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#231 根室本線「上厚内駅」のノートより
~  根室本線「上厚内駅」のノートより  ~






 昨年、北海道を訪れた時にたまたま立ち寄った上厚内駅(根室本線:北海道十勝郡浦幌町厚内)は、無人の小さな駅。かわいらしい木造駅舎の佇まいとその周辺の風景をもう一度見たくて、今年も訪れてみた。昨年訪れた時は、駅近くの民家で畑仕事をされている方を一人見かけたが、その方以外に人の姿を見ることは無かった。そして今回も、やはり周囲に人の気配はほとんどない。民家や作業場などがあるので人がいることは間違いなさそうなのだが、なかなか出会えることはない。この日も人の姿を見ることは無く、結局、材木を満載して走りていくトラックと、ここをなわばりにしているらしい1匹の鹿と出会っただけだった。









 今回の訪問は、昨年より一ヶ月ほど遅れの訪問だが、駅前通りには同じようにコスモスの花が咲き,その中に少しだけ咲くハンゴンソウが、色合いに華を添えていた。しかし、ハンゴンソウはもう終わりのようで、枯れてしまっているものも少なくない。コスモスは今が最盛期なのかもしれないが、それでも道端に控えめに咲く様がなんとも美しい。歩く人がないせいか、歩道いっぱいに自由気ままに咲く花たちの様子が、何か今のこの町の状態を表しているようにも思える。このコスモスが自由に咲いている上厚内駅前、自分にとっては日本一の美しい駅前通りなのである。













 駅を出るとすぐ見える小学校跡も昨年のまま。今の静けさからすると、小学校があったことなどとても信じられないくらい寂しくなった町の風景だが、この学校跡は、かつてここが子どもたちの声が響くにぎやかな町だったことを、今も伝えてくれている。残念ながら校舎はもう残ってはいないが、それでも学校があったことの雰囲気が残されているのが何とも嬉しい。廃校となったのが1982年というから、ここに子どもたちが通っていたのはもう30数年前のことだ。





 そのグランドの隅に車を置かせてもらい駅へと向かう。前回来た時は、「うすいピンク色の駅舎」というイメージだったのだが、天気が良くないせいもあるのか、なんだかずいぶんと色が違って見える。ピンクの面影はなくくすんで色褪せてしまった感じだ。たった1年で大きく変わることはないのだろうが、わずかな時間でも老朽化が進んでいることは間違いない。それにしても極めて利用客が少ないと思われるこの駅の老駅舎、あと何回厳しい冬を越せるのだろうか、など心配してしまう。北海道でよく見る、廃車両を再利用した駅舎に置き換えられる日が来るとしたら、それはなんとも寂しいものである。





 駅舎の中に入ってみた。古い木造駅舎が持つ、独特のなにか寂しくも温かい感じがする。ふと目をやるとノートがある。「ここを訪れた人は、なんでも綴ってくださいよ」という感じで置かれているノートだ。昨年もノートは置かれており、目も通してみたものの、内容はほとんど覚えていない。目を通しても、その多くが、遠くから訪れた人たちの記念のことば的なものだから、それほど興味がわかないのがその理由だ。それでも、同じように木造駅舎を訪れて、その温かな雰囲気に感銘したことばなどが書かれているのを目にすると、なんだかホッとする。今回の旅行で、こうした小さな無人駅をいくつかまわっているが、何カ所かには同じようにノートが置かれていた。中には残念ながら落書き帳のようになってしまっているものもあった。所によっては、ノートが持ち去られてしまったということも起きているという。そのような愚かしいことをするのは、ごく一部の者たちなのであろうが、そのモラルの低さには驚くばかりだ。地元の人が大切にされている小さな駅舎、訪れる外部の者も大切に接したいものだと感じる。









 その置かれているノートに、今回も何気なく目を通してみた。するとそういった訪問記念的なものの中に混ざって、ちょっと違った感じの一文が目に入った。珍しく地元の人が書いたもののようである。以下がそれの全文なのだが、出版物であれば引用元等が記せるのだが、今回の場合不特定多数が読み、不特定多数が自由に書ける駅に置かれたノートなので、書かれた人の名は書かれておらず、もちろん出版元などあるはずもない。そこで、とりあえず「上厚内駅内のノートより抜粋」という形で紹介させていただくことにした。


 「この駅に来たのは何回目だろう・・・。毎回、寝過ごして上厚内で降りるという形が出来てしまいましたね。今までは特に何も思わずこの駅をおとずれていましたが、今年の4月からは愛知県にいってしまうのでなんか寂しいですね。生まれ育った土地を離れ新しい人生を送る。楽しみと不安がごちゃまぜという感じで、まだ、親に恩返しできていないのに、とか じいちゃん、ばあちゃんの事を考えると、道内に就職でもよかったんじゃないかと思うくらい。でも、親も覚悟を決めて送り出してくれるんだろうから精一杯向こうで頑張ります。
なんか自分の事ばかりですね(笑)

 やっぱり、今まで当たり前というものが消えてしまうととてつもなく不安に感じるというね。

 4月1日、愛知に行ってきます!


 寝過ごした浦幌町民は絶対書くこと!いいね!


