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#215 廃村「小原」の、小原かごと白子皇子伝承
~廃村「小原」の、小原かごと白子皇子伝承~






滋賀県は長浜市余呉町坂口にある大箕山、その中腹に今なお健在の歴史深き古刹「菅山寺」を訪れた。古く奈良時代の764年(天平宝字8)に孝謙天皇の命を受けた照壇上人という僧により建立され、当初は龍頭山大箕寺と称されていたが、菅原道真公の中興により大箕山菅山寺と呼ばれるようになった。しかし、鎌倉時代には3院49坊の寺院が存在したという大変歴史の古い寺も、明治維新の改革以降は一気に衰退したという。廃寺になって以降、長年が過ぎているにもかかわらず、それでもまだ威厳あるその姿を残しているのは、それを守ろうとした先人たちの努力と苦労があったからに他ならない。現在ここは野鳥観察でも有名らしく、本堂の少し下にある朱雀池では探鳥会なども開催されているという。









私が訪れたのは、もちろん野鳥観察を目的としたわけではなく、ある母子の墓碑を見たいと思ったからである。その母子とは、白子皇子(しらこおうじ)とその母の陰明門院(おんめいもんいん)。この二人は、余呉町の廃村「小原」に伝わる‘小原かご伝説’の中で語られている人物で、今も仲良く二つ並んだ墓石が、この菅山寺に残されているという。実は以前にも訪れて探したのだが見つからず、今回は場所を事前に確認しての訪問となった。

それでは、この‘小原かご伝説’とはどういう話なのか。昭和50年に発行された『余呉の民話』(編集:余呉町教育委員会)、それと丹生ダム建設に際して実施された水没地域の民俗などの調査報告書である『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書』さらに『余呉町誌』などそれぞれで微妙に違っている所があるが、それらを以下にまとめてみた。なおこの伝承は菅山寺に伝わる縁起書の中に記されており、言い伝えもこれに基づいたもののように思われる。また地元では、これらを平家の落人と関連づけた伝承もあったようである。






ある年、後嵯峨天皇の皇后である陰明門院が、めでたく男の子を出産されたのだが、その子は白子(先天性白皮症)であった。そして陰明門院は世をはばかり、皇子を伴のものに託して、都と縁ある菅山寺に秘かに隠棲させた。




ある時、都から高貴な方が山深い「小原」にやってきて館を建てて住みつかれた。しかし、家の主は姿を見せることが無い。「小原」の人たちも最初は遠くから様子を見ているだけであったが、そのうち骨身おしまず協力して手伝いをするようになった。そんなある時、村人たちは家の主の姿を見る。そして髪の毛やまつ毛、肌の色までも真っ白なその姿にたいそう驚く。そういう姿を初めて見る村の人たちは驚き怖れたが、お供の人たちが懸命に事情を説明することで、元来心優しく純朴な村人たちは事情を理解して、これまで以上に身の回りの世話を一生懸命するようになった。そして、四季折々の山の幸、川の幸を主の元に届けたり、また皇子を家に招いたりして同じ時をすごすようになる。

やがて主は村人たちから白子皇子と呼ばれて親しまれるようになり、皇子も村人たちとのふれあいを喜ぶようになった。そんなある時、いつものように村人と一緒に山に入って木を切っていた皇子は、ある木が薄くはがれることを知り、それで篭を編むことを考案する。そしてその篭の作り方を村人たちにも教えた。白い木のはだが美しく、たいそう丈夫でもあったこの篭は評判となり、遠くまで売り出されるようになったという。これが小原篭の起りで、村人はこの皇子からの篭作りの技術を大切にし、後世に伝えていくようになる。

こうして、当初は逃れるようにして都を離れた皇子だったが、人知れぬ余呉の山深き地にたどり着いてからは「小原」の人たちと温かく暮らす。一方、都にいる母の陰明門院も、幼くして遠き山中に送った我が子のことが心配で、長年を経ても心から離れることはなく日々思いを募らせてゆく。そしてある時遂に意を決して都を離れ、自らも余呉の地へ行き朝廷と縁の深い菅山寺に身を寄せ仏門に入る。そこで読経と写経の日々をすごしながら、時折、白子皇子に会う日を心の慰めとするが、やがてこの地で生涯を終えることとなる。

