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#243 「椿坂」にて見た風景
~ 木の又地蔵(長浜市余呉町椿坂) ~






 前回のこのコーナーでお伝えした、「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)の村はずれにある古木と地蔵さん、やはり気になってその後二度現地を訪れた。一度目に訪れたのは、5月の連休の真ん中。その日は大変天気が良くて暖かく、この村はずれの古木も新緑の葉を穏やかな風に揺らしながら、春を大いに感じさせてくれていた。ほとんど葉をつけていなかった前回に比べるとずいぶんにぎやかで、一目で春とわかる、そんな風景だ。ただ、葉の緑の量が多くなっているせいか、前回の訪問時で目立っていた幹を覆う苔の緑は、さほど目立たなくなっている。





 春にしては少々暖かなこの日、木陰では赤い布をつけた地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。前回は赤白黄色の花が供えられていたが、今回は白い水仙。山里の春に多く見られるお馴染みのこの花は、きっとお世話されている方の庭で花開いたものなのだろう。新緑の葉、赤い布、強い光りの影、そして水仙の白い花、これらがほどよいコントラストで互いにひきたて合い、心地よく目立っているのが美しい。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。





 この日もどなたかにこの地蔵さんのことをうかがおうとしばらくウロウロしてみた。しかし、結局どなたとも出会うことは無く、ただ1台のバスとすれ違っただけだった。そういえばこの辺りの集落を訪れた際には、このバスとよく出合う。本数がそんなに多くない割に出くわすのは、こちらの滞在時間が知らぬ間に長くなっているからなのだろう。









 それにしても人の姿を見かけない。きちんと発表されているデータを見ると、現在の椿坂は27世帯48名(H.27.5.1)などとなっているのだが、とてもじゃないがそのようには見えない。人の姿がなくても、どこかで人の声や生活の音などが聴こえると賑やかに感じるものだが、ここではそれがほとんどなく静か。これはやはり集落に子どもの存在が無いというのが大きく影響しているのだろう。子どもが居れば賑やかに遊んだり、笑ったり、泣いたりする声が聞こえ、それに伴って周りの大人たちの声も聞こえてくる。この静かな感じは、小さな子どもが居なくなった山深い里の多くで感じる独特なもの、そのような感じがする。ここにはもう小さな子どもたちがいなくなってしまった村、そのことを改めて認識するのである。





 古木と地蔵さんのある所からさらに村はずれ、南の方へ下がると、空き地一面が黄色く染まっているのが見える。タンポポが群生しているのだった。早速空き地へ降り、撮影する。見事な群生だ。前回の訪問では全くその気配を見せてなかったのだが、こういう風景の変わりっぷりが大いに季節を感じさせてくれるのは、やはり山里ならではなのだろう。そういえばこの春は、あまり花の撮影していなかったなぁ・・など思いながら、しばらく春を味わう。
 撮影が終わる頃には陽は一段と高くなり、それにともない温度はさらに上がっている。本当に春?と思えるような陽気になってきて、日差しもかなりきつい。こういった山村の人たちは朝が早い。これからの時間帯にはしばらく人は出てこないだろうなと判断し、この日は地蔵さんの話をきくことをあっさり諦めることにした。それでもせっかくの好天、先だって開通した「栃ノ木峠」を越えて福井県の「二ツ屋」まで足を伸ばし、かつての街道の雰囲気を味わいながら残りの半日をすごすことにした。













 椿坂の古木と地蔵さん、やはり気になる・・ということで、3度目の「椿坂」訪問を実行したのは連休後のことだった。

 古木の葉はさらに多くなっており、その量を増した葉の緑と苔の緑が一体化した感じで、地蔵さんの赤い布がより浮かび上がって見える。緑の量の多さは、このまま一気に夏に突き進みそうな感じさえする。
 何か寂しいな、と思いよく見ると、この日は地蔵さんの前にいつもあるお花が供えられていない。どうしたんだろう?水仙も枯れてしまって、庭の花も無くなってしまったのかな、など思いながら、村はずれから集落方面へと歩いて行く。すると、少し先の道沿いの家屋の玄関前に女性の姿が見える。60~70代くらいのお年だろうか、早速地蔵さんのことを聞いてみた。するとやはり、前々回にうかがった時のように、謂れや名前などは特に無いという。でも「長い間お世話されている方が今でもお元気やから聞いてみたら?何かご存知なんと違うかな。」ということで、その方のお宅を教えていただいた。普段はわざわざお宅を訪問してまで話を聞くということは滅多に無いのだが、この日はもう3度目、なんとかして知りたいという思いが強かったので、失礼ながらお邪魔してみることにした。





 呼び鈴を鳴らすと、すぐにオバチャンが出てこられた。突然の見知らぬ男の訪問に少し驚かれた様子だ。悪徳セールスマンなどには見えないと思うが、不審者には見える。それでも、いつものように「山の集落が好きで・・」と挨拶をし「今日はあの木の地蔵さんのことを教えていただきたくて。お世話をされてるとうかがって・・」と切り出すと、安心された様子でいろいろお話しいただけた。うかがうと、もう90才になられたというが、受け答えはとてもハキハキとお元気そう。でも「足が痛うてなぁ・・、花の水もようやれへんのよ。」ということで、そのため地蔵さんのお供えの花も新しくしてあげられないそうだ。玄関先には、これから花を咲かせるであろう菊が、丁寧に育てられている。きっと花が好きな方なのだろう、向こうに見える庭にも花が植えられているのが見える。これらが花を咲かせると地蔵さんのお供えの花となり、あの一画がきれいに彩られるのだろう。でも、この前の水仙の花は何とか頑張ってお供えできたのだが、今はできず、そのことを気にされている様子だ。





 「地蔵さんのお世話は、もう10代の頃からやってるよ。」というから、なんと80年近くもされていることになる。なんでもかつては、この並びの6軒のお宅が地蔵さんの世話係になっていて、交代でやられていたという。しかし過疎化がどんどん進むとともに、その6軒のお宅も次々とこの地を離れることとなり、とうとうここ1軒になってしまった。季節のよい時はいいが、雨や雪などが続く時などは、ご高齢の身にはかなりこたえることだろう。「そやけどね、ここの地蔵さんは目にご利益があるそうで、おかげさんで私の目も悪くならへんのよ。」と、以前悪くされた目の症状が今は進行すること無く、具合も良いという。地蔵さんからすると、80年近くもお世話し続けてくれたことのせめてものお礼なのかもしれない。





 「お世話し始めた頃は、あの木もこんなに細くてね。」と、両掌だけで表現できてしまうような、そんな太さしかない木だったという。立派に成長し、苔むした今の古木の姿からは到底想像できるものではないが、それだけに80年もの時の長さをそのことばの中に感じる。ただ、それほど長きに渡ってお世話をされてきたその方でも「木の又地蔵?そういうの聞いたこと無いなぁ・・。」と、他の方と同様、その謂れや名前もご存知ない様子だった。それでも「毎年、1月24日がご命日でね、昔はたくさんの子どもが集まったんよ。地蔵さんの所に行って、それからみんなが私の家に来てね、おもてなししてね。」などという行事があったそうで、それは今なお継続されているという。そして「もう子どもはいなくなってしまったんやけどね。」ということばが、その後に寂しげに続く。
 ご命日の行事そのものは今も村で行われている。しかし、時の流れとともに形は変わらざるを得なくなり、今では大人達だけで行われているのである。それでも大方が高齢者となってしまった今でも絶やすこと無く続けられているのは、この地蔵さんのことを大切に思う心があるからこそ、なのだろう。





 以前、ここの地蔵さんを持ち帰り、場所を移し替えてしまった人がいたのだが、その人はその後お腹の具合を悪くされてしまったそうだ。そして、これは地蔵さまを勝手に移してしまったからだということで、慌てて返しに来られたという。これは現地でうかがったお話だ。一方『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の口承文芸の椿坂の項には、ある旅人が地蔵さまを盗んで売って、それを買った人がひどい腹痛に悩まされ、それが地蔵さんの祟りだというので椿坂に返したところ、腹痛が嘘のように治ったという伝え話が書かれていた。おそらく元は同じ話だが、口承ゆえ形が少しずつ変わっているものだと思われる。おもしろいのが、いずれもがけっこう最近のこととして伝えられていることだ。いつの時代から伝えられているのかはわからないが、この地蔵さんにはこうした伝承も残っていたのである。





 現在、古木の枝は道を覆うくらいに広がっており、この道にバスなどが通行することを思うと、枝払いなどが行われても不思議ではない状況になっている。しかしながら、なかなか切り手が現れないそうだ。子どもの頃から親しみ、この木や地蔵さんのことをよく知る人たちにとっては、やはりここは神聖な場所であり、特別な存在であるのだろう。村で地蔵さまをずっと大切にしてこられ、さらに安全上やむを得ないという理由であれば、少しの枝をはらうくらいであれば、おそらく地蔵さんもお怒りになることは無いとは思うのだが、自分がもし同じような立場だったとしても、やはり切ることには大いに躊躇してしまうだろう。





 古木の横にたくさん並んでいる石仏の中には、集落横に大きな道路を通す際に掘り出されて持ってこられたものも含まれているという。ここ椿坂は歴史が大変深く、戦国の世には戦の舞台ともなり、長きにわたり多くの旅人が行き来した街道の宿場町でもある、さらに冬場の豪雪は人々を苦しめ命を落とすことも珍しいことではなかったことなどを考えると、これら石仏の中には悲しい歴史を背負っているものがあっても不思議ではないだろう。というか、石仏が置かれたいきさつを思うと、そこには様々な悲しみのドラマがあったことは間違いない。そういう思いでこの古木と地蔵さんの風景を見ると、この風景から感じる思いもまた変わったものとなってくる。





 結局、現地でもその謂れなどの詳細について知ることはできなかった。おそらく現地で他の方にお話をうかがったとしても、これ以上の詳しいことはわからないものと思われる。ただそれでも、村の人たちからは大切にされ続けている地蔵さんだということは伝わってくる。「花はね、畑に咲く花をね。前掛け?それはちょちょっとすぐにできるよ。」ということだが、やはりお一人で長年にわたってお世話を続けるのは、本当に大変なことだろう。そして過疎・高齢化がますます進んでいくであろうことを思うと、これから10年後、20年後のことが、やはり気になってくるのである。





 帰宅後、もう一度あらゆる資料をさがしてみた。すると昭和44年度に調査報告された『余呉村の民族(東洋大学民族研究会)』ならびに、地元の鏡岡中学校郷土クラブの昭和52年度の報告『余呉仏教史第二編』に、これら椿坂の地蔵さんについての記述があった。いずれもPCに保存しておいたもので、当初は見逃してしまっていたものだ。そこからの記述を原文のままご紹介しておく。






 あごなし地蔵と木のまた地蔵
 椿坂にある。一月二四日がお地蔵様の御命日にあたる。朝九時から、六軒町の人々が地蔵様に御仏さんといって、ご飯や珍しいおかず(わらびやぜんまいの白あえなど)を供えた。花などは、町から買ってくる。この時のお金は、昨年の御賽銭などを持って詣る。詣り終わると、六軒町の家を全部「御命日様で、おめでとうございます。」と言って訪れる。すると、六軒町の人はお茶やお菓子などを振舞う。また、この日地蔵の前で火を焚く。これは詣ってくれた人の手を温めるもので、注連縄、書き初めなども一緒に燃やした。焼いた灰が高く上がれば上がる程、手がよくなるという。この時豆のからも燃やす。まめになるようにとの願いからだそうである。これはドンド焼きの名残りで、五〇年前まで行っていた。


 以上『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』より






 椿坂の入り口のヨノミの木の下に俗に木の又地蔵と呼ばれている地蔵がある。余呉町の地蔵の中で子供達によって地蔵祭が行われているのはここだけである。地蔵祭は普通どこでも真夏の七月か八月の二十四日であるのに。椿坂では最も雪の多い一月二十四日に行われる。小学校六年生までの子供は此の日朝早くから宿に集まる。宿は地蔵に最も近い六軒の家が交互に行なう。宿から地蔵までの雪道を広く踏かため道をつくる。地蔵さんを雪の中から掘り出しお参りできるようにする。準備ができると村の各戸から豆からを一束宛集めたものを雪の上で燃やす。そして子供達は宿から地蔵までを供え物を持って何回かはだし参りをする(素足で雪の上を走りながら参る)。通行人や村人達はお菓子やお金を供える。通行人は豆がらのたき火に暖を取り行き過ぎる。一通りお参りが終わると子供達は宿で母親達が煮てくれた熱い豆腐汁や漬物で皆んなで楽しく会食をする。其の後お供えの菓子やお金を分けてもらって帰る、気候の最も厳しい一月が地蔵祭に選ばれている事は、どうかすると家の中に閉じこもり勝な冬の子供達に、雪の中を素足で走らせるなど子供達を強く鍛錬する親心からできたものかも知れない。


 以上『余呉仏教史第二編(鏡岡中学校郷土クラブ/昭和52年度)』より





 というように、現地のオバチャンが語ってくれた内容がほぼ一致しているので、この場所が‘木の又地蔵’と呼ばれていた所であることは疑う余地はない。ただ、いずれも行事の内容については詳しく書かれているが、その謂れなどについては書かれていない。おそらくこの45年前の調査の時点で、すでにそれらの伝承については途絶えてしまっていたのだろう。また、あごなし地蔵という名についても、その詳細はわからない。地蔵祭が冬に行われていることや、木の根に石仏が置かれていること、いつの時代からあったものかなどわからないことばかりではあるが、残念ながら時の流れの中に完全に埋もれてしまったといえそうだ。





 この『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の最後、編集後記にこのような一文がある。

「二度の追跡調査によって、ここに未熟ながらも報告書をまとめることができました。これによって、失われていく山村民俗が少しでも記録にとどめられるならば、私達にとってこれにまさる喜びはありません。」

 自分の場合、こうして貴重な記録を残してくれたことは何よりの喜びであり、それに対してただ感謝するばかりだ。そして、消えつつ、失われつつあるこういったものを、記録に残していくことの重要さを強く感じるのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2015/06/04 16:31】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#242 「椿坂」にて見た風景
~ 「椿坂」にて見た風景 ~






 ふと訪ねた山の集落などで、とても印象的な風景に出合うことがある。それが初めて訪れた所の初めて見る風景の時もあれば、これまでに何度か来ていても、なぜか気づかず素通りしてしまっていたという場合もある。そしてお気に入りの場所になると、次からはそこで立ち止まり、しばしその雰囲気を味わう。そのうち、その場所のことをもっと知りたくなってきて、現地の人に尋ねてみたり、様々な資料をかき集めたりなどするようになる。そこから思わぬ展開を見せることもあるし、新たな興味へとつながっていくことも少なくない。自分の場合、このようなふとした出合いこそが、山を訪れる大きな動機となっており、それゆえあてもなく山をウロウロすることが多くなる。確実な目的を持って訪れることもいいが、不確実な目的で訪れるのもなかなかいいものなのだ。









 穏やかな春のある日、滋賀県の最北部に向かった。旧余呉町の福井県境近くの集落を訪れるためだ。木之本ICで降りて北国街道(R365)を北に向かう。この春は、とても暖かい日が続いているが、県境の栃ノ木峠以北はまだ除雪作業が終わっておらず、そこから先は通行止め。この辺りが近畿でも有数の豪雪地帯であることを思えば、峠周辺道路の整備に時間がかかるのも無理はなく、例年ここの開通は4月下旬まで待たなければならない。そして開通までの間はピストン道になるので、交通量はより少なくなり、静かに周辺散策ができる時期となる。





 余呉湖を過ぎ、旧余呉町役場(現在は支所)を越えると左右の山々がより迫ってきて、人家はまばらになる。さらに北へ行けば「柳ケ瀬」、「椿坂」、椿坂峠、「中河内」、そして栃ノ木峠だ。この栃ノ木峠と椿坂峠は、古の時代から大変な難所として多くの人々を悩ませてきた。しかし昨年の11月に椿坂トンネルが完成し、今までのクネクネと曲がる椿坂峠越えの苦労からは解放された。椿坂~中河内間が、峠を越えずに行けるようになったのだ。エンジン音を大きく響かせてゆっくりと登ることを強いられていた大型トラックなどは、ずいぶんと楽になったことだろう。そして何より、豪雪でしばし孤立することもあった最奥集落「中河内」の人たちにとっては、凍てつく山道を越える危険から解放してくれた待望のトンネルであったに違いない。







椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影


 トンネル開通に伴い、これまでの峠越えの道は残念ながら閉鎖されてしまっているが、これについては様々な理由があるようで、それを聞くと大いに納得できてしまう。しかしながら、椿坂峠にある地蔵さんの風景が見れなくなってしまったのは、やはり残念でならない。多くの通行人を見守り続けた峠の‘かりかけ地蔵’は、少し前でさえもうお世話をする人は無いような感じだったが、これからはますます人から遠ざかり、やがては人々の記憶からも消えていく運命にあるのかもしれない。それにしてもこの地蔵さん、一体いつの時代からこの峠で見守り続けてくれていたのだろう。その「かりかけ」という名前の由来や謂れなど、詳しいことを知りたくていろいろな資料を調べたり、現地の人にうかがったりもしたが、結局わからずに終わってしまっており大いに悔いが残る。



椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影




椿坂峠の地蔵さん/2014年撮影


 この日は「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)集落を、まず訪れてみることにした。といっても「中河内」「半明」へ行く前に少し立ち寄ってみようという感じの、軽い気持ちでの訪問だ。余呉湖より10km程北にある静かな集落「椿坂」、今その集落中央を貫くのはかつてのR365で、現在のR365はもっと道幅が広げられてその少し東側にあり、集落を見おろしながら通っている。したがって「椿坂」に行くには、旧国道を入る形となる。





 車窓から「椿坂」を見おろしながらいったん通り過ぎた後、逆戻りする形で北側から旧道を入り集落へ向かう。空き地に車を停め散策するが、しばらくは人と出会うことも無い。といって廃村のような、何も寄せ付けないような雰囲気があるわけではなく、あちこちで生活の温かみを存分に感じることができる山里の雰囲気だ。ようやく人と出会えたのは良福寺というお寺だった。80代くらいの男性が一人、雪除けのシートをはずす作業をしておられる。作業中で申し訳なく思いながらも挨拶をして、少しお話をうかがってみた。









