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#162 旧・坂内村川上にて
~旧・坂内村川上にて~

国道303号線の滋賀県の木ノ本町と岐阜県の旧坂内村川上地区周辺は、以前は‘酷道’などと表現されるほどの山間峡路だった。今では八草トンネルが開通し、滋賀県側はトンネルまでの全てのバイパスが今年で開通する。そして岐阜県川の川上地区も道路工事はあとわずか、といったところか。細いくねくね道を何時間もかけて走り、峠越えをして滋賀から徳山へ行ったというのも、もうずっと以前のことなのである。

まだまだ暑さの厳しいある日、この道を通って旧坂内村(現・揖斐川町)の川上地区を訪れた。すると川上集落の手前あたりで道路工事を行なっている為、迂回せよとの看板。仕方なく川上集落に入ることにした。山村などでは、集落までの道が立派な道に着けかえられていても、集落内はまだまだ昔のままの細い道ということが少なくない。そしてその道は集落住民にとっては生活の場。そういうこともあって、私は集落内を車で走ることはやむを得ない場合を除いて極力避けることにしている。生活道はそこに住む人たちの道であって、部外者の車は似合わないと考えるからだ。

やはりここの生活道も思っていたように、その大部分が一車線とちょっとの細い道。そこを遠慮がちにトロトロと車を走らせる。幸い人も車も通らない。静かな集落の風景を味わいながらゆっくりと進んでいくと、前に一輪車を押して歩いてゆく麦藁帽子のオバチャンの姿。畑仕事か何かの帰りなのだろうか、一輪車には何か荷が積まれている。山奥の小さな集落の中の生活道、日頃通る車は少ないのだろう。道の真ん中をゆっくりと歩いてゆく。気づいてくれるかな?など思いながら車をゆっくり進めるが、どうも気づいてくれそうな気配は無い。といってクラクションを鳴らすには何か申し訳ない感じがする。というわけで結局、一輪車を押すオバチャンの後をゆっくりと車で行く。

1分くらいその状態だっただろうか、ふいにオバチャンがこちらに気づき笑顔とともに頭を下げて、慌てて一輪車を道の傍に寄せてくれた。その「あら、ごめんなさいねー」という感じがなんとも爽やかだった。しかし「ごめんなさい」は、こちらである。狭い生活道にでかい車で入っていってるのだから。そこで車の窓を開けて「ありがとうー、すいません」と一言お礼とお詫び。それに対しても爽やかな笑顔が返ってくる。で、こちらも頭を下げて横を抜け、爽やかな気持ちで先に進ませてもらうことにした。

生活道を出て空地に車を停め集落を散策する。すぐ裏が山というこの集落は道と川に沿って細長くのびており、山と川の間が狭い。雨量が多い時などは山崩れなどの恐怖にさらされることが、砂防ダムが集落のすぐ上の山肌に造られていることからもよくわかる。晴天の今は何とも穏やか雰囲気だが、悪天候や大雪の時などはそれが一変するのだろう。通りすがりの者では所詮わかりようのないことかもしれないが、現実の厳しさは地形を考えるだけでも想像がつく。

そんなことを考えながらふと下を見ると、三段になった洗い場。ひかれたパイプからは、水が流れ続けている。おそらく山からの湧き水を引いてきたものなのだろう。洗い場は上・中・下の三段に分かれている。上段にためられた水は飲用水、次の中段は野菜や果物を洗ったり冷やしたりする、下段では食器などの洗い物に使用などという‘水舟’が郡上八幡で有名だが、同じような用途で使用されているものなのだろう。いっしょにタワシが置かれていることからも、ここが現役だということがわかる。夜叉ヶ池の竜神様を祀るこの地、豊富な水は竜神様からの授かり物といったところか。

一通り村を散策してふと見ると、先程の一輪車のオバチャンが石段に腰を下ろして休憩中。「こんにちは」と改めて挨拶を交わす。さっきのこともあり、初対面でありながらも初対面で無いという感じで話がはずむ。日焼けした笑顔が何とも健康的で爽やかで、80歳を越えられるという年齢だそうだが、とてもではないがそれが信じられない感じだ。こちらの質問にもハキハキとしっかりと実にわかりやすく丁寧に答えてくれる。その為、暑い中にもかかわらずついついいろいろうかがってしまい、長話になってしまった。もっとお話をききたかったのだが、あまり長くなってしまってはいけないと思い、お礼を言って先に進むことにした。

