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#146 学校跡の風景
~学校跡の風景~

「文」という学校マーク、少し前の地図では山奥の山村にもずいぶんとたくさん見ることができた。中にはもうずっと以前に姿を消してしまっているにかかわらず、「○○分校」という表記のみが残っているものも少なくない。それらを見ると、建物はとっくに取り壊されてしまっているだろうと思いつつも、もしかして‥とついつい訪れてしまう。これはもう、私にとっては‘性(さが)’のようなものなのかもしれない。その時は、滋賀県との県境に近い福井県敦賀市のとある集落に「文」マークを見つけた。そこはまだしっかりと分校の表記がされている。ネットで調べると、数年前までは確実に分校校舎が残っていたようで、写真も掲載されている。そういうことでかなりの期待感を持って、その地を訪れることとなった。

集落に着いた。山間部のその村は、小集落と言うイメージがピッタリの雰囲気で大変静かな所だった。寺や神社、そして何軒かの家屋が健在であるのだが、今ではもう人が住むのは4戸のみになっているという。早速、分校らしき建物をさがす。しかしそういう感じの建物は全く見あたらない。ちょうどここの住民と思われる方が道を歩いてこられたので、うかがってみた。すると「学校はそこの空き地にあったけどな、2年ほど前やったか、壊されてしもたなぁ‥」と先程車を停めてきた空き地の方を指差す。うかがうと学校跡の碑も、それを示すようなものも何も残さず「知らん間に」壊されてしまったという。実際そこには全く何も残されていない。こうしてうかがうこと無しには、絶対に学校跡ということはわからない感じなのである。こういうのも何とも寂しいものだと思いながら、集落をしばらく散策した後にそこをあとにする。

車で15分ほど走っただろうか、隣の集落が見えてきた。ここもかなり過疎が進んでいるようだが、先程の集落よりははるかに戸数が多い。ふと見ると、集落のはずれに何か学校跡らしきものが見える。早速立ち寄ってみる。やはりそこは学校跡。敦賀市東愛発小学校という碑と門塀が残されている。校舎などの建物はもちろんもう残されてはいない。統廃合により閉校となったのが昭和59年というから、姿を消したのは25年ほど前のこととなる。

その昔は、登下校の子どもたちで集落からの通学路が賑わい、時を知らせるチャイムが集落に鳴り響いたことだろう。そして春の訪れとともに、小さな新入生が期待に胸を弾ませやってくる。そんな光景が普通の光景としてこの地でも見られたはずだ。しかし今その地から子どもたちの声が聞こえることはなく、聞こえてくるのは風の音、そして遠くを走る車のエンジン音くらい。校庭跡に作られたゲートボール場にお年寄りたちが集うのは、もう少し暖かくなってからだろう。今は本当に静か‥なのである。

ふとグランドに目をやると、何か視界に‘賑やかな感じ’が入ってきた。ふきのとうだ。いくつものふきのとうの芽が、何とも可愛らしく学校跡を賑やかに彩ってくれている。子どもたちの声が聞けなくなった寂しげなこの地を、春を知らせるたくさんの薄緑色のふきのとうの芽が賑やかす。この元気な春の住民、過疎が進む風景の中では、何とも微笑ましく可愛らしく、そしてたくましくも感じたりするのである。山村の春、もう間もなく本格的にやってくる、と感じさせてくれた。













http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2008/03/31 02:46】 | 福井県山村・廃村・自然 | page top↑
#145 奥川並分校
~奥川並分校~

皆さんは‘分校’ということばに、どのようなイメージを持たれるだろう。山の中の小さな校舎、そして山や川で元気に遊びまわる子どもたち。もちろん学校だから勉強が本業だが、ことばからのイメージは、教室で学習する風景よりむしろ野山を駆けまわり川で魚捕りをする子どもたちの姿などを、私はイメージしてしまう。イメージ映像は個々に違っても、‘分校’に対して感じる大らかで温かなイメージは共通しているのではないだろうか。

その分校であるが、昭和40年代あたりから次々と姿を消してゆき、今ではその存在は貴重なものとなってる。10年前の1997年の滋賀県を見ると、県内の分校はマキノ町立マキノ北小学校在原分校ただ一校。そしてこの在原分校も、平成13年(2001年)度から遂に休校となり、県内の分校は姿を消すことになる。現在は滋賀県に限らず、全国各地で分校ではなく本校が統廃合により次々と姿を消してゆく時代。それを考えると、分校という存在は‘遠い昔にあったもの’となりつつあるのかもしれない。何とも寂しいものである。それは‘分校’ということばの中に、温かさや大らかさ、人情など、今の時代の中で薄れつつあるものを勝手に重ねているからなのだろうか。

奥川並分校(丹生小学校奥川並分校)、この山奥の小さな学校になぜか特別のものを感じる。15年程前に初めて『奥川並』を訪れた時、丸太橋の架けられた川向こうの林の中に崩れかかった奥川並分校の姿を見た。木々の葉にさえぎられ、ほとんど姿は見られなかったのだが、その姿がとても強く印象に残っている。ここで子どもたちが本当に勉強をしていたのだろうか、それより以前に本当に学校として機能していたのだろうか‥など思わせるほど、朽ち果て崩れゆくその姿は哀しげなものだった。しかし考えてみれば、私が見た時は廃村後既に20年以上が過ぎていたのだ。豪雪地帯のその地で、その姿をまだ残していること自体が驚くべきことだったのかもしれない。