 まず、前から気になっていた片岡小学校椿坂分校の場所をうかがう。残念ながらその痕跡は何も残っていないが、分校はこの寺のすぐ下にあったという。「2階建ての木造校舎で、30人程の生徒が居たかなぁ・・。5年生になると片岡小学校へ通うんや。あの辺が校舎で・・」と、丁寧に教えてくれる。また、集落の北の端から通じる山越えの古道(椿井越の道)で刀根に行き、そこから敦賀に行ったことや、その昔は刀根~杉箸~池河内~獺河内~五幡の「塩買いの道」などがあったこと、買い物は「柳ケ瀬」もしくは雁ヶ谷(かりがたに)まで出て、そこから汽車に乗って木之本へ行ったことなどもうかがえた。それでも「(隣村の)中河内には行ったことないなぁ・・」というのが何か不思議に感じたが、やはり決まった目的などが無い限り「峠を越えて更に奥」の地に行くことはなかったのかもしれない。
 江戸の頃には、加賀の前田公をはじめとした北陸の将軍様の参勤交代がここを通っていたという。江戸に行くのにずいぶん遠回りのように感じるが、それは新潟県の超難所の「親不知」を避けるためだったという。もちろんこの方が当時の様子をご覧になったはずもないのだが、その頃のこのあたりの様子、北国街道の宿場町「椿坂」の繁栄ぶりはきっと代々に渡り語り継がれてきたことなのだろう。そして、そのことを語る時の表情は笑顔がいっぱいだ。





 訪れたこの日、ピークは過ぎていたようだが、お寺には桜が咲いていた。この桜は毎年きれいに花咲かせてくれるそうで、最後にお寺の中に飾ってある桜の写真を見せてもらった。「A4サイズに引き延ばしてもらってな・・」というように写真はこの方が撮られたもので、壁には額に入れられた大変きれいな桜の写真が飾られていた。この方は、おそらく昭和一桁のお生まれだろう。したがって村の賑やかだった頃から、村からどんどん人が離れ、やがて高齢者が中心の過疎集落へと変わっていく村の変容をリアルタイムで見、そして体験してこられている。80年以上にも渡り見続けてきた故郷、この方の目を通して、一体どれだけの変わりゆく故郷の風景が心の中に収められているのだろうか。見せていただいたのは桜の写真だけだったが、写真にならない無数の「椿坂」の風景がきっと詰まっているに違いない。そして今もここで暮らし、故郷の映像はまだまだ継続していく。









 距離にしたら6~700mくらいの、長細く延びた集落を歩いたが、結局その後は誰とも出会うこと無く、そのまま集落の南端へ。すると、道に覆いかぶさるようにして枝を広げる古木が見えてきた。この時期、枝にはまだ小さな葉しかついておらず、そのぶん太い幹全体を覆った緑の苔や先端に広がる細い枝がやたら目立っている。そして苔の緑と対峙するかのように、横には赤い布が並んで見える。さらに前には、供えられた赤や白、黄色の花。
 地蔵さんなのか石仏なのかなど、詳しいことはわからないが、この古木と地蔵さんの作り出す村はずれの風景は実に素晴らしく、何か尊いもののようにも感じられた。1本道が続いていくこの風景の歴史を知る由はないものの、ただ静かに村から出る人たちを見送り、村に入ってくる人たちを迎え続けてきた、そういう時代を超えた温かさが伝わってくる。





 更に近づいてよく見てみると、古木の根元あたりにも赤い布が見える。根の間の窪みにも3カ所、石仏が置かれているのだった。それが何を意味しているのかはわからないが、その姿が何か妙に可愛らしく親しみを感じる。これまでにもたくさんの石仏や地蔵さん、道祖神などを目にすることがあったが、こういうのは初めてだ。根の間の石仏をよく見ると一つは五輪塔のような形をしているし、その他は自然石のようにも見える。そして木の横にもたくさんの地蔵さんが並ぶ。
 何か違った雰囲気を醸し出しているこの一画、石仏やら地蔵さんやら道祖神やら、見てもほとんど区別のつかない自分ではあっても、そんなことなど関係なく何か伝わってくるものがある。自然を崇め、そこに神なり仏なりを見出だし、長きにわたって自然を大切にしてきた日本人の心、時代や場所を越えて自分にも流れているであろう日本人の心、そういったものを感じたりする。そしてそういう時、「日本人に生まれてよかった・・」など思うのである。





 これまでにも何度かここには訪れているはずなのだが、なぜか気づかなかったこの風景。知らぬ間に車で通り過ぎてしまっていたのかもしれないし、それを見る心の余裕が無かったのかもしれない。いずれにしても、この出合いは自分にとってとても印象深いものとなった。
 など思いながら撮影をしていたが、ふと見ると、すぐ向こうの畑で仕事を終え休憩している2人の女性の姿がある。先程の男性よりはもう少し下の世代の方だが、ここで畑をされているので、地蔵さんに関して何かご存知かもしれないと思い、早速うかがってみた。これだけの地蔵さんなので、きっと地元の誰もが知るような謂れなどあるはずだ。






 ところがうかがってみると、特に謂れや由来はご存知ないという。さらに‘◯◯地蔵’というような呼び名も、「特にないよ」ということだった。「でも子どもの頃、年に1回の行事があって集まってたよ」ということで、やはり村では大切にされてきたようだ。それでもその歴史的な部分は、すでに言い伝えが途切れてしまっている。歴史深い「椿坂」なので、きっと何か謂れがあるはずだと思ったが、この日は結局それ以上のことはわからなかった。





 帰宅後、町史などいろいろな資料を引っ張りだしてみたのだが、さっぱり書かれていない。ネットで検索してももちろん出てるはずも無く、写真が数枚見つかるだけ。もう一度ていねいに資料を調べ直したところ、「椿坂の木のまた地蔵」ということばが確認できたが、その詳細はわからない。木の根っこの間に置かれた地蔵、ということで「おそらくこれだろう・・」と思うものの、それだけでは不十分。やはりもう一度、現地で確認してみることを決める。





 今、姿や形があるものでも、その詳細がわからないというものは少なくない。どこかに記録が残っていればいいのだが、それがなければ伝える者がいなくなった時点で人知れぬものとなってしまう。そしてその姿も消えてしまった時、存在さえなかったかのように永遠に失われてしまう。今回の地蔵さんがどうなのかはわからないが、古いものの中には後世に伝えていきたいものもあるし、伝えていかなければならないものもあるだろう。ただ、伝えていくべきものであっても、今の時代の流れの中では、なかなか残せない状況があるとしたら、それはやはり悲しむべきことだと感じる。


 などということを別にしても、今回出合ったとても印象的な「椿坂」の風景のこと、やはりもっと知りたくなってくるのである。







http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

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【2015/05/23 09:33】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#240 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿)
~ 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿) ~






 昨年見た美しい‘しだれ桜’、今年もそれが見たくて、芹谷のかつての高原集落「桃原(もばら/滋賀県犬上郡多賀町)」を訪れた。鈴鹿山脈の中腹に位置する「桃原」は、過疎化が大変進み廃屋や倒壊した家屋などがあちこちに見られるものの、今も村は健在。住んでいる人たちはもちろん、今はここを離れてしまったかつての住人たちもけっこう頻繁に帰ってきておられ、手入れされた庭や新しく作られた畑など、村を大切にされる人々の気持ちが大いに伝わってくる。そのため、訪れた時に地元の方と出会うことも珍しいことではない。









 『かつての高原集落』ということばを使ったのだが、実際に「桃原」が高原集落という感じだったのかどうかはわからない。芹川が流れる谷底と桃原集落との標高差は140m。そこを埋める斜面一面に広がる畑とその間を縫うように走る小道、中腹に見える数10軒の民家や庭の木々、それらが作る開けた風景はきっと『高原集落』というイメージにピッタリだったはず、という思い込みから勝手に使っていることばにすぎない。
 斜面に広がっていた畑が全て杉林に変わってしまった今でも、谷向かいの斜面の林道からは、季節によっては少しだけ「桃原」が見える。ただ、山肌全体が杉林の濃い緑に覆われてしまっているので高原のイメージは全く感じない。せめてその頃の、桃原地区全景を写した写真があるといいのになど思うのだが、それも叶わず、当時の風景を思い浮かべるしかないのが現状だ。それでも集落を歩くと、所々に高原の雰囲気は残っており、木々が濃い緑になる前の春先や葉の落ちる秋には、かつての雰囲気を感じることもできる。









 静かで季節感がたっぷりのこの村が好きで、いつからか年に何度かは必ず訪れるようになった。まずは福寿草に始まり、続いて梅、桜などの花が春を彩る。梅雨の頃になると道沿いにたくさんの紫陽花が咲き、秋には周囲に見える杉林に負けまいと赤や黄色の木々の紅葉が色鮮やかに輝く。冬場の積雪時に見られる銀世界の桃原の風景も、また見事である。
 ただ、木々の花が美しく咲いていた道沿いの家屋が取り壊されて更地になったり、道に咲く紫陽花の花の多くが鹿に食べられてしまったりなどで、村の風景は確実に変わっている。それでも静かに春を感じさせてくれるのは、やはりそこを大切にしている人たちの存在があり、集落に動きがあるからに他ならない。時の流れとともに変わってゆく「桃原」ではあっても、季節季節に見せてくれる風景は今も大変美しい。

















 今回見にきた‘しだれ桜’だが、以前から「しだれ桜がきれいよ。」と地元のオバチャンに教えてもらってはいたものの、なかなかタイミングが合わず、咲き誇るその姿を初めて見たのは昨年のこと。その時はまた最高のタイミングで、見事な‘しだれ桜’を見ることができた。そして「来年も必ず見たい!」という思いを実現させたくて今年の訪問となったのだが、その時期に続いた雨で少々不安を持っての桃原行きとなった。



昨年(2014年)のしだれ桜


 集落に着き、しだれ桜のある方へと向かう。この日は何だか賑やかに人の声が聴こえる。見ると畑を新たに作っておられるご夫婦と地元のオバチャンが大きな声でお話をされている。畑の横には、これも色鮮やかな赤い桜。挨拶がてらに「こんにちは、この赤い桜、撮らせてもらっていいですか?」と声をかける。すると、ご夫婦の「ええ、どうぞどうぞ、いいですよ。でもこれは桜じゃなくてハナモモよ。」というお返事。「あ、そうだったんですか。ずっと桜だと思ってました。」ということで、桜ならぬハナモモを撮影する。









 それにしても本当に鮮やかな赤い色だ。「確か去年もこのハナモモを撮ったなぁ」「もう少し朝早く来ていたら、もっと優しい光りだったのに」など思いながらシャッターを押す。そしてハナモモの撮影を終え、この日の目的のしだれ桜の方に目をやると、なんだか花が少ない。「雨で散ってしまった?それとも時期が遅かったのかな・・」など思って、そのことをうかがいにいく。





 ご夫婦と元気にお話をされているオバチャンをよく見ると、これまでにも何度かお話をうかがったことのあるオバチャン。髪の毛がまっ白に変わっておられたので以前とは少し違った印象だった。そのオバチャンに
 「あの、すいませんが◯◯さんですか?以前お話を何度かうかがったことがあるんですよ」と声をかける。
 少しお耳も遠いので、横のご夫婦の奥さんが伝えてくれる。
 「あー、そやけど、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 「◯◯といいます。霊仙分校のことでいろいろ教えてもらった者です。」
 「・・あかんわ、思い出せへんわー、かんにんな」と、茶目っ気いっぱいに笑う。
 「今日はしだれ桜を見せてもらいにきたんですけど・・」
 「ああ、そうか・・そやけど今年は花が少ないんよ。去年はほんまにきれいに咲いて多かったんやけど、なんでやろなぁ・・」
 そう話すオバチャンは、花の少なさが心配そう。





 実はこの日の訪問は、このオバチャンにお会いできたら・・と思っての訪問でもあった。地元でお生まれになり、地元で育ち、ずっと地元の学校(芹谷分校、霊仙分校)で教鞭をとられ、仕事を終えられたあともここで暮らし続ける、まさに芹谷一筋、桃原一筋で生きてこられた方、その方に見ていただきたい古い写真があったのだ。
 「実は今日見ていただきたい写真があるんやけど、持ってきていいですか?」と切り出すと、「え?そうなん?そしたら家の方で見せてもらおかな。ここでずっとおしゃべりばっかりして(ご夫婦の畑仕事の)邪魔ばっかりしてたんやわー。」と元気に笑う。ご夫婦は「いろいろ教えてもらって、邪魔なんてとんでもないですよー」と恐縮。ということで車に写真をとりに戻り、オバチャンのお宅へ。





 まずは写真を見ていただく。持ってきた写真は、古い芹谷小学校時代の校舎と、その前で写る先生や子どもたちの写真。「これはわからんなぁ・・、◯◯先生やろか・・、いや、違うなぁ・・」ということで、この写真はオバチャンとは違う世代の写真のようだった。
 ところが別の写真を見ていただくと、「これは◯◯先生。これは◯◯さん。こちらは霊仙の◯◯さん」「あ、私も写ってる、恥ずかしいわー。」というように次から次にことばが出てくる。そして「(霊仙分校に勤務している頃は)帰りになると道に猿がズラーッと並んでてね、それ見ていったん学校に戻ってね、怖かったよ。30分くらいするとサーッといなくなって、それから帰るんやけどね。猿はたくさんいたよ」「うん、霊仙分校の写真は少ないね。何か行事の時は芹谷分校の方へ行ってたから、あっちではあんまり撮影しなかったからと違うかな。」「芹谷分校の閉校式には私も参加しててね・・。」など、当時の様々な様子をきかせてくれた。うかがう前は「ボケてしもうて、なんもわからへんよ。」とおっしゃっていたのだが、全くそんなことなく、いろいろなお話が出てくる。また、小学校の頃のオバチャンの教え子が、今は地元の学校の偉いさんになって活躍されており、その方が先日、私が霊仙の集落や分校についてお話をうかがおうとお願いした方だったりで、年代を越えた地域のつながりなども、おもしろく感じた。幼い頃の恩師、その偉いさんの先生もきっとこのオバチャンには頭が上がらないことだろう。



霊仙分校跡




霊仙分校跡




芹谷分校(2002年)


 ここ「桃原」に昔あったスキー場、以前もうかがったことがあったが、そのことについてもう少し詳しく聞いてみた。
 ゴボウやサトイモなどの畑をしていた山の斜面一面が、冬場にはスキー場となる。昭和9年に小学校に入学したオバチャンが小学校3~4年の頃に、その多賀スキー場ができたそうなので、おそらく昭和10年代初めの開業のようだ。スキー場に来るのに彦根から歩いてきたという時代もあったが、バスも運行されていた。遠くからやって来たスキー客は、今は大きなブロックが積んである芹川沿いの「桃原口」でバスを降りる。昭和39年頃に現在ある集落までの林道ができたというから、それまでは桃原口からひたすら斜面を歩いて登っていく感じだったのだろう。当時はもちろんリフトなどはなく、スキーをかついで雪の中を徒歩で登る。それでも「ここはすごくいい斜面でね、お客さんが多かったんよー」という。









 スキー場の経営は近江鉄道グループだったが、全部で4つあったヒュッテのうち1つだけが近江鉄道の経営で、残りは地元の方がされていたという。最盛期には、大阪など遠方からのお客さんも多数あったらしく、泊まりがけで来る人たちも少なくなかった。そのためこの集落では多くのお宅が民宿を経営されており、オバチャンのお宅でも冬場は民宿をされていたという。もちろん地元の利用者も多く、地元で生まれ育った方で60歳代以上の多くの人たちは、このスキー場での学校スキーがとても楽しい思い出となっている。そういった世代の方々にお話をうかがうと、作った竹スキーやそりで楽しんだ当時の思い出話などがよく出てくるが、これもスキー場が長きにわたり地元に根ざしていたということなのだろう。
 しかしそんな多賀スキー場も、新たに伊吹山に大きなスキー場ができたり、雪が少なくなってしまったことなどで、昭和30年代後半から40年代あたりに閉鎖となってしまう。今はこのあたりの観光といえば『河内の風穴』くらいだが、当時はスキー場や芹川での渓流釣りなどでかなり賑わっていたということが、少し年代を遡ると見えてくるのである。






 今スキー場の存在を伝えるものは、残念ながら現地にはほとんど残っていない。ゴボウやサトイモ畑のスキー場も、全てに杉が植林されてしまって鬱蒼とした林となり、スキー場があったことすら想像することは難しくなってしまった。写真などもほとんど残っておらず、経験した人たちの記憶と、訪れた人たちが写したわずかな写真のみにその存在が伝えられているのだろう。何か寂しく感じたりするが、閉鎖後半世紀も過ぎたことを思うと仕方の無いことなのかもしれない。





 この「桃原」で一番盛んだったのは、ゴボウ作りだ。桃原では、他の山の集落のような炭焼きは行われず、ゴボウやサトイモの生産、そして割木生産などで生計を立てていたところが多かったという。中でもゴボウは有名で「お多賀ゴボウ」として京都まで出荷されていた。見かけは細く、ヒョロ長くてかっこよくはなかったらしいが、太く短いものは見かけはよくても鬆(す)ができやすい。一方で、細く長く成長する桃原のゴボウは鬆が無い。加えて味は良く、日が経ったものでも水に戻すと元に戻り美味しくいただけるというので、京都では高級食材として珍重されていた。ところが彦根などでは太いものが好まれていたそうで、ここでの生産されたものは京都への出荷が主だった。
 桃原のゴボウは独特の赤土で育つ。それと同じような土壌の谷向かいにある「屏風」集落でもゴボウの生産が行われていたという。また川沿いの集落「河内」などでも生産されていたが、これは太く短いゴボウだったので彦根方面への出荷が主だったようだ。