思いつきで訪れた旧坂内村川上地区だったが、思いもかけず爽やかな気分になったことが嬉しかった。爽やかさを少し分けてもらった、そんな感じだ。当たり前のことであるが、お礼や挨拶の大事さを改めて感じたりもした。普段はしかめっ面で無愛想な自分、そういうことができていないんだろうなぁ、など感じる。そんな自分でも山に行くとやけに素直で穏やかな人間になることが不思議であり、それを嬉しく感じたりもするのである。









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【2008/08/31 21:51】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#161 荘川桜
~荘川桜~

岐阜県岐阜市と富山県高岡市を結ぶ国道156号線、私が岐阜の北部や中央部を訪れる際には必ずといっていいほど利用する道だ。それの旧荘川村を北上し白川村へ入ろうかというあたりになるのだろうか、御母衣ダム湖の湖畔にひときわ目を引く二本の巨木がある。‘荘川桜’である。全国的にも有名な桜であるが、訪れたのが真夏のオフシーズン時期ということもあり周囲にほとんど人の姿は見えない。もちろんこの時期、桜の花など咲いているはずがないのだが、花はなくても圧倒的な存在感を周囲に示しているのはさすがだ。

毎年桜の咲く時期になると、大変多くの人がこの二本の桜の木の周囲に集う。私も人並みに「荘川桜の桜の花を見よう!」と思い何度か訪れたことがあるのだが、人混みと渋滞の苦手な私は、結局ノロノロと動く車の窓から横目で見ながら通り過ぎるだけに終わってしまう。で、人の少ないこの時期にじっくり見てみようと思っての今回の訪門。桜の花があるにこしたことはないのだが、それよりも静かにじっくりとこの巨木と向かい合えることが、私にとっては大事なことなのである。

NHKのテレビ番組のプロジェクトXなど、多くのテレビ番組や書籍などでも取り上げられているのでご存じの方も多いと思うのだが、この二本の老桜は御母衣ダム建設によって水没する中野地区の二つのお寺から移植されたものだ。そしてその奇跡的ともいえる移植に際しては、ダム開発責任者、ダム建設反対住民、移植作業を請け負った人たちなど多くの人たちを巡って多くの感動的なドラマが生まれている。 桜を思う心、故郷を思う心、故郷を失う人たちの心情を思う心‥などなど、そこには多くの‘思う心’が渦巻き混ざり合った。そしてそれら‘思う心’に心動かされた人たちからも、また新たな心動かすドラマが生まれてくる。名古屋から金沢まで、太平洋と日本海を桜でむすぼうという、旧国鉄バスの名金線の車掌をされていた佐藤良二さんの‘さくら道’も、その感動から生まれた新たなドラマだ。この‘さくら道’についても書籍ならびに、それをモデルにした映画なども作られたりしているので、ご存じの方も多いことかと思う。

もちろんこの荘川桜には、水没地区の住民の方の、今は無き故郷への思いや、樹齢400年以上という長い歴史の中で生まれた数え切れないほどのドラマが詰まっているはず。厳しい冬の間に降り積もった雪が融け、村人たちは待ちに待った春の訪れを桜の開花とともに喜ぶ。土地を開墾し水を引き、ようやく軌道に乗ってきた畑仕事や米作りに汗した者たちが、桜の木陰で疲れきった体を休ませる。子どもたちは、木に登ったり、枝にぶら下がったりして桜とともに幼い日を元気に遊ぶ。また、待ち合わせの場として桜の木の下で結ばれた若い二人が、やがて年老いてはこの古木のまわりを掃き清め、過ぎた日々を老夫婦として懐かしく語り合う。寺の境内で一本の桜の苗木が大切に植えられたことから始まり、以後400数十年間、桜のまわりでは数え切れないくらいの多くのドラマが流れていったのである。