生まれつき身体も弱く、この地の厳しい自然環境の影響もあったのか、ほどなくして皇子も小原の地で短い生涯を終える。村の人たちは白子皇子の死をたいそう悲しみ、皇子が暮らしておられた所を御所平、お供の方の屋敷のあった所を屋敷下、皇子がよく行かれた山を君ヶ谷、吹く風の音が都で聞いた鈴の音に似ていると皇子が懐かしがられた所を鈴ヶ森と呼び、いつまでも後世に伝えていくようになる。そしてそれらは今も、御所ヶ平、牛隠し谷、屋敷ノ平、君ヶ谷、鈴谷などの小字としてその名を残す。また、陰明門院と白子皇子はともに菅山寺に丁重に葬られ、今もその地に墓石を見ることができるという。






以上が大体の流れであるが、書かれているものによっては先に白子皇子が亡くなったとされているなどの細かな点での相違が見られる。白子皇子という人物は歴史上にその名は見られないが、母である陰明門院(1185~1243)はその名を見ることができる。しかし伝えられている後嵯峨天皇ではなく、それより5代前の土御門天皇の中宮で、子を産むことの無きまま1243年にその生涯を終えたとされている。また、1221年に出家され、同年の承久の乱で土御門天皇が土佐に配流された際にも京にとどまられたとある。子を産まれることが無かったということや、出家されたこと、天皇配流の際も同行せず京にとどまられたということは、いずれも遠く山中に隠棲させてしまった不憫な我が子を思う母の気持ちにつながるものを感じさせ、白子皇子の伝承と関連づけられなくもない。

この『小原かごと白子皇子』の伝説の真偽の程はともかくとして、由緒ある菅山寺にこのような記録や白子皇子と陰明門院の墓碑が残っているということは、これの元となるような何かがあったことは間違いないのだろう。また小原かごは、「小原」でも長男にしか伝承をしないというほど秘伝の技として村で継承されていったというが、それは皇子から授かった大変尊きものとしての意識が村人の中に宿り続けていたことに他ならない。









訪れたこの日は、ウッディパル余呉横の林道からいったん山頂まで行き、そこから菅山寺に向かうことにした。山頂からは余呉湖が美しく見える。この日は残念ながらモヤでかすんでいたが、空気の爽やかなときなどは本当に美しく見えることだろう。そこからは山道で菅山寺まで下ることになる。途中、首の取れてしまった小さな石仏や歴代の菅山寺僧侶の墓石などを目にする。そういえば出てきたばかりのマムシにも出会うことができた。気づかず踏みそうになって、思わず道を譲った次第だ。













そして教えてもらった親子の墓石のある場所へ向かうと、そこには仲良く二つ並んだ墓碑があった。すぐ下には、かなり傷んではいるが今なお威厳ある姿を保つ本堂が見える。その厳かな空気の流れる中で、二つの墓石には時折木漏れ日があたり、小鳥の声しか聞こえない静寂な森の中でただ静かに佇む。何百年もの歳月が過ぎているのだろう、苔むしてしまっていて、何か文字は書かれているようだがもはや判別はできない。また、かなり劣化も進んでいる。その古びた様子を見ながら、いったいいつ頃に建てられたのだろうなど考えたりするが、何より2人仲良く今も残ることに多くの人の努力と愛情を感じる。そして手を合わせる。













「小原」の人たちの生業の一部となっていた小原篭は、1965年(昭和40)頃まで売り篭が作られていたというが、もしこの時代にまで「小原」の人々の生業となっていたとしたら、白子皇子と村人の絆は何百年にもわたって、村人を支え続けていたということになる。白子皇子の話はあくまで伝承であり史料的な価値はないのかもしれないが、村人たちの中で長年にわたって言い伝えられ、生き続けてきたことの意味は実に深いものがある。なお小原篭については、村がダム移転という形で「小原」集落が無くなった後も、「小原かごを復活させる会」が立ち上げられたり、「小原かご作り教室」が地元施設で催されるなど、今も大事にされているのは誠に嬉しい限りなのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2012/05/23 11:26】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#214 廃村「半明」の六体地蔵さん
~廃村「半明」の六体地蔵さん~






