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#188 山がにぎやかだった頃
~山がにぎやかだった頃~





トラックの荷台いっぱいに満載された子どもたち。そしてその何とも嬉しそうな表情。子どもたちは丹生小学校小原分校の5、6年生の子どもたち。そしてトラックは,当時周辺の山の伐採作業に入っていた王子製紙の関係の作業トラック。これは1960年11月のことというから、今から49年も前の写真。写真を撮影されたのは、当時小原分校に勤務されていた肥田嘉昭先生である

本サイトの写真帳コーナーの「ふるさと針川」は現在諸事情で公開を控えているが、その時にお話をうかがった『針川』出身の中谷幸子さん、そして幸子さんを紹介いただいた越川登代子さんとは、その後も話をうかがったり廃村にお住まいだった方を紹介いただいたりなど大変お世話になっている。今回その中谷さんの丹生小学校小原分校時代に担任をされていた肥田嘉昭先生を、やはり越川さんにご紹介いただきお話をうかがうことができた。この肥田先生は、余呉町の丹生小学の学校長を最後に教職を退職され、その後も湖北野鳥センター所長として、また観光ボランタリーガイドや読み語りボランティア、そして本の出版等々多岐にわたってご活躍されている方である。3時間以上のお話の中のどれもが貴重なものばかりであったが、その中で今回は針川や尾羽梨の谷に出入りしていた王子製紙に関するエピソードを紹介したい。







王子製紙はかなりの規模で針川や尾羽梨の奧の谷の原生林の伐採を行っており、一日に何回も伐採された木々を満載したトラックが、谷の林道そして針川~尾羽梨~鷲見~田戸~小原を結ぶ高時川沿いのガタガタ道を行き来していたという。半世紀近くたつ今でも、谷奥の荒れた林道にコンクリート擁壁や車用の標識など当時の面影を見ることができ、本サイトの掲示板でもこのことの報告をいただいている。

山において水の貯蔵庫ともいえる役目を担い、多くの命を支えている原生林。それが大規模な伐採により姿を消す。このことは、山やその周辺に大きな自然環境の変化をもたらす。貯められなくなった雨水や雪解け水はすぐに川に流れ出る。杉が植林された保水能力のない山は、水とともに多くの土砂を川に流す。それにより多くの命を育んでいた川の底は上がり、水量も大いに減る。また原生林で生活していた動物たちは豊富なエサを失うこととなり、その数を減らす。ここ北丹生地域でも、紙の材料を求めて製紙会社が谷の木々を大規模にわたって伐採したことが周囲の自然にもたらした悪影響、それらは決して少なくなかったはずである。もちろん法を犯してそういうことがされているのではなく、製紙会社を責めることなどできるはずもない。企業が、できる限り効率よく材料調達から生産までの過程を考えるのも当たり前の話。社会が、というより国も世界も自然環境への配慮など全くなかった時代、消費は美徳といわれたそういう時代の普通の出来事だったということなのだろう。







しかしそういう木々の伐採による自然への悪影響とは別に、伐採作業などに従事していた人たちは当時の村の人々と温かいふれあいを残している。今回お話をうかがった肥田先生は、初任でランプ生活の僻地の分校に赴任し(赴任されたのは昭和35年、電気が通ったのは昭和36年)、店もなく日常品の買い物のできないこの辺鄙な地で大いに困ることになった。その時助けになってくれたのは、材木運搬で町と山を行き来する製紙会社のトラックの運転手。いくつかの品目の書かれた小さな紙切れを運転手に渡すと、そこに書かれたものを材木搬出の帰りに町で買って先生まで届けてくれていたという。宿直という形で分校で寝泊まり自炊をされていた先生にとって、これは大いに助けとなってくれたことだろう。もちろん肥田先生のお人柄によるものも大いにあることと思うが、トラックの運転手が一定でないことを考えると,個人的なつき合いがあったからしたことということではないようである。また冒頭の写真にあるように、小原分校から尾羽梨ダムへ鍛練遠足へ出かけた時には、通りかかった製紙会社のトラックが子どもたちを荷台に満載して、山道を乗せていってくれた。「こんなとこ歩いて,どこ行くんやー?乗っていかんかいー!」そんな感じだったのだろう。写真を見ると子どもたちの嬉しそうな様子がよくわかる。きっとこの時のことを50年過ぎた今でも覚えている人たちは多いことだろう。今の時代なら「なんて危険なことを!」と大問題になりそうなことだが、そんなこと当時は誰も問題にするはずがない。問題にするかしないか、どちらがいいのかというような問題ではなく、「そういう時代だった」ということなのだろう。