この桜の周りで多くの人々の心が動き、そこから多くの感動が生まれ、今なおその形を我々は目にすることができる。そしてこれからも継続して多くの人々の思いが刻まれてゆく。桜の花の賑やかな時もいいのだが、こうして静かな時期に静かに見る二本の巨木も実に美しい。その中に刻まれてるほんのわずかではあっても、その思いを感じることで、この桜との接し方が全く変わってくる。数え切れないほどの様々な思いが、老木に刻まれた幹のしわから語られ、そしていろいろなことが際限なく思い浮かんでくるのである。湖畔に静かに佇む二本の老桜から感じることは尽きない。









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【2008/08/27 21:04】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
#160 『大原百井町』にて
~『大原百井町』にて~

以前、京都の久多から佐々里そして芦生を訪れた時に、時間が足りずに通り過ぎただけに終わっていた大原の『百井(大原百井町)』と『大見(大原大見町)』の両集落が気になっていたのだが、先日ようやく時間を見つけて訪れることができた。滋賀県から百井へ向かう坂はかなりの急勾配。「冬など大変だろうなぁ」など考えながら先に進む。それでも山間部の割りには道はそんなに狭いというわけではないので、圧迫感はそんなに感じない。

『百井』は静かで美しい山間集落。村を車でゆっくりと抜けようというところで百井分校の姿を見つけ、早速写真を撮ろうと車を降りる。校門あたりで座り込んで写真を撮っていると後ろから「こんなとこに何かいいもんありますか?」という声。振り返ると、頭に三角の帽子をかぶった農作業の帰りと思われる70才代くらいの男性の姿。「山の集落が好きで写真撮らせてもらっています」「どうぞ、どうぞ」などと挨拶を交わし早速話をうかがう。

この百井集落も例外なく過疎化が進んでいる。大原小学校の百井分校は既に閉校(休校?)。「学校が閉鎖になってもうだいぶんになるなぁ。(これより奥の)尾見分校はそれよりもずーっと前、20年、いやもっと前や」とのこと。帰って調べてみたところ、大原小学校百井分校は平成3年3月に一時閉鎖、尾見分校は昭和47年12月に一時閉鎖となっているから、それぞれ17年、37年程前ということとなる。「昔は炭焼きで生活できたから人も多かったけど、今は子どもはおらへんし若い人もおらへん。おるんは、わしらぐらいの年寄りばかりや。」「定年後に帰ってくる人もおらんなぁ‥」ということばに、山間集落の厳しい現実を感じることができる。ちなみに尾見分校の‘尾見’という名称は、この分校の学区の『大見』と、さらに奥の『尾越』の両集落名から取ったものなのだろう。

真夏の最も暑い時間帯の立ち話だが、校門前の坂に腰を降ろすとけっこう涼しい。時折吹く風が心地良く頬を撫でる。「夏でも、昼間はなんぼ暑うても夜なんかなったら、そらぁ涼しいもんや。」そういえば百井分校のある所は標高650mで、京都市内の学校で最も高い位置にあるらしい。また、校門支柱の横にある大きなもみじの木。それが影を作ってくれていて涼を与えてくれている。「わしが子どもの頃は、このもみじの木はもっともっとちっちゃかった。これに登って、よう怒られたもんや。」と、大きくなったもみじが作るその涼の中で、昔を懐かしそうに語る。もみじの木とはもう半世紀以上のつき合い、いわば幼なじみといったところか。普通は校門の横には桜の木が定番だが「全部腐ってしもた。」とのことで、校庭のフェンス際には途中で切られた桜の木が何本か残っていた。これが花を咲かせていた頃は、さぞかし美しい‘小さな分校の春の風景’が見られたんだろうなぁ、など勝手にイメージを膨らませる。

今では高齢者だけとなり、人口も戸数も減少して大変静かな百井集落であるが、分校校舎を利用して相撲の合宿が毎年行われているという。学校なのかどこかのクラブなのかはわからないが、かなりの人数が来られるらしい。残念ながらシートがかぶせられていて見ることはできなかったが、分校の校庭隅には立派な土俵も作られている。いつもは静かな山村にも、この時ばかりはぶつかり稽古の音や元気な声が村中に響き渡ることだろう。過疎の村と相撲という結びつきが何とも意外で印象に残るのだが、それよりもそのことを語るお年寄りの表情が、この日一番に印象に残ったりしたのである。









