スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
#116 土倉の淡い恋
~土倉の淡い恋~

『土倉』のご出身の白川雅一氏の、土倉での遠い日の想い出を綴った手記をご紹介する。


粒の大きな霰(あられ)が、家に入るために造った雪の階段を、まるで豆がころげてくるように激しく飛び落ちてくる。
そのあとに粉雪が風と共に舞い落ちて来て、霰の表面を埋めていった。
軒下のつららが、まるで槍が突き刺さっているかのように長く何本も並び、相馬さんの部屋からもれてくるランプの光を受けて輝き、美しい。

飯場頭(はんばがしら)の相馬さん宅では、二十歳を過ぎた秋田美人の文子という娘さんが、選鉱場で働くお母さんを待ちつつ、囲炉裏端で夕飯の仕度をしていた。りんごのような真っ赤な頬とおさげ髪、それが可愛さをいっそう増す。

鉱山の看板娘として、いつも若い衆にもてはやされていた文子さん。
だが雪が消えかける春先、相馬さん一家は帰郷のため山を下って行った。

幼き日、大正時代の想い出の一節である。



これは、幼い頃(8才頃)の白川雅一少年の脳裏に今も残る、土倉での淡い初恋?を綴ったもの。今から80年以上も前のことである。土倉の厳しい冬のある日の光景だ。飯場頭とは工夫たちのまとめ役、当時の感覚で言えば、全国を渡り歩く腕っ節自慢の工夫たちをまとめ上げる‘親分’といったところか。その親分の愛娘の文子さんという秋田美人に、幼い白川少年は憧れに近いであろう淡い恋心を抱く。しかしその飯場頭の相馬さん一家もやがて山を下り、故郷秋田へ帰ることとなる。

今も文子さんがお元気であれば100歳を越えるはずだが、秋田へ帰った後のことは遠く離れた滋賀の地では知る由も無い。白川氏の幼い頃の淡い恋の想い出は、土倉の想い出とともに、何十年過ぎた今も薄れること無く、みずみずしく残る。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
スポンサーサイト
【2007/06/25 23:43】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#115 土倉出郷の手作り地図
~土倉出郷の手作り地図~

このサイトでも大変お世話になっている、『土倉』のご出身の白川雅一氏、その氏に再びお話をうかがう機会を持つことができた。といっても強引に私がお願いして、押しかけているのであるが‥。

私は、以前より土倉出郷(出口)周辺の位置関係が知りたかった。氏の写真の中で‘上町’‘中町’‘新町’‥などの名がでて来るのを見て、いろいろ現場をイメージするのであるが、現在の出郷周辺を見ても皆目位置関係がわからない。そして「どうしても知りたい」と思ったのは、このコーナーの#112、でご紹介させていただいた伊勢湾台風の土砂災害の‘慰霊碑’を実際に見た時である。八草トンネルへと続く取り付け道路の巨大な橋脚に圧倒され、静かに埋もれるかのような碑。周辺に100戸近くもの社宅や家屋があったことなど、現状からは想像もつかない。選鉱場跡ばかりが有名なこの地であるが、そこには多くの人たちの生活があり、人々の温もりがあったのである。

白川氏には事前に「土倉出郷あたりの地図を作ってみたいんです。」ということをお伝えし、カラオケ大会や旅行などで忙しくされている氏と都合を合わせたた上での訪問となった。約2年ぶりの訪問にも暖かく迎えていただき、早速お話をうかがう。すると氏が何か取り出す。筒状に巻かれている、かなり大きなもの。まさか?!と思った。そして、それはそのまさかのものだった。

開いて見せていただいたものを見て驚いた。それは私が知りたくてたまらなかったもの、土倉出郷周辺の詳しい見取り図だった。しかもわかりやすいように絵の具できれいに彩色までされている。ブロック住宅や家屋数、索道の位置‥それぞれが詳しく色分けされた手作りの地図。その中身を見て驚き、そして氏の温かさに感激する。おそらく制作には大変な時間と労があったはず。100cm×60cmという大きなその地図「どうぞ持って帰ってください」という氏の言葉に感激するも「このような大事なものをいただく訳には‥、写真に撮らせていただきます」と返す。しかし内心はほしくて仕方がなかったのが事実‥。

今回もお話をうかがう中で様々な感動、強く印象に残ることが多々あった。そのことについてどうまとめていくか、現在思案中である。まとまり次第、話の内容や出郷周辺の見取り図については『自由帳』のコーナーで紹介させていただこうと思う。また『たまに一言』では、氏の書かれた手記の紹介もさせていただこうと思っている。

氏にお話をうかがっていると本当に温かい気持ちになる。そして氏の故郷‘土倉’を思う気持ちが本当に自然に伝わってくる。今でも何度も土倉へ行かれているという。雪解けの頃には、大雪によって倒れた木や障害物を自ら取り除く。その時には昔の仲間も力を貸してくれるという。故郷を持つことの素晴らしさを、本当に強く感じる‥。

お話を終え、そろそろおいとまさせていただこうという時、氏の奥様がご飯とお漬物を持ってきて下さった。遠慮無くいただく。何かとても懐かしい味。キュウリの漬物が大好物の私は一気にたいらげ、そしておかわりまでいただく。本当に「うまかった~」である。この日のお礼を言って帰る時、「どうぞ持って帰ってください」と氏のことば。差し出されたのは、先ほどの手作りの地図。今度はためらうことなく「ありがとうございます」といただくことにする。やはり「ほしくてたまらない‥」が伝わっていたのかな、など思いながら温かさに甘えさせていただいた。

