけないと思い、お礼を言って先に進むことにした。

思いつきで訪れた旧坂内村川上地区だったが、思いもかけず爽やかな気分になったことが嬉しかった。爽やかさを少し分けてもらった、そんな感じだ。当たり前のことであるが、お礼や挨拶の大事さを改めて感じたりもした。普段はしかめっ面で無愛想な自分、そういうことができていないんだろうなぁ、など感じる。そんな自分でも山に行くとやけに素直で穏やかな人間になることが不思議であり、それを嬉しく感じたりもするのである。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/08/31 21:51】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#161 荘川桜
~荘川桜~

岐阜県岐阜市と富山県高岡市を結ぶ国道156号線、私が岐阜の北部や中央部を訪れる際には必ずといっていいほど利用する道だ。それの旧荘川村を北上し白川村へ入ろうかというあたりになるのだろうか、御母衣ダム湖の湖畔にひときわ目を引く二本の巨木がある。‘荘川桜’である。全国的にも有名な桜であるが、訪れたのが真夏のオフシーズン時期ということもあり周囲にほとんど人の姿は見えない。もちろんこの時期、桜の花など咲いているはずがないのだが、花はなくても圧倒的な存在感を周囲に示しているのはさすがだ。

毎年桜の咲く時期になると、大変多くの人がこの二本の桜の木の周囲に集う。私も人並みに「荘川桜の桜の花を見よう!」と思い何度か訪れたことがあるのだが、人混みと渋滞の苦手な私は、結局ノロノロと動く車の窓から横目で見ながら通り過ぎるだけに終わってしまう。で、人の少ないこの時期にじっくり見てみようと思っての今回の訪門。桜の花があるにこしたことはないのだが、それよりも静かにじっくりとこの巨木と向かい合えることが、私にとっては大事なことなのである。

NHKのテレビ番組のプロジェクトXなど、多くのテレビ番組や書籍などでも取り上げられているのでご存じの方も多いと思うのだが、この二本の老桜は御母衣ダム建設によって水没する中野地区の二つのお寺から移植されたものだ。そしてその奇跡的ともいえる移植に際しては、ダム開発責任者、ダム建設反対住民、移植作業を請け負った人たちなど多くの人たちを巡って多くの感動的なドラマが生まれている。 桜を思う心、故郷を思う心、故郷を失う人たちの心情を思う心‥などなど、そこには多くの‘思う心’が渦巻き混ざり合った。そしてそれら‘思う心’に心動かされた人たちからも、また新たな心動かすドラマが生まれてくる。名古屋から金沢まで、太平洋と日本海を桜でむすぼうという、旧国鉄バスの名金線の車掌をされていた佐藤良二さんの‘さくら道’も、その感動から生まれた新たなドラマだ。この‘さくら道’についても書籍ならびに、それをモデルにした映画なども作られたりしているので、ご存じの方も多いことかと思う。

もちろんこの荘川桜には、水没地区の住民の方の、今は無き故郷への思いや、樹齢400年以上という長い歴史の中で生まれた数え切れないほどのドラマが詰まっているはず。厳しい冬の間に降り積もった雪が融け、村人たちは待ちに待った春の訪れを桜の開花とともに喜ぶ。土地を開墾し水を引き、ようやく軌道に乗ってきた畑仕事や米作りに汗した者たちが、桜の木陰で疲れきった体を休ませる。子どもたちは、木に登ったり、枝にぶら下がったりして桜とともに幼い日を元気に遊ぶ。また、待ち合わせの場として桜の木の下で結ばれた若い二人が、やがて年老いてはこの古木のまわりを掃き清め、過ぎた日々を老夫婦として懐かしく語り合う。寺の境内で一本の桜の苗木が大切に植えられたことから始まり、以後400数十年間、桜のまわりでは数え切れないくらいの多くのドラマが流れていったのである。

