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#229 堅海小学校 ~廃校で見た小さな春
~ 堅海小学校 ~廃校で見た小さな春~ ~






 久しぶりに福井県小浜市にある堅海(かつみ)小学校を訪れた。木造校舎がたいそう美しいこの学校が廃校となったのが1991年(平成3)というから、今から22年前のこと。日照時間の少ない山間部と違って、ひらけた海の近くのこの学校が作り出す風景は、何とも開放的で爽やかな感じがする。そういえば閉校後の年数の割に傷みが少ないのは、日頃の管理はもちろんだが、こういった立地条件の影響もあるのかもしれない。やはり、山間部の雪が多く日照時間の少ない地域だと湿気は多く、建物はすぐに苔むし傷みは早くなる。
 訪れたのは3月初めのある日の夕方、北日本が雪で大荒れで、こちら滋賀県周辺でもまだまだ春とはいい難い寒さを感じる時。この日は「もしかしたら夕焼けの中の木造校舎が見れるかも」という期待を持っての訪問だったが、あいにく天候は冴えず、空を見上げてみても、雨は降っていないものの全体が白い雲で覆われている冬空の雰囲気。途中、滋賀県から国道303号線で福井の県境を越えるあたりも、まだまだ雪が残っている状態だったので、春を感じるには少し早いだろうなあと思いつつの訪問であった。













 実はこの訪問を前に、堅海小学校が閉校される際に出された記念誌「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」を見る機会があった。平成3年の8月に発行されたこの記念誌には、閉校を迎える母校にむけての卒業生や当時の在校生、そして勤務されていた先生方のことばなどが数多くよせられている。また卒業生の写真や当時の様々な行事の写真なども紹介されており、部外者である私でも、それらを見ているだけで何か懐かしい気持ちになってしまうものだった。
 今は広々とした中にポツンと校舎だけが佇んでいる堅海小学校だが、当時の学校の様子を写した写真を見ると、校舎に向かって左手側に直角に並ぶ感じで講堂がある。また校舎と講堂の間に玄関(生徒用?)があるなど、今とは雰囲気が違って賑やかな感じだ。この講堂も校舎と同じような造りで統一感があって大変美しいのだが、残念ながら既に講堂は取り壊されてしまっているため、今ではその姿を見ることはできない。この校舎と講堂の新築完成の落成式が行われたのが昭和29年、それから閉校までの38年間にわたり、この学び舎は地域の期待と希望を集めて多くの卒業生を送り出したことになる。その美しい木造校舎を建てられた当時の大工さんが、閉校を迎える際に児童の前でお話をされている。その時のことを綴った作文が記念誌に載せられているので原文のまま一部をご紹介する(大工さんのお名前の部分のみ「大工さん」とさせていただきました)。なお、この作文を書かれたのは当時6年生だった女の子で、堅海小学校の最後の卒業生ということになる。




「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より






「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より



「お話を聞いてまず思ったことは、たいへん苦労したんだなあということです。当時は今とちがって機械も少なく、一つ一つを手で造っていたからです。のべ人数で二千三百人もの人が働いて造ったのだそうです。(中略)それに昔のことで道もきれいに整備されていなく曲がりくねった道を、重い荷物を背中にせおい堅海まで来るのも大変だろうと思いました。今では、車で何もかもを運ぶのが当たり前になっているので、重い荷物をせおい歩いてくるなんて、ぜったい考えられません。いくら仕事だと言っても大工さんたちが、それをなしとげてくださったから、今のようなりっぱな学校ができ、今まで私たちが使うことができているのです。(中略)私は大工さんたちが、こんなに苦労して造ってくださったともっと早くに分かっていたら、私たちももっともっとていねいにそうじをしていたかもしれないなあと思いました。今では、学校は私たちの使い方が悪いのかきずだらけで、ゆかはぎしぎしと音を立てています。あんなに苦労して造ってくださったのにと思うと、悪いなあと反省してしまいます。あと一ヶ月ちょっとで閉校になるわけですが、それまではきれいに使いたいと思います。本当に閉校になるんだと思うと悲しくなってきます。私は、どうしてこんなりっぱな学校を閉校にするのか、不思議でなりません。大工さんもそう思っているだろうと思います。大工さんには長生きしてもらって、いつでも堅海小学校を見にきていただきたいです。私は大工さんの話を、そして、この校舎のことを大人になってもぜったいに忘れないと思います。そして、この小学校をこわさず何かのために役立ててほしいと願っています。」



(以上、堅海小学校の閉校記念誌「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー 」より抜粋)




「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より






「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より



 この作文を読むと、校舎を造られた方のお話を聞くことで感じた学校への愛着心や、閉校を迎える一人の在校生の感じる寂しい思いが素直な気持ちで読む者に伝わってくる。今、この作文を書かれた方がどこにお住まいなのかはわからないが、故郷の地へ帰ってこられた時、今でもこうしてかつての学び舎に出会うことができる喜びを、きっと感じられていることと思う。廃校となった校舎が取り壊される状況も多い中、こうして美しい状態で残されているのは本当に素晴らしいことだと感じてならない。
訪れたこの日、写真撮影をしていると近くに中学生か高校生くらいの子どもの姿を見ることができた。少なくなっているとはいえ、こういった子どもたちの姿が集落で見ることができるのは大変嬉しいものだ。この子らにとっての母校は堅海小学校ではなく、統廃合により新しく建てられた内外海小学校になるのだろう。そういう世代の人たちにとって、このポツンと寂しげに佇む古びた木造校舎はどのように映っているのだろうか、ちょっと知りたいような気もした。













 先の作文の中でも少しふれられているが、この『堅海』の集落は、今でこそ立派な道ができて車で楽に行けるようになっているが、以前は車が通れるような道が無かった。そして長きに渡って‘陸の孤島’ともいえる状況にあったという。地図を見るとわかるのだが、突き出た半島にある『堅海』は、山に囲まれた海辺の村で、昭和40年頃の山越えの県道完成以前は、人々は小浜からの連絡船で行き来きしていた。それだけに昭和28年の校舎の新築工事では大部分が人力に頼らねばならず、大変な苦労があったということは想像に難くない。そういう道路事情であったので、堅海小学校に勤務された先生方は、小浜からの定期連絡船を通勤の足とされていた。暴風雨で堅海までの半島をまわれない時は、一つ手前の『仏谷』で下船し、山越えの道を泥だらけになって歩いて行かれたりなど、堅海小学校ならではのエピソードも記念誌には綴られている。下の二つはいずれも記念誌からのもので、先生方により書かれたものである。




