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#131 秋の山村にて
~秋の山村にて~


秋を味わいに、ある湖西の集落を訪れた時のこと。集落の中心には1.5車線道路が走る。しかしそこを通る車はほとんど無く、時たま地元車が通るくらい。道の脇の石垣に咲く植物が、飾り気が無く美しい。道の端にしゃがみ、壁にへばりつくようにして植物写真を撮っていると、自転車をこぐ音が近づいてきた。気にしながらも写真を撮っていると、カメラのファインダーに自転車の姿が入ってくる。「お!なかなかいい感じ!チャンス!」とばかりにシャッターを押す。そしてすぐに顔を上げて、「こんにちは」と挨拶をする。すると60代くらいかと思われるその男性からも「こんにちは」と返ってくる。そして、そのまま自転車はゆっくりと走ってゆく。

ゆったりと流れる時間、それとこの石垣の植物と道路の風景が気に入って、しばらくそこで写真撮影を続ける。するとまた聞こえてくる自転車の音。どうやら先ほどの自転車が帰ってきたようだ。すぐ近くの簡易郵便局での用事が終わって帰宅するところ?など勝手に想像する。すれ違おうとする時、今度はあちらから「花の撮影ですか?」と一言。「ええ、そうです。きれいですねー」と返す。すると自転車をゆっくりと走らせたまま「うちにも少し花があるから、よかったら見ていってくださいー」とのことば。思いもかけない一言に「ありがとうございます!」とそのまま自転車についてゆく。自転車はすぐ先の角をまがる。その先にあったのは黒いトタンをかぶった美しい茅葺き家屋、そして家の周りには色とりどりの様々な美しい花。山里の故郷の家、そんなイメージがピッタリな感じの美しい風景だった。

その方はこの地で生まれ育ち、そして仕事のために生活の場を京都に移した後、定年退職後に再びこちらへ帰ってこられたという。庭先に用意された二つの椅子、そこでしばらくお話をうかがう。秋の爽やかな青空の下で流れるゆったりした時間、まわりを見ると色とりどりの花がいっぱい。その中でも特に目立つのは、色鮮やかな大きなダリア。そこにいると、穏やかな秋の風景の中に自分も入り込んだ、そんな感じがした。

故郷ということばのイメージにピッタリの実にのどかな風景であるが、やはりこの地も激しい過疎化に襲われているという。かつては多くあった家屋だが、若い者は仕事を求めて故郷を離れていった。そして家を守っていた者の高齢化とともに家屋は次々と廃屋となり、やがては崩れて自然にかえってゆく。結果、家屋があったはずの地は、まわりの田畑とともに荒地へと姿を変えてしまう。雪が多いこの地域の冬の生活の厳しさは、並大抵のものではない。この方も冬場には京都に帰られるという。林業、農業などでは到底生活できないこの時代、他の仕事が皆無という地に人々は暮らしてゆけないのだ。

しかしこの地域には全校児童は6名という小学校が、今でも残っている。通常なら、とうに姿を消していそうな感じなのに‥。というのも、実はこの学校の児童6名全てが山村留学生で、遠くは京阪神以外からも来られているとのこと。超小規模ゆえ、都会と違って一人一人に教育が行き届く。この美しい自然の中でぜひ幼少期の教育を受けさせてやりたいという思いから、けっこう希望もあるようだ。それならばもっと留学生を受け入れれば学校も存続するし、人も増えるし、何より子どもがいることで村が活気づくのでは?など単純に思ってしまう。しかし様々な事情があるようで6人にとどまっているようだ。人が去って困っている所に入ってきたい人がいる、このような歓迎すべき状況があるのにそれを受け入れられないという事実がもしあるとしたら、どうにも納得できなく思ってしまうのである。

「今の生活は最高!」という、その方のことばに強い故郷への思いを感じる。しかし「冬に都会に帰ると何もすることが無くて退屈で仕方がない。春が待ち遠しい。」と、いうことばの裏には、冬場は高齢の者だけでは生活し難く、都会に帰らざるを得ないという現実が含まれている。