 その桃原のゴボウ作りも、人々が山を離れるとともに廃れていき、遂には幻の食材となってしまう。ところが、最近になって、この桃原のゴボウを復活させようと地元の方や関係者が中心となってゴボウ作りが始められ、昨年も収穫されたそうだ。このオバチャンも長年ゴボウ作りをされていたので「何かコツみたいなものはあるんですか?」とうかがってみたが「ゴンボ作りのコツ?そんなんあらへんよ」と一言。でもいろいろうかがっていくと、ゴボウは連作は良くなくサトイモと隔年で作っていたことや、種まきの時期によって出来具合が大きく影響すること、そして油かすなどの堆肥を使うとダメで化成肥料を使っていたこと、などいろいろ出てきた。おそらくこれらどれもが、オバチャンの長年の身に染み込んだ経験で、ごく普通にされてきたことばかりなのだろう。だからご本人にしたら「コツなんて無いよ」ということになってしまうのだが、それは貴重な経験の裏づけがあったからこそといえそうだ。





 10~11月に収穫された桃原ゴボウは、背駄で背負って谷まで下ろし、そこに積んでおく。そして京都へ出荷される。今なら車で林道を使ってすぐに行けてしまうが、その当時は多くの人たちがゴボウを背負って畑の道を通り、何度も谷を登り降りして運んだ。ゴボウの収穫は冬を迎える前の最後の大仕事、この時の風景は、きっと桃原の秋の風物詩といえるものだったのだろう。









 最近の「桃原」は猿が多い。「桃原」だけではなく、芹谷では当たり前のように猿を見かける。車で走っていて、目の前に猿が落ちてきたこともあった。電線を渡っていて落ちてきたようだが、何とも驚いた。桃原地区でいうなら、人間の何十倍も猿が多く、どちらが主役なのかわからないくらいだ。そしてその猿も、これまでとは違う行動が見られるようになってきたという。
 例えばオバチャンの家の桜の花を、昨年は猿が食べてしまったという。そんなことはこれまでには無かったこと。その桜の木には、今年は全く花が咲かなかったというが、何か関係があるのだろうか。また庭の池に毎年産みつけるモリアオガエルの卵も、昨年は猿が食べてしまった。これも初めてのことだったそうだ。
 「猿も食べ物が減ってるんでしょうかね」
 「そやろか・・、うん、そうかもしれんなー」

 鹿や猿が山の植物や、人の庭の花、畑の作物を全て食べ尽くすのはこれまでにもうかがったが、食糧難の猿はそれだけでは足りず、これまで食べなかったものにまで口にするようになっているのかもしれない。杉林ばかりになってしまった周辺の山々、そこに住む動物たちの食糧事情がなかなか厳しいものがあることは想像がつくが、それによってさらには山全体のバランスまでも崩れてきてる、そんな気がする。









 ある日、オバチャンの家の屋根の上で猿が群れで大騒ぎをしていた。今まで群れで猿がやって来ることがあっても庭に来るのはせいぜい数匹で、屋根の上に登ったり、そこで大暴れすることは決してなかった。何事とかと思って庭に出ると、庭の鹿よけのネットに子猿がからみついて動けなくなっている。それを心配して大騒ぎしていたようだ。いろいろやってみたものの子猿を網から脱出させてやることができない。仕方無いので地元の方に応援を頼んで、網を切り取ってようやく子猿を助けることができた。するとそれを機に大騒ぎしていた猿たちは急に静かになり、そのまま子猿とともに山に帰っていったそうだ。
群にとって大事な子猿、猿たち皆で心配していたのだろう。
 「いつかきっと、その子猿が恩返しに来ますよ。」
 「そうか? そうやといいな」
 「猿の恩返しですね」
 「ハハハー」


 など話していると、庭に三毛猫が走っていくのが見えた。
 「あれも2~3日前から来てるん。誰か捨てていったんやろか・・。前はおらんかったのにな。」
 「◯◯さんの周りにはいろいろなものが集まってきますね」
 「そうやろか、ハハハー」





 この日、満開の‘しだれ桜’は見ることができなかったが、オバチャンと出会えたことで、いろいろな貴重なお話がうかがうことができた。そして何よりも素晴らしい春のひと時をすごさせてもらった。いろいろと被害を受けることの多い猿に対しても、どこか愛情を持って接しておられ、決して憎々しげに語るなどということは無かった。受け入れるところは受け入れる、そんな姿勢が感じられるのである。自然と接する時に、人間は自然を支配する、コントロールするという立場をとりがちだが、受け入れるところは受け入れる、そういうことも大事だと感じてならない。





 オバチャンとは何年かに1回お出会いできるかできないかなので、次にお出会いできた時もたぶん
 「あー、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 という会話から始まりそうだが、それはそれで楽しいもの。難しいことは無くてもいいので、これからも末永く「桃原」のことをいろいろ語り続けてほしい、そう願うのである。





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【2015/04/30 21:01】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#237 小原かご作り、ただ1人の継承者をたずねて
~ 小原かご作り、ただ1人の継承者をたずねて ~






太々野功氏所蔵写真


 「次の後取り・・でけんねえ・・」そして

 「消えてまうかもしれんね、もうじき・・」


 というこのことば、滋賀県は長浜市余呉町の今は無き集落「小原」に伝わる「小原かご」の今後についてうかがった時の、その伝統を受け継ぐ唯一の人物、太々野功(ただのつとむ)氏のことばだ。
(※実際のお名前の「功」の漢字の横の部分は「力」ではなく「刀」なのですが、変換できないため「功」と表示しています。)
 そして上の写真は、村在りし頃の「小原」集落。おそらく川向こうの安蔵山あたりから撮影されたものだろう。9戸の小さな美しい山間集落と、その向こうの段々畑の様子がよくわかる。ちなみにこの段々畑は、小原分校在りし日は学校スキーで使われていたという。





 以前、このコーナーの#215「廃村・小原の、小原かごと白子皇子伝承」でも、小原かごとその創始者とされる白子皇子のことにふれているが、この太々野功さん(昭和11年生)は、現在ではたった1人となった小原かごの作り手で、3年前には、公益社団法人の国土緑化推進機構が毎年選ぶ「森の名手・名人」にも選ばれている。もちろん太々野さんは、小原かご発祥地の「小原」のご出身で、今は「小原かごを復活させる会」の主催するかご作り教室で講師などもされており、その技術を今に伝える。その太々野さんの冒頭のことばの背景を考えた時、やはりそこから読み取れるものは大きい。今回は、その太々野さんにうかがったお話を中心に、小原かごについてお伝えしたい。





 #215にもあるように、この小原かごは「小原」集落独自に伝わるかご細工で、陰明門院(おんめいもんいん:1185~1243年)と土御門天皇(1196~1231年)との間に生まれた白子皇子が、その創始者とされている。しかしそれは、歴史の表舞台上にあるものではなく、言い伝えとして語り継がれてきたものだ。「小原」と同じ余呉町の古刹、菅山寺には仲良く並んだ2人の墓碑が、そして菅山寺縁起書には、お2人について書かれた文書が唯一残る。しかし、文書には陰明門院名が後嵯峨天皇の妃として書かれているなど、史実とは違っている部分があり、史料とはなり得ないようだ。
 また歴史上においては、お二人の間に子どもは無かったことになっており、当然ながら白子皇子ご自身も歴史上においてその名を表すことは無い。つまり白子皇子は、表舞台では存在しない人物となっているのである。それが呼び名のとおり白子(先天性白皮症)であったがゆえに、当時は異形なるものとして存在そのものを抹消されてしまったのか、それともこの話自体が創作されたものであるからなのか、その真偽の程は定かではない。ちなみに上の写真は菅山寺に一昨年訪れた時の、お二人の墓碑だ。そしてこの下の写真は、それよりずっと以前に太々野さんが菅山寺に訪れられた際の写真。今は周辺がずいぶんと整理されていることがわかる。





太々野功氏所蔵写真


 などいっても、実際に「小原」集落においては、何百年にもわたり白子皇子にまつわる多くの伝承が小原かご作りの技術とともに伝えられており、皇子の存在と同様に、小原かごが村の人々の大切な宝とされてきたことは紛れもない事実。そのことを思うと、真偽が確かめようの無いことにこだわるより、その事実を見ることが何より大切なこと、そんな気がする。









 「小原」については、これも本サイトの廃村「半明・鷲見・田戸・小原」の項でご紹介しているように、丹生ダム建設計画に伴って集団移転を果たした集落で、今はもう存在しない。1995年(平成7)の離村だから、「小原」としての長い歴史を終えてもう20年もの月日が流れたことになる。ダム建設による移転であるため、集落に建ち並んでいた美しい家屋は離村後すぐに全てが取り壊され、その後も集落跡の一部には土が盛られるなどして、村があった頃とはずいぶんと違った風景になってしまっている。









 そんな中でも半鐘の支柱と共同水場は、在りし日の姿を思い出させてくれる。しかしながら、ダム建設計画が迷走したあげく、本体着工開始寸前で建設計画がほぼ中止となったことで、放置状態ともいえるかつての集落の跡地の荒れた姿をより晒す形になってしまっているのは、とても残念に感じる。近くに住んでいながら荒れてゆく故郷をどうすることもできないのは、元の住民の方にとっても本当に辛いものがあるだろう。離村時には9戸の家があったものの、豪雪地帯ゆえ、年間を通して住む人はもう少なかったというが、やはりそこは生まれ故郷、多くの思い出やご先祖様の思いのつまった大切な地なのである。補償金をもらって移転したのだから土地はもう他人のもの、と簡単に割り切れないものがあるのも当然のように思える。





太々野功氏所蔵写真






太々野功氏所蔵写真


 この、今も「小原」に残る半鐘の支柱は、この太々野氏による制作だ。「長持ちするように丈夫な電柱の木を使った」というように、離村後も、いかに多くの雑草に覆われようとも、いかにたくさんの雪が降り積もろうとも、我ここにありという感じで元気な姿を見せてくれているのは嬉しい限りだ。村無き後も小原の象徴としてその存在感は実に大きいのである。





 小原かご作りは、山に材料となる木を切り出しにいくことから始まる。素材となる木はイタヤカエデという落葉樹で、紅葉の季節には緑から黄色に変化し、美しい色で秋の山を彩る木だ。ねじれや節の無い木を選ぶが、それでもかご作りの材料として使える所は一部という。その幹を割っていき板材の幅にして、そこから薄い板を作る。それを材料に編んでいくのである。素材調達からかごの完成までを全て自分たちの手で、自分たちの持っている技術でやり遂げて小原かごは完成する。かご作り自体は冬場の仕事であるが、この材料の準備は、炭焼きの合間や、畑作業の合間にしなければならない。待ったのきかない自然の中での仕事は、時間や労力、タイミングをうまくやりくりしないと果たせるものではない、ということなのだろう。





 800年もの歴史を持つ小原かごは、集落内でも「長男にしか伝えない」というほど大事にされてきたもので、太々野さんご自身は長男ではなかったので通常の形で伝えられることは無かった。しかし「誰にも習わんと、近くの専門にやっているおじさんの所へ、子どもの時分からいっとっておぼえた」というから、「小原」という集落の中で、その技術を自然に習得していったという感じだ。もちろんそれだけではなく、家で父親や長男などが作る様子を見ながらの技術習得などもあったことだろう。それにしても今、長男でない太々野さんが現在ただ1人の小原かご作りの継承者となっていることを思うと、太々野さんとそのかご作り職人との間には、やはり運命的なものを感じざるをえない。おそらくその職人さんも、その頃の太々野少年を見て「この子、なかなか筋がいいな・・」など何か感じるものがあって、教えられたことだろう。





太々野功氏所蔵写真


 今の生活の中でかごを使う機会というのは滅多に無いのだが、出来上がったかごは、当時どういったことに使われていたのだろうか。オオツボカゴと呼ばれる大きなかごは、東浅井などでは蚕を飼うかごとして大いに使われ、小さなかごはお茶摘みなどに使われたという。「今でも東浅井の高月とかには、蔵の奥には小原かごがあるんと違うか。」ということばからも、当時の需要の多さがわかる。昔は衣服などが破れた時には、つぎはぎなどをして使い続けた。そのつぎはぎ用のきれを入れておくのにも小原かごは使われたし、山に山菜を採りにいく時、そして仕事に追われて手をかけることのできない時に赤ちゃんを入れておくかごとしても使われた。
 かごの中に入っている赤ちゃんの風景は、いつの時代かまでは全国各地で見られた風景だ。そして太々野家では、小原かごに入った赤ちゃんの姿があったのは言うまでもない。





太々野功氏所蔵写真



 この可愛らしい写真は昭和36年頃のもので、なんとも温かくなる写真の主は太々野さんの娘さんだ。昭和36年といえば、高度経済成長の始まる頃。まだ山で生活ができていた時代で、山村が多くの子どもの声で賑やかだった頃。きっと各家々で、こういった小原かごに入った赤ちゃんの姿が見られたに違いない。以前「針川」にお住まいだった方に見せていただいた写真にも、やはりこうしてかごに入った赤ちゃんの姿が写っていたのを思い出す。その時は、「生まれて10日くらいすると赤ん坊は、もうヒゴ(フゴ)に入れられ、母親は畑仕事に出る。ひっくり返らないようにボロをいっぱい詰めて動けないようにして一日を過す。ヒゴの下に敷く藁は、もち米のものだとかぶれてしまうので、うるち米のものが使われていた。」などということをうかがった。今だったら、やれ消毒やら、悪い菌がつくやらで大騒ぎになりそうだが、人間は本来自然の中で生きる限り強い生き物だったのかもしれない。





太々野功氏所蔵写真


 こうしていろいろな用途で使われた小原かごだから、当時は嫁入り道具としても用いられたという。大小、形など様々なものが用途に応じて使われ、重宝されたのだろう。かごは大事に使うと100年、柿渋などを塗るなどして手入れをきちんとされたものは200年前のものでも現存するほどだから、雑な使い方をしない限り耐久性の面でも大変すぐれていたといえる。使い捨ての今の時代からは想像がつかない数字だ。こわれなければ商売にならないという今の時代、それとは正反対の社会がわが国にあったことを改めて感じさせてくれる。
 こうして様々な用途で使われるという利便性、丈夫で長持ちする耐久性、そして見た目の美しさ、それらの点があいまって、小原かごは何百年にもわたって消えること無く使い続けられ、作り続けられてきたといえそうだ。





太々野功氏所蔵写真


 この小原かごは、「小原」と交流の深かった「奥川並」でも作られていたというが、そのあたりを太々野さんにうかがうと、奥川並と小原では形が明確に違っていたようだ。「(奥川並では)ストンとした形のかごやった。曲がった木を使わないと、小原かごにあるような形のかごは作れんから、形を見ると小原のかごはすぐにわかった。」という。なるほど、見ると小原かごは独特の形をしている。
 2つの集落は婚姻による交流もあったりして、小原から奥川並へ嫁ぐ人も少なくなかった。いつの時代かに、そうして嫁いだ人の中に小原かご作りを伝えた人がいたのかもしれないが、その奥深い部分までは伝え切ることはできず、そのような形になったのだろう。かご作り自体は、この時代は他でも行われている集落があったようなので、そこに小原かごの要素が少し入った、そんな感じだったのかもしれない。





1993年の「奥川並」


 唯一無二の存在といえるこの小原かご、ネットなどで調べると、秋田県の角館(かくのだて)に同じようにイタヤカエデを素材にかごなどを作る「イタヤ細工」があることがわかった。秋田新幹線ならびに第3セクターの秋田内陸縦貫鉄道の駅のある角館は、歴史をふり返ると京都の公家とのつながりが深い町で、こちらのイタヤ細工は200年程の歴史だという。イタヤカエデという同じ素材となる木から板材を作り出し、かごなどを編むという点では共通しているが、板材を作り出す過程や作り上げる製品には違いがあるようだ。その発祥が800年程も前という小原かごの方が遥かに歴史は古いといえそうだが、この両者に何かの関係があったのだろうか。
 一つ気になることがある。それは木地師についてお話しをうかがっていた時の太々野さんの「小原には、かごの木はどこの山に行っても切ってもいいという伝説が残っていた。菊の紋の証明みたいな・・」ということばだ。太々野さんご自身はそのことを「どうかな・・と思っている。違うとは言えんけど・・」とおっしゃっておられたが、気になる。これはまさに菊の紋を背景に、全国の山を自由にわたって木地材となる木を切ることを許された木地師と同じではないか。

 そういえばこけしで有名な秋田県も木地師が多く入った地域である。もし小原かごの技術の発祥を木地屋と考えると、良木を求めて全国の山を渡り歩いた小原かご作りの技術を持った木地師たちが秋田に定着し、そこでイタヤ細工として発展したと考えられなくもない。白子皇子の伝説の形態が典型的な貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)であることを思うと、そのように関連づけることもできなくはない。
 とはいえ、小原かご作りは、あまりにも地域限定であり、もし木地屋をその発祥としているとすれば、もっと全国的に同じような技術のかご作りが見られたはずだろう。そう思うと、やはり白子皇子をその起源とする方が無理なく自然な感じがするのである。





 丹生ダム建設に伴い実施した水没地域の民俗文化財調査をまとめた『高時川建設地域・民俗文化財調査報告書(発行者:余呉町)』に木篭作りについて書かれている。
 それによると、作られたかごはほとんどが注文生産で、余呉町内だけの注文でもさばききれず、中之郷や木之本へ卸したり、町内を行商で売りにいったりすることもあったという。行商だと値切る人もあったようで、苦労して作ったかごを値切る人もいて嫌だったという苦労話も添えられている。また木篭は、日にあてると目が透くのであまりよくないと中継ぎの店で売れなくなり、農協で売ってくれと頼まれて、びわ町(東浅井郡)あたりまで売りに行ったことなども書かれている。太々野さんがおっしゃられていたのは、この頃のことかもしれない。いずれにしても、時代の流れによる生活様式の変容や、安価で大量生産されるプラスチック製のものなどが一般的になっていくことで、古くからの木篭が次第に追いつめられていく様子が、そこには見てとれる。
 それら以外にも、これまでだと山仕事が中心だった「小原」にも会社勤めの人が増えていき、そのためますますかごを作る機会が減っていったということも考えられる。太々野さんご自身も、何十年もの間、小原かご作りから遠ざかられていたというから、高度経済成長期以降は、9軒程の小さな集落の中で細々と伝えられてきた、そんな感じだったのかもしれない。それでも長い目で見ると、白子皇子の伝えたかご作りの技術は何百年にわたり「小原」の人々の生活を支え続けた。そしてそれは、村人たちの伝統を大切に守りたいという強い思いがあったからこそ、現代まで引き継がれてきたことは間違いない。