「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より






「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より



「小浜から日に三往復の連絡船が出ていた。双児島を見当に進むと児島、佛谷が見え、島影を映して青く、双児島を過ぎ右に向きをかえると堅海の松林が目に入り、遠くに泊の家々が見えてくる。この眺めは一幅の絵以上のものであります。このように美しい海も、冬季には恐ろしい海に一変します。一冬に五、六回は泊にも着岸できず、仏谷から乗せてもらった時もありました。小浜の川口近くになると波が大きくなり波頭が船側より高くなり、船長さんの腕にまかすしかなかったこともありビクビクでした。」

(以上、堅海小学校の閉校記念誌「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー 」より抜粋)


「一年目はじっくり勉強させて頂いてと思っていました。そこへ突然の転任命令で、何一つ役に立たないまま、慌ただしく堅海小学校とお別れすることになりました。そんな私でしたのに、堅海の桟橋で皆様方が見送って下さったのです。しっかり握った五色のテープが次々に千切れ行き、船は汽笛を鳴らしながら桟橋前の海面を三周し、やがて舳を双児島に向けました。船尾に盛り上がる波の向こうでは、見送って下さる方々の顔が小さくなっていきます。そして、家々の屋根や松並木が、泊岳や久須夜岳が次第に遠ざかって行きます。涙と夕もやで、かすんで見えなくなる村の方に向かって私は夢中で手を振り続けました。あの感動は、堅海小学校に勤めさせて頂いた者だけしか経験させて貰えないことです。」

(以上、堅海小学校の閉校記念誌「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー 」より抜粋)




「久須夜 ー堅海小学校のあゆみー」より







 これらの文を読むと、全く知らない地のことであっても、その情景が目に浮かんでくるような気がする。体験した方ならではの表現から伝わるものは本当に大きい。この他にも多くの方々の思い出がこの記念誌には記されており、そのどれもから堅海小学校への温かい思いを強く感じる。そういったいろいろな人たちの思いがいっぱい詰まっていることを考えながら、改めてこの木造校舎を見る時、またこれまでとは全く違った温かみをその風景から感じることができる。この日は行けなかったが、当時使われていた桟橋や集落内も、またじっくりと歩いてみたいなどと思ったりもしてくる。









 この日、日差しも無く寒い中であったが、いつものようにウロウロとしながら写真撮影をした。すると校門横と校舎前に水仙の花が咲いているのが見えた。そういえば4年前に訪れた時も水仙の花をしばらく眺めていたことを思い出す。さらに歩くと校庭の隅にはフキノトウの芽。前日訪れた滋賀と福井の県境にある山の集落では「まだまだ遠いなぁ・・」など感じた春だが、この海辺の集落には、すでに小さな春が訪れていたのである。そして、その風景を見ると急に寒さを感じなくなったのもまた不思議なもの。
 これから本格的な春が来ると、桜が咲きタンポポも顔を出す。残念ながらここ堅海小学校跡では新入生の姿は見られないものの、木造校舎と桜が作り出す海辺の廃校の風景は、暖かな春を堪能させてくれるに違いない。昭和46年に中学校の堅海分校が廃校となる以前は、小中学校が併設されていたこの美しい木造校舎、この先も長くその姿を見せてくれることを願うばかりである。






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【2013/03/14 23:35】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#213 国内最古の現役木造校舎だった、吹屋小学校
~国内最古の現役木造校舎だった、吹屋小学校~






普段は滋賀県とその周辺の近場しか訪れることの無い自分であるが、そんな無精者の人間でも、少し遠出してでも訪れてみたいと思う所がいくつかある。そのうちの一つが岡山県の高梁(たかはし)市にある、吹屋小学校。残念ながらこの春を最後に、1873年(明治6)からの長い歴史に幕を閉じることになってしまったが、国内最古の現役木造校舎として、その風格ある佇まいと美しい姿は、地元の人のみならず多くの木造校舎ファンからも愛され続けてきた。その吹屋小学校、ずっと以前から「訪れてみたい」と思っていながらも無精者ゆえ実現していなかったのだが、この3月で学校としての歴史を閉じるということを知り急遽訪れた次第である。





岡山へ向かう途中の中国自動車道からは、この地方の山村の風景がよく見えた。それほど高くない山の、なだらかな斜面に点在する老家屋たちが作り出す里山風景、それらが穏やかな春の陽気の中で大変のどかに広がり、満開の桜が美しさをより際立たせる。滋賀や岐阜などの山間集落はよく訪れているが、そこらとはまた違った美しさを感じさせてくれる山の風景がそこにはある。新見インターを下りて吹屋に向かう道中にも、同様の美しい里山を数多く見ることができた。やはりそこでも桜がとても美しく、至る所で桜咲く風景と出合うことができ、改めて日本人と桜の深い結びつきを感じたりもするのだった。そういえば、一日でこれほど多くの桜を見たことは、これまでになかったかもしれない。





「備中高梁観光案内所」というWEBサイトから、この吹屋小学校のことを拾ってみた。学校の発足が1873年(明治6)。1899年(明治32)に吹屋尋常高等小学校と改称して現在の場所に移転し、翌1900年(明治33)木造平屋の東校舎と西校舎が竣工、そして1909年(明治42)に木造2階建の校舎本館も落成とある。また同サイトから吹屋集落についても見てみる。それによると吹屋は、かつて銅山で大いに栄え、元禄年間には日本6大銅山の一つとして数えられる程で、西国一の規模を誇っていた。そこには多くの商人や芸人が集まり、遊女屋もあったという。明治の初めの頃でも人口は約3000人、吹屋小学校も大正期には300人もの生徒数でにぎわっていたというから、今の静かな風景からは想像がつかない。しかし昭和に入って銅山は次第に廃れていき、1972年(昭和47)には遂に閉山となる。長きに渡って地域繁栄の源となっていた銅山も、遂には力尽きたということなのだろうか。ちょうど高度経済成長期で、多くの若者が地方から離れていく社会状況の中での閉山は、この地域の若者離れに拍車をかけたことは間違いないだろう。