今のこの老家屋たちの同化した山里の美しい風景、それらは日本の宝。そこに人が戻ることができる社会、再び村に子どもたちの声が聞こえるようになり得る社会、切り捨てのない社会、そういう社会がいつの日か訪れるのだろうか。







http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2007/10/27 22:18】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#130 少し早い秋の色
~少し早い秋の色~


もうすぐ紅葉の季節。紅葉の鮮やかな美しさは、誰もが当たり前のように感じることのできる美しさ。そのためこの時期、旅行雑誌などではこぞって‘紅葉特集’などが組まれることとなる。しかしながら紅葉の前の秋の美しさ、これについて語られることは、あまりない。紅葉の鮮やかさがあまりにも目立つからかもしれないが、この控えめな美しさも私は大好きである。

紅葉までまだもう少しあるなぁと感じるある秋の日、久しぶりに湖西地方を訪れた。この地域は距離的にはそんなに遠くなくても、行くにはけっこう時間がかかってしまう。琵琶湖の対岸に渡らなければならないことと、渡った後も大回りするルートしかないからだ。同じ時間かけて高速を走ると十分に岐阜や福井の山間部へ行けてしまうので、ついついそちらへ行くことが多くなってしまう。しかしそこに広がる風景は大変美しく、どの山村を訪れても心癒やされる。

この地域には、まだトタンが被せられていない茅葺家屋が何軒か残っている。前に訪れた時は、屋根の茅の葺き替えをしている家屋があった。そして今回もそれを見た。この先、茅葺屋根を維持していくにはいろんな面で大変なはず。それでも残そうとするところに、老家屋の主の思いを強く感じたりしたものだ。私がここを訪れる時の一番の楽しみ、それはこれら老家屋のある山村風景を思う存分味わうことなのである。

この日は文句の無い秋晴れ。あちこちで、夏の風景とは全く違う彩が見られる。山の緑も夏の緑とは一味違い、まろやかな感じがする。そして、やや黄金色に変わりつつある緑が、やがて来る紅葉の季節への変化をうかがわせてくれる。夏にはあれだけ強く訴えかけていた雑草の強引な緑も、もうおとなしくなり周りの緑とうまく同調して美しいグラデーションを作り出している。暗い杉林を抜けてこの美しい風景が視界に入ってくる時、ためらうことなく車をとめ、そして思う存分に秋の色を味わう。紅葉の秋の鮮やかさとはまた違った、この控えめな秋の美しさの中に身を置き、少し早い秋の色をしばし味わう。

ゆっくりと周囲を見渡す。おそらく以前は田畑や家屋だった所だろう、今は雑草が伸び放題となって荒れるままになっている空き地が目立つ。しかしそこもこの時期には、周りの色と同調した秋の色に変わっている。草原に伸びた雑草の合間から所々に見える老家屋、しかしその多くは既に人の気配が消えてしまっている。今は荒れた草原となっているこの地も、かつては多くの作物がなり、畑仕事で働く人の姿が普通に見られたはず。幸い、少し移動すればそのような風景が見られる今の時代なので、まだその姿をイメージをすることは難しくない。しかし5年、10年‥と過ぎていった時、この風景をイメージすることが難しくなってしまう時代になってしまっているのかもしれない。

今のこの美しい秋の色、老家屋たちが同化した山間の風景、それらは日本の宝だ。そしてそれらを思う存分に味わうことのできる今の自分を、心から幸せに感じる。今は逆方向に進んでいるようにも感じられる社会であるが、やがてはその風景を大事にできる時代が来ることを心から願うのである。










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【2007/10/21 22:12】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#129 峠の犬
~峠の犬~


ある晴れた日、久しぶりに小入谷林道を訪れた。『小入谷』の集落を越えると見えてくる、見慣れた林道の黄色い看板。工事中の表示も無い。まずは現状が保たれていることにホッとする。未舗装ながら、その平らな路面といい、十分な道幅といい、いつ舗装工事が始まっても不思議ではないその状況に、訪れる時はいつもビクビクしてしまうのだ。

この日は、実に爽やかな秋晴れ。林道からは申し分の無い風景が広がっている。霞みもほとんど無い澄んだ空気。遠く広がる山並みや山間の谷間の集落がはっきり見えるのが、何とも嬉しい。程よく焦げたパンのような色合いの林道路面に山の木々の緑、爽やかな青空とおいしそうな白い雲、実にすがすがしい空気。聞こえるのは風の音と時折遠くから響く獣(猿?)の声、そしてやや寂しげな鳶の鳴き声など、私にとって本当に最高の空間なのである。