滋賀県の山村が好きで、様々な山村を気ままに訪れている私であるが、毎年必ず何度か訪れる所がいくつかある。そのうちの一つが、滋賀県最北の集落「中河内」(滋賀県長浜市余呉町中河内)の小字「半明(はんみょう)」だ。集落といっても、そこにはもう人の生活は無く、高時川沿いのわずかな平地に、荒涼とした集落跡地の風景が広がっているだけに過ぎない。9軒程あった家屋は、丹生ダム建設計画に伴う集団移転の際に全て取り壊されており、今この地に残るものは石垣や電柱、集落内のアスファルトの道など。そしてそれらの多くが夏場には背の高い雑草で覆われてしまうため、注意して見なければ昔の面影を感じさせるものを見つけることは難しい。集団移転で廃村となったのが平成7年。その年の8月に離村式が行われ、人々は故郷の地を離れているので、この夏でもう17年もの歳月が過ぎることになる。









この地で目を引くのは、橋を渡った所にある石段。村在りし頃は、この石段を上った所に愛宕神社があった。しかしそれももう姿は無く、今そこにあるのは、神社に替わってある六体の地蔵さん。ちょうど、高台から村全体を見おろす形となっているこの六体地蔵は、人が去った後の集落を守っているようにも見える。そして、誰もいなくなってもただ静かに見守り続けているその姿は、実にけなげで意地らしく感じるのである。









この六体地蔵さん、これがやけに可愛らしい。毎年新しい帽子と新しい前掛けに衣替えされ、そのいずれもが愛情たっぷりに手作りされており、それが何とも言えない温かさを感じさせてくれる。毎年ここを訪れるようになったのも、この地蔵さんを見たいからに他ならず、その姿を見ると心の底から癒される。何か辛いことがあった時でも、その可愛らしい姿に思わず微笑んでしまう、そんな感じだ。雪の降る前になると、毛糸の手編みの帽子をスッポリとかぶり、一番端の一番小さな地蔵さんは、それに全身を隠してしまったりする。「これからしばらくは深い雪で寒くなるけど、これで乗り越えてなあ・・」という、そんな声が聞こえてきそうな程そこには愛情が溢れている。そして春を迎え、「中河内」から「半明」に向かう道の雪が融ける頃には、毛糸の帽子から春用の帽子に換えられ、前掛けも真新しいきれいなものに衣替えをする。もちろんどちらも手作りのものである。一番端の小さな地蔵には、いつも他とは違った帽子や前掛けが着せられており、何か小さな末っ子を可愛がる親の気持ちを感じたりもする。
また、関西随一とも言える豪雪地帯のこの地の雪で地蔵さんが転んでしまった次の冬の前には、六体の地蔵さんの周りがしっかりと板で囲まれ、転ぶのが防がれていた。春になって訪れた時に、雪の重みでバラバラに転んでしまった地蔵さんの姿を見て「おお、可哀想になぁ・・」と感じたゆえの、豪雪対策だったことだろう。ここらにも大いに温かみを感じさせられるのである。





いつの頃からか、「一体誰がこの地蔵さんにこのような愛情たっぷりのお世話をされているのだろう」などと思うようになり、ぜひお話をうかがってみたいなど感じるようになった。しかし「半明」は既に廃村となっており、そこに行っても住人であった方と出会えることは難しい。ある時、「中河内」に訪れた時にそのことを訪ねてみたが、「うち(中河内)ではしてないなぁ。半明の人と違うか。」ということで、結局そのままずっとわからずじまいでいた。





そんな中、この春も雪どけを待って「半明」を訪れてみた。一度4月に訪れた時はまだ雪が多く残っており、「中河内」より向こうは全く行けない状態だったが、この日は雪もすっかりとけており、「半明」まで問題なく行くことができた。普段はほとんど車を見ないこの地で、途中、何台もの車が停まっていたりするのは、おそらく山菜採りで訪れた人たちのものだろう。そして「半明」集落跡地、そこにもちょうど石段の下に車が停まっていたが人の姿は見えない。