 ○○高校 ○○科 ○○番より



 寝過ごしたぁぁぁぁぁ!!」


(以上、『上厚内駅のノート』より全文抜粋。 ※学校名等は○○と表記させていただきました)






 短い中でも、何かとても心打つものを感じさせてくれる心のこもった文章。書かされて書いた作文ではなく、自分の中から自然と出てきた思いを綴ったことば。読み終わった後、私の中にも何かじわーっと感じるものがあった。
 位置関係からすると、浦幌から帯広の高校に通っていた方なのだろう。卒業をあと1ヶ月後に控えたある日、帯広から浦幌へ帰る途中でついウトウトして睡眠モードに入り、降りるべき浦幌駅を通り越して上厚内駅まで行ってしまう。慌てて降りて逆方向へ戻る列車を待つが、本数がきわめて少ない路線ではすぐに来るはずもない。そうした時にこのノートに目がいき、何気なくペンを取る。考えてみれば、何度もこうして乗り過ごして見てきた景色も、あとわずか。4月になれば、自分はもうこの地にはいない。そういったことを思うと、これまでの様々な思いが湧き出てくる。両親のこと、じいちゃん、ばあちゃんのこと、そして故郷を離れることの寂しさ、新天地での期待と不安・・。書いたのは、おそらく男の子なのだろうと思うが、なんとも心優しい子であると感じる。家族の人たちが、もしこのノートを見たならば、きっと喜ぶだろう。じいちゃん、ばあちゃんなどは、涙涙に違いない。それにしても、2月のこの木造駅舎は本当に寒かったことだろう。





 こうして毎年、地方からは多くの若い人たちが故郷の地を離れ都会へと出て行く。そして一旦田舎を離れると、もう生活の場を故郷に戻すことがほとんどないのが現実だ。今このノートを書かれた方は、愛知県で、これまでとは全く違った生活をされていることだろう。職場には慣れただろうか、同僚とはうまくやっていけてるだろうか、彼女(彼氏?)ができて楽しくやっているだろうか・・などなど、見ず知らずで全く関係ない自分であるが、なぜか気になってしまったりする。





 読み終えて、とても爽やかな気持ちになった。何かとても素直でピュアなものを見せてもらった気がする。遠く離れていても元気で毎日をすごすのが、最高の親孝行であり、じじばば孝行。だから思い切りがんばってほしい、など余計なお世話であるとわかってはいるが、心の中で勝手にエールを送らせていただく。



 でも、ご両親やじいさん、ばあさんには、たまには元気な姿を見せてあげてください、などさらに余計な一言を最後に・・






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【2013/10/05 08:44】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#209 『椚平』(長野県諏訪市)にて
~『椚平』(長野県諏訪市)にて~






酷暑という表現がピッタリの夏のある日、久しぶりに長野県にある『椚平(くぬぎだいら)』という集落を訪れた。諏訪市大字湖南字椚平、つまり諏訪市の大字『湖南』地区の小字『椚平』ということで、少し南に下がれば箕輪町なので諏訪市の南端あたりということになる。地図で探すなら、箕輪ダムの上流部といった方がわかりよいかもしれない。『椚平』は、明治7年10月に北真志野村、南真志野村、大熊村、田辺村、後山新田村、板沢新田村、椚平新田村が合併して湖南村となり、昭和30年4月に諏訪郡中洲村とともに諏訪市に編入されている。そして集団離村により無住の集落となったのは、それから17年後の昭和47年のことである。





『椚平』にある離村記念の碑には、養蚕を主として生計を立てていた村が養蚕・水田・山林で生活できなくなったこと、町へ働きに出て現金収入を得なければならなくなったこと、青年層が流出してしまったこと、バスの運行が中止されてしまったこと、子どもたちの教育に支障をきたす環境となったこと(昭和43年の分校閉校による影響?)、等々で地区を維持することが難しくなって集団離村を決意したということが書かれてある。最終的には村は八戸となったというが、もっと少ない戸数でも人が暮らしている集落がある現実からすると、集団離村を決断したことが少し不思議に感じられたりもする。しかし、一つの集落というだけではなく、一つの区として動いて来た経緯の中で、様々な自治活動ができなくなってきたことや将来に向けての明るい展望が持てなくなってしまったこと、これらの不安が若者のいなくなって残された住民たちに重くのしかかってきたことが、集団離村という苦渋の選択だったのだろうと思われる。今から40年近く前のことである。





山の浅い谷の一本道沿いに細長く続く集落は、今も何軒かの家屋が残っており、その中には家屋だけではなく畑や庭の花などもきれいに手入れされている所もある。地元の方が今でもけっこう帰ってきておられるようで、この日も暑い中、庭で畑仕事に勤しむ人の姿が見られた。と思えば、今にも倒壊しそうな廃家屋、すでに倒壊してしまった家屋などもあり、その違いの大きさにそれぞれの事情を感じたりする。比較的近くに移住された方は、定年後や休みの日などにはこうして帰って来て畑仕事をしたり、気候の良い時には生活をしたりしているので家屋もきれいに保たれる。しかし離村して遠くへ住まわれた方は、故郷へ帰ることもできず、主無き家屋はそのまま朽ち果てていくということになるのだろう。

