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#223 桂分校・寺崎満雄先生講演会「桂から学ぶ山への感謝』から
~ 桂分校・寺崎満雄先生講演会「桂から学ぶ山への感謝』から ~






既に姉妹サイトの「e-konの道をゆく・番外編」でもお知らせしているように、先日、富山県と岐阜県の県境周辺を訪れた。南栃市の桂湖ビジターセンターで催された「白山国立公園指定50周年記念講座:桂から学ぶ山への感謝~現代が失った心~」聴講のためだ。講師は『さよなら、桂』(桂書房)を書かれた寺崎満雄先生。先生は富山県の秘境の地の集落「桂」の上平村立西赤尾小学校桂分校で、昭和41年から同村が廃村となる昭和45年までの5年間教鞭をとられている。隔絶された地で「桂」と一心同体ともいえる関係にあった「加須良」(岐阜県大野郡白川村)集落が、「桂」より3年前の昭和42年の雪降る前に離村し廃村となっているから、「加須良」が無くなる1年あまり前に赴任した先生は、2つの村が互いに助け合って暮らしていた頃も、パートナーを失って孤立して不安な生活を送っていた頃も、それらどちらもを目の当たりにしてきたことになる。
そのあたりのことを、感想もまじえながら少し紹介していきたい。





今の教育現場での教師と生徒、そして保護者との関係からは想像できないような深いつながりが、この時代のこの地では築かれていたことが、『さよなら、桂』を詠むとよくわかる。今の時代には決して見られない、そんなつながりだ。寺崎先生は、赴任以来「桂」の人々とともに暮らしていく中で、小さな分校の教師という立場からだけではなく、村の大切な一員として生活をともにし、秘境の地の小さな合掌造り集落が力尽き遂に廃村に至る最後の5年間を見とどけた、そんな感じがする。同地に赴任された昭和41年といえば高度経済成長まっただなかの頃。日本の社会が大きく変貌し、山村社会が多大な影響を受けた時代だ。今から46年前、もう半世紀が過ぎようとしているのである。





会場の桂湖ビジターセンターがあるのは、庄川の支流の境川を塞き止めて造られた境川ダムのダム湖畔。そしてダム湖の「桂湖」という名からもわかるように、「桂」集落はこのダム湖の湖底に眠る。ただ、ダム建設計画の予備調査開始が昭和46年なので、その時には既に「桂」は離村し廃村となっており、離村はダム建設計画に伴う移転ということではない。ちなみにダムは18年もの歳月を経て、平成5年に完成している。

5年前の秋にここを訪れた時、ダム湖の水位が低下しており湖底には、かつての「桂」集落の石垣などが姿を見せていた。下の写真はその時のものだ。






訪れたこの日の桂湖は青々とした水を満々と湛え、大変美しい秋のダム湖の風景を見せてくれていた。会場のすぐ横の湖底が、「桂」集落跡。我々には青々とした水面しか見えないこの風景も、「桂」とともにすごされた先生の目には、多くの思い出とともに、かつての「桂」の合掌造りの素朴な家並みや思い出深い分校校舎などの風景が見えていたのかもしれない。廃村後のこととはいえ、今、思い出の地は冷たいダム湖の湖底に沈み、渇水時以外は集落跡さえ見ることができない。そのことを何ともいえない寂しさに感じられていることは、先生のお話をうかがっていても強く伝わってくるのだった。

「故郷について話ができる人がいなくて寂しい・・」これは先生が久しぶりに村の人たちに出会った時に、ある方から聞いた言葉だという。故郷があれば、帰れば故郷の思い出を語れる。もし故郷が廃村となっていても故郷の地が残っていれば、そこに行くと故郷を見れるし、同じように帰ってきた者と故郷を語れるかもしれない。しかし冷たい水の底に故郷が沈んでしまっていては、故郷の跡も見ることもできないし、帰って見に行こうという気持ちもなかなか湧くものではない。誰かと故郷を語りたいと思っても語ることのできない寂しさ、そのことを言われたのだろうと思う。
以前「加須良」のご出身の方と「加須良」集落跡を訪れた時、雑草や成長した木々でほとんど何もわからない状況の中で、その方はわずかに見える基礎部分を指差しながら「ここが玄関で、あっちが・・」「あそこに梨の木があって・・」などを次々と笑顔で語ってくれた。その時、その方には当時の村の様子がそのまま見えていたのだろうと感じた。それを思うと、ダムの湖底に沈んでしまった故郷はやはり寂しすぎる、そう感じざるを得ない。