長らくの間、私の中では奥川並分校は木々に隠れた崩れかかった校舎のイメージしかなかったが、それが木造校舎としての元気な姿に変わったのは『記念誌:ふるさと丹生小学校』でその姿を見た時だ。ようやく奥川並分校が生きたものとして認識できるようになった。その写真には当時の校舎はもちろん、先生の姿や元気な生徒の姿も写っている。それを初めて見た時、何とも言えぬ感動をおぼえたものだ。

そして先日、何とその写真に写っている、かつて奥川並分校で教鞭をとられていた方にお話をうかがうことができた。昭和39年より3年間の分校赴任された林尊(はやしたかし)先生である。私にとって、どれもが大変貴重なお話だった。その時にうかがったいろいろなエピソードなど、またまとめてゆきたいと思っている。初めて見た時の‘木々に隠れた崩れかかった奥川並分校’が、私の中で完全に生きたものとして生まれ変わった、そのことが何とも嬉しく感じたのである。



マキノ北小学校在原分校




「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
/発行:余呉町


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【2008/03/23 23:52】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#144 『広報よご』から
~『広報よご』から~

先日、余呉町の図書館を訪れた。明るく広々としており、郷土に関しての資料が多く揃えられているのが嬉しい。本サイトの『奥川並』『針川・尾羽梨』『半明・鷲見』などの項は、ここでの資料を大いに使わせていただいて完成したものである。この日は開館とほぼ同時に訪れた。寒さのせいか、訪れる人も少なく、昼前くらいまではほとんど貸しきり状態だった。壁には小学生が書いたと思われる壁新聞が掲示されている。‘余呉町の借金をどうしたらなくせるのか’というような、およそ小学生らしくないテーマで書かれているのが、今のこの町の苦しい状況を表しているような気がする。しかし、小学生の書いた無邪気なアイデアが現実の悲壮感を打ち消しており、何となくホッとさせられたりもする。

この日は、町が発行している広報‘よご’をじっくりと見せてもらった。昭和54年11月発行の広報には、離村(昭和44年)後10年目となる『奥川並』のことが書かれている。そこには元住民の方の、今は無き故郷への思いが綴られており、胸を打つ。奥川並集落の入り口にある共同墓地が、節目となるこの年に建てられたということも紹介されている。離村してから10年もの間、ご先祖様の供養が十分にできないことに悩んでおられた元住民の方たちも、これによってようやく心安まる思いをされたことだろう。そして離村後40年が過ぎた今でも、村の入り口にあるこのお墓は変わることなくきれいに保たれている。何年が過ぎようとも変わらぬ故郷への思い、ご先祖様への強い思いを感じさせてくれるのである。

昭和52年10月発行の広報には丹生小学校小原分校のエピソードが載せられている。これがまた実に寂しくも微笑ましい。年々減少する児童数、この年はとうとう分校にはたった一人の児童しかいなくなってしまったのだという。隣の『田戸』から通う5年生の女の子が、教室にポツンと置かれた一つの机に座って、教師と一対一で学習している写真が印象的だ。教室後ろの掲示板にはられた多くの書の作品や絵画作品。おそらく全てがこの女の子の作ったものなのだろう。山の中の木造校舎、そして先生と二人っきりの教室‥なのである。

この女の子は田戸から分校までの往復2kmの通学路を一人で通う。「通学の友は、まわりをとり巻く自然の木々や草花、小川のせせらぎである。(以上‘広報よご’より引用)」と本文には書かれてあるが、まさにそのとおりだったのだろう。しかし雨の日や雪の日、風の強い日など、あの山深い道を一人歩くのは、幼い子にとっては不安でいっぱいだったはず‥。また冬場は雪のため寄宿舎生活となる。仕方ないとはわかっていても、10歳を越えたばかりの女の子にとってはさぞかし寂しかったことに違いない。こんなことも書かれてあった。この子は、1年生の時からずっと同学年に他の生徒がおらず一人だった。そのため1年生の時には隣の席に人形を置いて授業が行なわれていたと‥。入学したてで、クラスにたった一人。きっと寂しくて涙を流すこともあったのかもしれない。その幼い子の心中を察して、担任の先生がそっと隣の席に人形を置いてあげる。「もう寂しくないよ。いっしょにお勉強しましょうね。」という声が聞こえてくる、そんな気がする。

今はもう奥川並も小原分校も田戸も全てが姿を消してしまっており、この地を訪れても当時の名残のものさえなかなか見つからない状態だ。初めて訪れる者には、人が住んでいたということさえ想像できないだろう。小原分校でたった一人で学校生活を送ったこの女の子、今では40才を少し過ぎたくらいの年齢となっているはず。彼女の中で当時の思い出はどのような形で残っているのだろうか。



「広報よご(編集・発行 余呉町役場)
/昭和52年10月6日発行号」より




「広報よご(編集・発行 余呉町役場)
/昭和52年10月6日発行号」より




現在の小原分校跡


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【2008/03/17 06:34】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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