 長きにわたってかご作りからも遠ざかられていた太々野さんが、再び小原かごを作るようになった。そのきっかけは、東北から「誰か小原かごを作る人はいないだろうか」ということで人が訪ねて来られたことに始まる。その時は誰も作る人がいなかったので、「わからない」ということで終わってしまったようであるが、それを機に「誰か作る人はいないだろうか?作り方を教えてほしい。」と太々野さんに声がかかったという。そして有志による「小原かごを復活させる会」の主催により小原かご作り教室が開催され、太々野さんはその講師を務めることとなって再びかごを作り始められ、その技術を伝えていくことになるのである。









 しかしながら小原かご作りは技術的な面でも、制作環境面でも大変難しいところがある。先にも書いたが、まず素材となるイタヤカエデを手に入れることが容易ではない。一般に木材として出回っているわけでないので、どこででも手に入るわけではなく、山に自生しているものが対象となる。しかし、イタヤカエデの自生する山を持っている人など、ほんの一握りの人たちだ。もちろん他人の山の木を勝手に切ることも許されるはずも無い。
 もし仮にその問題がクリアできたとしても、今度は技術面が大きなネックとなる。今、小原かご作り教室が10月から3月に渡り、月1回実施されているが、やはりそこから本格的に取り組もうという人は出てきていない。リピーターで来られる方も少なくないようだが、やはり6回程度の講習でその技術を取得するのは不可能なようだ。特に難しいのは、板材の幅に切られた幹から薄い板材を切り出す作業で、熱心に取り組む人でもなかなか取得するまでには至らないという。慣れた者でも、材料が全部揃った状態からかごの形に編んでいくのは1日がかりという小原かご作り、生活の中で小原かごを作るという環境が普通にあったからこそ、小原の人々はかご作りの技術を習得できたといえるのかもしれない。このように、生活が別にあり仕事も別にある中では、なかなか技術習得までには至らないのが現状のようだ。





太々野功氏所蔵写真


 昭和11年のお生まれの太々野さんは、現在はもう自ら山に出向き木を切り出すというのが難しくなっており、「あの木を切ってきてくれ」という形で素材の木を集めてもらっているそうだ。

 「だれかやってくれるとええけんど・・。わしももう何年もできるもんでないさかい」と静かな口調で語る太々野さんの中には、これまで何百年と続いてきた伝統の火を、自分たちの代で消してしまうことになるかもしれないという無念な思いを強く感じる。





 危険な道しか通っていなかった山奥の村に、とても立派なトンネルができ、安全な道が着いた。しかしその時はもう村も人も消えており、道は大きなダンプが走るための工事用の道だった。そして、道を作るための目的であったダム建設計画は、今、中途で消えつつある。残ったのは、故郷というイメージからはかけ離れた荒廃とした集落跡と、旧道を脇目に見ながら走る太い立派な道。その風景を見ると、これまでに費やした何10年という歳月と膨大な予算、それに振り回された多くの人々の思いを感じるのである。





 村、人、ダム、多額の金、労力、時間など多くのものが消えた地に、その伝統を伝えるべく、今も辛うじて灯り続けている灯りがある。今年も小原かご作り教室が、10月から3月まで開かれる予定だそうだ。問い合わせてみると、詳細が決まる8~9月頃に、会場となっている「ウッディパル余呉」のホームページ上で発表されるという。「リピーターの方も多いので、もし参加希望される場合は早めにご連絡下さい。」とのことなので、関心をお持ちの方はぜひご覧いただければと思う。

 灯りが消えることなく小原かごが今後も続いていくなら、それとともに「小原」集落や村人と白子皇子、陰明門院名などとの心温かい伝承も埋もれることなく語り続けられることだろう。そして将来になってふり返ってみた時、それを残そうという心が周囲にあったことが何よりも素晴らしいこと、そのように思えるのかもしれない。





太々野功氏所蔵写真



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【2014/07/10 19:44】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#236 奥川並(旧伊香郡余呉町)と奥川並分校
~  奥川並(旧・伊香郡余呉町)と奥川並分校  ~






 久しぶりに「奥川並」集落跡を訪れた。「奥川並」は、滋賀県最北部の旧・伊香郡余呉町(現・長浜市)にあった集落で、高時川の支流、奥川並川の上流部に位置する。「奥川並」とともに北丹生六ヶ字と呼ばれていた「針川」「尾羽梨」「鷲見」「田戸」「小原」のいずれの集落も、時期の違いはあるものの廃村の道をたどっているが、その中でも一番早い昭和44年に廃村となったのが「奥川並」だ。村が無くなってから今年で47年、既に半世紀近くもの年月が過ぎたことになる。









1993年(平成5)の奥川並


 後になって、「奥川並」が丹生ダム建設の水没予定区域(「奥川並」集落跡地自体は水没予定ではなかった)となり、それ以降、独立行政法人:水資源機構の管理となったため、周辺は広く一般車両の乗り入れは禁止となった。それでも、ダム建設計画が凍結(その後中止)されて以降は工事もストップし、地元の方以外でも釣り客や登山者など、季節にはけっこうな人が入るようになった。私自身が写真撮影で入った時にも集落跡地に車が停まっていたり、5月の山菜の季節などには他府県ナンバーの車がいっぱいで、少し離れたスペースまで停めにいくことなどもあった。落石などの事故があった場合の責任はもちろん負えないし、業務の邪魔になることもせず、きちんとマナーを守った上での通行であれば水資源機構も黙認している、そんな状態なのかもしれない。なお、このあたりの川は丹生川漁業協同組合の管理となっており、遊漁期間中の釣りは遊漁券が必要となる。また「奥川並」奥の森林は、奥川並生産森林組合の管理下にあるので一般の人の山菜採りなどは一切禁止だ。









 「田戸」から「奥川並」への林道は、道の崩壊や崖崩れなどでしばらく通れなかったが、今は工事も終わって車の通行自体は可能な状態となっている。ただし工事関係者や森林組合、許可を得た車以外の一般車両の通行はできず、「田戸」からの分岐の橋にはチェーンがかけられている。これは落石や崩落の危険があるから一般車の進入を制限しているのであろうが、部外者による山菜や貴重な山野草などの無断採取を防ぐのにも大いに役立っているように思える。
 「奥川並」の奥の森林に栽培されているワサビや山椒などの山菜が、外部者による窃盗被害にあい困っているということは、奥川並の関係の方からは何度かうかがったことがある。もちろん採取禁止や入山禁止の立て看板なども立てられてはいるが、それでも入山し持ち去っていく。これは完全に犯罪である。素人もいれば窃盗のプロもいるのかもしれない。そう考えると、チェーンどころかもっと強固なゲートで塞ぐのもありだと思えるが、私道でない一般の道路をそのように塞ぐことはできないのだろう。現在、別の目的ではられたこうしたチェーンにより辛うじて山が守られているのだとしたら、それは本当に情けない話でもある。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 訪れたのは5月の末、この時期ならまだ雑草はそんなに多くないだろうという判断での訪問だ。この日は「田戸」に車をおいて、人力で「奥川並」集落跡まで行くことにした。ちょうど奥川並川との合流点の、高時川に架かる橋がスタート地点で、そこからは4kmちょっとの道のり。スタートしてしばらくは、奥川並川が谷の下の方に見えるが、林道から川までがさほど深くないため谷底というイメージはそう感じない。それでも両側の山の斜面は急峻で、杉の植林も多いため空は狭く、道の見通しも良くない。だから、「田戸」から「奥川並」方面へと進む道を見ると、いかにも山の奥へ入っていくという感じがする。そして実際、林道を進むほど山深さを感じるのである。









 「奥川並」の集落の起源は、岐阜から山越えでやってきた木地屋にあり、しばらくの間は下流の集落にその存在が知られていなかったという。ある日、奥川並川の上流から木のお椀などが流れてきて下流の集落の人が驚き、その存在が知られたという言い伝えが残っている。これは全国のこういった山深い木地屋関係の集落でも同様の言い伝えがけっこうあるようだ。しかし、こうして深い山々の奥から細々と流れてくる奥川並川を見ていると、そういう伝説も決して作り話とは限らないのではと思えてくる。
 昔は当然、今のような道は無く、上流を見ても山と川が見えるだけ。まして「奥川並」は下流から遡った人たちに作られた集落ではなく、遠く山向こうからやってきた美濃の人たちによって作られた集落。当然、最初は下流との交流は無かったのだろう。そう思うと、下流の者たちにとっては、存在さえ知られぬ隠れ里であったとしても不思議ではない。伝説も普通に受け入れられてしまうような環境にあったことは、今のその風景を見ても理解できるのである。その真偽はともかくとして、それだけ山深い集落の、そこからさらに奥にある集落だったということが、この話から読み取れそうだ。

 それにしても思った以上に、もう緑が濃い。集落跡あたりはどうなんだろう・・など考えながら先に進む。









 やがて谷が低くなり、川が近くに見えるようになる。こうして川と道が近くなったのは、集落跡まであと少しという証でもある。それでももう草木の葉が伸びているせいか、すんなりと川の姿を見ることはできない。写真の橋は、奥川並川に流れ込む小さな谷に架かる橋だ。この日はけっこう暑かったのだが、ここに来ると空気がひんやりとして、とても気持ちがいい。集落跡まではもう1kmもないのだが、心地よいのでここで少し休憩をする。





 ここから集落跡までの間に、ずっと以前、江戸の享保の頃には「口河並」という集落が存在していた。「奥」に対して「口」だ。おそらくこのあたりが彦根藩御用達の炭焼きの村として一番繁栄していた時のことだろう。その頃は75戸もの家が建ち並び、人々が炭焼きに従事していたというから、平地がごく僅かなこの地域からすると大変な数字である。しかし江戸時代中には「奥川並」に吸収されて、既にその存在は無くなっている。以前、地元の方にうかがった時は、「口川並」は「奥川並」より少し下流の平地にあったということだったが、確かにそのあたりには、川近くに少しの平地を見ることができる。しばし周辺を歩きながら「口河並」のことを思うも、その場所はわかるはずも無く休憩を終える。









 程なくして「奥川並」の共同墓碑が見えてきた。このあたりは豪雪地帯。雪どけ後はかなり荒れるであろうことを思うと、共同墓碑や地蔵さまともに小ざっぱり整備されている感じがする。かつての住民の高齢化や道の崩落、通行止め等々でなかなか訪れにくくなっているのだろうが、その様子を見ると今でも奥川並出身の人々が故郷を訪れ、手入れをされていることがわかる。それでも離村後半世紀も過ぎていることからすると、今ここに来られているのは当時の働き盛りだった世代よりも、村で少年時代を過ごした世代の人たちが中心になっていることだろう。
 墓碑の横には、これから伸びてくるであろう雑草を押しのけて自生する花々の姿が見える。その花も雑草と呼ばれる類いのものなのだろうが、日照の少ない緑と濃い緑ばかりの風景の中にそれがあることだけでも、何だか清々しくホッとせてくれる。













 ここから集落跡まではすぐ。先にも書いたように5月にしては、やたら雑草が多いように感じるが、その雑草いっぱいの林道を歩いて行くと集落跡が見えてきた・・というか、もう、すごい雑草。覆いかぶさるような雑草で、集落を思わせるようなものがほとんど見えなくなってしまっていた。





 奥川並の表示板や水資源機構の警告看板も、今にも木々や草の葉に隠れてしまいそうで、石垣などはほとんど見えない。5月の終盤とはいえ、こんなに草は多かったのだろうか、など考えるが、これが夏本番になるとさらに草木が伸びるはず。集落跡の痕跡さえ覆い隠してしまいそうな自然の勢いを、この日の「奥川並」からは感じる。それでも少し集落内の道を入ってみると、村の中央を流れる小川や石垣などを見ることができた。先程、軽トラで人がやってきたが、その方はそのまま集落跡の奥へ入り、山へと向かった。おそらく山仕事なのだろう。それにしても集落内の予想外の雑草は、軽装の私などとても入れそうになく、入るのを拒まれ、はね返されたというような感じさえした。いろいろな時期に「奥川並」を訪れたが、こんなに草が多い印象を受けたのは初めてだった。










 村の雰囲気がほとんど感じられなくなった集落跡の反対側、川向こうも見てみる。そこは村在りし頃、丹生小学校奥川並分校のあった所だ。しかしその分校跡周辺はさらにすごいことになっている。そこに学校があったことなど100%信じられないほどのワイルドな光景だ。かろうじて学校へと架かる丸太橋を見ることができたが、それも草をかき分けてのぞきこまないと見えない。とはいえ、この丸太橋が今も健在だったことをとても嬉しく感じる。かなり苔むし、腐食もあるようなので、当然渡ることはできない。それにしても、半世紀以上もこうして村と学校をつないでいるのには驚くばかりだ。当時、子どもたちが渡るための大切な橋ということで、立派な木を使って作られたのだろう。今は残念ながら渡れないし、渡る人もいない。それでもこの橋がある限り、ここに小さな村の分校があったことは伝え続けてくれる。









1993年(平成5)の分校への橋


 初めて「奥川並」を訪ねて以来、この丸太橋を渡って川向こうの分校跡地へ行きたくてずっと決心がつかなかったのだが、5年程前、ついに学校跡へ行ってみたことを思い出す。ただし、今にも落ちそうな丸太橋を渡る勇気は結局無く、川を渡って跡地へ行ったのだった。川幅は狭くても、水の中を歩かないと渡ることはできない。しかし、その時は3月。一応長靴を履いて川に入ったものの、水量が多く水はあっという間に膝を越え、長靴の中に入ってきた。川の水は凍るように冷たく、その水のため長靴は重くなる。「奥川並」の3月はまだまだ寒く、流れる水は雪どけ水だ。そのことを思うと水が冷たいのは当たり前なのだが、草に覆われない時期といえば、この時期か雪降る前しかない。したがって、学校跡の様子が一番良くわかるのは、いずれにしても寒い時期しかないということになる。そのためにこの時期を選んだのだが、やっぱり冷たく寒かった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 結局、長靴に入った水を捨て、太腿あたりから下がドボドボになった状態で、寒さに震えながら分校跡地の写真を撮影したのだが、あまりの寒さと冷たさで長時間は耐えられず、そうそうに引き上げたのを覚えている。車に戻って、靴下やらズボンやら下着やら全部を取り換えた時の幸福感は、今も忘れることはできない。
 「2009年(平成21)撮影」と書かれている写真は、全てその時の写真だ。倒れかけた電柱は残っていたが、学校を思わせるようなものは玄関前の石段と校舎の基礎くらいしか見つけることはできなかった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 それにしてもこのスペースに学校があったとは信じられない。立派なグランドはもちろん無く、庭のようなスペースがあっただけといっても、今のこの鬱蒼とした感じからは想像がつかないのである。当時の2階建ての小さな木造校舎を古い写真で見ることはできても、それがここにあったということはなかなかイメージできない。むしろ現地を見て、よりイメージしにくくなったという気さえする光景だった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 学校在りし頃は、学校への橋が2つあったそうだが、離村後に1本が完全に落ちてしまい、今あるのはその残った1本。ただし上にはられていた板は落ちて丸太ん棒だけになっている。雑草の無い雪降る前や雪どけ後すぐであれば、集落跡などからも、もっといろいろなものが見られるのだろうが、今の奥川並の風景を見た時、かつての存在をはっきり示してくれるような当時のものは、結局この丸太橋と石垣くらいしかないのかもしれない。そしてこの丸太橋も、そう遠くない将来、朽ちて落ちてしまうかもしれない。そうすると残るのは石垣のみ。そういった、石垣だけが残るという古い集落跡をこれまでにも見てきたが、「奥川並」集落跡もただそれと同じ道をたどるだけということなのだろう。





2009年(平成21)撮影


 「奥川並」の子どもたちは、小学校の1年生から4年生までをここ奥川並分校で学び、五年生からは「小原」にある丹生小学校小原分校で学んだ。奥川並分校の先生は2人だけで、小さな学校の1~4年生の子どもたちを指導されていたという。当時は滋賀県にも多くの分校があり、その中でもこの余呉村立丹生小学校奥川並分校は「へき地等級」が4級だったというから、大変な立地環境であったことがわかる。なお中学校は、昭和23年に丹生中学校が中之郷の鏡岡中学校に統合されてからは学校に通うことができなくなったため、全員が鏡岡中学校の寄宿舎で3年間をすごしていた。





記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より







記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より



 以前、この奥川並分校で教鞭をとられていたという林尊先生にうかがったお話だ。先生が赴任された昭和39年は東京オリンピックの年で、それを機に「奥川並」でもテレビを購入する家が何軒かあったという。学校にテレビがついたのもその年で、自宅にテレビの無い家の人たちは、学校に集まってオリンピックを見たそうだ。東洋の魔女で有名な女子バレーが優勝した時など、おばあさんたちは皆感激して泣いていたという。
 「奥川並」など北丹生六ヶ字に電気が通じたのは昭和36年で、オリンピックの3年前。林先生が「奥川並」を離れる昭和42年頃には大方の家でテレビがついていたというから、電気がつく前までだとラジオの北京放送くらいしか入らなかった状況を思うと、短期間で急激な変容とげたということになる。様々な情報が流れるテレビの出現は、外の世界をほとんど知らない子どもたちにとっては大変なカルチャーショックだったことだろう。写真は7年前に写した「奥川並」集落跡で見た壊れたテレビ。このテレビの前に陣取り、目を輝かせて画面に見入る子どもたちの姿が目に浮かぶ。





