スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
#209 『椚平』(長野県諏訪市)にて
~『椚平』(長野県諏訪市)にて~






酷暑という表現がピッタリの夏のある日、久しぶりに長野県にある『椚平(くぬぎだいら)』という集落を訪れた。諏訪市大字湖南字椚平、つまり諏訪市の大字『湖南』地区の小字『椚平』ということで、少し南に下がれば箕輪町なので諏訪市の南端あたりということになる。地図で探すなら、箕輪ダムの上流部といった方がわかりよいかもしれない。『椚平』は、明治7年10月に北真志野村、南真志野村、大熊村、田辺村、後山新田村、板沢新田村、椚平新田村が合併して湖南村となり、昭和30年4月に諏訪郡中洲村とともに諏訪市に編入されている。そして集団離村により無住の集落となったのは、それから17年後の昭和47年のことである。





『椚平』にある離村記念の碑には、養蚕を主として生計を立てていた村が養蚕・水田・山林で生活できなくなったこと、町へ働きに出て現金収入を得なければならなくなったこと、青年層が流出してしまったこと、バスの運行が中止されてしまったこと、子どもたちの教育に支障をきたす環境となったこと(昭和43年の分校閉校による影響?)、等々で地区を維持することが難しくなって集団離村を決意したということが書かれてある。最終的には村は八戸となったというが、もっと少ない戸数でも人が暮らしている集落がある現実からすると、集団離村を決断したことが少し不思議に感じられたりもする。しかし、一つの集落というだけではなく、一つの区として動いて来た経緯の中で、様々な自治活動ができなくなってきたことや将来に向けての明るい展望が持てなくなってしまったこと、これらの不安が若者のいなくなって残された住民たちに重くのしかかってきたことが、集団離村という苦渋の選択だったのだろうと思われる。今から40年近く前のことである。





山の浅い谷の一本道沿いに細長く続く集落は、今も何軒かの家屋が残っており、その中には家屋だけではなく畑や庭の花などもきれいに手入れされている所もある。地元の方が今でもけっこう帰ってきておられるようで、この日も暑い中、庭で畑仕事に勤しむ人の姿が見られた。と思えば、今にも倒壊しそうな廃家屋、すでに倒壊してしまった家屋などもあり、その違いの大きさにそれぞれの事情を感じたりする。比較的近くに移住された方は、定年後や休みの日などにはこうして帰って来て畑仕事をしたり、気候の良い時には生活をしたりしているので家屋もきれいに保たれる。しかし離村して遠くへ住まわれた方は、故郷へ帰ることもできず、主無き家屋はそのまま朽ち果てていくということになるのだろう。

ここは、5年ほど前の夏に一度訪れている。その時は、周辺をウロウロしていてたまたま通りかかったのだが、寂しげで静かな村の雰囲気と、鮮やかなオレンジに近い黄色に咲き誇るオオハンゴンソウが大変印象的であった。倒壊しかかっていた家屋が倒壊してしまっている以外は、その時の風景とそんなに変わりがないのは、今もここを故郷とされる方が帰ってきておられる、そういうことなのだろう。人の温かみを受けている集落は、まだまだ村が生きている、そんな感じがするのである。





じつは今年の初めより「いちまい写真」という写真ブログを公開している。といってもことばや説明文など全く無く、毎日1枚の写真のみが更新されるだけという単純なものなのだ。「道をゆく」のサイトさえ更新ままならないのに何ということか、と思ったりもしたのだが、その時その時に気ままに好きな写真を更新するという気楽さでやっている。で、そこでこの『椚平』の写真を何枚かアップした時に、幼い頃にそこに住んでいたという方からコメントをいただいた。かつてそこに住んでいた方からことばをいただくというのは、大変嬉しいことであると同時に、今の人のいない風景しか見ていない自分にとっては特別の意味がある。朽ち果てた廃屋にも命を与えられた、古びて干からびてしまったものに水分・湿りけを吹き与えられたような、そんな感じがするのだ。この時も、頭の中の廃村の風景に息吹が与えられた、そんな気がした。そしてそうなると、もう一度『椚平』の風景を見てみたいと思うようになるのである。









この日は5年前と同様、南の方の箕輪ダムから沢川上流へと走り『椚平』にむかうことにした。まずダムの堰堤で少し休憩を取る。ダムは平成4年に完成というから、けっこう新しい。ダム湖はもみじ湖と言うそうだが、連日のうだるような暑さのせいか水もよどみ、緑色の濃い水は何とも酸素不足で、そこで元気なくユラユラと泳ぐ大きな鯉も息苦しそう。また、湖岸では、暑い中であるが鯉釣りかヘラ釣りかの釣り人の姿も見られる。そういえば山の風景が好きになったきっかけは、以前凝っていた山上湖でのヘラ釣りだったなぁなど思いながら、人のいなくなった村の風景を求めて車を発車させる。途中、箕輪ダム建設の際に廃村となった集落の名残をいくつか見る。大方はダムに水没してしまったのだろうが、やはりここでも故郷を訪ねてくる人たちの温もりを感じることができた。