「今日は若狭の海が絶対に見えるだろうな」など思いながら峠を目指す。心地よく車を走らせ、やがて福井県との県境である小入峠が見えてくる。そしてまた見慣れた林道標識と峠の碑が視界に入る。しかし、あれ?何かその横で何か白いものが動く。キツネ??それにしては色がおかしい。ゆっくり車で近づく。多少は警戒しているようだが、ほとんどそこから動こうとはしない。さらに近づいてみる。あまり目のよくない私でも十分に判別することができた。お稲荷さまにも見えたその動物は「犬」だった。何か疲れた感じのする真っ白な犬‥。「なーんだ」と思われるかもしれないが、このような所ではむしろ普通の犬を見るほうが珍しい。逆に鹿や猿、イノシシ‥など普段見ない動物たちを、こういう所では普通に見かける。したがって家で飼われているような普通の犬が、このような所にいることは滅多に無い。はぐれた猟犬などとたまに出合うことはあるが、野犬さえも私は一度も見たことが無いのだ。

まさに峠という特等席で、ゆっくりと日向ぼっこをする白犬。車から降りて周りの風景を見る私を、細い目で追っている。少し立ち上がってこちらに歩きかけようとするも、すぐに座って、また日向ぼっこに戻る。別にこちらに危害を加えそうに無いな、ということがお互いにわかったので、それぞれが自分の世界に浸る。気ままに昼寝する犬に対抗するわけではないが、私も峠で気ままに昼食をとる。買ってきたパンを食べながら見る峠からの景色、思っていたとおり、この日は若狭の海が美しく見えた。少し風があり肌寒いものの実にすがすがしく心地よい峠でのひと時。もちろん誰もやって来ない。峠にいるのは私だけ、いや今回は白犬も一緒か‥。

昼食のパンを一切れ投げてやると、少し間をおき、横になったままパクっと一口。 しかし、それ以上別にねだりもしない。全くガツガツしたところが無い。そして、また横になって目を細める。しばらくしてもう一切れパンを投げてみた。するとまたまたパクっと一口。何かそれがやけに無邪気に感じてしまう。

その犬は後ろ足が不自由なようだった。怪我をしたのか、それとも病気なのか。きっとどこかの家で飼われていたのだろう、人に対する警戒心は全く無い。はぐれて迷い込んでここに来たのか、それとも捨てられてしまったのだろうか。このような峠に餌となるようなものは何も無い。もちろん自分で餌を捕るような俊敏な動きなど、とてもできそうに無い。一体何を食べて生きているのか‥。それでも、そんなことは全く心配御無用とばかりに、その白犬は目を細めて峠で気持ちよさそうに昼寝を続ける。

ふと思った。人間ならこういう状況ならどうするだろう。体はもう自由に動かない、食べるものも無い、助けてくれそうなものもいない、家からは遥か遠く離れた場所、雨風をしのげそうな所も無い‥つまり生死に関わる極限の状態だ。そんな時、人間はどうするだろう。それを考えると、この白犬のこの落ち着きようは一体何なのだろう。このような状況で無邪気にパンを食べる姿、日向ぼっこをする姿が、何ともたくましく思えてしまうのだ。細かなことに慌てふためいたり腹を立てる、何をさしおいても我が身第一で周囲のことは考えない、自らの利益を守るため虚偽で身を固める、腹いせに見知らぬ他人を攻撃する‥、そんな人間が何かとても情けなく惨めなものに感じてしまう。犬にそれだけの知能が無いから、といったらそれまで。しかし少なくとも自然界の中で、自然に悪影響を与えているのは人間だけ、地球を壊そうという行為をしているのは人間だけ。動物の中で一番臆病で情けないのは人間なのかもしれない。

峠でこんなことを考えるなんて思わなかった。食事を終え、峠を下って廃校の写真を撮った後に、帰路につくため再び峠を越えた。そしてその時もやはり峠には、先程と同じようにあの白犬がのんびりと日向ぼっこをしていた。次にここを訪れる時にこの犬が居るはずもないのだが、峠の犬の風景はこの先も忘れそうにない。