2007年(平成19)撮影


 林先生が赴任されている時から「炭もあかんし、もうこの村も・・」という話は出ていたという。そしてその言葉どおり、先生が奥川並分校を転出された2年後に「奥川並」の人々は集団移転し学校は廃校、村は廃村となる。そのことを聞いた時、「やっぱり来たか・・」という思いとともに何とも言えない寂しさを感じられたという。
 その後、先生が「奥川並」を出られて二十年ほど過ぎた頃に奥川並分校を見に行かれている。その時はもうほとんどの家が倒壊してしまっていたが、学校はまだ残っていたそうだ。その光景を見て「木の橋が落ってもて、丸太ん棒だけが残ってた。もう涙が出た。」という。それは、当時のいろいろな出来事、学校や村の風景、子どもたちや村人たちの姿、温かい交流、そしてそこでガムシャラにがんばっていた若い日の自分、それらあまたの思い出が湧き出るとともに、今のその荒れ果てた光景との余りもの違いに、ことばにならない寂しさや切なさが感じられたからに違いない。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 今の分校跡の光景を見てそれらのことを思うと、やはり時の流れを感じざるを得ない。ここに学校があったことさえわからず、それを伝えることさえされないまま、この先、静かに自然へとかえっていく。この地にあった人々の生活は人がいなくなるとともに消え、その痕跡は時が流れるとともに朽ち、やがては周りと同化し見えなくなる。そしてあとは自然に覆い隠される。それが自然の流れなのだろう。





 幸い周辺はダムに沈むことなく、自然環境も残されそうだが、この中途半端に終わってしまったダム計画の裏には多くの人たちの大切な故郷や、故郷への思い、生活、そして国民の多額の血税などが犠牲になっていることを忘れてはいけない。感傷に浸るのではなく、また時代に流されたなどという簡単なことばだけで済ますのではなく、なぜ村々や人々がそこから消えていかなければならなかったのか、そのことを考えると、新しく多くのものが見えてくるような気がする・・など思えてならない。






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【2014/06/17 00:47】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#235 春の地蔵峠、寒坂そして「保月(旧・脇ヶ畑村)」へ
~  春の地蔵峠、寒坂そして「保月(旧・脇ヶ畑村)」へ  ~






 「杉」を出発して「保月」へと向かうことにした。

 再び山間の林道に入り、少し坂を下った後に標高をぐっと上げながらしばらく進んでいくと、右手に見えてくるのが古びた地蔵堂。3本のたいそう立派な杉の巨木に、左右、後と守られるようにしてひっそりと佇む小さなお堂だ。鈴鹿のバイブルともいえる『鈴鹿の山と谷(著:西尾寿一)/発行:ナカニシヤ出版』によると、この地蔵堂は北側の小鍋尻山と南側の地蔵山(日山)の鞍部に位置する峠にあり、そこは地蔵峠あるいは保月峠とも呼ばれているとある。また林道ができる以前の旧道は、峠までがかなりの急坂だったという。脇ヶ畑を訪れる時はいつもそうなのだが、この日もここで車を停めてしばらくウロウロする。









 1972年(昭和47)発行の『脇ヶ畑史話(編集:多賀町史編纂委員会/発行:多賀町公民館)』にも、この地蔵堂に関しての記載がある。それによると、ここの地蔵さんは乳地蔵といってお乳の地蔵尊で、母乳の多い親は余ったお乳を地蔵さんに預かってもらい、逆に母乳の出の少ない親は地蔵さんに願をかけてお乳を授けてもらったとある。地元の人だけではなく、遠く京都や大阪からもお参りに来られていたというから、多くの人たちから親しまれ、愛されていた地蔵さんだったようだ。また夏の地蔵盆の時には、「保月」の子どもたちが地蔵尊のおもりをして、ここを通る人たちに盃にお酒を注いでまわり「御奉加、御奉加」と頼んでいたそうだ。そのおかげで、ここでのお供え物はたいそう多かったという。しかし残念ながらその楽しい光景も、「保月」から子どもたちの姿が消えるとともに見られなくなってしまっている。





 この『脇ヶ畑史話』が発行されたのが昭和47年。保月の小学校、中学校がともに休校もしくは廃校となったのが昭和44年の春だから、山から学校、そして子どもたちがいなくなって3年程が過ぎた頃の刊行となる。子どもたちの姿が消え、当たり前のように毎日響いていた元気な声が聞かれなくなってしまった現実は、村の未来の灯が消えていくような寂しさ。そしてその寂しさは、『脇ヶ畑史話』からも随所に読み取ることができる。
 過疎化が急速に進む「杉」「保月」「五僧」といった旧・脇ヶ畑村3集落に、明るい展望が持てない中で作られた『脇ヶ畑史話』、消えつつある村のことを後世に伝え、今のうちに残しておかなければ、そういう強い思いを感じるのである。





 地蔵峠の地蔵堂がいつ頃からあったのかは、同書にも書かれてはいない。しかし、今の峠の静けさからは到底イメージできなくても、このお堂に多くの人たちが集い、愛され親しまれたという長い歴史があったことは間違いない。その昔日の賑やかさを思いながらこの地蔵堂を見た時、今の地蔵峠がまた違った風景に見えてくる気がする。
 この日も、お堂には可愛らしい花が供えられていた。かつての脇ヶ畑の住民によるものなのだろう。雪どけを今かと待って、住民が戻って来られる「保月」の温もり、それはこの村の少し手前でもこうして感じることができる。





 しばらくすると、一台の軽自動車が「杉」方面から走ってきた。地蔵堂で見慣れぬ男が写真を撮っていたからか、お堂付近で少しスピードを緩めるものの、そのまま通り過ぎて「保月」へと走っていく。故郷へと戻る人、山仕事に向かう人、そして登山者、それら以外でこの道では滅多に人と出会うことはない。「あの車、故郷に帰って行く車なんだろうな・・」など静かな峠で一人考える。そして私もしばしの撮影を終え、地蔵峠を後にする。





 地蔵峠を越えると道は少し下り、その後再び上り坂となる。その坂を越えれば、もうすぐに「保月」の集落だ。この坂のあたりは「寒坂(かんざか)」「寒坂峠」などと呼ばれており、その名のとおり、他より一段と冷える所で、冬の時期は峠からの冷たい風の吹き上げで雪が舞い積雪も多かった。また、それゆえに、近年になってこの場所では悲劇も起こっている。出典は忘れてしまったのだが、冬の積雪時に「保月」にお住まいのご婦人が山下の集落「来栖」からの帰り道、我が家まであとわずかという所のこの寒坂で力尽きて動けなくなり、帰らぬ人となったというのだ。





 その時の状況を推察してみる。
 凍えるような寒い時期に、婦人は雪の山の急坂道を一人で歩き、杉坂峠を越え家路へと急いだ。積雪が多いとはいえ、「普段歩き慣れている勝手知った道だから」という安心感もあったのだろう。また「明日になればもっと雪は降り積もるかもしれないので今日のうちに」、そんな思いもあったのかもしれない。そして雪の中、家路につくことを選択する。しかし、雪の山坂道と寒さは思った以上に厳しく、体力はどんどん奪われていく。それでも家族の待つ我が家を目指し、冷えきった体にムチを打って暗くなった雪の道を何とか進もうとする。そして「保月」までの最後の山坂道にさしかかる。だが、ここは寒坂、これまでとは違う吹き上げる雪と厳しい寒さが、疲れ切った婦人に追い討ちをかけるかのように襲いかかる。そして、ついに力尽きる。
 薄れゆく意識の中で思うのは家族や故郷のことだったのだろうか、そのことを思うと胸が痛む。あと少し、ほんのあと少しで我が家という所での悲劇だ。









 この坂を上る時、いつもこの悲しい話のことを思い出す。この日の穏やかな春の寒坂からは想像もつかないが、雪の多い山の集落では、こういった山深さゆえの悲劇が、日常の中で普通に起こりうるものだったのかもしれない。大雪、雪崩、落石や土砂災害、鉄砲水、急な病気や怪我に対応できない医療体制・・町部では心配する必要のない危険と常に隣り合わせの生活が、そこにはある。





 その寒坂を越えて道を下ると「保月」集落が見えてきた。いつものように中学校跡の空き地に車を停める。以前にも書いたと思うが、ここにある三角屋根の古びた公衆トイレは、中学校校舎の名残り。中学校のトイレの部分だけを残して、校舎は解体されたのだった。それとこの地に建つ『脇ヶ畑小学校跡』の石碑は間違いで、ここは中学校跡だ。小学校跡はその上の高台になるのだが、もう改められる気配はないようだ。










 「保月」の村を貫く坂道を下りながら集落風景の写真を撮る。ファインダー越しの風景を見ていると、やはり「ずいぶん変わったなぁ・・」など感じる。トタン屋根を被せた茅葺き家屋は今も数軒が健在であるが、茅葺きのままの家屋はほとんどが姿を消してしまった。道沿いの家屋の跡地は整地され、今はやけにすっきりとした感じがする。そういえば道横の川とガードレールの整備も最近になって施されたものだ。
 これまでに何度も「保月」を訪れているが、その時の写真と今の風景を比較してみた。

 まず、次の2枚の写真をご覧いただきたい。今から21年前の1993年の写真だ。この時は、右側に見える崩れかけた茅葺き家屋と奥のきれいな茅葺き家屋が健在で、初めてこの風景を見た時には、「ふるさと」というイメージを強く感じたものだった。しかし下の現在の写真を見ると、そのどちらもがもう姿を消してしまっている。









 奥にあった美しい茅葺き家屋も2003年頃には、まだその美しい姿を見せてくれていたが、年月とともに屋根部より傷み始め、ついには崩れ落ちてしまう。上から2003年、2010年、2014年となる













 離村の頃には、まだまだ多くの茅葺き家屋が健在だったことを思うと、それらの大半は、何度も冬を越す中で同様に崩れていってしまったのだろう。その美しい風景が消えてしまったのが、本当に残念でならない。下の写真は、一昨年に「保月」において関ヶ原踏破隊を見に行った時に、現地でお出会いした井原耕造氏に見せていただいた写真だ。これだけ多くの茅葺き家屋が「保月」集落をつくっていたのである。それにしても、ため息の出るような美しい山村風景だ。





井原耕造氏:撮影


 下の2枚は1993年と現在を比較したもの。今の風景の方が賑やかに思えるのは、プレハブが建てられていたり、新たに木が植えられたりして人の手が入っていることを感じさせてくれるからだろう。









 次の2枚は、2001年と今との比較だ。トタン葺きの家屋は健在で、屋根も塗装され直しているものもある。また空き地に、何か植樹だろうか新たにされているのがわかる。









 これは集落の東端(五僧側)あたりの2008年と現在の比較だ。やはり植樹だろうか、新たに人の手が入っているのがわかる。ネットは鹿などの獣害から守るためのものだろう。夏場の雑草や獣害などに負けることなく、なんとか育っていってほしいものだ。









 山村の集落や集落跡を訪れた時、廃墟となってしまい、荒れるにまかされた無人の故郷を見ることは少なくない。しかし「保月」は、冬場の積雪時こそ無住集落となるが、それ以外は今も人々は健在で、村は動いている。この先、年月の流れとともに村に戻ってくる人の世代も変わっていくのだろうが、この美しい村はそれとともに動き続けていく、今の風景を見ているとそんな風にも感じるのである。





 車から降りて写真を撮っていると、「ご~~~ん」という音がしてきた。それは何度か繰り返された。下のお寺で鳴らされている鐘の音だ。そういえばここで鐘の音を聴くことはほとんどなかったように思う。ちょうど村の人が帰って来られて、鳴らしているのだろう。早速行ってみることにした。
 お寺の前には、先ほど地蔵峠で見た車が停まっている。やはり「保月」の方だったようだ。そして道の脇には、2人の男性の姿。1人は70代~80代で、もう1人は50代~60代くらいの方だろうか。年代でいうと、村が元気な頃には働き盛りだった世代と、わんぱくな少年だったという感じの世代だ。挨拶をすると「さっき地蔵峠で写真撮ってなかったか?」「ええ、山の集落が好きで・・」ということで、そのお二方に少しお話をうかがうことができた。





 こういった実際に生活をされていた方のお話は、私にとっては何よりも貴重なもので、うかがっていても本当に興味が尽きない。この日も、資料などでは決して得ることはできない貴重なお話をうかがうことができた。もちろん何10年も昔のことを思い出しながらのことなので、いかにそこで生まれ育った人でも忘れてしまっていたり、記憶違いがあったりもするだろう。したがって史料とは成り得ないものかもしれないが、当時の生活の様子がわかる、まさに‘大切な故郷の記憶’なのである。





 まず小学校のことをうかがってみた。これまでに中学校の校舎は、廃校後ではあるが実際に建物を見ることができたし、写真などでもいくつかの年代のものを目にすることもできた。しかし小学校は、現物はおろか写真さえも見たことがない。今は基礎のコンクリート部分とトイレ跡が残るくらいで、そこから形などを想像するしかない。うかがってみると、建物は平屋で、中学校より早く潰れてしまっていたという。
 お2人のうちの年配の方の方の息子さんが、小学校の中学年の頃に休校となったというから、この方のご家族は学校が無くなるのを機に山を下りられたのだろう。最後の頃の生徒数は「20人くらいやったかなぁ・・。」のことばからもわかるように、在校生がいなくなるから休校になったというのではなかった。ただ、それより前に「学校が無くなるかもしれん。」という噂が流れていたようで、そのことを不安に感じて離村を決断した家庭も少なくなかったという。もちろん、炭焼きや山仕事では食べていけなくなってしまったというのも、村を離れる大きな要因ではあったのだが・・。









 帰宅後に多賀町史で調べてみると、昭和40年度の脇ヶ畑小学校の児童数が25人。以後、21人、17人と減り、最後の年は9人にまで減少している。17人から9人に激減したのは、新入生が入って来なくなっていたのと、低・中学年の児童の半数が転出してしまったことにある。やはり休校になる数年前からの噂が、より離村を急がせるきっかけとなり、小さな子どもを持つ家庭が次々と山を下りていったのだろう。どの地域でも、教育環境や進学問題は離村の大きな要因。そういう意味では、今の時代においても、学校の無い地域、学校が大変遠い地域に子どもを持つ家族が新たに入っていくというのは、きわめて稀なことなのだろう。





 脇ヶ畑小学校には、「保月」の他に「杉」「五僧」からも子どもたちが通っていた。雪の季節の「杉」「五僧」の子どもたちの登校は大変だったようで、必ず親が先に歩いて雪を固めながらの登校だった。でも「保月」の子どもたちは、「わしらはすぐ前やから、楽やった。」そうである。「杉」もそうだが、特に「五僧」は道路事情が悪く、雪の日の登下校は特に大変だったことだろう。

 その雪だが、昔はもっと寒くて積雪も多く「2mは積もった」そうだ。ひどい時は積雪のため電柱が埋まり、電線が膝のところあたりになったというから、豪雪地帯の「中河内」ほどの積雪量だ。その頃は30軒程の家があり人も多く、村の中央の太い道は雪が踏まれて通れたものの、少し入った所では屋根からの雪などで、道はもう道として機能していない状況だったという。そんなだから、「来栖」までの道は当然、車やバイクなど通れるはずもなく、学校の先生は週1回、歩いて帰宅されていた。冬場は、風呂に入った後に外に出ると、寒すぎて髪がすぐに凍ってしまったというから、やはり今とはかなり違った冬の厳しさがあったことがわかる。





 雪の話をうかがっていた時に、先述の寒坂での悲しい出来事のことも出てきた。今のように携帯電話ですぐに連絡が取れる時代ではない。その時も婦人とは連絡が取れなかったが、雪のためこの日は帰宅を中止して「来栖」にとどまっていたのだろうと村の人は思っていたようだ。それでもなかなか帰宅しない婦人を心配して「来栖」の人に聞いてみたところ、「もう出た」という返事。そこで急いで捜索隊を作って雪の中を捜しにいったという。
 お話をうかがった年配の方の方も、この時の捜索隊に加わっていたそうで、道を少しはずれると首まで雪に埋まってしまう状況なので、道の境に棒を突き刺すなどして道を探りながらの捜索だった。大雪により困難をきわめる捜索の中、ようやく雪に埋もれたご夫人を見つけたものの、その時は既に手遅れだったという。お話をうかがった年齢の若い方の方は、まだ幼い年頃であったが、やはりその時のことは今も鮮明に記憶に残っているそうだ。「今のようにすぐに電話連絡できるんやったら、あんなことにはならなかったのになぁ・・。」ということばの中に、当時の悲しみを感じるのだった。





 「(数は減ってしまったが)イワナは今でもおるよ」という意外なことばも聞かれた。川の水量が減っても、砂に潜るようにしてイワナは生息しているらしく「10年くらい前でも、年間200尾はあげたなぁ。」という。もちろん地元の谷を知り尽くしてるからこそできることなのであろうが、今でもイワナの魚影を見ることができるのは驚きだった。そういえば、この春に芹谷から彦根方面に抜ける途中の、ほんの小さな川にもイワナらしい魚影を見た。イワナもアマゴも昔はずいぶんといたそうだが、山が変わり、川が変わり、人が入り、そしてどんどん減ってしまったのだろう。





 お寺の道向こうにある招魂碑についてもうかがってみた。「保月」の戦没者は他に比べて多かったというのは、以前にも聞いた話だが、やはり村の誰もが思っていたようだ。「なんでやろ・・みんな真面目で正直やったからかなぁ。そんなんもあったんかなぁ・・。」当時は、兵役検査の前に醤油などを飲んだりして兵役を逃れるなんてこともあったときく。招魂碑を見ると、支那事変~第二次大戦で18名の戦没者の名が刻まれている。この数字は脇ヶ畑、芹谷の各集落の中では最も多い数字だ。もちろん字の規模の違いもあるので比較はできないだろうが、それでも小さな村にとってこれだけの数の若者が異国の地で命を失ったのは、家族はもちろん村にとっても大きな悲しみと打撃だったことは間違いない。以前「保月」に訪れた時に出会った、この招魂碑の手入れをされていた方も、やはり「ここは(戦没者が)多かったんや」と言っておられた。その方は、親兄弟ではないが、いつも一緒に遊んでくれていた優しいお兄さん的な存在の方が戦地で亡くなられ、それ以来ずっと招魂碑周りの手入れに来られているということだった。
 出征の際には村人総出で峠まで見送りに行ったというが、それが最後の別れとなってしまったというのも少なくなかったのだろう。生まれた頃から互いによく知り合う関係、そういうお兄さんのような、我が子のような彼らを涙で見送り、そしてさらなる涙で迎えなければならなかったことの心痛は計り知れない。その大切な人を失った悲しみの記憶は、いつまでも人々の心から消えることはないのである。