先生がここに赴任されたのは32歳の時。4月の初めの新年度の開始の時、初めて西赤尾の本校から桂分校へ向かうその道は、当然除雪されているはずもなく徒歩で向かわれたという。そのあたりのことが『さよなら桂』では次のように書かれている。

「四月の雪はかたく、足が沈むことはありませんが、歩いても歩いてもゆるい上りが続きます。雪盤が折り重なるように境川の川底めがけて一直線に崩れ落ちています。こんなナダレの跡では足がすくんでしまいます。左手は境川の深い谷、右手は高い山がおおいかぶさるような山の中腹、そこにへばりつくように林道(桂線)がつくられています。この山の道の先に村があるなど、とても信じられませんでした。」(以上抜粋)

この文章からも、雪が積もる時期から雪融けの時期までは陸の孤島となる「桂」の、なんとも厳しい道路事情がわかる。昭和31年に庄川からの分岐から境川を遡る自動車道(林道)が着いたというが、冬場は積雪や雪崩などのため、車が通れるようになるのは、五月の連休明けの役場のブルドーザーによる道路整備終了後となる。そのため初めてのこの日も車やバイクを使うことはできなかったのである。
トラックが何とか通れる程の幅のその道を延々と歩いて行くと、「桂」の村人たちが、新しい先生が来るのを待ちわびて村の入り口で出迎えてくれていたという。この村の人たちの歓迎ぶりは、先生にとっては、5級僻地という地への赴任の不安を吹き飛ばしてくれるほどの心強いものだったに違いない。大変だったんだなぁと思う反面、こういう体験は今の時代では決してできないこと、どこかうらやましく感じたりもするのも事実。この温かさは、どこか「故郷」のイメージと重なるのである。




桂湖ビジターセンター内展示写真


「e-konの道をゆく・番外編」でも少し触れた、廃村に至るまでの「桂」の状況だ。

ずっと昔から「桂」は6戸の合掌造り家屋からなる小さな村であったが、1世帯10人以上の家族構成だったので、人数はそれなりの数を誇っていた。しかし先生が赴任される前から既に、高度経済成長やエネルギー革命などの影響で過疎化が進行していた。若い人はどんどん村を離れいき、先の31年の道路開通はそれにより拍車をかけていたという。また先生が赴任してからも次々と人々が「桂」を離れ、赴任した年の「桂」の人口が6世帯の20人だったのに、それが最後の年には半数の11人にまで減少している。その頃の様子が講演会でも詳しく語られていた。

昭和41年に先生が赴任したすぐの4月のこと、「桂」に住むある方の身体の具合がかねてより悪く、手術が必要ということがわかった。そこで先生を含めた村の男衆がおぶって境川を渡り、まず「加須良」までソリで搬送した。この時「加須良」から白川村への林道は除雪されていたので、雪の桂林道で搬送することよりも、いったん「加須良」へ出てそこから搬送する手段をとったのだ。そしてそこから富山の病院へ運び入院されたという。こういった無医村の僻地での病気は、助かるものであっても治療が遅れ致命的なものに進行してしまうことも珍しくない。この時も、もし「加須良」がその時にもう無かったとしたら、その人は命さえ危なかったかもしれない。結局このことを機に、このご夫婦は同年に「桂」を離れる決心をする。村の大黒柱として活躍されていた方だったので、村人たちのショックは大きかったという。
また同年、山仕事中の大怪我で入院された方が、退院後やはり村を離れ大阪へ移ることを決心する。医療の手の届かない辺境の地での病気や怪我の恐ろしさ、そしてこれからの仕事や生活の不安、さまざまな状況を考えての決断だったことと思われる。そしてこの方も村の中心ともなる働き手であったため、村はさらなるショックに打ちひしがれるのである。