ここは、5年ほど前の夏に一度訪れている。その時は、周辺をウロウロしていてたまたま通りかかったのだが、寂しげで静かな村の雰囲気と、鮮やかなオレンジに近い黄色に咲き誇るオオハンゴンソウが大変印象的であった。倒壊しかかっていた家屋が倒壊してしまっている以外は、その時の風景とそんなに変わりがないのは、今もここを故郷とされる方が帰ってきておられる、そういうことなのだろう。人の温かみを受けている集落は、まだまだ村が生きている、そんな感じがするのである。





じつは今年の初めより「いちまい写真」という写真ブログを公開している。といってもことばや説明文など全く無く、毎日1枚の写真のみが更新されるだけという単純なものなのだ。「道をゆく」のサイトさえ更新ままならないのに何ということか、と思ったりもしたのだが、その時その時に気ままに好きな写真を更新するという気楽さでやっている。で、そこでこの『椚平』の写真を何枚かアップした時に、幼い頃にそこに住んでいたという方からコメントをいただいた。かつてそこに住んでいた方からことばをいただくというのは、大変嬉しいことであると同時に、今の人のいない風景しか見ていない自分にとっては特別の意味がある。朽ち果てた廃屋にも命を与えられた、古びて干からびてしまったものに水分・湿りけを吹き与えられたような、そんな感じがするのだ。この時も、頭の中の廃村の風景に息吹が与えられた、そんな気がした。そしてそうなると、もう一度『椚平』の風景を見てみたいと思うようになるのである。









この日は5年前と同様、南の方の箕輪ダムから沢川上流へと走り『椚平』にむかうことにした。まずダムの堰堤で少し休憩を取る。ダムは平成4年に完成というから、けっこう新しい。ダム湖はもみじ湖と言うそうだが、連日のうだるような暑さのせいか水もよどみ、緑色の濃い水は何とも酸素不足で、そこで元気なくユラユラと泳ぐ大きな鯉も息苦しそう。また、湖岸では、暑い中であるが鯉釣りかヘラ釣りかの釣り人の姿も見られる。そういえば山の風景が好きになったきっかけは、以前凝っていた山上湖でのヘラ釣りだったなぁなど思いながら、人のいなくなった村の風景を求めて車を発車させる。途中、箕輪ダム建設の際に廃村となった集落の名残をいくつか見る。大方はダムに水没してしまったのだろうが、やはりここでも故郷を訪ねてくる人たちの温もりを感じることができた。









天竜川水系の沢川も細くなり、その川沿いのそう深くはない谷の峡路を走ると離村の碑が見えてきた。『椚平』に到着である。前回見た二階建ての半壊家屋はやはり倒壊が進み二階部は崩れてしまっている。自然の中で傷み始めた家屋の末路の訪れを感じる。雪深い地域での、人の住まなくなった家屋の倒壊までの進行の速さには驚かされるが、やはりここでも進行は確実に進んでいる。見慣れてるとはいえ、こういった風景は寂しさを感じざるを得ない。川沿いの一本道には、以前は多くの家屋があったのだろうが、今は数戸が残るだけ。そういう中でちょっと雰囲気が違うのが、‘諏訪市消防団第八分団’と書かれた、ツタに覆われてしまって実体の見えない火の見やぐらと消防車の車庫であったと思われる建物。この風景は『椚平』のシンボル的な風景であり、ちょっと他とは違う風景。前回よりさらにツタがからまっており、ツタの塊のようになってしまっているのがおかしな感じだ。









ブログにコメントをいただいた方は、4歳までここに住まわれていたという。幼いその年齢では、鮮明な記憶は残っていないかもしれない。しかし川横の細い道を元気に駆けたり、追いかけっこしたり、川で小魚を捕ったり、畑や田んぼで虫を追いかけたり、きっとその頃の『椚平』での生活の記憶は埋もれることなく残っているだろう。子どもたちの賑やかな声が谷間にも響く当時の風景、そういう風景を勝手にイメージしながら道を歩くと、初めて訪れた時とはまた違った雰囲気を村から感じるから不思議だ。一本道沿いの家屋、狭いながらの田畑、そんなに深くない谷道なので当時はもっともっと明るく開けた感じだったはず。どのような故郷の風景の記憶が,その方の中に残っているのだろうか、など考えたりする。寂しさだけを感じた廃屋の風景が少し温かみを感じたりするのも、何か嬉しく思える。





ここから少し行くと『後山』地区に着く。ここには映画「ひぐらしのなく頃に」のロケにも使われた美しい木造校舎‘湖南小学校後山分校(昭和43年閉校)’が残る。そして周囲には典型的な日本の里山風景が広がっている。この校舎、大きさからいくと現役の頃はけっこうな児童数だったと思われるが、かなり傷んできており、今後が何とも気になってしまう。椚平地区には分校は無かったので、集団離村をする4年前までは、『椚平』の子どもたちもこの後山分校まで通っていたはず。『椚平』から『後山』までの一本道を歩く集団登校の子どもたちの風景、今ではもう見ることのできない風景ということはわかっているが、なぜか身近に感じてしまうのが不思議だ。