帰宅後いったいどれくらいの間、この温かく、そしてこの上も無く貴重な‘土倉出郷の手作り地図’を眺めていたのだろう‥









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2007/06/17 23:43】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#114 続・廃村『八草』
~続・廃村『八草』~

前回のこのコーナーで岐阜県の旧坂内村の廃村『八草』を取り上げたのだが、その後、とある用事で岐阜在住のある方と電話で会話中の時のこと‥。(この方には日頃から多くのことを学ばせていただいており、今回の『八草』の詳しい場所も、その方に教えていただいたものである。)

・・・驚いた。

実は私が『八草』を訪れたほぼ同時期に、その方も『八草』を訪問されていた。そしてその時『八草』集落跡で何人かの人たちに出会われたという。話をうかがうと、その人たちは北海道から来られたとのこと。もう驚き以外の何者でもない。なんと、90年近くも前に『八草』を離れて北海道の地へと渡った人たちのご子息、いわば‘八草二世’の方たちだったのである。そういえば私が訪れた時、供養塔にはきれいな真新しい花が供えられてあったが、おそらくその方たちが供えられたものだったのだろう。

‘八草二世’の方たちは定期的に、ご両親の故郷のこの地を訪れられているという。廃村後90年もの年月が流れた。もちろんこの方たちは『八草』での生活経験はなく、故郷は当然北海道。しかし遥か遠く離れたこの山奥の不便極まりない地を訪れる。いったいなぜ??前回にも書いたが

「遠く離れた開拓の地で何度も両親から聞いた、山深く自然の厳しい、しかし懐かしい故郷の話。何十年が過ぎても故郷の地を忘れず、いつまでも思い続ける親の姿‥そして先祖への思い‥」

ということなのだろうか。今なお訪れるという、遥か想像を超えた‘故郷’への思い。その中には、決して外部の者にはわからない何かがある。‘血’という表現がいいかどうかはわからないが、何かそういった生きる者としての本質的な部分を感じてしまうのである。両親の故郷、先祖代々生き続けてきた地をぜひ訪ねてみたいという思い、そして実際に遥か遠方から訪ねて来られているという現実。もう言葉にならない‥。

北海道へと渡った、かつては八草衆と呼ばれた誇り高き木地師の末裔たち、その後、厳しい極寒の北の大地での開拓生活でも八草の誇りを失わず立ち向かい、成功をおさめられたという。以前、坂内で聞いた「こちらへ帰ってきた人たちも多いらしい」という噂が事実でなかったこと、それが何か嬉しく感じられたりするのである。








http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2007/06/10 13:13】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#113 廃村『八草』
~廃村『八草』~

滋賀県の木ノ本町と岐阜県の旧坂内村とを結ぶ国道303号線。今でこそ県境付近の山々を八草トンネルが貫き通行も容易になったが、トンネルとそれに伴う取り付け道路ができる前は、八草峠を頂点とした両県側からのアプローチはともに、‘酷道’と称されるクネクネの極狭路を延々と走らなければならない、大変なルートであった。初めてここを走った時は、その狭ささと山深さに驚いたものの、通行する車が少なく妙に嬉しい気分になったのを覚えている。また時間をかけてたどりついた八草峠から見た山なみの風景の美しさは格別で、今でも鮮明に記憶に残っている。

さて峠やトンネルにつけられている‘八草(はっそう)’という名であるが、これはかつて存在した集落『八草村』の名残である。美濃(岐阜県)の地にあったこの八草村であるが、元々は近江の国から木地師集団が漂泊し定住したもので、八草の人たちも「我々は近江の国の者」と言う意識が強かったようだ。そのため美濃の川上村などに出る時も、美濃の住人でありながら「美濃へ行く」と表現していたという。

その『八草』が廃村となったのは大正8年というから、もう90年近くも前のこと。1824年には27戸124人、廃村となる10年前の明治42年でも15戸105人の規模があったこの村が廃村となったのは、北海道へ集団移住をしたからである。移住を決意した背景には、度重なる水害と焼畑禁止があった。その昔は杓子の生産、その後は製炭を生業とし、自らの食は焼畑による稗に頼っていた人たちは最後まで稲作を受け入れず、遠く北の大地での開拓生活を決意する。この頃は八草村だけではなく、同じように焼畑に頼っていた周辺地域の出作り農家の多くが北海道移住の道を選んだという。移住先での開拓村での生活はどうだったのか、より過酷な生活を乗り越え安住の地を得たのだろうか、など思い巡らしながら集落跡へ向かう。

八草川を左手に緑の林道を歩くこと約20分、離村の記念の碑と供養塔が見えた。離村後、地元の人たちの出作りの地として稲作などもされていたせいか、山深い中にも人跡を感じることができる。また林道は作業用だろうか、車の轍も見られた。

この供養塔ならびに碑が建てられたのは昭和59年9月とある。ということは離村後すでに65年もたってからということになる。年齢的に考えると、働き盛りでこの地を去った方の子の世代の方たちが中心となって建てられたものなのだろうか。遠く離れた開拓の地で何度も両親から聞いた、山深く自然の厳しい、しかし懐かしい故郷の話。何十年が過ぎても故郷の地を忘れず、いつまでも思い続ける親の姿、そして自らの幼い遠い日の記憶、先祖への思い。木々の中に静かに佇むこの碑に、65年間の重みを感じるのである。

この地を訪れて、人々の故郷への思いの強さというものを改めて感じたりする。代々流れてきた血、そして生を受けた地にいつかは帰りたいという思い。これらは何か本能に近いものを感じてしまう。これを望郷というのか‥などなど、いろいろ考えながら歩く林道。その時ふと見上げた時の朴の木の葉(たぶん)、これが何とも美しく爽やかだった。










http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2007/06/04 11:04】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。