この桜の周りで多くの人々の心が動き、そこから多くの感動が生まれ、今なおその形を我々は目にすることができる。そしてこれからも継続して多くの人々の思いが刻まれてゆく。桜の花の賑やかな時もいいのだが、こうして静かな時期に静かに見る二本の巨木も実に美しい。その中に刻まれてるほんのわずかではあっても、その思いを感じることで、この桜との接し方が全く変わってくる。数え切れないほどの様々な思いが、老木に刻まれた幹のしわから語られ、そしていろいろなことが際限なく思い浮かんでくるのである。湖畔に静かに佇む二本の老桜から感じることは尽きない。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/08/27 21:04】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#158 『赤谷』と『森茂』
~『赤谷』と『森茂』~

久しぶりに御母衣湖周辺林道を訪れた。‘御母衣湖周辺林道’などと非常に曖昧に呼んでいるが、実は正式名がわからず私が勝手にそう呼んでいるだけのことなのだが‥。かつての岐阜県大野郡荘川村(現・高山市)の山村『六厩(むまい、むまや)』から北に向かって延びるこの林道、残念ながら『六厩』の起点からそう長くない所でゲートのある広場に行き着いて、一般車は通れなくなってしまう。しかしそんな短い林道でも秋になると実に美しい紅葉の風景を見せてくれるので、私の中では大変印象深い林道の一つとなっている。紅葉の季節には、一日中何もせず寝転んで思い切り秋を味わってみたくなる、そんな気にさせてくれる林道なのである。

この日は紅葉ではなく、真夏のエネルギッシュな緑の木々の葉が迎えてくれた。この夏最高ともいえるような暑さの中だったが、それらの木々の葉が林道を覆い、あたかも緑のトンネルという感じで日差しをさえぎってくれるため、「暑い!」という印象はそんなに受けない。また杉林のような薄暗い雰囲気も無い。車を降りてエンジンを切る。聞こえてくるのは蝉の声だけ。この静けさからは、ここらがかつては金山として多くの人々で賑わっていたことなど到底想像することはできない。今は蝉の鳴き声が聞こえるだけのこの谷も、その昔は屈強な工夫たちの荒々しい声が響き渡っていたのであろう。

林道はゲートのある広場から二手に分かれているが、いずれも鍵のあるゲートでふさがれており、車ではこれ以上進むことはできない。左側のゲートからは‘六厩赤谷林道’、右のゲートからは‘森茂六厩川林道’がそれぞれ延びており、それぞれのゲートにはその林道名が表示されている。この林道名にある『六厩』『赤谷』『森茂』はいずれも集落名であるのだが、『六厩』以外はどちらもすでに廃村となって久しい。今のこの静かな風景を見ながらそのことを思うと、人知れず静けさの中に消えゆくものの寂しさを感じざるを得ない。

『赤谷』は御母衣ダム建設のための水没集落。今から約40年前の昭和35年に完成した御母衣ダム建設では、この『赤谷』の他『中野』『岩瀬』『海上』の4つの集落が完全水没し、多くの人たち(1206人)が故郷を失くすこととなっている。一方『森茂』は、ダム建設による水没集落ではない。全戸離村したのも『赤谷』よりはるか後の昭和48年というから、ダム完成後15年も過ぎてからの離村だ。これだけを見ると『森茂』が廃村になったのはダム建設とは無関係のように思えるが、実際は二つは大いに関係している。

ダム建設時、『森茂』集落そのものは沈むことはなかったものの、この村と密接なつながりのあった集落や道がダム建設で水没し消えてしまっている。ともに生活の基盤を作っていた『森茂』より西側集落、それらは全て無くなり、道はダム湖によって寸断されてしまったのである。これは、生活のつながりをそれら集落や道に頼っていた集落の人たちにとっては大打撃である。それにより村はほとんど孤立状態となってしまい、生活は大いに変わってしまうこととなる。人々が村を去った理由はこれだけではない。何百年もにわたって村を守ってくれた山の原生林が根こそぎ伐採されてしまったことや、それによる山崩れや洪水などの災害の恐怖、大雪などの過酷な自然条件などの影響も大きかったという。運搬用の森林鉄道が作られていたというから、その伐採の規模の大きさはかなりのものだったのだろう。ちなみにそれらの森林は国有林だった為『森茂』の住民にとって得られるものは何も無く、ただ乱伐の後に生じる災害のみが残ったと言うことだったのだろう。このあたりについては、以前このコーナーで紹介させていただいた書「源流をたずねて3(岐阜新聞社出版/吉村朝之著)」に詳しく書かれているので、関心のある方はぜひご覧いただければと思う。