天竜川水系の沢川も細くなり、その川沿いのそう深くはない谷の峡路を走ると離村の碑が見えてきた。『椚平』に到着である。前回見た二階建ての半壊家屋はやはり倒壊が進み二階部は崩れてしまっている。自然の中で傷み始めた家屋の末路の訪れを感じる。雪深い地域での、人の住まなくなった家屋の倒壊までの進行の速さには驚かされるが、やはりここでも進行は確実に進んでいる。見慣れてるとはいえ、こういった風景は寂しさを感じざるを得ない。川沿いの一本道には、以前は多くの家屋があったのだろうが、今は数戸が残るだけ。そういう中でちょっと雰囲気が違うのが、‘諏訪市消防団第八分団’と書かれた、ツタに覆われてしまって実体の見えない火の見やぐらと消防車の車庫であったと思われる建物。この風景は『椚平』のシンボル的な風景であり、ちょっと他とは違う風景。前回よりさらにツタがからまっており、ツタの塊のようになってしまっているのがおかしな感じだ。









ブログにコメントをいただいた方は、4歳までここに住まわれていたという。幼いその年齢では、鮮明な記憶は残っていないかもしれない。しかし川横の細い道を元気に駆けたり、追いかけっこしたり、川で小魚を捕ったり、畑や田んぼで虫を追いかけたり、きっとその頃の『椚平』での生活の記憶は埋もれることなく残っているだろう。子どもたちの賑やかな声が谷間にも響く当時の風景、そういう風景を勝手にイメージしながら道を歩くと、初めて訪れた時とはまた違った雰囲気を村から感じるから不思議だ。一本道沿いの家屋、狭いながらの田畑、そんなに深くない谷道なので当時はもっともっと明るく開けた感じだったはず。どのような故郷の風景の記憶が,その方の中に残っているのだろうか、など考えたりする。寂しさだけを感じた廃屋の風景が少し温かみを感じたりするのも、何か嬉しく思える。





ここから少し行くと『後山』地区に着く。ここには映画「ひぐらしのなく頃に」のロケにも使われた美しい木造校舎‘湖南小学校後山分校(昭和43年閉校)’が残る。そして周囲には典型的な日本の里山風景が広がっている。この校舎、大きさからいくと現役の頃はけっこうな児童数だったと思われるが、かなり傷んできており、今後が何とも気になってしまう。椚平地区には分校は無かったので、集団離村をする4年前までは、『椚平』の子どもたちもこの後山分校まで通っていたはず。『椚平』から『後山』までの一本道を歩く集団登校の子どもたちの風景、今ではもう見ることのできない風景ということはわかっているが、なぜか身近に感じてしまうのが不思議だ。





『後山』は周囲の田畑が美しく大変静かな集落。この『後山』ほど開けた感じではないにしても、『椚平』にもかつてはこういった里山の風景があったのだろう。今、静かで美しい後山地区の風景を見ながら、にぎやかだった頃の椚平地区の風景を考えると、当時の風景が何となくイメージできてくる。今その風景を見る術はないが、現在の風景から昔の風景を思った時、またこの先の風景を考えてみた時、見えてくるものは少なくないのである。日差しの強い後山分校の校庭でボーッとしながら、そんなことを考えたりした。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
スポンサーサイト
【2010/09/20 22:27】 | その他山村・廃村・自然 | page top↑
#208 「講演会~廃村茨川に生まれて~」を聴いて
~「講演会~廃村茨川に生まれて~」を聴いて~






鈴鹿山脈の最奥に位置し、昭和40年に廃村となるその時まで電気が通ることの無かった集落『茨川』、その歩んできた歴史や数奇な運命、さらに最奥地の孤村という地理的な条件、今の時代の感覚からはかけ離れた生活が高度経済成長まっただ中の時代に存在していたという事実、これらによって登山家や渓流釣り師に限らず、この地にロマンを感じる者は少なくない。ネットでも、未だ多くのサイトで取り上げられているのもそのためだろう。