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【2008/08/19 07:13】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#159 富山にて‥二つの木造校舎
~富山にて‥二つの木造校舎~

久しぶりに木造校舎を訪れた。訪れたのは富山県の二つの学校で、いずれも今なお現役という。まず訪れたのは映画「少年時代」に関わる学校。といっても映画のロケで使われたのではなく、撮影当時その学校の子どもたちがエキストラ出演したということだったようだ。ちなみに映画のロケで使われていた校舎は大家庄小学校と横山小学校の二校であるが、残念ながらいずれの校舎も既に取り壊され今はもう存在しない。

その学校は静かな住宅街の中にあった。ロケで使われたのではないとわかっていても、どうしても映画のイメージとダブらせて見てしまうのか、田園風景がイメージに近いだけあって何か意外で不思議な感じがした。猛烈に暑く、強烈な日差しの日中の撮影だったので、残念ながらコントラストが思い切り強くなってしまいイメージどおりに撮ることができなかったが、校舎自体は美しい木造校舎。映画で使われた学校とは違っていても、その姿は何か共通するものがある。そして映画の場面を思い出す。校舎から映画はイメージできるのだが、逆に映画から現役のこの姿がイメージできないのは、それだけ映画の中の校舎の姿が生きていたということか。

二つ目に訪れた木造校舎は先の校舎よりかなり山間部にある。そこに着いたのがちょうど夕暮れ時で日差しの美しい時間帯ということもあり、その校舎は夕日の光とそれの反射の中で何とも幻想的な姿を見せてくれた。このような瞬間を目にした時は、いつものんびりしている自分であるが、さすがにはやる気持ちで一杯になってしまい大いに焦ってしまうのである。それにしても美しい。このうす緑色の木造校舎が美しいのはもちろんだが、この時間のこの一瞬の美しさが一体となって今の姿を見せているのは間違いない。その美しさを十分に撮ることができたら大いに満足するのだろうが、そうでなくてもこういう風景に触れられただけでもけっこう満たされるものは大きい。

地方をドライブしていると、木造校舎らしき建物が思わず視界に飛び込んできて驚くことがある。しかしそのほとんどが廃校となってかなりの年数がたって荒れていたり、再利用として新たに生まれ変わっていたりなどで、すでにそこからは子どもたちの元気な声が聞こえてくることは無い。しかし今回訪れた二校は、いずれも現役。やはり現役の学校は休校舎や再利用校舎とは雰囲気が全く違う。今までも何度も書いているのだが‘エネルギーがある’のである。‘パワーを感じる’のである。

現役で使われている古い木造校舎は、全国的にも本当に数少ないだろう。安全面、管理面、維持費用‥等々で多くの問題を抱えていることは間違いない。それでも歴史ある美しい校舎を残しておきたいという理由で残っている校舎もあるだろう。またこの先地域の児童生徒数の減少が目に見えている為、とてもではないが建て替え費用など捻出できないなどという苦しい台所事情で残っている所もあることだろう。この二校がどういう状況にあるのかは知る由も無いのであるが、木造校舎の風景から子どもの姿が消え、やがて荒れ果てていくというのは理屈抜きで寂しいものを感じる。一つの時代が終わる、といったらオーバーなのかもしれないが、何か大事なものが消えてゆくという思いがしてならない。自分の中では、何かが象徴されている木造校舎‥なのである。









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【2008/08/13 04:34】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
#158 『赤谷』と『森茂』
~『赤谷』と『森茂』~