『後山』は周囲の田畑が美しく大変静かな集落。この『後山』ほど開けた感じではないにしても、『椚平』にもかつてはこういった里山の風景があったのだろう。今、静かで美しい後山地区の風景を見ながら、にぎやかだった頃の椚平地区の風景を考えると、当時の風景が何となくイメージできてくる。今その風景を見る術はないが、現在の風景から昔の風景を思った時、またこの先の風景を考えてみた時、見えてくるものは少なくないのである。日差しの強い後山分校の校庭でボーッとしながら、そんなことを考えたりした。





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【2010/09/20 22:27】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#198 県下一の小さな学校は今?
~県下一の小さな学校は今?~






間もなく卒業式の季節を迎える。最近、この時期になるといつも思うことがある。それは「この春が最後の春」となる学校が、今年は全国でどれくらいの数になるのだろう、ということ。ここのところ毎年この時期になると、統廃合により長い歴史の幕を閉じる学校の話題が、地域のニュースや新聞で取り上げられる。それは山間部の過疎化地域だけではなく、都市部にも多い。また校種も小学校から大学まで様々。おそらくこの春も、最後の卒業生を送り出すという学校が、全国でかなりの数になるに違いない。





数年前、ある小さな小学校を訪れた。周辺の川の水が大変美しい学校だった。静かな山村にあるその学校の名は、長野県の阿南町立和合(わごう)小学校。立ち寄った時、たまたま運動会がグランドで行われていたので、少し見せていただいた。学校の運動会という割にやけに人が少ない。しかも小学校だけではなく、町民、保育園との合同の運動会というのに・・。人が少ないことを不思議に思ったものの、少しして「全校児童6人なんですよ、県で一番小さな学校!」という地元の方のことばを聞いて大いに納得。しかもその声が、やけに元気のある声だったのが不思議な感じがしたり、嬉しく感じたり。その時の様子は『たまに一言#81』で紹介させていただいているので、ご覧いただければと思う。運動会を見学したのはわずかな時間であったのだが、その何ともあたたかい雰囲気に当時、大いに感動したものだ。美しい川、静かな村そしてあたたかでこじんまりした運動会、その時の様子は今も私の心の中に強く残っている。





その後も、たった6人の学校のことが気になりしばしばネットなどで調べたりしていたが、慌ただしく過ぎる時間の中で、そのこともいつしか日々の記憶の中に埋もれていってしまっていた。そして卒業式のシーズンを迎える時期になり、消えゆく学校のことを思ううちに「あの時のたった6人の学校」のことが思い出され、気になって早速調べてみた。『もしかして・・」という心配の中、ネットで検索してみると・・あった!今年度も和合小学校は元気だった。しかも今年度(2009年度)は3人もの新入生があり、生徒数も10人に増えていた。そしてそれに伴い、先生の数も1名増となっていたのである。





早速、学校ホームページの「学校だより」を見せていただいた。そこには入学式や様々な行事での子どもたちの元気な姿や笑顔の写真をたくさん見ることができた。なんだかその様子を見ると、思わず心温かくなってくる。もちろん子どもたちや先生、村の人たちも一緒に写っている。何とも生き生きしたその表情、それらが全て見るものに伝わってくる。本当にすがすがしい気持ちになってくるのである。まるで和合に流れる清流や山の緑、澄んだ空気、自然そのままのすがすがしさだ。そして、そういう環境の中で幼少時代を過ごす子どもたちを心からうらやましく思ってしまった。きっとこの先、大きくなって故郷を離れることになったとしても、ここで育った子どもたちにとって、この時期の体験や故郷への思いは一生の財産となることだろう。

いろいろな学校のサイトを見たりするが、学校のサイトも様々。子どもたちの様子をそのまま写真で伝えているもの、できるだけ個人が認識されないような写真を使っているもの、個人と認識されそうな写真には画質を劣化させたりモザイク処理などをしているもの、そして子どもの写真はサイトなどでは使用しないもの・・。今の時代、どれが良くてどれが悪いなど言えないだろう。しかし、見せ方によって見る側に伝わってくるものの違いが大きいことは間違いない。背景にある様々な問題を考えずにそれらサイトを見るとしたら、多くの人たちが求めるものが何なのか、多くの人たちが温かく感じるものは何なのか、は明らかなこと。しかしそれらが素直に表現できないところに、すがすがしくない今の社会の悲しさがあるように感じたりする。





今年は、この和合小学校から何人の児童が卒業するのだろう。そして新年度には何人の新入生が入ってくるのだろう。今、4年前に撮影した運動会の写真を見てみると、小学校に入る前の小さな子どもたちの姿も何人か写っている。この中にはきっと今年の4月に小学生になる子もいるはず。新春は、全児童数何人でスタートするのだろう、県下一小さな学校という称号??は今年も引き継がれるのだろうか、等々よそ者の自分であるが、思い入れを強くしてしまうのである。






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【2010/02/15 23:22】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#192 企画展「山の中の小さな学校/於:石川県立白山ろく民族資料館」から
~企画展「山の中の小さな学校/於:石川県立白山ろく民族資料館」から~