山村やその奥を訪れた時に様々な風景を目にする。気にかけなければそのまま見過ごしてしまうような風景の中でも、よく見るとそこから様々な歴史が見えてくることがある。そしてそこには多くの人々のドラマがあったこともよくわかる。単に昔を懐かしんだり、そこにもの悲しさを感じるというのも悪くはないのかもしれないが、そこから一歩踏み込んでみることで見えてくるさらなるもの、それらから今の時代に学ぶことの多さに驚くことも少なくないのである。



※参考資料「源流をたずねて3」(吉村朝之著/岐阜新聞社発行)










http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/08/06 19:13】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#152 楽しく元気な、不釣合いな風景
~楽しく元気な、不釣合いな風景~

冬季に無住となる集落。住民の全てが生活の拠点を他の地に移し、季節の良い時などにのみその地に帰ってくる住民のある集落。家屋の状態の良い所では、そういう時期に実際の生活も営まれているような所もあるようだ。しかし住民票等は全て移されているので、住民数は0。それゆえ、冬場にもし集落へつながる林道が雪で埋もれてしまっても、除雪などがされることはもう無い。

岐阜県と福井県との県境近くの山奥にある、冬季無住となる集落を訪れた。多くの家屋が美しく残されているのは、季節の良い時に帰ってこられている人たちが多い、ということなのだろう。この美しい集落が大変好きで、私は年に何度か訪れる。もちろん雪に埋もれた冬場に訪れることは無いので、訪れた時にはいつも人の姿、もしくは人の気配を感じる。畑には青々とした野菜があり、秋の収穫の時期には農作業の音や人々の声が、山に囲まれた村に響きわたる。それでも村の人たちが一年間を普通に生活していた昔に比べたら、遥かに静かなのだろう。「(この風景が見れるのも)私らが元気なうちだけやろうね」という地元の方のことばに現実を感じたりするが、このささやかな賑やかさには、やはり嬉しさを感じるのである。

訪れたこの日は5月の連休。やはり村の人たちが何人か帰ってきておられ、畑仕事などで忙しそうにしていた。目にする方のほとんどが高齢者の方たちだが、山深くにある多くの集落の現実を考えると当然のことなのかもしれない。しかし畑を耕す人、一輪車を押す人、昼ご飯の準備をする人‥などなど、村はまさに生きている集落という感じで、この風景だけを見ると行政上の‘廃村’というイメージからは程遠い。それらの動きのある風景と、新緑の緑、青い空、そして古びた家屋や木造校舎などの風景の中に心地よく浸りきる。

そんな時、ふと山村には似合わない音が聞こえてきた。ゴーゴーとアスファルトの道に響いている。すぐにその音の方を振り向くと、そこにはスケートボードに興じる子どもの姿。何とも不似合いなその音の主は、スケートボードをする小学校中学年くらいの男の子だった。村の真ん中を走る道を、ボードに乗って駆け抜けてゆく。まだそんなに慣れないのか、巧みに操るという感じではないが、なにかそれがかえって新鮮に感じる。このような山奥で、冬季には無住化するような集落で、このようなシーンに出合うとは思いもよらなかった。そしてこの、意外で不釣合いな風景が実に楽しく元気に感じられた。人が多く住んでいた頃には多くの子どもたちがいて、今なお健在の古びた木造校舎にも賑やかな声が響いていたはずだ。その頃の賑やかなシーンがこの景色を見て、ふと浮かんできた。違和感を感じたスケートボードはその頃にはあるはずも無いのだが、そんなことはどうでもよいくらいに、その不似合いな風景を重ねることができた。子どもはエネルギーである、ということを改めて感じたりもしたのである。

大型連休やお盆には、日頃静かで寂しい山村集落にも違った風景が見られることがある。人の姿の無い静かな山村の風景もいいが、こういった少し違った山村の風景も私は大好きである。この日見た子どもがここの住民でないということはわかってはいるが、こういう風景にはホッとさせられてしまうのである。










http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2008/06/06 05:50】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
| ホーム | 次ページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。