この廃村へと続く林道起点、八風街道(国道421号線)からの分岐周辺は、鈴鹿をぶち抜くトンネル工事のため以前の静かな山道とは大きく変容しており、行き交う工事車両や重機の音で今は大変にぎやかだ。古くは銀山でにぎわい、また伊勢へと抜ける旅人の茶屋としての役目を担っていた茨川も、集落内を流れる川にその名残を残すだけで、今は大変静か。そしてそこを通っての鈴鹿越えの古道も、今訪れるものは登山客くらいとなっている。一方、一本下の八風街道は大変にぎやかで、トンネル開通の暁にはさらなる変貌を遂げていくことだろう。なんでもこのトンネル、平成11年に開通するというからもうあとわずか。しかしそれとともに、峠越えの旧・八風街道の部分は廃道となるのは間違いのないところで、少々寂しい気もする。









ちょっと前のことになるが、東近江市の永源寺産業会館という所で「イワナとススキの思い出~廃村茨川に生まれて~」というテーマで講演会が行われた。講師は茨川の地で生まれ、小学校の4年生に離村するまでこの地で育ったという筒井正さん。その地で生活した人にしか語ることのできない貴重なお話をたくさんうかがうことができ、大変有意義な時間をすごすことができた。茨川の簡単な歴史から始まり、筒井さんが生活されていた頃の当時の生活の様子、廃村となるまでの経緯、そして今振り返った時に故郷に対して思うこと、故郷から学ぶこと・・等々、本当に貴重なお話ばかりで、多くのことを学ぶとともに、昔を振り返ることで知ることの大きさ、大切さを改めて感じたりした。





どの話も大変印象的なのだが、中でも印象に残っているのは廃村に至るまでの経緯、村を離れることになるまでの経緯である。それまでは炭焼きを生業にしていた山奥の小さな集落に林道が通り(1954年)、自動車を使っての割り木の出荷が始まる。さらに燃料革命で炭の需要が減り、それに拍車をかける。炭焼きは、木を切って炭になるまでにそれなりの時間、期間を要するが、割り木は切ったらすぐにトラックに満載して出荷。その結果、周囲の山の広大な雑木林は見る見るうちに無くなってゆく。そこに杉などの植林が始まり、四国などからも大勢の入植者がやってきて、一面は杉林へと変わってゆく。林野庁の植林事業で各地の山々が杉林へと変わっていった時代だ。結果、炭焼きを生業にしていた集落で炭焼きの仕事が無くなり、次々と離村してゆく。





離村前の1964年の秋、教育委員会の人が筒井さんのお宅に来て引っ越しをうながしたという。ここにいてもらったら困る、ということである。子どもが一人でもいたら、どんな僻地であろうと教育を保証しなければならない。一人の子どものために大きな金は使えない、ということなのだろう。引っ越しできないなら、子どもだけでも寄宿舎に入れるようにと母親に告げる。そしてついに一家は離村を決意する。小さな子どもと離れ離れの生活を望む親などいないだろう。やむを得ない離村、苦渋の決断であったことは間違いない。「母は、泣いていました。」という筒井さんのことばが印象的であった。









今、過疎化が進んで集落によっては住人が数人という所も全国では少なくないはず。おそらくそういう所では、同じようなことが役場の者からお年寄りに告げられていることだろう。「一人の人のために大きな金は使えない。だから引っ越しをしてください。」また言い方は違うかもしれないが「冬は除雪もしませんよ。これ以上ここに住んだら、町(市町村)としては責任はとれませんよ。」なども似たようなこと。それは事実だろうし、無駄を無くし効率よく金を使おうとするのも当然のこと。しかし、それだけで進めていくと、何か大事なものを捨てていくように感じたりする。





人が山で生活できなくなり山を去る、人が米作りで生活できなくなることで田畑を捨てる。その結果山は荒れ里地は荒廃する。学校が姿を消し、人は村を離れ多くの集落が姿を消す。一方、都会では仕事のない人たちが溢れかえる。今、これまでの長年の国の政策の失敗事例を多く見ることができる。これらを振り返り失敗として認めていくこと、それを繰り返さず正しい道を探っていくこと、それらを考えることで次は何をすればよいのか、ということが見えてこないのだろうか、など単純に思ってしまう。今回、筒井正さんの講演を聴かせていただき、昔を振り返ることで学ぶことは大変多く多岐にわたる、そして今を考える、未来を考える、そのことの重要性をやはり感じるのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2010/09/14 21:32】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#207 旧・木沢小学校(長野県飯田市南信濃)
~旧・木沢小学校(長野県飯田市南信濃)~