吹屋小学校の木造校舎は、吹屋が大いに栄えていた頃に建てられた木造校舎。地域の大切な子どもたちの教育の場、地元の大工が腕によりをかけ、当時の最高の技術が注がれて造られたということは想像に難くない。この地域教育を支えてきた吹屋小学校の最後の様子は、新聞やテレビでも報道されており、報道ステーションというニュース番組では特集も組まれて、その様子を映像で見ることができた。最後となった年の全校生徒数はわずか7名。そして最後にここを巣立つことになった卒業生は3名。3人の卒業生を送り出して長い歴史を閉じた吹屋小学校は、今後は資料館として第二の人生を歩むことになるという。近年、観光地としても吹屋に貢献してきた同校は、これからも地域に貢献し続けるのである。









訪れた日は平日ということもあり観光客は少なかったが、それでも吹屋の街並から足を伸ばして小学校まで訪れる人の姿を何人も見ることができた。つい先日まで現役だったため、校舎や校庭、花壇などは大変美しい。ただ本来ならば子どもたちのにぎやかな声が聞こえるはずなのに何も聞こえず大変静かなのは、過疎で悩むこのあたりの地域の現状を表しているのかもしれない。それを強く感じたのが、観光地となっている吹屋のベンガラ色の街並を少し外れた時である。

そこには土産物屋さんもあるきれいな趣ある古い街並とは対照的な、人のいない苔むした廃屋の風景があった。まだ崩れてはいないが、もうここに人が住むのが不可能であることは一目で分かる。こういった主を失い廃屋となっていった家屋が、閉山以降、数え切れないほどの数に上ることは間違いない。100年以上もの長い歴史を持つこの小学校が姿を消す背景には、やはり過疎に悩む地方の山村事情があることを、この廃屋が物語ってくれている。観光地とはいえ、そこには厳しい現実があるのだ。









また小学校横には、それより1年前(2011年3月)に休園となった保育所の姿も見ることができた。最後となるその年の園児4人のうち2名が吹屋小学校に入学したというから、その2人の子どもたちは吹屋保育園最後の卒園生であり、吹屋小学校の最後の入学児童でもあったということになる。今はまだ幼くてその状況を理解することは難しくても、子どもたちの記憶の中で、静かな山里の中の保育園や小学校の思い出は、故郷の映像としていつまでも心に残るのだろう。将来この地を離れ都市部に出るようになった時には、その印象はより強くなっていくのではないだろうか、そんなことを勝手に想像したりもする。





大変静かな風景の中、学校の石段に腰をおろし、しばらくボーッとする。日が沈みかけるこの時間には、もう誰も訪れる人はいない。本当に、ちょっと前まで子どもたちがここで学校生活を送っていたのだろうかとさえ思ってしまう程、静かな空間。そして、100年以上もの長い仕事を終えた木造校舎を眺めながらすごす時間は、疲れた心を大いに癒してくれる時となる。日が沈み、あたりが暗くなってからのライトアップされた校舎からは、昼間とはまた違った印象を感じたりするが、これからはこの姿が吹屋小学校の姿となっていくのだろう。そんなことを考えていると、今の社会の中でこのような故郷の思い出を持てることは何物にも代え難い素晴らしいことだなぁ・・などと感じ、そのことが心底うらやましく思えてしまうのである。






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【2012/04/28 22:21】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#207 旧・木沢小学校(長野県飯田市南信濃)
~旧・木沢小学校(長野県飯田市南信濃)~






最近驚いたことがある。それは長野県の木沢小学校(長野県飯田市南信濃木沢)のこと。長野県の最南端、天竜川の支流である遠山川の山深き谷間の秘境‘遠山郷’、信州の奥座敷とよばれるその地に木沢小学校はある。といっても平成3年休校、平成11年廃校というように、すでに学校としての127年間もの歴史に幕を閉じており、子どもたちが元気に学ぶ姿が見られなくなってからも20年近くの歳月が過ぎている。つまり正しくは、旧・木沢小学校ということになる。写真にあるようにその校舎は大変美しい木造校舎。昭和7年に建てられたというこということなので、こちらも80年近くもの長い歴史を持つ。その間たくさんの子どもたちがここで学び、巣立ち、秘境の地の元気のシンボルとして村人たちと共に長きを歩んできた。





高度経済成長期の燃料革命やそれ以降の林業の不振などで山間部の多くの学校や集落が姿を消し、さらに近年の少子化等々の影響で、山間部だけではなく都市部でも多くの学校が姿を消している。これは今なお進行中で、この先も多くの学校が姿を消すことになるのだろう。これが普通の光景となってしまっている今の時代の中で、役目を終えたかつての学び舎のその後も多種多様。早々に解体され跡形も無く別のものに建て替えられていたり、空き地となってポツンと寂しげに廃校の碑だけが残されていたり、施設を公民館や宿泊場など別の用途として再利用されていたり、そして使われぬまま放置され廃墟と化していたり等々、様々だ。しかし今回訪れた旧・木沢小学校の木造校舎は、そのどれとも違った運命を歩んでいた。