上の子どもたちの写真、なんという屈託の無い笑顔だろう。これは石川県の旧・白峰村(現在は白山市)の出作り集落『大道谷(おおみったん)』にあった白峰小学校大道谷分校の子どもたちだ。石川県立白山ろく民族資料館(石川県白山市白峰リ30)で、9月23日まで催されていた夏季企画展「山の中の小さな学校」で展示されていたものからである。

それにしてもこの夏季企画展「山の中の小さな学校」は、私にとって何とも貴重なものであった。以前、本サイト‘e-konの道をゆく’の県外林道の項の「林道赤谷線(りんどうあかだんせん)」公開の際にも、集落『赤谷』について、この白山ろく民族資料館の多くの貴重な資料を参考にさせていただいており、その際に白峰村周辺の山間部に多くの出作り集落が存在し、学校(分校)まであったということを初めて知った。そしてそれ以来「何とか出作り集落にあったという分校について、もっと知りたい」という思いを持ち続けていたのである。

しかし出作り地の分校に関しての情報は、桂書房の「白山麓・出作りの研究」(著:山口隆冶)以外なかなか見つからず、半ばあきらめた状態であった。ところが幸いにも今回、たまたまこの企画展の存在をネットで知ることになったのだが、それがなんと9月21日の深夜という企画展終了まであと2日というギリギリの時。しかも仕事漬けのシルバーウィークで、積もりに積もった仕事があるという状況。それでも、早朝に滋賀を出発して石川県に向かうことの決定に何の迷いも無い自分に、大いに感心したり呆れたりもする。なお‘出作り’については、この林道赤谷線の項の後半部に少しふれているのでご覧いただければと思う。

この企画展、各地の出作りの地に作られた分校や子どもたち、そして現在の分校跡地のようすなど写真はもちろん、当日の教科書や閉校時の子どもの作文や教室の再現、また出作り集落の点在地などが詳細に示された図等々、多数の貴重な資料が展示されており、私の中のモヤモヤ全てがふっとんだという感じで大変満足であった。下の4枚の写真はいずれも企画展で展示されていたもので、上から「再現された当時の教室の様子」「白峰小学校大道谷分校の校舎(昭和28年撮影)」「山道を通学する桑島小学校下田原分校の児童(昭和35年撮影)」「桑島小学校河内谷分校の校舎前の先生と児童たち(昭和35年撮影)」である。画像に照明の反射や歪みなどがあり申し訳ないのだが、これはサイト管理人が展示写真の撮影の際に生じたものであることを、ご理解いただきたい。

















上の写真の最後の河内谷(こうちだん)分校であるが、その校舎が現存していることを知り、資料館の方に場所をうかがって早速見に行った。林道をしばらく走る。今の状況から考えると、とてもじゃないがここに何軒もの人家があったとは考えにくいような所。「人家もあったはず・・」など考えながら走っていると、やがて林の中にその木造校舎が見えてきた。現在は別の用途で使用されているが、姿は当時のまま残っている。閉校から33年ほど過ぎている。林の中にこうして元気に残っていることが奇跡的とも思えるが、これも他用途で使用されてきたおかげなのだろう。





薄暗い林の中の校舎を眺めていると、ふと視線を感じたので校庭側を見る。するとカモシカの姿。先日『次郎九郎』で見たのは普通のニホンジカだったが、今回はニホンカモシカ。これまでにカモシカとは何度か遭遇したが、いずれも逃げ出すまでの動作は大変ゆっくりしていた。こちらの様子をうかがっているのか、のんびりしているのか余裕なのかはわからないが、いずれもしばらくこちらの方をじっと見ていて、なにかこちらがどぎまぎしてしまう感じもする。今回もやはりゆっくりとした感じのご対面。‘静かな山の住人’という表現が、まことにふさわしい動物だ。「仲良くなりたい」「山で一緒にくらしたい」そんな気がしてしまうほど温厚そうな動物だ。そうしているうちに、「じゃあね」とばかりにゆっくりと林の中に消えていく。静かな山の中でこうした時間は本当に至福の時間に感じる。しかし雨が降ってきたので、わずかな時間で河内谷分校とはお別れとなったのは、なんとも残念だった。

今回の旧・白峰村の訪問、日程的にもかなり無理した中でのものだったが、まことに収穫多きものだった。また分校で迎えてくれたカモシカくんには、疲れた心を大変癒された。それにしてもこの白峰周辺はなんとも魅力的だ。近いうちにゆっくりと訪問して、かつての出作りの地をまわってみたいものだ、など強く感じるのである。





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【2009/09/28 04:33】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#155 山村『久多』で思うこと
~山村『久多』で思うこと~

京都と滋賀の県境近くにある『久多』(京都市左京区)という集落を訪れた。前に来たのは約15年も前のことで、その頃に撮った写真が見当たらず、ほとんど記憶にも残っていない。ただ頭の中で「静かで美しい山村だったなぁ‥」という印象だけが穏やかに残っている、そんな感じだった。