最近驚いたことがある。それは長野県の木沢小学校(長野県飯田市南信濃木沢)のこと。長野県の最南端、天竜川の支流である遠山川の山深き谷間の秘境‘遠山郷’、信州の奥座敷とよばれるその地に木沢小学校はある。といっても平成3年休校、平成11年廃校というように、すでに学校としての127年間もの歴史に幕を閉じており、子どもたちが元気に学ぶ姿が見られなくなってからも20年近くの歳月が過ぎている。つまり正しくは、旧・木沢小学校ということになる。写真にあるようにその校舎は大変美しい木造校舎。昭和7年に建てられたというこということなので、こちらも80年近くもの長い歴史を持つ。その間たくさんの子どもたちがここで学び、巣立ち、秘境の地の元気のシンボルとして村人たちと共に長きを歩んできた。





高度経済成長期の燃料革命やそれ以降の林業の不振などで山間部の多くの学校や集落が姿を消し、さらに近年の少子化等々の影響で、山間部だけではなく都市部でも多くの学校が姿を消している。これは今なお進行中で、この先も多くの学校が姿を消すことになるのだろう。これが普通の光景となってしまっている今の時代の中で、役目を終えたかつての学び舎のその後も多種多様。早々に解体され跡形も無く別のものに建て替えられていたり、空き地となってポツンと寂しげに廃校の碑だけが残されていたり、施設を公民館や宿泊場など別の用途として再利用されていたり、そして使われぬまま放置され廃墟と化していたり等々、様々だ。しかし今回訪れた旧・木沢小学校の木造校舎は、そのどれとも違った運命を歩んでいた。





木沢小学校の木造校舎、廃校となってからは、各種研修やコンサート会場などに臨時に利用されていたようで、これについては各地の廃校でもよく見られ、特に珍しいことではない。しかし、ここからが違った流れとなってゆく。地元の人たちが、自ら学び育った温かいこの木造校舎こそ木の村のシンボルとし、南信濃が誇る貴重な財産としてとらえたのだ。そして平成15年に木沢活性化プロジェクトを発足させ、そこを中心にして、各種イベントや写真展、旧木沢小学校児童や地元住民の作品展示、体験教室や体験ツアー等など、様々な取り組みがなされてきたのである。つまり、その場を使っての展示や交流などで新しいものを作るだけではなく、この木造校舎の学校としての当時の姿を残すこと、先人たちの思いを残していくこと、それらの大切さを見に来てくれる人の心に伝えようとしたのである。もう学校ではないが、学校として残し、多くの人に見てもらおうとしたのだ。このへんのことは「信州遠山郷」「ようこそ木沢小学校へ」の両サイトを参照させていただいた。そちらに詳しく書かれているので、ぜひご覧いただければと思う。









私が訪れた時は、当時の学校生活の様子や様々な写真やゆかりの品々、郷土の資料、遠山森林鉄道に関するものの資料など、大変貴重なものが所狭しと並べられていた。そして何よりも素晴しいのが、かつての木沢小学校の子ども達がいたころの様子がそのまま再現・展示されていることである。職員室、教室、そのままチャイムが鳴って、先生が廊下を歩いてやってきそうな、そんな感じがする。「起立!礼!」という声が教室に響きそう。小さな木の机やいすも当時のものなのだろう、本当に自然な感じでセンス良く再現されている。時間さえ許すなら、一日中でもこの雰囲気を味わって、思いっきり写真撮影などしてみたい、そう感じたりする。この日はあまりもの暑さのため残念ながら長くはいられなかったが、もう一度必ず来たい、そう強く思った。

辺境の地‘遠山郷’のこの旧・木沢小学校は、日本のチロル‘下栗の里’とともにけっこう有名なようで、インターネットで検索してもいろいろなサイトで紹介されている。詳しくはそちらを見ていただけるとよいのだが、何より現地へ訪れるのが一番。このような形で残されていることに驚きを感じ、この木造校舎への村の人たちや支える人たちの愛情を強く感じ、そしてそれにふれることで本当に心温かな気持ちになれる。木造校舎そのものも貴重な展示、そう思われるこの旧・木沢小学校、入場無料というところにも地元の人たちの思いを強く感じたりするのである。









今も日本の各地には多くの廃校舎たちが残り、壊され、そして増え続けている。そこには地元の人たちや巣立っていった者たちの多くの愛情や温かな思いが宿っているはずだが、それ以上どうすることもできず最期を迎えるのを待つだけ、という廃校舎も少なくないだろう。金のかかるもの、採算の取れないものは次々消されていくこの時代、旧・木沢小学校の存在は何かとても爽やかで、心救われた気分になる。伝わってくるものは限りなく大きい。この試みが今後も継続し成功することを、心より願うのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2010/09/07 01:21】 | 木造校舎・廃校 | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。