久しぶりに御母衣湖周辺林道を訪れた。‘御母衣湖周辺林道’などと非常に曖昧に呼んでいるが、実は正式名がわからず私が勝手にそう呼んでいるだけのことなのだが‥。かつての岐阜県大野郡荘川村(現・高山市)の山村『六厩(むまい、むまや)』から北に向かって延びるこの林道、残念ながら『六厩』の起点からそう長くない所でゲートのある広場に行き着いて、一般車は通れなくなってしまう。しかしそんな短い林道でも秋になると実に美しい紅葉の風景を見せてくれるので、私の中では大変印象深い林道の一つとなっている。紅葉の季節には、一日中何もせず寝転んで思い切り秋を味わってみたくなる、そんな気にさせてくれる林道なのである。

この日は紅葉ではなく、真夏のエネルギッシュな緑の木々の葉が迎えてくれた。この夏最高ともいえるような暑さの中だったが、それらの木々の葉が林道を覆い、あたかも緑のトンネルという感じで日差しをさえぎってくれるため、「暑い!」という印象はそんなに受けない。また杉林のような薄暗い雰囲気も無い。車を降りてエンジンを切る。聞こえてくるのは蝉の声だけ。この静けさからは、ここらがかつては金山として多くの人々で賑わっていたことなど到底想像することはできない。今は蝉の鳴き声が聞こえるだけのこの谷も、その昔は屈強な工夫たちの荒々しい声が響き渡っていたのであろう。

林道はゲートのある広場から二手に分かれているが、いずれも鍵のあるゲートでふさがれており、車ではこれ以上進むことはできない。左側のゲートからは‘六厩赤谷林道’、右のゲートからは‘森茂六厩川林道’がそれぞれ延びており、それぞれのゲートにはその林道名が表示されている。この林道名にある『六厩』『赤谷』『森茂』はいずれも集落名であるのだが、『六厩』以外はどちらもすでに廃村となって久しい。今のこの静かな風景を見ながらそのことを思うと、人知れず静けさの中に消えゆくものの寂しさを感じざるを得ない。

『赤谷』は御母衣ダム建設のための水没集落。今から約40年前の昭和35年に完成した御母衣ダム建設では、この『赤谷』の他『中野』『岩瀬』『海上』の4つの集落が完全水没し、多くの人たち(1206人)が故郷を失くすこととなっている。一方『森茂』は、ダム建設による水没集落ではない。全戸離村したのも『赤谷』よりはるか後の昭和48年というから、ダム完成後15年も過ぎてからの離村だ。これだけを見ると『森茂』が廃村になったのはダム建設とは無関係のように思えるが、実際は二つは大いに関係している。

ダム建設時、『森茂』集落そのものは沈むことはなかったものの、この村と密接なつながりのあった集落や道がダム建設で水没し消えてしまっている。ともに生活の基盤を作っていた『森茂』より西側集落、それらは全て無くなり、道はダム湖によって寸断されてしまったのである。これは、生活のつながりをそれら集落や道に頼っていた集落の人たちにとっては大打撃である。それにより村はほとんど孤立状態となってしまい、生活は大いに変わってしまうこととなる。人々が村を去った理由はこれだけではない。何百年もにわたって村を守ってくれた山の原生林が根こそぎ伐採されてしまったことや、それによる山崩れや洪水などの災害の恐怖、大雪などの過酷な自然条件などの影響も大きかったという。運搬用の森林鉄道が作られていたというから、その伐採の規模の大きさはかなりのものだったのだろう。ちなみにそれらの森林は国有林だった為『森茂』の住民にとって得られるものは何も無く、ただ乱伐の後に生じる災害のみが残ったと言うことだったのだろう。このあたりについては、以前このコーナーで紹介させていただいた書「源流をたずねて3(岐阜新聞社出版/吉村朝之著)」に詳しく書かれているので、関心のある方はぜひご覧いただければと思う。

山村やその奥を訪れた時に様々な風景を目にする。気にかけなければそのまま見過ごしてしまうような風景の中でも、よく見るとそこから様々な歴史が見えてくることがある。そしてそこには多くの人々のドラマがあったこともよくわかる。単に昔を懐かしんだり、そこにもの悲しさを感じるというのも悪くはないのかもしれないが、そこから一歩踏み込んでみることで見えてくるさらなるもの、それらから今の時代に学ぶことの多さに驚くことも少なくないのである。



※参考資料「源流をたずねて3」(吉村朝之著/岐阜新聞社発行)










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