木沢小学校の木造校舎、廃校となってからは、各種研修やコンサート会場などに臨時に利用されていたようで、これについては各地の廃校でもよく見られ、特に珍しいことではない。しかし、ここからが違った流れとなってゆく。地元の人たちが、自ら学び育った温かいこの木造校舎こそ木の村のシンボルとし、南信濃が誇る貴重な財産としてとらえたのだ。そして平成15年に木沢活性化プロジェクトを発足させ、そこを中心にして、各種イベントや写真展、旧木沢小学校児童や地元住民の作品展示、体験教室や体験ツアー等など、様々な取り組みがなされてきたのである。つまり、その場を使っての展示や交流などで新しいものを作るだけではなく、この木造校舎の学校としての当時の姿を残すこと、先人たちの思いを残していくこと、それらの大切さを見に来てくれる人の心に伝えようとしたのである。もう学校ではないが、学校として残し、多くの人に見てもらおうとしたのだ。このへんのことは「信州遠山郷」「ようこそ木沢小学校へ」の両サイトを参照させていただいた。そちらに詳しく書かれているので、ぜひご覧いただければと思う。









私が訪れた時は、当時の学校生活の様子や様々な写真やゆかりの品々、郷土の資料、遠山森林鉄道に関するものの資料など、大変貴重なものが所狭しと並べられていた。そして何よりも素晴しいのが、かつての木沢小学校の子ども達がいたころの様子がそのまま再現・展示されていることである。職員室、教室、そのままチャイムが鳴って、先生が廊下を歩いてやってきそうな、そんな感じがする。「起立!礼!」という声が教室に響きそう。小さな木の机やいすも当時のものなのだろう、本当に自然な感じでセンス良く再現されている。時間さえ許すなら、一日中でもこの雰囲気を味わって、思いっきり写真撮影などしてみたい、そう感じたりする。この日はあまりもの暑さのため残念ながら長くはいられなかったが、もう一度必ず来たい、そう強く思った。

辺境の地‘遠山郷’のこの旧・木沢小学校は、日本のチロル‘下栗の里’とともにけっこう有名なようで、インターネットで検索してもいろいろなサイトで紹介されている。詳しくはそちらを見ていただけるとよいのだが、何より現地へ訪れるのが一番。このような形で残されていることに驚きを感じ、この木造校舎への村の人たちや支える人たちの愛情を強く感じ、そしてそれにふれることで本当に心温かな気持ちになれる。木造校舎そのものも貴重な展示、そう思われるこの旧・木沢小学校、入場無料というところにも地元の人たちの思いを強く感じたりするのである。









今も日本の各地には多くの廃校舎たちが残り、壊され、そして増え続けている。そこには地元の人たちや巣立っていった者たちの多くの愛情や温かな思いが宿っているはずだが、それ以上どうすることもできず最期を迎えるのを待つだけ、という廃校舎も少なくないだろう。金のかかるもの、採算の取れないものは次々消されていくこの時代、旧・木沢小学校の存在は何かとても爽やかで、心救われた気分になる。伝わってくるものは限りなく大きい。この試みが今後も継続し成功することを、心より願うのである。





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【2010/09/07 01:21】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#184 綾部市の木造校舎?
~綾部市の木造校舎?~





山村を目指して何気なく車を走らせていると、予想外の出合いをすることがよくある。この日は京都府の綾部市を特に目的もなく移動中だった。車窓から、田園風景を貫く線路を隔てて細長い集落が見えて来た。ごく普通の山村集落の風景だ。運転しながらなので、もちろんゆっくりその風景を見ることなどできない。チラ見である。するとチラ見の視界にチラッと見えたのが木造校舎らしき建物。「お!もしかして!」と車を停めて確認する。どうもそれは、やはりそれ(校舎)らしい三角屋根の建物。さっそく引き換えし集落への道を入ってゆく。

自分で言うのもなんであるが、遠くから木造校舎を見つける眼力はけっこうあるように思う。遠くからそれらしき建物をみつけて近づいて確認すると、ほぼ100%で木造校舎もしくはもと元校舎だ。大きなグランドなどがあればわかりやすいのは当たり前だが、それがなくてもけっこう見分けがつく。もちろん民家とは違う大きさと形なので区別しやすいということはある。しかしそれ以上に‘雰囲気’の違いが判別材料となっている。家並みの流れの中でそれは微妙に違っているのだ。といっても決して違和感があるわけで無く、うまく風景にとけ込んでいるのが面白いところ。農協の古い建物や古い小さな工場、公民館などもけっこうそれに似ているが、やはり違うのである。

この日の‘木造校舎’は少し驚きだった。褐色の二階建ての窓から滑り台がグランドに向かってのびているのだ。「なんだ、これは?」と一瞬感じたりするが、それは、壁面の「東八田幼稚園」の大きな看板を見て納得。木造校舎ではなく‘木造園舎’だったのである。園庭には様々な遊具。この日は日曜日なので誰もおらず寂しい感じだったが、その遊具の使い馴れている様子からここがまだ現役であると判断。「そういえば以前に見た大きな木造園舎もこの周辺(奥上林)だったなぁ」など思い出す。奥上林の木造園舎は残念ながら現役ではなかったが、ここは現役のにおいがプンプンする。以前このコーナーで現役の木造校舎の中学校「何北中学校」を紹介したが、京都府北部のこの辺りは,本当に美しい木造校舎がある(何北中学校は本サイトの写真帳コーナーでも紹介しています)。この日出合った木造園舎に感謝しながら、写真撮影をする。残念ながらフェンスの鍵がしっかりと閉められているため園庭には入れなかったので、道路からの軽い撮影だけをしてここを後にすることにした。




それにしてもこの二階からの滑り台は何とも魅力的だった。普段は遊具として使われているのだろうか、それとも緊急避難用としてつけられたもので普段は使用されていないのだろうか、小さい子供なら絶対に下から登ったりするだろうが危なくはないのだろうか、などなどいろいろ考えてしまう。そして「滑ってみたい」とイイ年をしながらも思ってしまう。おそらくこれを見た人の10人中8人は年齢に関わらず「滑ってみたい」と感じるのではないだろうか。たしかどこか忘れたか,同じような滑り台を見たことがあるように思うのだが、思い出せない。