訪れたのは久多の集落の中心の『下の町』『宮の町』周辺。道沿いに流れる川、決して川幅は広くは無い。早速のぞきこんで見ると魚の姿が見える。背中の斑点に胴の縞、それに赤い斑点。どうやらアマゴのようである。山深くに流れる川に見られるこの魚が普通に見られたことに、なぜか嬉しくなってしまう。周囲が山や木々の緑に囲まれ、静かな集落の中を川が流れるこの風景、本当に心癒される美しき山村の風景といった感じだ。以前見た時の印象は、この風景を見たものだったのだろうと一人納得する。

川の向こうにはグランドが見える。その寂しい様子から、一目で‘元・学校’ということがわかる。周辺に校舎らしきものが見られないのは、既に廃校となってかなりの年数が過ぎているからか‥。このことをどなたかにうかがおうかと思って周囲を見渡す。しかし周辺に人の姿は無く、あきらめる。簡易郵便局があるにはあるが、わざわざ仕事を中断させてしまってまでうかがうには申し訳なく思い、車に戻り先に進むことにした。

ふと見ると大変美しい茅葺き民家が見える。ちょうどそこにお住まいの方が出ておられたので「こんにちは」と挨拶を交わし、先程の学校のことを尋ねてみた。その方のお話によると、川向こうの‘学校のグランド’はやはり学校のグランドで、以前は川の向かいの郵便局のあった辺りに小学校と中学校があったという。残念ながら小学校の校舎はもう取り壊されてしまっていて、今はもう見ることはできない。中学校の方は建物を改築して、お年寄りの方の施設として現在は生まれ変わっているのだという。「わたしもそこによう行かせてもらいますんやわ。昨日も行ってきましたんよ」ということだそうだ。そういえばさっきそのような、何となく学校を思わせる風の建物があったなぁ‥など思い出す。ちなみに廃校後、ここの子どもたちは遠く大原の学校まで通っていたそうだ。そして現在も数人の子どもたちが集落にいるのだが、この子達は今は大原ではなく滋賀県の大津の小学校へ通っているという。京都の子が滋賀の学校へ通う。距離は滋賀のほうが近い。以前はこの越境が受け入れられなかったそうだが、今は大津側も受け入れてくれている。その背景には、そちら(大津)の学校も生徒数が激減している、という事情があるのかもしれない。

それにしてもこの方のお住まいの茅葺き家屋は実に美しい。「写真、撮らせていただいてよろしいですか?」とうかがうと「どうぞ、どうぞ」と快い返事がいただけた。しかしその後に続いたことばに、思わず考えさせられてしまった。要約すると以下のような感じである。‘最近、何も言わずに勝手に家のすぐ近くまで来てカメラを構える人が多い。中には開いている窓から家の中を覗き込んだりする人もいて、本当に気味悪く思う’というような感じだ。

夏の暑い時など、心地よい涼をとろうと窓を開け放してくつろぐことはよくあること。そんな時、いい気持ちでウトウトしていると、ふと人のザワザワする声が聞こえてくる。そちらを見ると窓から見知らぬ何人かの人間が中をのぞいている。こちらを見て何か話している。そして手にはカメラ‥。それは驚くだろう。今のご時世、高齢者の方でなくても、そんな状況に遭遇したら本当に不気味に感じてしまうはず。

一言、声をかけてくれたらいいのに‥

私もよく山村を訪れて写真撮影をする。しかし写される方にしたら‘見知らぬ人間が何をしに?’という感じである。あまり風貌のよろしくない私など不審者と思われてしまうのが普通だ。そうなってしまわないよう大事なことを忘れてはいけないなぁ‥ということを強く感じたりするのである。











追加:久多小・中学校は昭和56年3月31日に一時閉鎖されて、通学区が大原小中学校に変更されています。さらに平成6年の4月1日からは、滋賀県の大津市立葛川小・葛川中に子ども達は通うことになったとのことです。


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【2008/07/04 01:30】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#138 冬の季節に思うこと
~冬の季節に思うこと~

冬だ。当たり前だが、冬なのである。そして、もうすぐ今年も終る。本格的な冬が訪れると、日頃私が好んで訪れるような廃村の多くは、深い雪に閉ざされることになる。人が住んでいないので、そこまでの道に積もった雪は大方の場合除雪されることはない。また当然ながら、人がいなくなった集落の家屋の屋根に積もった雪は、春になるまでおろされることはない。結果、重みに耐えかねて崩れてゆく家屋も出てくる。たとえ崩れなくても、何ヶ月もの間、雪の重みに耐え、空気の流れも無く多くの水分を吸収した家屋たちは大きなダメージを受けることになる。何十年、中には百年以上もの長きに渡り、雪との厳しい戦いに勝利をおさめてきた歴戦の勇者の老家屋たちも、やはり人とともにあってこそ生きてゆけるのである。

無人となる厳しい冬の期間、少しでも損傷を抑えようと、かつての住人たちは、思い出がいっぱい詰まった老家屋に雪囲いや、屋根や壁を支えるための支柱を施す。おそらくそこに住んでいた時は、冬の訪れの前の恒例行事として普通にやっていたことなのだろう。ただ違うのは、雪に閉ざされた冬を共にすごすことができなくなってしまったということ‥。春になって再び出会うその日まで、老家屋とその主はしばしの別れをする。「がんばってくれよ」と、老家屋に一声掛けて故郷を去る人たちの思いはいかなるものか。この先の結末に選択肢は無いことは百も承知。それでも、年老い、かつてのように雪と戦うことはできなくなってゆく我が身を感じながら、体が動く限り老家屋を守ることを約束し、ともに元気な姿での春の再会を願うだけ。