 「茅葺きの家は次々潰れていったなぁ・・。」「あった頃の村の風景は見事なもんやった。ちゃんと保存してたら、あの合掌集落みたいに(美しく)なっとったんとちがうかな。」ということばのように、昔の写真を見ても本当にそう感じる。しかし、こういった茅葺き集落の生き残る道は実に難しく、後に世界遺産になった岐阜・富山の合掌集落や、京都の美山、滋賀県でいえば在原集落(昨年の火事で数軒焼失)などの今も残る茅葺き集落は、極めて稀な存在といえよう。まして山深く、積雪も多く、行くことさえ困難な場所では、人が離れるとともに家屋は荒れ果て倒壊し、人知れず消えていく。個人の力ではどうにもならない現実がそこにはある。





 「今でも宮さんや寺の行事では、村の人が集まるんや。この4月の時は中日新聞の取材もあった。」ということで、私自身も同新聞を取っているので、この記事を見たことを覚えている。その時の記事(中日新聞2014.4.16びわこ版)を改めて見てみると、宮さん(八幡神社)の春祭りで「保月」の元の住民の方が30名程集まって旧交を温めたことや、春と秋の例祭以外に、8月には全国に散らばった元住民が参加する「故郷を愛する会」も催されていることなどが書かれている。また多賀町では、「保月」のような活動が続く集落が5、6カ所あることも書かれていた。人が住まなくなったといっても、そこには人々の思いが健在で、村は動いているのである。
 多賀町の芹川周辺の谷や鈴鹿の山腹にはいくつかの廃村が点在しているが、そのどれもが、そこに住んでいた人たちにとっては大切な故郷の地であり、心のよりどころの地だ。そのことが、この記事からも読み取れるし、今回の「杉」~「保月」の訪問でも強く感じられた。訪れる外部の者は、その思いを感じ取り、そして接することが最低のマナーであり、礼儀でもあると、改めて感じる次第だ。





 いただいた缶コーヒーを飲みながらの半時間くらいの短い時間であったが、お2人からは実際にそこで生活した人にしか語り得ない貴重なお話をうかがうことができたように思う。そして新たな動きが随所に見られる「保月」の風景からは、何か以前より活気が感じられるような、そんな印象も受けた。世代から世代へ、うまく引き継がれているのかもしれない。5年後、10年後、「保月」がどのような山里の風景を見せてくれているのか、少し楽しみな気がする。





 この春の「杉」「保月」訪問では、思わぬ動物たちとも出会うことができたので、最後にそれを紹介したい。といってもすぐに逃げられてしまい、うまく撮影ができなかったのだが、どちらも普段はなかなかお目にかかれない相手。
 上の写真はアナグマだ。これまでアナグマは1度しか見たこと無かったが、この春はなぜか出会う機会が多く、「杉」「保月」「男鬼」などで5回程見ることができた。ただ、いつも先に気づかれてしまい、きちんと撮影できなかったのは誠に残念で仕方がない。
 そしてもう一匹はリスだ。これまでにも何度か出合ってはいるが、動きが早いため撮影はできていなかった。それが、今回は幸いにも、逃げるところをなんとか撮影することができた。

 とても長くなってしまった今回の「たまに一言」。この2枚の、構図も定まらないようなぶれぶれ写真だが、締めの写真としたい。










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【2014/06/06 19:49】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#234  春の「杉」集落(旧・脇ヶ畑村)にて
~  春の「杉」集落(旧・脇ヶ畑村)にて  ~






 久しぶりに旧・脇ヶ畑村の集落を訪れた。下界ではとうに桜が散っている、4月下旬のある日のことだ。鈴鹿山脈北部、その中腹(標高500~600m)に位置していた旧・脇ヶ畑村には、「杉」「保月」「五僧」という3つの集落があった。今でも、穏やかな気候の時期などにはかつての住民が帰ってこられる所もあり、倒壊した家屋の跡地に新たにプレハブやログハウスなどが建てられたりもしている。もちろん積雪時にはもう村への道が除雪されることは無いので、その間は閉ざされた集落となってしまう。それでも「保月」などは、冬季をのぞくと今でも大いに生活の温かみを感じることができ、訪れる者に静かな山里の生活の雰囲気を味わせてくれる。





 一昨年だったか、鹿児島県の伊集院町(現・日置市)の郷土の英雄、島津義弘公を偲んで毎年鹿児島県からやってくる関ヶ原踏破隊と出会ったのもここ旧・脇ヶ畑村。普段は静かな山里にも、その時ばかりは子どもたちの元気な声が山に響いたものだった。踏破隊は、岐阜県から山越えでやってきて「五僧」「保月」「杉」のいずれをも通って多賀へと向かう。島津越えと呼ばれる、脇ヶ畑を縦断するルートだ。その時の脇ヶ畑訪問は真夏の8月であったが、私の場合、旧・脇ヶ畑村周辺には春先に訪れることが多い。それは、雪どけを待って花開く福寿草やスイセン、下界より少し遅れて咲く桜の花、芽吹いてきた新緑の木々の葉、それらの春の彩りを満喫できるから。この日は「杉」「保月」を訪れ、時間的に可能であれば「五僧」まで足を伸ばしたい、など思っての訪問だった。





 芹谷へ向かう途中、R306から少し入った所の「一円」集落あたりから、脇ヶ畑への入り口ともいえる杉坂峠がよく見える。春には田植えの広がる田んぼの背景となり、秋には白い花の咲く蕎麦畑の背景となるこのあたりの鈴鹿の山々が作る風景は大変美しく、訪れる時はいつもこの杉坂峠が見える風景と出合うのを楽しみにしている。峠のあるあたりの標高は600mにも満たないのであるが、下からその山の斜面を見ると、峠が急峻な所に位置しているということがよくわかったりもする。













 谷の底に位置する集落「来栖」で芹川を渡ると、そこからは杉坂峠を目指す山坂道となる。しかし、その道が実にスリルのある道というか、ヒヤヒヤドキドキの道だ。道巾は大変狭く、落石もゴロゴロしていて待避所も少ない。特に標高を上げるとそれは顕著で、つづら折れの道の曲がる所以外に退避スペースは見つからない。したがって、タイミング悪く対向車が来てしまった場合、その狭い坂道を延々とバックすることになる。ガードレールなどもちろん無く、今にも岩が転がってきそうな斜面と、反対側はスパッと切り落としたように下界が見下ろせる斜面。普段は下界が見えるのは大歓迎なのだが、この時ばかりは、見えることで不安が増幅するので、できれば遠慮したいなど思ってしまう。さらに路肩も弱そうで、所々が崩れていることもあるから、否が応でも運転は慎重になる。下から見上げた時も「あんな所に道があるのか・・」と思える程だから、やはりその状況の厳しさはかなりのものだ。特に今乗っているハイエースは運転席が高いので、よりいっそうのスリルを味わえたりする。とはいえ、そういう区間は距離的にも時間的にも僅かではある。それだけに印象深く感じるのかもしれない。









 実はこの来栖~杉坂峠の道、昭和10年に新設されたもので、当時の脇ヶ畑に住む人々にとっては念願の新道だった。それにより、ようやく馬車が入れるようになったのである。それまでの多賀への道は、杉坂峠と「八重練」とを結ぶルートの山道。したがって、先の島津越えといわれる関ヶ原の合戦時に島津義弘らが通ったルートもおそらくそこだったと思われ、現在のルートとは違っている。ちなみにトラックが通れるようになったのは昭和25年だったというから、それまでの脇ヶ畑村の物資の運搬や人の移動の困難さは想像に難くない。





 幸いこの日は杉坂峠までの道で車と出くわすことも無く、途中一台の自転車を追い越しただけ。時間に余裕がなかったので杉坂峠にある御神木を見ることもせず、そのまま「杉」集落へと向かった。峠からは山間部の林道となり、転落の恐怖はなくなる。それなりに道は狭いものの、おかげでずいぶん走りやすく感じる。「そういえば以前、雪の季節にここでスタックしたな・・」など思いながら走っていくと、ほどなくして「杉」集落が見えてきた。









 この集落も初めて訪れた時と比べると、ずいぶんと変わってしまった。道沿いにあった茅葺き家屋はとうに倒壊してしまい、今は空き地となっているし、奥に見えていた立派な茅葺き家屋も、もう屋根部が崩れてしまっている。さらに「人が住んでいるのでは?」と思えるほど立派だった家々も、今は崩れつつあったり、傷みが隠せない状態にあったりする。月日の流れは確実に山里を変えていくことを、この山村の風景は語ってくれている。

















 上の4枚の写真と下の2枚の写真は、2001年8月に撮影した「杉」の写真と今(2014年4月)とを比較したもの。定点撮影とはいかなかったが、道から見える景色がずいぶんと変わってしまったのがわかる。13年という月日は、13回の雪の冬を越したこと。積雪の多いこの地域、こういった人が住まなくなった集落やそこにある老家屋にとっては、なんとも厳しく長い時間だったに違いない。その間に茅葺き家屋は全て姿を消し、以前に立派な茅葺き家屋があったことさえも、今の風景からはわからなくなってしまった。









 そんな春の「杉」集落では、咲き誇る桜がこの時の主役となっていた。もう遅いかなと思っていた桜の花だが、山の集落ではこうして美しく咲いており、その姿を見ることができたのは実に嬉しかった。そしてしばし見とれる時間は、至福の時間となるのだった。もう少ししたら、モリアオガエルの声が心地よく集落に広がり、季節のBGMとなるはず。そして夏になると、自由に伸びる雑草で集落が濃い緑で覆われ、ムクゲやハンゴンソウなども咲き乱れる。季節の移り変わりとともに、主役が変わってゆくこの集落では、もう人は主役ではなく、自然の生き物たちにそれが置き換わっているということを実感する。









 いつからかここには立ち入り禁止の看板が立てられ、そればかりかセキュリティの表示までもされるようになってしまった。それだけ不法侵入者や盗難などによる被害が多かったのだろう。大切な故郷の地を、部外者の興味本位な好奇心などで踏みにじられ、おもしろおかしくオカルトチックなことばとともにネットに晒される。さらに家屋内に不法侵入し、物品を持ち出す犯罪までもが横行する。この他にも、ゴミや不法投棄なども、こういった所ではよく見かけること。人が住まなくなったとはいえ、そこは個人の家であり土地でもある。何より、思い出のいっぱい詰まったかけがえのない場所。心無い部外者の愚行が、このような状態を招いたのは間違いない。





 一方では、サイトでこういった集落を紹介している自分自身にも、やはり責任を感じたりする。見る者は不特定多数、中には窃盗目的や一部の悪質な廃墟マニアなど、最初から悪意を持って見る者もいるかもしれない。もし、そういった者たちに手を貸していることになっているとしたら、それは実に残念なことだし、何よりも故郷を愛する集落の人たちに対して申し訳ないこと。このようなサイトを始める時から、そのことについては気にしていたことである。その一方で、このサイトを見た集落関係の方から懐かしさを綴ったメールや心温まる連絡をいただいたりもする。そしてそれは何より嬉しく励みになり、サイトを開設してよかったと思う瞬間でもあった。





 最初から悪意を持って廃墟や廃村に訪れる者たちには何を言ったところで意味はないのかもしれないが、廃村や山里などに何か惹かれるものを感じて訪れる人たちは、そこにいる人たち、いた人たちの思いを感じながら山里の風景を見せてもらう、そのように接することが大事であるように思える。そこにあるものだけを見るのではなく、その背景にあるものを意識し、少しでも考えてみる、それだけでもずいぶんと風景が違って見えてくるように感じるのではないだろうか。









 しばらく周辺をウロウロしながら山里の春を味わい、そろそろ「杉」を出発しようと、ふと車の向こうに見える家屋に目をやる。すると、何かこれまでと違った感じの風景が目に入る。道のすぐ横にある家屋だが、「あれ?こんなものあった?」というものが見える。トタン板で窓も全て塞がれている家屋の前に置かれた小さなもの。祠?犬小屋??近寄って見てみる。中には餌入れのようなものも見える。





 どうやら犬小屋のようだ。以前はたしかになかったように思える。ここで使われていたものだろうか。それにしては餌入れが最近のものっぽい。それでは、ここに新たに持って来られたもの?不法投棄であれば、わざわざこのようにきちんと置くこともないだろうし、山仕事で帰って来られた方が犬も一緒につれてきたからかな?・・などなどいろいろ考えるが、答えが出るはずもない。





 でも、このこれまでと少しだけ違った風景は何かホッとしたような、不思議な感じがした。この向こうの集落「保月」では人の生活の匂いを感じることができるのだが、「杉」においてはこれまで現地で出会う人も無く、なかなか人の匂いを感じることがなかった。それがなにかこの犬小屋らしきもののある風景を見て、少し人の生活を感じたような気がした。村在りし頃に使われていたものなのか、外部から持ち込まれたものかはわからないが、老家屋に妙にマッチした犬小屋らしきものは、何か印象に残るのだった。自然物以外、周囲は崩壊したり朽ち果てたりして、今まさに姿を消そうとしているものが多い中で、こうした身近な人工物が新たに現れたことへの不思議、それが何か新鮮だったのかもしれない。

 など、一人でわけのわからないことを考えながら、次の「保月」へと向かうことにした。






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【2014/05/18 00:17】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#233 春の「中河内」にて
~  春の「中河内」にて  ~






 平野部では桜が満開のある日、滋賀県の旧・余呉町にある、県最北の集落「中河内」を訪れた。その枝村であった「半明(はんみょう)」にある六体地蔵さんを見に行った帰りである。この時期、年によっては雪が多く残っていて、除雪されていない道は雪に埋まったまま、なんてこともあるのだが、幸いに雪は全くといっていいほど残っておらず、周囲はなんとも春らしい雰囲気に満ちていた。





 北陸自動車道の木之本ICを降りると、県境に向かってそのまま北進するのであるが、少し平担路を走った後に道は山坂道となる。山間部に入っていくほどに、それまで見えていた満開の桜も姿を消して杉林の緑の山の風景に変わる。そしてその中を、快適な舗装道路をひたすら走る。かつては難所といわれて旅人たちを苦しめた椿坂峠も、今ではトンネル工事が進められて開通まであと少しとなっている。2014年に開通予定と何かで見たことがあるが、まだ完成していないところを見ると、予定が少し遅れているのかもしれない。
 そういえば、北国街道と呼ばれるこの道がまだガタガタ道であった頃、中河内の大火の際に、消防車が坂を登れず消火活動が遅れたという話を以前聞いたことがある。それほどの急坂の道だったということなのだろう。それから何10年という月日が流れ、きれいで立派な道が取り付けられた今でも、冬場の峠越えは時間もかかるし、凍結によるスリップなどの危険も伴う。それを思うと、トンネル(バイパス)は、集落の人たちにとって積年の思いのこもった‘待望の道’なのであろう。









 その椿坂峠を一気に越えて「中河内」へと向かう。峠を越えた後は、そう時間はかからない。この日は集落手前の道路脇のスペースに車を停め、そこからは歩くことにした。なぜかというと、集落の少し南にある湧水を見るためだ。この湧水は、昨年のこのコーナーの#266「中河内の‘己知の冷水’と‘己知部(コチフ)’」でご紹介したものだが、けっこう有名な湧水のようで、外部から訪れる人も少なくない。
 しかし、近づいて見るといつもと少し様子が違う。これまでより、何かずいぶんとスッキリして見えるのだ。昨年1月の訪問時では古いままだったので、その間に整備工事が行われたようである。周囲がこぎれいに整備され、真新しい祠などが設置されて看板も新しくなっている。いつも冬の積雪のために荒れてしまうので、ちょっと規模を大きくして整備しなおしたのだろう、など思いながらさらに近づく。





 すると、その新しくなった看板を見て驚びっくり。というのも、新たに作り直された看板には、湧水名が「己知(コチ)の冷水」ではなく「小峠の冷水」と書かれているのだ。「あれ?」と思いもう一度確認するが、確かに「小峠の冷水」と書かれているている。どうやら名前が変わったようだ。別に雑誌に紹介されていることがいいこととは思わないが、いくつかの雑誌に名水として紹介されたりして、それなりにここは‘己知の冷水’として、その名が内外に定着していたはずなのだが・・。





 思わぬ、湧水の名称変更、「何か理由があったのだろうか?」ということで、そのまま集落へと向かい、地元の方にうかがってみることにした。
 まずはお墓のまわりをきれいに掃除されている男性の方にうかがってみたのだが、名称変更のことはご存じなく「コチの冷水でしょう?え?違ってるの?」と驚かれている様子だった。「あのへんは‘小峠’と呼ばれてるからかな。」と名称変更に意外な感じだった。「ここで生まれ育ったけど、今は離れているので、昔からの人に聞いてもらったらわかるかも・・」ということで、そうしてみることにした。ちなみにこの方は#266で書いた‘チコベ坂’の名はご存知だが、やはりその謂れは、もうわからないとのことだった。




 次に庭でお仕事をされている70代くらいの女性にうかがってみた。するとやはり先程の方と同様、冷水の名が変わっていることは気づいておられなかった。しかしこの場所が最近になって整備し直したことをご存知だったので「そこを整備された方が、(湧水を新しくしたかのを機に)変えはったんと違うんかなぁ・・」とのことで、正確なことはわからず。この後何人かにもうかがったのだが、ほとんどの方が名称の変更についてはご存じなく、そして名称変更の理由もわからなかったのである。
 結局、何人かにうかがってわかったことは、整備されたのは「中河内」以外の方ということ、‘小峠’という名称はその場所の呼び名(小字)であること、そして地元の方はほとんど名称の変更についても知らなかったということぐらいだった。