橋の手前に車を停めて、石段を上り地蔵さんのある神社跡へと向かう。一番上までのぼり、まず集落全体を見渡す。この時期はまだ雑草がそう伸びていないので、集落の全体像がわかりやすい。そして地蔵さんの方に目をやると、いつもどおりの六体の地蔵さんの姿がすぐ視界に入ってきて少しホッとする。冬の前に、転倒防止のために囲われていた板は既に取り外され、いつも通り地蔵さんの全身が見えている。衣装はと言えば、雪の季節の前には大きめの毛糸の帽子をスッポリとかぶっていた地蔵さんだが、なぜかサイズがピッタリになっており、その時とは違った毛糸の帽子がかぶされているように感じた。一番小さな地蔵さんの帽子もサイズはピッタリで、もう頭全部が隠れたりはしていない。新しい帽子??しかし何か変だ。よく見ると、帽子は使い古されているように見える。しばらく考えてみた。どうやら帽子と前掛けは冬の前のままで、毛糸の帽子だけがずいぶんと縮んでしまっていたようである。冷たい雪の中でずっとすごしていて、このようになったのだろう。しかし、それもなんだか可愛らしく感じる。そしてしばらく、この春の可愛らしい地蔵さんの姿を撮影する。









一通り写真を撮り終えて石段を降りると、先程集落内に停まっていた車に男性の姿が見える。挨拶をして「地元の方ですか?」と声をかけてみると「地元も地元」という明るい声が返ってくる。「半明の方?」「そうです!」という声に、早速、いつも愛情たっぷりに可愛がられているこの地蔵さんのことをうかがってみる。すると「帽子や前掛けは、うちの家内がやってるんやけど」という、思いもかけないお返事。何とこの方の奥さんが地蔵さんの帽子や前掛けを作られていたのである。また転倒防止の板の囲いは、この方が作られたとのこと。つまり、ご夫婦で地蔵さんのお世話をされていたのである。

驚きで一杯だった。そして地蔵さんのことや、半明のことなどをいろいろうかがってみた。その中でも驚きのことがあった。それは、この六体地蔵さんが、もうすぐこの神社跡から降ろされ、集落の墓地跡に移設されるというのである。今お世話されているご夫婦も、月日の流れとともにご高齢になられ、この長い階段の上り下りが大変になってきたので、お世話しやすい所に移すことを決心されたのだった。事情をうかがって「なるほどなぁ・・」と感じるとともに、時の流れを感じたりもした。





ご夫婦は、この地を離れてからずっと六体地蔵さんのお世話をされており、前掛けと帽子は春とお盆と雪の前の年に3回、新調されるという。あの可愛らしい手作りの帽子と前掛けは、16年間もの間ずっとこのようにされてきたのだった。そのことをうかがうと、何とも言えない感動をおぼえた。やはりこの地蔵さんにはたくさんの愛情が注がれ、それが見る者にも何とも言えない感動を与えていたのだということを確信したのだった。おそらくご夫婦は特別なことをしてるなど思われてないだろうし、見る者に感動を与えているなども思いもよらないことに違いない。しかし、あの地蔵さんの風景が荒涼とした地に温もりを感じさせ、訪れた者の心を癒しているのは間違いなく、その風景を見ると、そこには今の社会の中で失われつつある大事な何かを感じずにはいられない。今の荒涼とした社会の中で大切なものは何なのか、必要なものは何なのか、など重ね合わせることができるようにも感じるのである。





山深い地で、真新しい帽子や前掛けのお地蔵さんに出会うことは少なくない。また、周辺に集落が無くても花が添えられていることも決して珍しいことではない。そのそれぞれの背景に、こういった人の温もりがあるということを改めて感じるとともにそういう風景を見ることができる、そのことの大切さを強く感じる。ちなみにこの六体地蔵は、村在りし頃は神社近くのケヤキの木の下にあったそうで、そのあたりは「ごーりんさん」と呼ばれ、神聖な所とされていたという。しかし、残念ながらその由来は「わからんなぁ」ということで、今の時代ではもはや知る術も無い。





人のいなくなった村を見おろす六体地蔵さんは、間もなく下に降ろされ集落内の別の地に移設される。それでも地蔵さんへの愛情はこれまでもなく注がれ、また訪れる者の心を大いに癒してくれることだろう。今回の訪問で、地蔵さんの向こうにある、人々の温かい心や思いやりを改めて知ることができた。そしてそれを見せてもらえることに、ただ感謝の思いを感じる。これからも可愛らしい地蔵さんを長く見せてもらえることは、私にとって本当に幸せなことなのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2012/05/09 19:45】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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