長く厳しい冬が終り春が訪れる。ともに元気な姿での再会を果たす時の喜び、安堵感を思うと心温かくなる。しかし修復不可能なほどに歪み、崩れた家屋を見ることとなった時、また再会を約束しておきながらもそれがもう永遠にかなわぬものとなってしまった時の家屋とその主、それらのことを考えると何とも悲しく切なくなってしまう。春が訪れ、夏になっても主が訪れず、雨戸は閉じられたままで雪囲いさえそのままという家屋を見ることは少なくない。そして幾冬かを越した後に、結局主が現れることなくそのままの状態で崩れ朽ちてゆく家屋の姿もよく目にする。

形あるものが崩れ、その歴史を終えるというのは当たり前であり仕方の無いこと。1つの歴史が終わっても、そこに次の歴史が始まるのであればさほど悲しいこととは思えない。しかし1つの歴史が永遠に閉じられ、振り返られることさえなくなってしまうのは、何とも哀しい。そこにかつてあった賑やかさや温もりを思えば思うほど、その思いは強くなっていくのである。













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【2007/12/21 22:04】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#110 山村の‘普通の風景
~山村の‘普通の風景’~

新緑の時期に山を訪れる。この時期の山の緑はとても美しい。いろんな色の緑がグラデーションとなり、山の風景を見事に彩る。この日訪れた山の風景も実に新緑の緑が美しかった。この美しい山の緑は、この季節、この時期の普通の風景なのである。

京都の丹後地方の山村にも、この新緑の普通の風景があった。緑の葉と、生き生きとした黄緑の葉の対比、それらが逆光になることでよりコントラストが明確になる。緑が一面に広がり、その背景となるものまでも生き生きとさせる。この日背景となったものは人が住まなくなった集落‥というか老家屋。集落というには、もう残っている家屋が少なすぎる。もう2ヶ月もすれば、雑草に覆われてその姿の半分が隠れてしまうであろうと思われるその家屋、この時期は植物の背も低く、まだかつての生活の場を見ることができる。まだまだ建物はしっかりとしている。集落の墓地横に建つこの家屋、もしかするとお盆の時期には草が刈られ、先祖の霊を供養する人たちを迎い入れる場となるのかもしれない。

新緑の山村の普通の風景の中に身を置くと、いろいろな勝手な思いが次から次と湧き出てくる。目にするあらゆるものから、イマジネーションが勝手に沸いてくるのである。私は何の関係も無い部外者。勝手な想像をされて、老家屋にとっては迷惑なことかもしれないなぁ‥など思いながら写真を撮影する。そこに人がいるなら、話を聞くことでイマジネーションと現実との距離が縮まるのであるが、そういう所で人と出会えることはごくわずか。

範囲はごく狭いのであるが、ここ数年いろいろな山村を訪れている。季節季節に見ることができる普通の美しい風景を、時期時期に味わい堪能できることの幸せをいつも感じる。そして普通の風景の美しさを感じれるということは、ささやかな自慢でもあるのである。

美しい山村の普通の風景とは別にもう一つ、山村の普通の風景がある。それは人の姿が無く、草に覆われた老家屋や残骸がひっそりと残る風景。地図を見た時、山間部に記された細い実践の道の消えるところ、その地の多くでそれが普通の風景となっている。その地から人が消え、家屋が消えることが特別なことでなくなっているこの現実が、山奥の集落の普通の風景となって、もう何十年にもなるのである。










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【2007/05/13 03:14】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#86 紅葉の中の不思議な風景
~紅葉の中の不思議な風景~

岐阜県南部の秋の山間集落の風景を見ようと訪れた時のことである。小雨の中の山の風景は所々に赤く色づいた紅葉が見られるものの、今年の紅葉がやけに遅いせいか、その色も今ひとつさえない。山間の1.5車線道路もいつの間にか県境を越え、気づけば愛知県。古びた道標には『小原村』とある。「今はもう合併で村ではなくなっているのだろうなぁ・・」など考えながら車を走らせる。するとしばらく人家のない風景が続いた後に、突然小さな集落が現れた。しかしその集落の風景、何かがおかしい。ひっそりと佇む寂しげな集落の風景、そこに美しく見慣れた花が咲いているのだが、何かおかしいのだ。

「あ!桜・・!」違和感の主はこれだった。少し色づいた秋の紅葉の木々を背景に、なんと桜が咲いている。桜といえば春を告げる代名詞ともいえる、日本人の心の花。その桜が秋の紅葉に混じって花開いているのだ。「今年の秋は暖かいので、この木だけ季節を間違えて咲いたのかな?」など思って集落を歩いてみると、そんなことはない、狭い舗装道路の脇にも桜の木が並んで植えられ、そのどれもが花を咲かせている。残念ながら満開とまでは行かないが、もし秋の紅葉と桜の満開の最高潮が重なっていたなら、そこには何とも形容しがたい美しい風景が広がっていたはず。 小雨の薄暗い中でのこの風景、何とも神秘的な風景として私の心の中に残ることとなった。