 「己知の冷水」から新たに「小峠の冷水」に変わった「中河内」手前の湧水は、きれいに整備されたものになり、小さな車なら停められそうなスペースも作られている。雪が積もる度に崩れてしまっていたことを考えると、手間をかけての今回の整備は、湧水の維持の負担を大きく減らすことになり、今後の存続にも大きな助けになるものと思われる。しかしその一方で、歴史ある「己知」の名が消えてしまうことは、何とも残念でならない。地元でも「己知の冷水」として定着し、その名が外部の湧水ファンにも知れているということはもちろん、もしそれが#226に書いたように日本書紀とも関わりのあるものだったとしたら、尚更そう感じてしまうのである。





 この日、‘旧・己知の冷水’のこと以外にも、「中河内」について地元の方にうかがってみた。
以前から気になっていた敦賀への道については、ある程度以上の年齢の方は全てといっていい程、山越えを歩いての敦賀行きを経験されているようだ。買い物に行くからである。北国街道が自動車の通れる道として整備されるまでは、暮らしの中でつながりの深かったのは、滋賀県ではなく福井県の敦賀。もちろん椿坂方面に出ることもあったが、「木之本」まで出るには距離も長く、難所である椿坂峠を越えてからも時間がかかる。日用品などを買い物に行くのであれば、敦賀方面に出る方が遥かに近くて楽だったのだ。その時のルートは、中河内~池河内~敦賀だ。その中河内~池河内(福井県敦賀市池河内)間は、山越え(標高:約576m)で2.5kmほどの道のりで、「中河内」集落(標高:約426m)のはずれからスタートするその山道は今も残る。ちなみに「池河内」の集落の標高は、約295mだ。









 「池河内」の少し北にある、同じ‘河内’のつく町「獺河内(福井県敦賀市獺河内)」については、資料などを見ると、その昔は「中河内」から「獺河内」へのルートで塩を買いにいくなどもあったようだが、これは「中河内」から敦賀へと向かうのとは目的地の異なる別ルートだったようだ。ちなみに、この敦賀まで歩いて買い物に行かれたという70~80代の方は「獺河内」の名前はご存じなかった。「中河内」と「池河内」は近年までつながりは深かったが、「獺河内」とのつながりはその頃はもう薄かったと考えられそうだ。





 それにしても、この狭い地域に「中河内」「池河内」「獺河内」の3つの‘河内’のつく集落の存在、やはり何か関係づけたくなってしまうのである。前の#226にも少し書いたが、「中河内」内にも「角鹿」という地名が残っており、これは「敦賀」にも通じ、関係の深さを表す。長い歴史の中で「中河内」と「敦賀」の関係は大変深いもので、もしも深く埋もれてしまった歴史が見えるとしたら、両者の間には「角鹿」「天之日槍(アメノヒボコ)」「己知部(コチフ)」「己知(コチ)」「ちこべ坂」などの、「中河内」と渡来関係のキーワードが結びつくようなおもしろい事実が見えてくるのかもしれない。





 話を‘道’に戻す。「木之本」までのバスが開通(昭和31年)する以前は、木之本方面に出る時は椿坂峠を歩いて越え、そこからは汽車(柳ケ瀬線・昭和39年廃線)に乗っていたという。それでも「そら敦賀に行く方が近かったよ。」ということなので、列車があっても日常のメインは敦賀だったのだろう。

 『ふるさと中河内(編集:ふるさと中河内編集委員会/発行:余呉町)』に椿坂峠越えの道に関しての記述がある。そこには、宿場町としての役目を終えた後の「中河内」は炭焼きを生業とする村へと変わっていったが、昭和25、6年頃までは、大八車に炭を満載し椿坂峠越えで出荷していたとある。子どもも含めた家族総出で大八車の先につけた綱を引っ張って坂を登り、下りは大八車の後に綱をつけて逆に引っ張りながら急坂を下った。そして坂を下りると子どもたちは来た道を戻って学校へと急ぎ、父親はそのまま「柳ケ瀬」まで炭を持っていって、帰りには米や日常品を購入して再び峠越えで我が家まで帰る。もちろん今のような太くて快適な道ではなく、細くてガタガタの山道だ。昭和27、8年以降は、大八車に変わってオート三輪が使われたので随分と負担は減ったようであるが、それでも道の状況はあまり変わらなかったことだろう。そういう事情であるから、「中河内」から「木之本」までのバス開通以前は、滋賀県でありながらも、より便利な町‘敦賀’との交流の方が深かったのもうなづけるのである。













 「中河内」にせっかく来たので、これまで行ったことのなかった「秋葉神社」へ行ってみた。集落の中央あたりの小高い山の上に鳥居が見える所だ。登るまでの道に咲く水仙の花が逆光に光り大変美しく、まだ桜の咲かない「中河内」の春を大いに感じさせてくれる。石段を登ると見えてくる祠も大変新しいものとなっており、祭神様は今もここから村を火から守ってくれている。祠の向こうは広場になっており、ここでは村の全員が集まる園遊会が毎年7月に行われていたという。今現在も行われているのかは確認できなかったが、かつては屋台も出て村を挙げて多いに盛り上がっていたそうだ。そして、この広場から見おろす景色もなかなかのもの。県境の栃ノ木峠への道がよく見える。部外者の自分なので長居は控えたが、なんだかずっと見ていたくなるような秋葉陣屋からの春の風景だった。









 先にも書いたように、もうすぐ椿坂峠のバイパスが完成する。そうなると今の椿坂峠への上り下りの道は利用が極端に減り、いずれは登山者くらいしか利用されなくなるのかもしれない。八草峠、石榑峠などはトンネルが完成するとともに、かつての峠道は利用されなくなり、整備もされなく通行止めになったりして、ほとんど廃道状態となってしまった。ここもそうなってしまうのだろうか、など心配しながら帰り道は椿坂峠で車を停めてみた。「いずれ見れなくなってしまうのだろうか・・。」など考えると、妙に寂しい風景に見えてくる。









 夕暮れ前の峠だが、残念ながら展望はそれほど良くない。下界が広く見渡せるなら印象も大きく変わるのだろうが、見えるのは山と今ある道くらい。この道はもちろん昔からある道ではなく、近年になって取り付けられたものだ。だが峠の位置そのものは昔と今とはそう変わっていないだろう。その峠には、一体の古びた地蔵さんの姿が見える。「かりかけ地蔵菩薩」という名が書かれているが、かなり荒れてしまっている感じだ。供えられる花も無く、花瓶代わりの瓶も割れたまま・・。まわりを見渡しても咲いている花など無く、私自身お供え用の花を持ってくるほど気のきいた人間でもない。せめてもと思い新しいお茶を入れさせてもらった。

 よく見ると、この地蔵さんには首がないようだ。近くの菅山寺には首無し地蔵(石仏?)がけっこうあるし、栃ノ木だったかどこかの地蔵さんにも首がないと聞いた気がするが、そんなに珍しくはないのかもしれない。祠の奥の方からはブーンという羽音のような音が小さく響く。何かオカルトファンの格好の題材になってしまいそうだが、私自身はそんなことよりこの「かりかけ」の謂れが気になって仕方がない。おそらくなんらかの言い伝えでこのような名前となったのだろうが、帰宅後に調べてみても残念ながらわからなかった。









 峠の風景をしばらく見た後、ふと下を見るとアスファルトの隙間から、まとまって伸びるツクシと愛嬌あるフキノトウの姿。「おおー!峠の春かー!」と思わず口に出る。毎年咲いているのか、種や胞子がうまく飛んできたのかわからないが、コンクリートやアスファルトで固められても、近くに仲間がいる限り、こうした自然は顔を見せてくれる可能性を残すもの、など感じさせてくれる。そして、バイパスができて今の峠道が廃道になった時、こういった自然の生き物たちは案外ホッとするのかもしれないなぁ、など思いながら夕暮れの峠の春を少し味わった。






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【2014/04/15 00:50】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#232 春の芹谷にて
~  春の芹谷にて  ~






 久しぶりに芹谷を訪れた。鈴鹿山脈最北部を水源とし、琵琶湖岸(彦根市)へと注ぐ芹川。その芹川の上流部にある谷で、行政区分でいうと犬上郡多賀町ということになる。杉林の山の急斜面に挟まれているため、日中でも薄暗い谷ではあるが、四季それぞれにとても美しい風景を見せてくれる。私はこの谷が好きで、多い時は毎週末毎に訪れていたものだが、最近は道の工事なども多かったこともあり、訪問は久しぶりのこと。といっても、今年の初めに雪の風景を見に訪れてはいるのだが、それでも一時期に比べるとずいぶんとその機会が減った気がする。









 この日は、毎年恒例の福寿草の花を見るための訪問。春の知らせを告げる美しい黄色い花が、冬枯れの地味な色の風景の中で咲く様子はとても印象的で、例年これを見に行くのを楽しみにしている。黄色に輝く花がたくさん咲くその様は、長くすごした冷たく薄暗い時期を終えてようやく暖かい明かりが灯された、そんな風にも感じるのである。





 そういう美しい福寿草だが、実は毒を持っている。それもかなりの強い毒性があるそうで、食べたり煎じて飲んだりすると死に至ることもあるという。ただその毒のおかげか、鹿などの獣に食べられることも無く、今も鈴鹿では元気な姿を見ることができる。たいていの植物を食べ尽くす鹿の繁殖により、この周辺でも多くの植物が姿を消しているが、そんな中でも生き残る福寿草にとって毒は身を守るための貴重な能力なのだろう。ただ、そんな福寿草も、自宅へ持ち帰るために根こそぎ掘り起こす人間に対しては、残念ながら対抗手段を持たない。





 福寿草の撮影に訪れたのは、鈴鹿の山腹にある集落。その昔は多くの家と、そこに住む人々の生活のあったこの集落も、今では崩れ落ちた家屋も多く、人の姿はなかなか見ることができなくなっている。少し前は冬場でも生活をする人の姿はあったのだが、今年はその方も積雪の季節は山を降りられているようで、戸は閉まったまま。このように、人々の生活の温もりが年々薄れていく様子を見るのは、仕方無いとはいえ何とも寂しく感じる。今年初めに雪の風景を見に訪れた時も、この集落には人の姿は全く無く、足跡なども全く無かった。降り積もったままの新雪に覆われた静寂の風景が、そこに広がるだけだった。









 訪れたこの日は1台の車が停まっていた。その横に車を停め、いつもの場所まで行き早速撮影に入る。ここ数日の暖かさもあってか、けっこうたくさんの福寿草の姿があった。やはり美しい。黄色の花びらは日の光を受けてより美しく輝き、花びらについた朝露の透明の雫が光る。その、なんともいえず清々しさのある姿を、撮影中はカメラのファインダー越しに思い切り感じることができる。そのことが大変心地よく、ひたすら撮影する。









 しかしここは、大部分が杉林という山の中。この時期は花粉が多く飛んでいるようで、花粉症の自分にとっては大変辛い状況でもある。暖かなこの日は特に多く飛散しているようで、息をする度に大量の花粉を吸い込み、クシャミと涙が止まらない。我慢しきれず思い切りクシャミすると、その大きな声が鈴鹿の山にこだまする。どこまで聞こえているのだろう、など思うと少し恥ずかしくなるが、人の存在を示すのにはいいのかもしれない。クシャミや涙に悩まされながらの撮影もこの季節ならではのものだ。





 そうしていると、先程の車の所に人の姿。60~70代くらいの男性だ。挨拶をすると「まだ花は開いていないでしょう?」ということば。福寿草を撮影しにきていることが、相手の方にも伝わっているようである。時刻はまだ10時前で、たしかにこの福寿草の咲いている所は、朝の光がまだまばらにしか当たっておらず、花びらを閉じているものも少なくない。光に包まれると開く花びら、今目の前にあるたくさんの花たちももうすぐ開く。それは、これらの花も春の季節の温もりを敏感に感じながら生きているのだということを感じる時でもある。実は私自身は、この花びらを開きかけている時の福寿草の姿が一番好きだったりする。









 少しだけその方とお話をする。この集落で生まれ育った方とは、これまでにも何人かと話をする機会があった。その中で、以前のこのコーナーでも少しご紹介した「谷の底の小学校まで山道を走って通う」ということを、この方にもうかがってみた。するとやはりそのことは、この方の世代の時にもあったようで、山道どころか、道からはずれた最短コースを選んで元気に駆け下りたという。それだけではなく、帰りの上り坂も競争しながら駆け上がったとのこと。今のような立派な道はもちろん無い。ただ、現在杉林になっている所が一面の畑だったため、見晴らしは今とは比較にならない程良かったはずだ。高原を駆け下り、駆け登る、そんな感じだったのかもしれない。それにしても、やはり山で育った子どもたちの体力は計り知れない。









 獣害についてもうかがってみた。今はもう、何を植えても鹿と猿にやられてしまうため、大がかりな柵などの対策をしなければ畑などはほとんどできなくなってしまっている。畑どころか花壇に植える花なども、ことごとく食いつぶされてしまう。以前は季節になると大変美しい花をたくさん咲かせていた道沿いの紫陽花も、鹿に大半がやられてしまい、今はその姿も鹿の背の届かない所に限られてしまっている。その鹿と猿も、集落に多くの人々の生活があった頃はさほど多くなかったという。畑ではゴボウやコイモなどがたくさん収穫され、山では林業が盛んで、それらが人々の生業となり得ていた時代、そういった時代が終わりを告げて畑が杉林へと変わり、若い人たちを中心とした世代が次々と山を下りて急速に人口が減り始めてから、今のような状況へと変わっていく。





 ところが、その鹿も現在食べるものが不足し、杉の木の皮を剥いてまでして食料不足を補おうとしている。その方の「飢え死にした鹿を見ることもある・・」ということばからは、鹿にとっても食料の無い苦しい時代になっていることがわかる。人も住めない、獣も餌不足で住めない、そういう山になってしまったということなのだろうか。そういえば、谷を流れる芹川にも魚の姿はほとんど見られない。以前は漁協が稚魚の放流などをしていたが、今はそれも行われなくなっている。時折見かける釣り人の様子を見ていても、釣果の上がっている気配はほとんどないのである。





 「この辺の家は、みんな大阪の方へ出てしまった・・」「遠くへ出てしまうと、なかなかこっちへ帰ってくることも無いし、家もこんななってしまう。」と語る視線の向こうには、崩壊した家屋が撤去され更地となってしまった土地や.今まさに崩れつつある廃屋たちの姿がある。私がこの集落に訪れるようになってからも、多くの家屋が倒壊し、村の様子は大きく変貌している。ここ数年のうちでも、立派な家屋が取り壊され更地となってしまった。といっても、もちろん新しく家が立てられるはずも無く、今は広々とした空き地があるだけだ。









 「庭に花が咲いてるから、写真を撮りにくるか?」ということで、おことばに甘え、その方の庭まで案内してもらった。獣たちからの被害を避けるために柵が張り巡らされた庭の片隅、そこには一面に咲く小さな白い花の姿があった。人や獣から守るための柵が施された中でようやく生き続けることのできる小さな花、かろうじて生き延びているその姿は、もはや人の手で守られていないと絶滅してしまうという厳しい状況を伝える。この方の愛情に支えられて今年も花を咲かせた小さな花、きっと何10年と大切にされてきたに違いない。「私はもう帰るから、あとは柵を閉めといてくれたらいいよ。」ということで、しばらくそこに1人残り、その白くて小さな花を撮影させてもらった。なんて名前の花なのか帰宅後に調べてみると、それは「セツブンソウ」という花。節分の頃から開花を始めるこの可愛らしい花は、以前ならば芹谷でも多く見られたのだろう。しかし山一面が針葉樹へと変わり、増え続ける鹿たちの餌となり、さらには観賞用にと心無い人間に持ち帰られるなどして、もはや絶滅寸前になってしまった。同様にカタクリの花の多くも姿を消してしまったというから、生きるために食べざるを得ない鹿の場合と違って、人間の罪は深い。





 庭の柵をしっかりと閉じて、再び福寿草の撮影に戻る。すると、奥の廃屋の方から盛んにドーン!ガタン!などという音が聞こえる。誰かいるのだろうかとそちらを見ても誰もいない。撮影に戻ると、またその音が大きく響く。何だろうと近づいてみると、そこには猿の群れ。廃屋の周辺で餌を探しているようだった。こちらの姿を見ると逃げていくのだが、最後まで残る1匹の猿の姿がある。望遠レンズで見てみると、それはかなり痩せた老猿。人が近づく恐怖より、空腹を何とか満たすことが先決だったようだ。猿たちにとっても餌不足は深刻であることが、その老猿を見て感じることができる。そう思うと、猿も変貌した環境の犠牲者なのかもしれない。









 先程まではまばらにしか日が当たっていなかった福寿草だが、今は広く日が当たっている。撮影しているとブーンブーンという音が聞こえてくる。黄色く鮮やかに咲く花の蜜を求めて、ミツバチが集まってきているのだった。カメラのファインダーで追いながらその様子を見ていると、なかなかおもしろい。一生懸命に花から花へと飛んで蜜を吸い、頭やらなんやらを花粉だらけにして、足には花粉団子を作っている。そして次の花へと飛んでいく。花からは蜜をもらい、そのお礼ではないだろうが、蜂は花の受粉のお手伝いをしている。二者はうまく共生しているのである。どちらかが欠けても、もう一方はそこでは生き続けられなくなるという大切な関係がそこにはある。そういった周囲との関係がバランスよく築かれて、生き物は生きていけるのだということを感じさせてくれるこの関係は、自然界の中では不可欠なことだ。









 人間もかつては自然とうまく共生して生きていた。その頃は自然の中に神を見出し、神を崇めることで自然を大切にし、自分たちもその中の一部としてうまくバランスをとりながら生きてきた。その一つの完成形が里山という、最も日本らしい風景だったのではないだろうか。今回訪れた集落はもちろん、この他にも芹谷周辺にはたくさんの美しい里山があった。しかし山も周囲の環境も大きく変貌していった。かつての風景の面影が、時の流れとともに消えていくことは仕方のないことだが、そこで失われるものの大きさを考えてみるのはとても大事なこと・・、そのように思えてならない。