帰ってから早速この東八田(ひがしやた)幼稚園を調べてみた。そして驚く・・。現役と思われたこの東八田幼稚園は木造園舎の老朽化に伴い移転していたのだ。東八田小学校の校舎として1950年に建設され、1964年の小学校の移転時に今の幼稚園となったこの園舎、地元の人たちに惜しまれながら、この春に60年の歴史を閉じていたのである。さらに驚いたのは、耐震面の問題から2009年度中に取り壊されてしまうということ。幼稚園自体は近くの八田中学校に移転するということなので無くなってしまうわけではないのだが、何とも早い取り壊しだ。具体的な取り壊し時期は書かれてないものの、この美しい木造園舎の姿を見れるのもあとわずかということだけは間違いない。これも時代の流れということなのだろうか。残りわずかな時にその姿を偶然見ることができたこの出合いに、ただ感謝するばかりなのである。









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【2009/05/30 20:18】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#183 廃校前で記念写真
~廃校前で記念写真~





ゴールデンウィークの子どもの日に、福井県の小浜市にある上根来小学校(廃校)を訪れた。今は‘山の家’として第二の人生を送っているこの木造校舎が大好きで、私はこれまでにもよくここを訪れている。振り返るとこの時期に訪れていることが多いのは、やはり春の新緑の風景の中での美しさを求めてのことだろう。3年前も同じように‘子どもの日’に訪れており、その時のことはこのコーナーでも紹介させていただいている。この新緑の時期に勝るとも劣らない美しさを見せてくれるのが、秋の紅葉の季節。この時期の燃えるような校庭の紅葉、それと木造校舎の作り出す風景はもう言葉では言い表せない。今年は何とかして訪れてみたい、など今の時期から思ってしまったりする。

この上根来小学校に関してネット検索をしてみると、山の家としての情報は出てきても、歴史的なことや現役の頃の様子などの情報は皆無に近い。そのため私の中では、絵画的な美しさは感じても、どうしても学校としての現役の頃のにぎやかな映像がうかんでこない。子どもたちの温かみがイメージに加わってこないのである。訪れたこの日も、小鳥のさえずりしか聞こえない春の静寂が広がっていた。その中でのんびりと写真を撮る。時折横の道を車やバイクが通るが、エンジン音はすぐに遠ざかってゆく。これもいつものここの普通の風景。

玄関の写真を撮っている頃、また一台のエンジン音が聞こえてきた。また遠ざかってゆくのだろうと写真撮影していると、珍しくエンジン音が校庭の中まで聞こえ一台の車が入ってきた。そして中から出てきたのは一人の男性と、その方の母親?くらいと思われる女性。「こんにちは」と挨拶をすると男性が「ここで働いてたんや」とその女性を示す。突然のことに驚いた、その女性の方は元教師の方だったのである。急にこの地の静寂に過去の温もりが出てくる、そんな感じがした。女性に話をうかがうと、その方は以前に教師をしておられて「40年ほど前(かなぁ・・)」に僻地教育の研修会でこの上根来小学校を訪れられたという。ちょうどこのあたりに来て、懐かしくこの地に立ち寄られたということらしい。上根来小学校で勤務されていたわけではなかったが、現役当時のこの学校と大いに関わりをもたれていたのである。とその時、車からもう二人の女性。そのお二人は、この方の教え子だったということだそうだ。そしてかつての恩師の方と一緒に木造校舎の風景の中。

研修会の当時のお話しをうかがった。児童生徒は30人くらいで「そら、にぎやかでしたよ」とのこと。今のこの静寂さからは想像がつかないが、紛れのない事実。「クラスは3クラスあり、たぶん複複式学級やったん違うかなぁ・・」ということで、分校ならではの学年をまたがっての学級編成だった。「学校には教師をされているご夫婦がおられ、この校庭で女の先生(奥さん)が体育の授業をされていました。」「そら、にぎやかでしたよ」この「そら、にぎやかでしたよ」の言葉は、お話しをうかがう中で何度も出てきた。やはりこの元教師の方も、当時の活気と今の静寂とのギャップを強く感じておられるのかもしれない。その言葉の裏には、懐かしさと寂しさが混じりあう、そんな風にも思われた。

その時、校舎の裏にまわられていた男性の「タヌキやー!タヌキやー!」という声。タヌキが校舎の床下へコンクリート基礎の通気口から入っていったという。なるほどいくつもある通気口の格子がはずれて、まったくの出入り自由状態。かつては子どもたちの声で「そら、にぎやかだった」この木造校舎も、時の流れとともに自然の静寂の中で獣(タヌキ)たちの住居となっているのかもしれない。まさか月夜の夜にタヌキたちの腹鼓の音が鳴り響くということはないだろうが、今ここでは新たな住人たちの声が静寂の中で聞こえていることだろう。

お話しをうかがった後、その元教師の方から「あ、そうだ。写真撮ってもらっていい?」とのことば。「ええ、いいですよ」とすぐに返す。こういう自然の流れは大好きだ。「みんなで写真撮ってもらうよー」の声で、車に乗り込んでいた二人の教え子の方たちも集まり、急遽4人で記念撮影となる。ファインダーからのぞいた廃校の玄関前の4人の姿は、何とも温かい。何か自分の中では、今まで絵画的美しさしか感じることのできなかった上根来小学校の風景が、まるでタイムスリップでもして当時の温もりを運んできてくれて温かみあるものとなったような気がする。そして後日写真を送ることを約束し、エンジン音が遠ざかるとともに廃校は再び静寂の風景に戻っていった。

わずかな時間であったが、ここがにぎやかだった頃のお話しをうかがえたことで私の中の上根来小学校の風景は大きく変わった。この時のファインダーからのぞいた4人の記念撮影の姿は、この先もずっと忘れることはないだろう。自分の中で輝き続けるシーン、そんな気がする。このような写真を撮らせてくれた4人の方々に本当に感謝、そして写真撮影が好きでよかった・・そんな風に思ったりもした。











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【2009/05/10 07:33】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#181 ひぐらしのなく頃に
~ひぐらしのなく頃に~





テレビの番組表を見ながら、何げに知らない映画などを適当に予約しておき、中途半端に時間があいた時とかに見ることがけっこうある。この日見たのは‘ひぐらしのなく頃に’という日本映画。若い人たちの間ではけっこう有名で人気があるという。後から調べてみると、元々はゲームということらしいが、それがブームになり漫画やアニメでも人気が広がり、ついにはこの実写版の映画になったということのようだ。