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【2007/10/12 23:53】 | 林道 | page top↑
#128 何かが違う風景
~何かが違う風景~


私は特にあてもなく、よくドライブに出かける。渋滞や人ごみなどを極度に嫌う性格のせいか、行く所のほとんどが車や人の少ない静かな山間部。見知らぬ土地をのんびりと車で走り、次々と目に入ってくる様々な風景の新鮮さを味わう。爽やかに脳が刺激されていることを感じるひと時である。緑の山々を背景に、流れる清流や古びた建物、厳かな雰囲気の神社や寺、色褪せた看板がいまだに残るかつての万屋、もう子どもたちの声が響くことの無い寂しげな廃校舎‥などなど全てが、脳内の様々な感性に訴えかけ刺激を与えてくれるのだ。

山間部の集落を何年ぶりかで訪れたりする時、その風景の以前との微妙な変化に「あれ?‥」と思うことがある。走行中に見えた学校の校舎が何か以前と違って人気の無い寂しげな雰囲気に変わっている‥威厳を保ち堂々としていたはずの老家屋がゆがみ崩れてしまっている‥人が住んでいたはずの家屋が人の気配無く雨戸が閉められたままになっている‥などなど、どれもが普通に通り過ぎるだけならそんなに気にしないような微妙な変化だ。そしてそれらに出合った時、何とも切なく寂しい気持ちが私の中で増幅され、あること無いことが次々とイメージとして現れてくる。私にとってそのどれもが寂しく切ない風景であるのだが、とりわけ‘子どもたちがいなくなった学校’を目撃した時、寂しさ切なさがより増幅されてしまうようである。

以前、永源寺の奥を訪れた時に見た政所中学校、余呉町の丹生小学校の木造校舎の撮影帰りに訪れた片岡小学校と余呉小学校、そのどれもが以前見た時と何かが違っていた。変な表現だが「教室の窓が生きていない」、そんな感じがしたのである。もちろん休日だから子どもの姿が無いのは当たり前。しかし風景そのものから‘子どものエネルギー’が消えてしまっている、そんな感じがした。どちらも何の情報も持たない中での訪問だったので、訪れて初めて廃校舎になっていることを知ったのだった。いずれも児童生徒数の現象による周辺学校との統廃合の結果という。ただし余呉小学校は、旧余呉小、片岡小、丹生小とが統合して、校舎も新たに‘余呉小学校’として生まれかわっているのでその名は今後も残ることになる。本来ならば賑やかな学校の風景であるのに、学校という機能を無くしてしまったとたんに何とも寂しく物悲しげな風景に変わってしまうところに、改めて‘子どものエネルギー’を感じたりするのである。

村から学校が消える、ということはどういうことなのか。極端な言い方になるが、それは新たな若い居住者が入ってくることが拒絶された地となること、そのように私は乱暴な解釈をしてしまう。不便でもあえてそういった自然一杯の地に生活の場を求めるという事例もあるようだが、一般的に考えれば教育環境や生活環境は便利さが優先されるはず。それらの問題で故郷を離れるということはよくある話だが、逆にわざわざ不便な地に生活の場を新たに移すという例は、ごく僅かだろう。閉鎖された学校が、取り敢えずは休校という形をとったとしても、やがて廃校への道をたどるというのは自然の流れ。学校が無くなり、さらに10年、20年と過ぎるとその村がどうなってしまうのか、それが今の日本の山間部の多くで見られる普通の風景‥というのに何とも寂しさを感じてしまう。

昨年の今頃、たまたま訪れた長野県の阿南町の和合小学校で運動会が開かれていた。小学校・保育園・幼稚園・地域住民などによる合同運動会だった。少しのぞかせてもらった。こじんまりとして老若男女関係なく参加する、とても温かい雰囲気の運動会。「この学校は全校生徒6人。県で一番生徒数の少ない学校です!」と元気に話す地元の方のことばが、とても印象的だった。「今年の生徒数は何人なんだろう?」「やはり統廃合などの問題が出てきているのだろうか」など気になってしまう。そして今年の運動会も見たい!‥など思ってしまうのである。










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【2007/10/05 05:55】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
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