この他、伊勢湾台風で強い風雨の時に村人の中にケガ人が出てどうすることもできず困り果てている時、たまたま通りかかった製紙会社のトラックが町のお医者さんまで連絡してくれ、それによってケガ人が一命を取り留めることができたということもきいた。その時「迎えに来てくれるなら往診に行く」といったお医者さん、そのことばを村に再び伝えに帰ったトラック運転手、お医者さんを車で迎えに行ってくれた人、台風によるひどい風雨、もちろん今のような舗装路ではなくぬかるんだ道、いつがけ崩れが起きても不思議ではないという命さえ脅かそうという大変危険な条件が重なる中で、それぞれの人の温もりがつながって人一人を救うことができた。今のようにそれぞれの家庭に車があるという時代ではなく、電気や電話さえまだ通じていなかったこの辺境の地では、誰もが助け合うということは普通のことだったのかもしれない。

この春、針川や尾羽梨川の谷を歩いた。その時に見たかつての山のにぎやかさの跡、そこには山から木を切り出すトラックと作業員の姿しか思い浮かばなかったのであるが、実は人と人との温もりも含まれていたということを、今回お話をうかがって知ることができた。当時の写真を見る幸子さんと肥田先生の「この人は力(りき)さんやわ」「おお、わしも知ってるわ」という会話を聞きながら、その思いをより強く感じたりした。

この日、肥田先生ならびに中谷幸子さんからは当時の大変貴重なお話を聞かせていただいたり写真を見せていただいたりした。またこのコーナーでもその時のお話などご紹介できれば、と思う。なおこの欄のモノクロ写真は肥田嘉昭先生ご自身が撮影されたものである。ただ私がその写真を撮影する際に手ぶれやピンぼけなどを起こしているものが多く、実際の写真の素晴らしさが十分にお伝えできないのが誠に残念だ。しかしその辺を差し引いても、写真から伝わってくるものは限りなく大きいのである。




http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2009/07/31 12:00】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#187 芹谷の高原集落
~芹谷の高原集落~





芹川の上流部にある鈴鹿山脈の美しき谷‘芹谷’、そこには10を超える廃村や過疎の集落がわずかなスペースを求めて散らばるように点在している。そのうちの一つ『桃原(もばら)』は、芹川を見下ろす鈴鹿の山腹(標高訳330m)に位置する、谷の入り口付近の集落。明治の頃には戸数52戸で255人もの人口を有したこの集落も、早くから過疎化が進み、今ではわずかな人が生活するのみとなっている。それでも人が住んでいるということが、人が住まなくなった所と決定的な違いがあるということは、既に人が住まなくなって消えようとしている周辺の集落を見ると明らかだ。それはそこの空気が常に人によって動かされ、人によって変化ある風景が連続して作られているということ。常に生活の温かみがそこに感じられる風景なのである。そのためか、同じ静寂であっても、人がいる集落の静寂は圧迫感や重みをを感じることがほとんどない。


『桃原』の春夏秋冬それぞれの季節の自然に彩られる風景は大変美しく、その風景を見たくて私は一年に何度かこの地を訪れる。この前訪れたのは福寿草が咲き誇る3月のことで、その時は思い切り春の色を感じさせてくれた。庭に植えられた木々や道端に咲く花、そしてすぐ後の山や空、それらが春を見事に表現していた。雪が降り積もった時の桃原も実に美しい。2~3年前だったか、しんしんと降り積もる雪に、膝より深く埋まりながら雪の集落を訪れたことも大強く印象に残っている。その時に見たモノトーンの桃原の風景と私を包み込んだ冷たく心地よい静寂感、それはきっとこの先も忘れることはないだろう。ここを訪れる時はいつも「どんな風景を見せてくれるのだろう」という大いなる期待感を持ち、そしてその度に裏切ることなく季節の美しさを感じさせてくれるのである。