なぜこの映画を当コーナーで取り上げたかというと、それは冒頭のシーンで何ともなじみのある風景が出てきたからである。ひとつは合掌造り集落の風景。もう一つは主人公の少年が転校してきた分校という設定の木造校舎の風景。特に後者は、一目見てその特徴的な外観から、そこが以前に私が訪れたことのある所ということがわかった。その時の様子はこのコーナーでも紹介させていただいているが、たまたま訪れた長野県の静かな山村で、たまたま目にしたというもの。変則的な3階建てで長くのびた煙突が大変印象的で美しく、どこか古びた村工場のような、そしてどこか鄙びた老旅館のような、そんな感じもする独特の雰囲気をもった佇まいが大変印象的だった。訪れたのが2005年だから、もう4年近く前のこと。割れたガラス、開いたままの給食室の扉・・などなどその時の管理状態からみると‘明日知れぬ運命’という感じが強かったため、そう遠くない将来の解体も気になっていた。映画の公開が昨年2008年(続編も現在公開中らしい)だから、まずはその後も健在だったということがわかり、取りあえず嬉しく感じたりした。

映画の内容は、廃村や廃校を舞台とする映画に多くみられるようにミステリー・ホラー系のもの。ややグロいシーンもあるにはあるが、子どもにも(中学生以上)見れるようにそれなりに気をつかって作られている。閉鎖的な村に起こる、古くからの伝統や言い伝えの中に隠された残虐な殺人。よくある設定であるが、私のような人間はけっこうそれがハマってしまったりする。ただ舞台となる村や学校の風景が上映以前に知っていた風景であったので、面白く見ていた一方でどこか違和感を感じてしまったのも事実。特に合掌集落の風景には思いっきり違和感を感じてしまった。一般的には違和感は感じないのだろうが、どうしても「おいおい、ここは雛見沢村じゃないだろう」って感じがしてしまう。私が監督なら合掌造りという地域固有の風景は使わず、山間部の古びた普通の茅葺家屋の集落の風景を使うだろう・・など勝手に思ったりするわけだが、まあ、こうブツブツ思いながら見るのもなかなかおもしろかったりする。

現在、続編が地域によっては上映中のようなので、またこの木造校舎が使われると思うとけっこう嬉しかったりもする。ちなみに、これのアニメの絵柄は私にとってはどう転んでも受け入れ難いものだ。何も知らずに実写映画を見てよかった~など感じる。先にアニメを知ってしまっていたら、おそらく先入観を持ってしまって予約さえしなかったことだろう。何よりも、我々の世代の男がこのアニメや漫画を喜んで見ている姿を想像すると、それは映画より不気味なものになること間違いなしである。

廃校となった木造校舎や廃村などが映画やテレビのロケに使われることは珍しくない。中には失礼であるとわかっていても「こんな映画に使われてしまって・・」と思うような作品もある。そのシーンを見た視聴者が「こんな風景があったんだ・・実物を見てみたいなぁ・・」など思えるような作品に仕上がったものならば、きっと使われたロケ地も喜んでいることだろう。今回の映画を見た若い人たちの中には、きっと「ロケ地を訪れてみたい」など感じている人もいることと思う








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【2009/04/30 05:15】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#160 『大原百井町』にて
~『大原百井町』にて~

以前、京都の久多から佐々里そして芦生を訪れた時に、時間が足りずに通り過ぎただけに終わっていた大原の『百井(大原百井町)』と『大見(大原大見町)』の両集落が気になっていたのだが、先日ようやく時間を見つけて訪れることができた。滋賀県から百井へ向かう坂はかなりの急勾配。「冬など大変だろうなぁ」など考えながら先に進む。それでも山間部の割りには道はそんなに狭いというわけではないので、圧迫感はそんなに感じない。

『百井』は静かで美しい山間集落。村を車でゆっくりと抜けようというところで百井分校の姿を見つけ、早速写真を撮ろうと車を降りる。校門あたりで座り込んで写真を撮っていると後ろから「こんなとこに何かいいもんありますか?」という声。振り返ると、頭に三角の帽子をかぶった農作業の帰りと思われる70才代くらいの男性の姿。「山の集落が好きで写真撮らせてもらっています」「どうぞ、どうぞ」などと挨拶を交わし早速話をうかがう。

この百井集落も例外なく過疎化が進んでいる。大原小学校の百井分校は既に閉校(休校?)。「学校が閉鎖になってもうだいぶんになるなぁ。(これより奥の)尾見分校はそれよりもずーっと前、20年、いやもっと前や」とのこと。帰って調べてみたところ、大原小学校百井分校は平成3年3月に一時閉鎖、尾見分校は昭和47年12月に一時閉鎖となっているから、それぞれ17年、37年程前ということとなる。「昔は炭焼きで生活できたから人も多かったけど、今は子どもはおらへんし若い人もおらへん。おるんは、わしらぐらいの年寄りばかりや。」「定年後に帰ってくる人もおらんなぁ‥」ということばに、山間集落の厳しい現実を感じることができる。ちなみに尾見分校の‘尾見’という名称は、この分校の学区の『大見』と、さらに奥の『尾越』の両集落名から取ったものなのだろう。

真夏の最も暑い時間帯の立ち話だが、校門前の坂に腰を降ろすとけっこう涼しい。時折吹く風が心地良く頬を撫でる。「夏でも、昼間はなんぼ暑うても夜なんかなったら、そらぁ涼しいもんや。」そういえば百井分校のある所は標高650mで、京都市内の学校で最も高い位置にあるらしい。また、校門支柱の横にある大きなもみじの木。それが影を作ってくれていて涼を与えてくれている。「わしが子どもの頃は、このもみじの木はもっともっとちっちゃかった。これに登って、よう怒られたもんや。」と、大きくなったもみじが作るその涼の中で、昔を懐かしそうに語る。もみじの木とはもう半世紀以上のつき合い、いわば幼なじみといったところか。普通は校門の横には桜の木が定番だが「全部腐ってしもた。」とのことで、校庭のフェンス際には途中で切られた桜の木が何本か残っていた。これが花を咲かせていた頃は、さぞかし美しい‘小さな分校の春の風景’が見られたんだろうなぁ、など勝手にイメージを膨らませる。