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【2014/03/22 21:59】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#230 今は無き開拓集落「横道」
~ 今は無き開拓集落「横道」 ~






 以前のこのコーナー(#225)で、滋賀県の開拓地のことについて少しご紹介した。そこでもふれているが、第二次大戦の敗戦(昭和20年)により荒廃した日本は、終戦対策の急務として開墾・干拓事業を全国的な規模で実施している。それは、数十万という海外からの引揚者や国内の数百万もの失業者に仕事を与えること、ならびに食糧不足に悩む国民のためへの食糧増産などを目的としたもので、きわめて緊急を要したものだった。
 まずは5ヶ年で実施することが決定され、敗戦から3ヶ月後の昭和20年11月に「緊急開拓事業実施要領」が制定された。また、程なくして滋賀県内においても開拓課が設けられて、開拓事業実施にむけての体制が県レベルでも整えられる。しかし緊急的に実施されたこの事業、十分な準備計画が成されての実施にはほど遠かったようで、2年後の22年10月には「開拓事業実施要領」が新たに制定されることになる。適地の選定、土地配分、営農計画、入植選考などの調査・計画が不十分で、開拓者に必要な資金や資材が与えられなかったり、開墾の進め方に手直しが必要であったりなど、当初計画どおりの実効があがらなかったからだというから、やはり緊急による弊害も多かったようだ。





 このようにして始められた開拓事業であるが、文字通り荒れ地を開き(拓き)、食糧増産に寄与して成功を収めた開拓地がある一方で、いかなる努力も功を奏さず、悲しむべき結果しか残すことのできなかった開拓地もある。
 厳しい自然環境に行く手を阻まれたのはもちろんだが、開拓地としての可能性さえ元来無いような、そんな所が選ばれていたという現実も否定はできない。そしてそこには、混乱した時代であったからという理由だけで終わらせるには、あまりにも惨いと思われるようなドラマも展開している。苛酷な労働や血のにじむような努力を重ねがらも何一つとして報われるものは無く、ついには過労と未来への絶望感は、入植者たちの命をも奪うに至る。そして最終的に残ったのは喪失感と愛する人を失った悲しみ、そして多額の借金だけという、なんとも残酷な現実がそこにはあった。今ではもうその頃のことを詳しく知る人も少なく、わずかな資料でしか当時の様子を知ることはできないが、辛さのみが積み上げられるしかなかった開拓生活を送り続けた入植者たちの無念の気持ちを思うと、ただ胸が痛むのである。





 1973年(昭和48)に滋賀県より出された「開拓のあゆみ」という資料がある。そこにリストアップされている滋賀県の開拓地を見てみると46カ所。そのうち「大中の湖」などは規模も大きく、開拓(干拓)地だったということが多くの人に知られている。これら46ヶ所の開拓地は、同時期に一斉に始められたのではなく、事業開始当初の昭和21年から始められたものもあれば、30年代半ばからのものなどもあり様々だ。また開拓地の入植者も、早々に見切りをつけて違う道を選ぶ者もあれば、途中から入ってくる者もあり、入れ替わりがあるなどして一定ではなかったようだ。ただ、この46カ所はいずれも開拓地として一定の成果をあげ、資料が作られた当時も、人々の生活のあった所ばかりである。その一方で、この46ヶ所に入らなかった開拓地、つまり開拓事業として日の目を見ることの無かった影の部分ともいうべき地が存在したことも、この資料は残してくれている。





 そういった開拓地は県内では3ヶ所あった。旧・高島町の黒谷奥の「横道」、旧・朽木村の現在の朽木スキー場辺りにあった「朽木」、そして蒲生郡日野町の「四ツ谷」だ(「 」内はいずれも当時呼ばれていた地区名)。それらはいずれも志し半ばで諦めざるを得なくなり、入植者が精も根も尽き、全員離村という道を選ぶしかなく消えていった地である。このうち「四ツ谷」の開拓団は8世帯で、地元を中心とした県内の人たちばかりで構成されているが、「横道」は9世帯全てが長野県からの入植、「朽木」は12世帯(当初は14世帯)中の半数以上が長野県からの入植だ。「横道」「朽木」については、その多くが、遠く異郷の地から夢と希望を持っての入植だったわけである。
 同資料には、それらの人たちの開拓生活の手記が載せられていおり、それを読むと、40年以上たった今でもその悲しみや無念の思いが強く伝わってくる。そのうち今回は高島町の「横道」について、残された僅かな資料と当時のことを知る地元の方のお話をあわせて、ふり返ってみる。ちなみに上の写真は、「朽木」の開拓団の家屋があった辺りであるが、現在はもうその痕跡を見ることはできない。









 高島市の旧・高島町の黒谷の奥にあった開拓地「横道」は、松や雑木林そして背丈ほどのクマザサの密生する山麓の北向き傾斜地で、ここには昭和27年5月に、遠く長野県より9世帯が入植されている。だれもが、新たな地に夢と希望を抱いての入植だ。離村が昭和38年なので、10年余りの開拓生活だったことなる。以下は、先の資料『開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)』からの、黒谷横道地区で開拓生活を送られた方の手記の全文抜粋である。


「昭和27年5月長野県より9世帯が新天地を求め、希望に燃えて入植した。当地区は前述の通りの悪条件を伴う地帯であって、熊、鹿、猿が野生していた。
 9名がやっと横になれるだけの山小屋を造り。昼食を共にしながら、家族の住める住宅の建築に取りかかったのである。少しでも安く仕上げるため、附近の山から原木を買い、自分等の手で伐採、搬出し製材所まで運搬、製材、その年の10月頃全戸の住宅を建設したが、まことに形ばかりの粗末な家であった。
開発は人力で、1鍬1鍬と開いていったが、その面積も次第に増え、畑作を始めるに至った。まず第1にたばこを栽培したのであるが、気温が少し低い関係で思うような成果を挙げることができず、3年余りで止め蔬菜作に転換していった。
 蔬菜は大根、甘らん等を栽培し、京都市場へ共同出荷したが、肥料代どころか、甘らん等は運賃にも足らぬ有様であった。
 入植後5年目の32年1月に県と高島町の援助を受けて電気を導入し、全員の喜びは大きなものであった。
 はるばる長野県から入植したのであり、何とか頑張らなければと、当初の夢も持ち続けたが、収入は全く僅かで、命を繋ぐのが政府借入れの営農資金と、農作業のあいまに稼ぐ日傭賃だけで仮地なるが故に交通の便悪く、有利な農外収入は無かった。それに冬の積雪は多く、児童の通学路の雪踏みも大仕事であった。冬期間住み込みで出稼ぎするもの、内職する主婦たち、皆んなが夫々自分のできる仕事を懸命に続けたけれども、生活の困窮は改善されず、遂には過労のため病人続出し、男女3名の死者をも出して、民生委員をわずらはし、生活保護を受けなければならぬ家庭も増えていった。
 この状態は何んとかせねばと、県や県や県開拓農協連等の援助を受け、営農を共同経営に踏みきり、男子の大部分は農外収入を得るため、泊まり込みで働きに出かけ、残った一部男子と主婦たちで営農を続けた。然しながらこれも精算の結果は肥料代が払えないと云う有様であって、それこそ政府資金の償還どころではなく、借金はかさむ一方でであった。
 かくて前途に全く希望を絶たれ、不安は深刻化し、精神的打撃も大きく、共同経営も瓦解し去り、ここに全員解散を決めて、山をおりることとなったのである。
 苦難の途十年、幾多の犠牲を払ったが稔りは何一つ無かった。ただ残ったものは戦後開拓の「残酷物語」だけであった。
 昭和38年山をおりた開拓者たちは、転職する者、他の開拓地へ再入植する者等に分かれて西へ或いは東へ散っていった。」
(以上、「開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)」より全文抜粋)










 短い手記の中であるが、当時の生活の厳しさや入植した人たちの苦しい状況が生々しく伝わってくる。おそらく他地区の開拓地においても、入植者は血のにじむような努力と過酷な日々の労働、苦しい生活を積み重ねてきたことは間違いない。「横道」同様に過労による病人や死者もあったかもしれない。それでも結果が出れば報われるだろうし、苦労の末の至宝ともいうべき広大な農地を子孫に残していくこともできた。しかし「横道」の場合は、10年間にもおよぶ苦しい日々の末に何の未来も見ることができず、逆に辛い過去と絶望感しか残せなかった。この「横道」の開拓に関しては資料「開拓のあゆみ」以外に、季刊誌「湖国と文化」(1988年秋号)でも見ることができる。当時ノートルダム女子大学文学部教授の中埜喜雄先生が、実際に「横道」で開拓生活を送られた方からの聞き取り調査をされているのである。以下は、それを参考にして大まかであるがまとめた当時の状況だ。





 開拓団は、長野県の旧下伊那郡下久堅(しもひさかた)村から1952年(昭和27)に「横道」に入植した。その時の同時入植者の9戸のうち5戸が妻帯家族であった。当時の開拓団長の下見報告を頼りにしての入植であったが、故郷の長野とのあまりの気象の違いに驚く。乾湿度、積雪量、獣害(猪、猿、鹿)の有無などで、すべてにおいて長野よりこの黒谷奥の地が不利であったのだ。開墾作業は朝の4時半か5時から始まり、薄暗くなるまで休息の暇もなく続けられる。栗・ブナ・巨大松などの伐採に疲労困憊し、辛酸をなめ尽くす。それでも固い岩盤上の雑木林を伐採し、蔬菜(高島キャベツ、四ツ葉キュウリ、菜種)や煙草の栽培を試みるが、その結果については先述の手記のとおり運賃、肥料代にさえならない。また、麦の耕作は雀のため収穫はゼロという状況で、果樹栽培も獣害・虫害で惨憺たる結果に終わる。農作物を育てて収入を得るはずの開拓地で、まともな収入が得られない現実がそこにはあった。
 開墾地の1戸あたりの割当は3町歩(9000坪)だったが、実にその半分が農耕には不適地で、先の自然条件と合わせて立地条件も不適であったのは間違いなく、当然のことながら生活していく上での環境も最悪であった。入植から6年間は電気のないランプ生活で、電柱設置工事の際には、労力の提供も求められたという。交通の便も悪く、5年目でようやくバスが開通するも、バス停までは徒歩20~30分もかかる。そして、子どもたちの通う学校も合併されて廃校となってしまう。夏場にはマムシやブヨ(ハエ科の吸血昆虫)に悩まされ、さらに水利関係では地元農家と摩擦が生じてしまう。何より医療設備が貧弱に尽き、女性の出産時は難渋を極めたという。
 滋賀県からのノルマは5年間での開墾完了だった。畜産の農業行政指導も受けたもののいずれもが失敗に終わり、何一つとしてまともにことが運ぶことは無かった。さすがにこういった状況であるから、入植後2年目で早くも開墾挫折を悟るものの、既にその時は借金を抱えており逃げ場も無かったというから、先の手記にあるように、まさに「残酷物語」としかいいようがない。ただ、そういう中であるが、開拓者の子どもたちの唯一の遊びである竹スキーで、地元の子どもたちとの交流ができた。

 以上が季刊誌「湖国と文化」(1988年秋号)に掲載されている中埜喜雄先生による聞き取り調査からによるものである。やはりここでも当時の生活の厳しさが語られている。なお、ここで子どもたちのことが出てきているが、当時の小学校に開拓村の子どもたちが何人くらい通っていたのかを地元の方にうかがってみたところ、「3~4人だったかなぁ・・」という答えが返ってきた。妻帯家族が5世帯くらい、開拓生活年数が10年だったことを考えると、実数はもう少しいただろうが、小学生に通う人数はそれくらいだったものと思われる。





 これら二つの資料の他に、地元にお住まいの方が書かれた「ふるさとの山河~抒情詩で綴る~(矢盛義信:著)」という書の中にも、開拓団のことが記されている。これまでの開拓団当事者ではなく、開拓団の外からの視点で書かれており大変興味深い。なお、この書の中で開拓地の辺りは「横道平」というように表現されているが、おそらく地元ではそのように呼ばれているからだろう。そういえば北向き傾斜地とはいえ、なだらかな平らな斜面になっており、そのためそのように呼ばれているものと思われる。地元の方にしかわかり得ない内容で綴られたこういった書は、大変貴重な記録でもある。そこからも少しご紹介したい。

 まず、入植した昭和27年のこの時期自体にも無理があったのではないかということが、以下のように記されている。
「戦後の食糧事情は近年に入って急速に充実を始めていた。そんな訳で、当時としては全く時代に逆行していたのである。町行政は、当初から無謀を承知しながら推進を計ったのであった。此の日から凡そ十年間開拓団の人々は艱難辛苦の結果、政治家や行政機関らと時代の流れに翻弄され続けとうとう撤退に追い込まれていった。」(以上「ふるさと山河」より抜粋)

 また開拓地については、
「そんな中でも昭和30年初頭には、あの大原生林は伐り払われ、予定の7割強の広大な高地に生まれ変わっていた。然し高冷地と絶対的に悪い水利条件のもとでは、収益なら絶対の米作りは不可能だったから、代わるべく主に蔬菜などを中心に収益の上る作物の選択に苦労を重ねていた。そんなわけで収入は全く零に近かった。当初の生活費は入植開拓などの補助金と生活扶助等に頼っていたのだが、日が経つにしたがって借入金、買掛金などは雪だるま式に増えていった。」(以上、同書より抜粋)

 というように苦しい様子が記されている。この本を書かれた方は、当時木材業を営んでおり、開拓村の若い人たちも雇用されていた。それだけに開拓者の人たちの生活の苦しさを、より身近なところで感じられてきたのであろう。また開拓村にお住まいの方の奥さんが自ら命を絶たれた時や、開拓団が撤退を決めるという際には、我が身を削るほどに尽力もされている。これは開拓団の人たちが他に頼るあての無い状況を理解してというだけではなく、実直に働く普段の姿を見てきた故のことだったと思われる。このあたりのことについては、ここでは書き切れないので、詳細を知りたいという方は、ぜひ実際に書をご覧いただければと思う。自費出版なので一般書店での購入はできないが、地域の図書館であれば閲覧可能だ。





 取材をする中で地元の方にもお話をうかがうことができたので、そのことも少し加えておく。
 まず開拓地としての場所だが、やはり地元の人たちの間では最初から「あのような奥地を農地にするのは無理」と話されていたという。雪多き地の、しかも山の北斜面の山麓なので雪どけも遅く、温度も低く、そして日照時間も短く水利も悪い、そのような所で豊富な作物を育てることが難しいのは明らかだ。その土地のことを一番よく知る地元の人たちは、はなからああいった所での農業は困難だということがわかっていたのだ。緊急事業として始まった開拓事業とはいえ、やはり十分な調査がされなかった行政の不備であったことは間違いないところだ。
 また、周辺集落との関係だが、農地の収穫物による収入がほとんどない状況で、開拓地の人は現金収入を求めて周辺集落へ出稼ぎなどに出ていたようであったが、開拓地の人たちと地元の人たちとの交流は決して深いものではなかったようだ。お話を聞かせていただいた方は、個人的には入植者との関わりを最後まで持たれていたのであるが、やはり当時の地元の人たちからしたら、よそからやって来た者という意識もあったのかもしれない。また、あのような時代では、お互いに日々の労働に追われ、交わりを持つ余裕も無かったのかもしれない。先の利水問題で摩擦があったというのも、そのことを表しているようにも感じる。
 それぞれの入植者の家屋は木造で、隣り合って建てられているものもあったが、平均すると100~200mほど離れて、それぞれの家屋があったという。それからすると、広大な土地に家屋が点在していたという感じなのだろう。ただ先の手記にもあったように、家屋自体は「形ばかりの粗末な家」である。土地のゆったりとして広々としたイメージとは裏腹に、その日常の生活の厳しさは想像できる。













 今「横道」の開拓地跡周辺には立派なキャンプ場ができている。また開墾した開拓地は、入植者が去って以降はまた山林へと戻り、その後別荘地として分譲開発されたりしているものの、ごくわずかな別荘が建っているだけで、再び自然に還りつつある状態だ。そうした中、開拓村のあった辺りを歩いてみた。「湖国と文化」(1988年秋号)に掲載された頃には、現地には家屋の残骸が残されていたようであるが、それからさらに25年も過ぎた今となっては、もちろん残ってはいない。ただ別荘分譲地の中に、不自然な古い石垣などが残されていた。おそらくこれは開拓地の頃の名残りであると思われるが、確かなことではない。その石垣は、地元の方のお話にあった、100~200mほど離れて建てられていたうちの一軒が、土地造成時にも壊されること無く残っていたものなのかもしれない。だとしたら、かつてこの地で懸命に生きた人たちの唯一の痕跡となるのだろうか。そんなことを考えながら周辺を歩く。













 今ある直線的で不自然な林道と背の低い木々の林からは、開拓村だった頃の様子は想像がつかない。しかし、50年余り前には間違いなくここに毎日の開墾作業に汗を流す人たちがおり、そしてこの地で誕生したであろう子どもたちもいた。入植中に生まれた子どもたちは、今は50~60歳くらいになっているはずだが、果たしてその人たちは生まれ故郷となるこの地の風景を覚えているのだろうか。ここで苛酷な苦労をした親の世代にとっては、この黒谷奥の「横道」の地は思い出したくない過去なのかもしれないが、無邪気に幼少期を過ごした世代の人たちは、この地のことをどう思っているのだろう。もしかすると、生活した僅かな期間のことは、苦しい思い出しか持てなかった親の思いとともに消えてしまっているのかもしれない。
 
 そんなことを思いながらしばらく歩いた後、山越えで琵琶声向かう鵜川村井林道に行ってみた。そして標高を上げて開拓地の方をふり返ってみたが、そこに見えるのは普通の山の風景だけ。当たり前であるが開墾地の風景は、もう見えない。しかしこの地に、志半ばにして去らざるを得なかった人たちの汗や涙が染み込んでいることを思うと、それらの風景もまた違った風景に見えてくるのである。






※参考資料
 「開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)」「湖国と文化(1988年秋号)」
 「ふるさとの山河~抒情詩で綴る~(矢盛義信:著)」




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【2013/04/25 19:32】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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