この日、目にした桃原の彩りは薄青色の紫陽花と木々の緑。道沿いに美しく咲いた紫陽花が、まず目につく。しかしなぜかある高さから下は花も葉も全く無く、枯れた枝(茎?)だけになってしまっている。写真を撮りながら不思議に思いながらも先に進む。これまでは美しい姿を見せていた集落の老家屋たちも、人の手が入らなくなってしまったものは加速度的にその傷みがひどくなってきているのがわかる。あと2年後、3年後には大きく姿を変えてしまっているかもしれないなど思うと、やはり寂しくなってしまう。しかし人の手が入って美しく保たれている家屋を見ると、その温もりが寂しさを和らげてくれる。それらが混在しながら流れる時間、それを一番寂しく感じるのは、やはり今もこの地を守る人たち自身に違いない。

この日もやはり桃原の風景は裏切ることなく、その美しさを見せてくれた。木々の葉が逆光に輝き、道沿いの家屋の塀にかぶさって淡い影を作る。3月に訪れた時には幾分広く感じた家屋裏の路地にも緑がかぶさり、そこに映る光と影が崩れかけた老家屋と一体化して、そこにしかない風景を作り出す。歩く先々でそれぞれの違った風景があり、それらを満喫しつつしばし写真撮影に没頭する。こういう時は一瞬ではあるが、日頃の煩わしさなども全て消える最高の時間となり、自分自身が周りの風景に入り込んで最も心地よい空間を感じたりする。

ひととおり集落をまわり、元の紫陽花の所に戻って再び紫陽花を撮影していると後から「下は全部鹿にやられてしまった。」という声。振り返ると集会所の中から人が出てこられていた。うかがうと、紫陽花は上にも下にももっとたくさん咲き誇っているはずなのだが、全て鹿に食われてしまったとのこと。最初に感じた疑問がこれで解けた。ある高さから下が全て不自然に枯れていたのは、鹿にやられてしまったからだったのだ。もちろんやられるのは紫陽花だけではなく、杉の木や庭に植えられた花や木々の葉、それら全てやられてしまうという。「猪もおるけど、何よりも鹿と猿や」と言われるように、多くの人が住んでいた頃からこの二つの動物には悩まされ続けていたようだ。人が少なくなった今となっては、昼夜関係なくこれらの動物たちが『桃原』では我が物顔に振る舞っているのだろう。

集会所から出てこられたこの方にしばし話をうかがい、そして集会所の中に置かれてある桃原周辺の古い航空写真も見せていただいた。いつの頃の写真かははっきりわからなかったが、『向の倉』がまだ人が住んでいた頃のもののようで、『向の倉』『甲頭倉』そして『桃原』のまわりに多くの畑が広がっているのが確認できる。もちろん多くの家屋の姿も確認できる。『桃原』に芹谷からの林道ができたのが昭和39年というから、写真にそれが写っているところを見るとそれ以降、そして『向の倉』に畑がある頃なので昭和40年代中頃あたりまでに撮られたものかと思われる。桃原の周りにもずいぶんと畑が見られる。「レタスとごぼうや」と言われるように、その高原に近い気候を利用してレタス栽培がさかんだったようで、かなりの収入となったという。ごぼう栽培については以前にもうかがったことがあったが、レタスが栽培されていたのは始めて。同じような位置関係にありながら『桃原』と『向の倉(昭和45年廃村)』が大きくその運命を違えたのは、これら畑作と林道の有無も決して無関係ではなかったのだろう。

『桃原』の畑の周りにも写真では白く見える空き地のようなものが広がっている。これは、スキー場だという。集落の周辺はもちろん、今は林道が着いたり植林されたりしている斜面も一面スキー場だったようで、冬場などは桃原の民家が民宿に変わったという。滋賀県のスキー場としての歴史の古かったこのスキー場も時代の流れとともに閉鎖されてしまうわけだが、当時は杉の植林も無く広々とした山の斜面、生活する人々も家屋も多く今とは全く違った桃原の風景が広がっていのだろう。‘高原’というイメージがピッタリの風景が広がっていたに違いない。その頃の風景を一目でいいから見てみたい、など感じるもそれはどうしようもないこと。今は薄暗くなってしまった杉林の風景から無理矢理想像するしかないのである。

「時々空気を入れ換えんとな」と集会所でお話をうかがった方は言う。その言葉を聞いて改めて、集落で、そして家屋で空気が動くことの大事さを確認する。こうした人々の思いが、村を美しく保っているのだ。わずかな数の人々で村を美しく保つというのは大変なことのはず。既に手に負えなくなってしまう部分もきっとあるに違いない。それでもこの美しさを見ると、そこには故郷への思いを強く感じたりするのである。