桂湖ビジターセンター内展示写真(上写真の拡大)


翌年の昭和42年3月にはやはり体調の優れない方が出て、「加須良」集落の人たちも協力して「西赤尾」まで搬送し、そこから富山県内の病院へ運ばれたものの、残念ながらその後お亡くなりになられたということがあった。二つの村の男たちが総出で10km以上の雪の山道を運ぶその状況、そしてそのかいもなく亡くなられてしまったことを思うと胸が痛むのである。そしてその年、共に苦しみを分かち合い、唯一無二ともいうべきの同士である「加須良」が10月に遂に離村し、「桂」は深い山中に完全に孤立した集落となってしまう。村人が次々去っていく中で、助け合ってここまでやってきた「加須良」を失うことの不安と寂しさは大変なものだったことだろう。




桂湖ビジターセンター内展示写真(上写真の拡大)


それに追い討ちをかけるように42年から43年にかけて、この地域を大雪が襲い、雪による大きな被害を受ける。この時には「加須良」はもう離村しているので、何かあっても協力してもらうことはできない状況。そしてそれを機に、さらにまた村人たちが「桂」を離れた。この頃になると、村の中でも若い人たちと高齢の人たちとで、村を出るか出ないかの相談もされていたというし、テレビの朝日放送でも「取り残された合掌造り集落・・」というようなテーマで「桂」のことが取材放映されたという。村の存続というか、そこで生きていくことがもはや危険な状態にあることが、内からも外からも明らかであったということなのだろう。

昭和43年にも何人かの人たちが村を出る決心をし、村には働き盛りの若い人たちはいなくなり、高齢者と子どもたちだけとなっていく。この冬には、6軒あった「桂」も3軒となっていたというから、もう既に集落を維持するという状況はとうに越えていたといえる。しかもほとんどが高齢者である。




桂湖ビジターセンター内展示写真


44年の3月には1人の児童が分校を卒業し大阪へと出ていった。これで分校の子どもも2人となる。村の中では、さらに入院で村を離れたり寝たきりになる人もあって、村はますます厳しい状況に追い込まれていくが、これにさらに追い討ちとなったのが、翌45年2月の区長さんの突然の死だ。夕食後に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。家族からは冬場はここを離れてすごすことをすすめられていたに関わらず、自分が離れると村が動かなくなるという思いから「桂」で越冬することを選ばれた方だ。その強い責任感と無理をおした行動が身体に重くのしかかっていたのかもしれない。この区長さんという方は、寺崎先生が赴任直後から大変お世話になった方だという。「さみしくて、さみしくて」という先生のことばにその思いを強く感じるのである。
こうして「桂」は、限界を超えた状態で数年間持ちこたえていたものの、ついに刀折れ矢尽きて、昭和45年10月25日の解村式、同年11月5日の分校閉校式をもって村の歴史を閉じることとなった。このあたりのことは『さよなら桂』に詳しく書かれている。今、寺崎先生の講演を聴いた後に改めて同書を読んでみたが、涙無くしては詠めない、そんな気がする。実体験を通してのことばは何よりも説得力がある。今の現代が失ってしまった大切なもの、それらを感じさせてくれるこの書は、こういう時代であるからこそより輝くようにも思えるのだ。





この日の講演会でいただいた資料の中に、以下のような寺崎先生のことばが記されていた。もし桂湖に訪れる機会があったら、その静かな美しい風景とともに、ぜひこのことばを思い出していただきたいと思う。

「桂湖の水面は四季それぞれまわりの景色を写しているが、湖底には五百余年山人が演じた様々なドラマが静かに眠っている。山峡の地で名もなく清く美しく慎ましやかにひとり一人が生き生きと輝いていたあの光景は今どこに」
(以上「白山国立公園指定50周年記念講座:桂から学ぶ山への感謝~現代が失った心~」資料より抜粋)




桂湖ビジターセンター内展示写真



※「桂湖ビジターセンター内展示写真」は、館内展示写真を
サイト管理人がカメラ撮影し、使用させていただいたもの
です。そのため照明の反射ならびに歪みが生じています。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2012/11/22 11:20】 | 富山県山村・廃村・自然 | page top↑
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