今では高齢者だけとなり、人口も戸数も減少して大変静かな百井集落であるが、分校校舎を利用して相撲の合宿が毎年行われているという。学校なのかどこかのクラブなのかはわからないが、かなりの人数が来られるらしい。残念ながらシートがかぶせられていて見ることはできなかったが、分校の校庭隅には立派な土俵も作られている。いつもは静かな山村にも、この時ばかりはぶつかり稽古の音や元気な声が村中に響き渡ることだろう。過疎の村と相撲という結びつきが何とも意外で印象に残るのだが、それよりもそのことを語るお年寄りの表情が、この日一番に印象に残ったりしたのである。









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【2008/08/19 07:13】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#159 富山にて‥二つの木造校舎
~富山にて‥二つの木造校舎~

久しぶりに木造校舎を訪れた。訪れたのは富山県の二つの学校で、いずれも今なお現役という。まず訪れたのは映画「少年時代」に関わる学校。といっても映画のロケで使われたのではなく、撮影当時その学校の子どもたちがエキストラ出演したということだったようだ。ちなみに映画のロケで使われていた校舎は大家庄小学校と横山小学校の二校であるが、残念ながらいずれの校舎も既に取り壊され今はもう存在しない。

その学校は静かな住宅街の中にあった。ロケで使われたのではないとわかっていても、どうしても映画のイメージとダブらせて見てしまうのか、田園風景がイメージに近いだけあって何か意外で不思議な感じがした。猛烈に暑く、強烈な日差しの日中の撮影だったので、残念ながらコントラストが思い切り強くなってしまいイメージどおりに撮ることができなかったが、校舎自体は美しい木造校舎。映画で使われた学校とは違っていても、その姿は何か共通するものがある。そして映画の場面を思い出す。校舎から映画はイメージできるのだが、逆に映画から現役のこの姿がイメージできないのは、それだけ映画の中の校舎の姿が生きていたということか。

二つ目に訪れた木造校舎は先の校舎よりかなり山間部にある。そこに着いたのがちょうど夕暮れ時で日差しの美しい時間帯ということもあり、その校舎は夕日の光とそれの反射の中で何とも幻想的な姿を見せてくれた。このような瞬間を目にした時は、いつものんびりしている自分であるが、さすがにはやる気持ちで一杯になってしまい大いに焦ってしまうのである。それにしても美しい。このうす緑色の木造校舎が美しいのはもちろんだが、この時間のこの一瞬の美しさが一体となって今の姿を見せているのは間違いない。その美しさを十分に撮ることができたら大いに満足するのだろうが、そうでなくてもこういう風景に触れられただけでもけっこう満たされるものは大きい。

地方をドライブしていると、木造校舎らしき建物が思わず視界に飛び込んできて驚くことがある。しかしそのほとんどが廃校となってかなりの年数がたって荒れていたり、再利用として新たに生まれ変わっていたりなどで、すでにそこからは子どもたちの元気な声が聞こえてくることは無い。しかし今回訪れた二校は、いずれも現役。やはり現役の学校は休校舎や再利用校舎とは雰囲気が全く違う。今までも何度も書いているのだが‘エネルギーがある’のである。‘パワーを感じる’のである。

現役で使われている古い木造校舎は、全国的にも本当に数少ないだろう。安全面、管理面、維持費用‥等々で多くの問題を抱えていることは間違いない。それでも歴史ある美しい校舎を残しておきたいという理由で残っている校舎もあるだろう。またこの先地域の児童生徒数の減少が目に見えている為、とてもではないが建て替え費用など捻出できないなどという苦しい台所事情で残っている所もあることだろう。この二校がどういう状況にあるのかは知る由も無いのであるが、木造校舎の風景から子どもの姿が消え、やがて荒れ果てていくというのは理屈抜きで寂しいものを感じる。一つの時代が終わる、といったらオーバーなのかもしれないが、何か大事なものが消えてゆくという思いがしてならない。自分の中では、何かが象徴されている木造校舎‥なのである。









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【2008/08/13 04:34】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#139 廃校にて思うこと
~廃校にて思うこと~

今年の春、いつものように山村巡りをしている時に何気なしに見えた風景、それはとても印象深いものだった。運動場と大きな銀杏の木、そして赤い屋根で白い板張りが施された見事な木造校舎。全く予期していなかっただけに驚きは大きかった。しかしその雰囲気には何か寂しさが漂っている。よく見ると一部の窓ガラスが割れて、そのまま。また壁面の塗装もひび割れて、はがれたりしている所もある。校庭隅にある碑を見ると、平成13年に閉校と書かれている。創立100年もの歴史ある学校だが、もう学校としての役目は6年前に終えていたのである。グランドはそのまま残り、校舎横にはプールも健在。どこからだろうか太鼓の音も聴こえてくるのは、学校の一部を太鼓の練習場所としているから。山村とはいえ周囲はひらけた感じで暗い雰囲気は全くない。しかしここにも過疎の波が押し寄せていることが、この寂しげな木造校舎の姿を見てわかったりもした。

廃校となった木造校舎を見た時に思うことがある。それは「この校舎をいつまで見ることができるのだろう‥」ということ。古びた校舎であっても、第二の人生を歩み、現在も活用中のものであればそこには‘温もり’を感じることができる。それはすなわち「この先もしばらく見ることができる」ということを意味している。しかし中には、もう使われることもなく時間の流れるままに荒れつつあるものもある。その校舎からは‘温もり’を感じることはできない。限りなく冷たく、そして寂しいだけなのである。いったんそのような様相を表に出すと廃墟となるのは早く、‘危険な建築物’ということになってしまう。そして程なくして取り壊されることになるのである。