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【2009/07/15 12:00】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#186 『男鬼(おおり)』にて
~『男鬼(おおり)』にて~


本サイト「e-konの道をゆく」の掲示板でいただいた様々な情報、それをきっかけにして出かけることがよくある。林道や廃村、山村など様々な書き込みいただいたことに刺激を受け、それに触発されて体中がムズムズしてじっとしていられなくなる。そしてわずかな時間を見つけてはカメラを抱えて出かけてゆく。不思議なことにそうして出かけた時は、いつにない光景に出合えたり感じるものが多かったりなど得るものが大変多かったりする。私にとって掲示板でいただいた書き込みは、単に情報を教えていただくというだけではなく、気持ちの面で新鮮な刺激をいただき、それが行動に結びついて新たな出合いや発見が生まれる、そんな感じなのである。




この日は鈴鹿山脈の山村『男鬼(おおり)』を訪れた。少し前の掲示板で、‘少年山の家’を体験した方から当時の感想をいただき、それに刺激を受けての訪問である。そういえば『男鬼』に行くのは久しぶりだ。ここは非常に思い出深い地で、以前は月に何度も訪れたりしていた。しかし昨年は茅葺屋根の葺き替えが滋賀県立大学の方で行われているなど聞いていたので、何となく行きそびれていた。あの極狭路に頻繁に?車が行き来するシーンを勝手に想像してしまい、ついつい遠慮がちになっていたのである。

『男鬼』は本当に美しい集落だ。この日も大変美しい景色を見せてくれていた。昭和48年から平成11年まで行われていた、彦根市の小学校の野外活動‘少年山の家’の活動打ち切り後もこの地が動いていること、それが美しさを維持し続ける大きな要因となっているのは間違いないところ。倒壊した家屋がそのままになって無惨な姿をさらすという、廃村独特の寂しい雰囲気もここではほとんど感じない。逆に今も人が入っていることを大いに感じさせてくれるのである。一軒残る茅葺き家屋、葺き替え作業もまだ終わっていないのだろうか、軒下にそのための茅が束ねられて置かれている。それ以外に残っている家屋も庭がきれいにされている。




一方で、これまできれいに耕されていた畑がもう手入れされておらず荒地となっていたりもする。このような風景を見ると本当に寂しく、そして胸が痛む。廃村を何度も訪れたりしていると、それまではきれいに花を咲かせていた花壇や作物を実らせていた畑が、ある年を境に全く手入れされず荒れ地となっていく光景を目にする。そういう風景に出合った時、そのことの意味することを時の流れの中で読み取り、そして人の温もりが一つずつ消えていくことの寂しさをしみじみと感じる。その時に見た光景、それはその時のみに見られる光景であり、その次、その次の次に同じように見られる保証は全くない。当たり前のことなのだが、そのことを改めて感じるのである。そこに時の流れを感じたりするが、こういった人の住まなくなった村は非常に繊細にそれを表してくれる、そんな気がしたりもする。

今も『男鬼』には‘少年山の家’の名残を見ることができる。集落の下端(霊仙落合方面)の空き地にある‘少年山の家20周年記念’の杭と‘記念モニュメント’だ。この‘少年山の家20周年記念’と書かれた杭は、それ自体が記念物というのではなく、植樹か何かの記念に作られたものを表示するための杭なのだろう。しかしそれも今は根元から倒れてしまい空き地に転がっていて、何を示しているものかはわからなくなっている。この杭は平成4年と書かれているから、今から17年前のもの。一方、道沿いに今も健在の記念モニュメントの方は、裏に昭和50年と記されてあり、今から35年程も前のものとなる。この頃の子どもたち、今は46~7才といったところか。当時のことを思い出したりすることはあるのだろうか。

この日は『男鬼』で誰とも出会うことはなかった。通り過ぎる車は1~2台あったのだが、この地とは関係のない方たちであったようだ。この周辺の鈴鹿の廃村や過疎集落の多くが寂しさばかりが強調されてしまっている中で、『男鬼』は多くの温もりを感じさせてくれる。この地を訪れると何とも心癒される気持ちになるのは、これまでの温かい記憶と今なお残る温もりのおかげなのかもしれない。









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【2009/07/04 04:07】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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