帰宅後早速調べてみた。するとこの桜、年に二度開花させる‘小原の四季桜’として有名なものらしい。単にそれを知らなかっただけ。しかし予備知識がなかったゆえに得られたインパクト、私には何とも心地よかった。気まぐれな旅で思わぬ光景に出合った時、何とも言えず嬉しくなる。

やはり気まぐれ旅はやめられない。








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【2006/11/17 00:00】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#81 小さな村の運動会
~小さな村の運動会~

この連休に長野県を訪れた。何の下調べもなく訪れる、まったくの気まぐれ旅である。着いた先で地図を見て行き先を決めるといういい加減さ・・。しかしこういういい加減な旅で、思いもかけずすばらしい風景・光景を目にすることがなぜか多い。その為、私の中で‘気まぐれ旅’は、けっこう癖になってしまっているのである。

今回気まぐれに訪れたのは、長野県最南部の下伊那郡阿南町にある『和合』という山間の集落。過疎化による人口減、子どもの減少で全国の多くの学校が休校~閉校という運命をたどっている。10年ほど前の地図を見ると、この『和合』という山村に小学校の印がある。10年たった今、その学校がどうなっているのだろうか、などの思いで訪問してみることにした。

何とも美しすぎる川の水。その美しい川に沿って走る峡路をしばらく行くと見えくる『和合』は、山間にあるとても静かな集落。車を降りて学校を探す。ちょうどこちらに歩いてくる方がおられたので尋ねてみた。すると「今日は運動会やってるよ」とのこと。「もしかして休校になっている?」という不安はこれで消え、ホッとする。そういえば、時おり風に乗ってスピーカから流れる声や音楽らしきものが聞こえてくる。その音を目指して進むと、やがて鉄筋の小ぶりな校舎の上部が石垣上のフェンス越しに見えてきた。
グランドへの坂を上ると見えてきたのは風に揺れる万国旗、そして手作りアーチ。そしてその向こうには何ともかわいらしい小さなグランド。その小さなグランドで子どもたちが元気に走り、村の人たちがのんびりと応援する。大規模な学校とは違った感じの、ほのぼのとした雰囲気の運動会をしばし見学。小学校の運動会という割りに、小学生らしき子どもの姿があまり見られず不思議に感じたが、それも「全校生徒が6名なんです」ということばに、「なるほど~」と納得する。
‘町民、小学校、保育園’合同で行われているこの運動会、村の人たちみんなの大切なイベントだ。前日まで台風の強風が吹いた後の快晴だけに、多くの人たちがホッとし、そして今日の日を大いに楽しんでいることだろう。

正体不明でよそ者の私へも「どうぞ、ご覧になってくださいね」という温かい声かけ。本当に心が温かくなる思いがした。そして何より、小さな学校の小さなグランドでの‘村人みんなの運動会’に、私の心は温められた。
今回の気まぐれ旅、やはり思いもかけないすばらしい風景・光景を目にすることができた。私は運がいい・・など勝手に思う。改めて気まぐれ旅のすばらしさを再認識するとともに、この地を再び訪れることを決心する。

やはり、気まぐれ旅はやめられない・・。










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【2006/10/11 00:00】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#78 ‘出作り’山の民
~‘出作り’山の民~

山の民ということばに、大変惹かれるものを感じる。山という大変厳しい自然の中で、より自然に近い形で生きている・・今の自分では到底できそうにないことを日常生活として普通にやっていた、そういうことへの憧れや尊敬の念などを感じているのかもしれない。うまくは説明できないのだが・・。

みなさんは‘山の民’ということばから、どういうことを連想されるだろう。猟師、マタギ、きこり、杣人、木地師、山窩・・。今回『林道赤谷線』を制作していて、これらとは違う山の民のことを思い出した。‘出作り’を営む人たちのことである。全国のいくつかの地域で、この出作りは行なわれていた(いる?)という。ずっと以前にこれに関しての書籍を購入しておきながら、それについてはほとんど忘却の彼方で、今回これをきっかけに記憶がよみがえり再確認した次第だ。詳しくは今回アップした『林道赤谷線』の項を読んでいただければと思う。

この『林道赤谷線』製作中に出作りのことをもっと知りたくなり、石川県白山市の旧白峰村にある「石川県立白山ろく民俗資料館」を訪れた。ここには出作りに関する資料が展示されており大変参考になった。何よりも実際の出作りの地の家屋を移築し、当時の様子が再現されているのが私にとっては何よりも貴重だった。また館の方がこちらの稚拙な質問について、大変丁寧に答えてくださったのも大変ありがたく感じた。出作り農家だけではなく、この地方の古い家屋が移築・展示されており一見の価値ありである。興味関心のある方は一度ぜひ訪れてみることをお薦めする。

下の写真はいずれも「石川県立白山ろく民族資料館」に移築再現されている‘出作り’の地の家屋である。








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【2006/09/18 00:00】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
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