春にここを訪れた時、他用途で使用されているにもかかわらず何か不安に感じるものがあった。それは校舎の規模が大きすぎること、それと壁面や窓ガラスの傷みよう‥。分校のような小さな規模の建物であれば、地域の公民館や集会所のようなものにも再利用されやすく、維持・管理費もまだましだ。しかし大きな建物になるとそうはいかない。宿泊施設や図書館、資料展示館などに転用されているものを見かけることはあるが、大きいだけに管理費や補修費だけでもかなりの費用となってしまう。それに何より安全面での問題が大きく、それを解消しようものならのさらに多額の費用が必要となってくる。そういうことからこの大きな校舎には何か不安な思いを持たざるを得なかったのだ。

それ以来ずっと気になっていたのだが、先日再び赤い屋根の白い木造校舎を訪れてみた。幸いまだまだ元気で、健在であった。校舎以外のグランドやプールなども前のまま。特に補修工事などがされた様子もないところを見ると、現状維持といったところなのかもしれない。大きな銀杏の木も健在で、時の流れとともに寂れて傷んだ校舎、校庭に短く伸びた雑草、それら以外は、きっと昔のままなのだろう。かつては賑やかな子ども達の声が響き、限りないエネルギーが集まり、そして弾ける場となっていたこの木造校舎も今はすっかり静まりかえり、わずかばかりの‘温もり’を感じるだけとなってしまっている。この日は太鼓の音も聞こえず近所の子どもの遊ぶ姿も見られない。冬の廃校舎は美しくもあり、そして切なくもあった。

ひと通り写真撮影をした後に「この先どれくらいこの姿を見ることができるのだろう」など考えながら、グランドのバックネット側にまわって最後の写真を撮ろうとする。その時、先ほどまで晴れ間も見えていた空が急に暗くなり、雨が降ってきた。撮影を切り上げざるを得ない程の雨ではなかったが、なぜか撮影の意欲も急に薄れてしまい、結局撮影を終了することにした。いつもなら多少濡れようが何しようが、そのまま撮影を続けるのであるが、この日はなぜかここで途切れてしまった。そして次回訪れる時にもこの美しい姿を見せてくれることだけを願い、その地を離れることにした。













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【2007/12/28 23:38】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#128 何かが違う風景
~何かが違う風景~


私は特にあてもなく、よくドライブに出かける。渋滞や人ごみなどを極度に嫌う性格のせいか、行く所のほとんどが車や人の少ない静かな山間部。見知らぬ土地をのんびりと車で走り、次々と目に入ってくる様々な風景の新鮮さを味わう。爽やかに脳が刺激されていることを感じるひと時である。緑の山々を背景に、流れる清流や古びた建物、厳かな雰囲気の神社や寺、色褪せた看板がいまだに残るかつての万屋、もう子どもたちの声が響くことの無い寂しげな廃校舎‥などなど全てが、脳内の様々な感性に訴えかけ刺激を与えてくれるのだ。

山間部の集落を何年ぶりかで訪れたりする時、その風景の以前との微妙な変化に「あれ?‥」と思うことがある。走行中に見えた学校の校舎が何か以前と違って人気の無い寂しげな雰囲気に変わっている‥威厳を保ち堂々としていたはずの老家屋がゆがみ崩れてしまっている‥人が住んでいたはずの家屋が人の気配無く雨戸が閉められたままになっている‥などなど、どれもが普通に通り過ぎるだけならそんなに気にしないような微妙な変化だ。そしてそれらに出合った時、何とも切なく寂しい気持ちが私の中で増幅され、あること無いことが次々とイメージとして現れてくる。私にとってそのどれもが寂しく切ない風景であるのだが、とりわけ‘子どもたちがいなくなった学校’を目撃した時、寂しさ切なさがより増幅されてしまうようである。

以前、永源寺の奥を訪れた時に見た政所中学校、余呉町の丹生小学校の木造校舎の撮影帰りに訪れた片岡小学校と余呉小学校、そのどれもが以前見た時と何かが違っていた。変な表現だが「教室の窓が生きていない」、そんな感じがしたのである。もちろん休日だから子どもの姿が無いのは当たり前。しかし風景そのものから‘子どものエネルギー’が消えてしまっている、そんな感じがした。どちらも何の情報も持たない中での訪問だったので、訪れて初めて廃校舎になっていることを知ったのだった。いずれも児童生徒数の現象による周辺学校との統廃合の結果という。ただし余呉小学校は、旧余呉小、片岡小、丹生小とが統合して、校舎も新たに‘余呉小学校’として生まれかわっているのでその名は今後も残ることになる。本来ならば賑やかな学校の風景であるのに、学校という機能を無くしてしまったとたんに何とも寂しく物悲しげな風景に変わってしまうところに、改めて‘子どものエネルギー’を感じたりするのである。

村から学校が消える、ということはどういうことなのか。極端な言い方になるが、それは新たな若い居住者が入ってくることが拒絶された地となること、そのように私は乱暴な解釈をしてしまう。不便でもあえてそういった自然一杯の地に生活の場を求めるという事例もあるようだが、一般的に考えれば教育環境や生活環境は便利さが優先されるはず。それらの問題で故郷を離れるということはよくある話だが、逆にわざわざ不便な地に生活の場を新たに移すという例は、ごく僅かだろう。閉鎖された学校が、取り敢えずは休校という形をとったとしても、やがて廃校への道をたどるというのは自然の流れ。学校が無くなり、さらに10年、20年と過ぎるとその村がどうなってしまうのか、それが今の日本の山間部の多くで見られる普通の風景‥というのに何とも寂しさを感じてしまう。

昨年の今頃、たまたま訪れた長野県の阿南町の和合小学校で運動会が開かれていた。小学校・保育園・幼稚園・地域住民などによる合同運動会だった。少しのぞかせてもらった。こじんまりとして老若男女関係なく参加する、とても温かい雰囲気の運動会。「この学校は全校生徒6人。県で一番生徒数の少ない学校です!」と元気に話す地元の方のことばが、とても印象的だった。「今年の生徒数は何人なんだろう?」「やはり統廃合などの問題が出てきているのだろうか」など気になってしまう。そして今年の運動会も見たい!‥など思ってしまうのである。










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【2007/10/05 05:55】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
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