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#225 開拓者
~ 開拓者 ~






太平洋戦争の敗戦(1945年)により荒廃した日本、数百万人にものぼる失業者へ職業と食料を与えるため、政府により緊急開拓事業が実施された。滋賀県内においても40以上もの地で開拓(開墾・干拓)事業が進められ、県内外から多くの入植者たちが、明日への夢を抱いてそれぞれの開拓地へと入っていった。しかし戦後の混乱した時代のこと、開拓地といえば聞こえがよいが、現実には、これまで手をつけようにもつけられない環境にあった山林や原野という所も少なくなかったようだ。
大雪や低温、獣害など自然環境の厳しさ、土地そのものの不適、交通の便の悪さ等々、手つかずになっていた原因がそれなりにある所、そこを開墾し、荒れ地を農地に変えて生活の場を築くのは容易なことではない。それに加えて、入植者たちも十分な情報や準備を得て現地に入る余裕なども無く、まともな道具もほとんどない中での開拓生活は困難を極める。その大変な苦労と努力の末に実を結んだ所もあれば、いかなる努力をもってしても苦難しか残らなかった所もあり、それぞれの開拓地で悲喜様々なドラマが展開していたのである。今回はその時期に入植された方のことを少し紹介する。





秋晴れのある日、滋賀県と福井県との県境近くにある山間部の地を訪れた。それは『新、ふるさと事情(著者:熊谷栄三郎/ 朔風社)』という本に紹介されていた、ある開拓村のその後を確認したかったからだ。この本は、筆者である熊谷栄三郎氏自らが訪れた、京都や滋賀の山間集落の紀行文で構成された短編集で、紹介されている山村の中には後に廃村となっている所もある。いずれもが当時の状況がよくわかる大変貴重なものだ。この本が記されたのが1980年代の初めなので、もう30年も前。その開拓村も当時とはずいぶんと状況も変わっていると思われ、その後どうなっているのかこの目で確かめてみたかったのである。









開拓村があったのは、古くは街道として拓けた山越えの道の途中で、この書の中ではそこに住む一人の開拓者(当時74才)のお宅を訪問した時の様子が紹介されている。おそらくこのあたりであろうと思われる所へ行ってみたが、周辺に人家らしきものは見当たらず原野が広がっているだけ。カメラの望遠レンズで見てみると、のび放題の雑草の中に家屋らしきものの柱や壁の残骸と思われるものが見えるが、それがその開拓者のお宅だったといえるような根拠は見いだせない。また近づくには、あまりに自然にかえりすぎている感じがしてそこに踏み出す勇気も出ない。本に書かれていた方の年齢から考えると、やはり、家の主を失うとともに家屋も崩れ、開拓前の原野へ戻ってしまったとみるのが自然なのかもしれない。そこで確認してみようと、そこから少し離れた所にある数軒の人家のある方へ行ってみることにした。









2~3軒の家屋が建ち並ぶその地へ近づくと、庭で畑仕事をされている女性の姿が見えた。早速挨拶をして、開拓村のことをきいてみる。すると、先程私が行ったあたりにも以前は開拓者の方が住んでおられたという。「わたしより、お父さん(旦那さまのことです)の方が詳しいからきいてみて。家にいるから。」ということば。「それじゃあお邪魔します。」ということで、お宅の方へ向かい玄関から「ごめんください。」と声をかける。すると出てこられたのが、ここの主で89才になられるという男性の方。いつものように「山の集落が好きでいろいろ調べている者です・・」と簡単に自己紹介をしてお話をうかがう。





まず『新、ふるさと事情』に書かれていた、ここより少し奥にあったと思われる開拓者のお宅についてきいてみると、やはりだいぶ前に無くなってしまって今はもう無いとのこと。そして「わしも富山からきたんや」ということばに驚く。そういえば『新、ふるさと事情』にも、富山からの入植者があったとも書かれていたが、この方がそうだったのである。本に書かれていた開拓者と同じ頃に入植された、やはり開拓者だったのだ。そして「富山の大勘場(だいかんば)から来た。」ということをうかがい、さらに驚く。そこは数年前に私も訪れた所で、岐阜県境近くの利賀村(現在は南栃市)の最奥となる大変な山奥の集落。私自身、大変気になっていた所でもあった。









この方は終戦後の昭和21年に南方より復員され、昭和25年にここに入植されている。富山を離れて、もう60年あまりにもなる。当時の『大勘場』は16軒ほどで合掌造りの家屋もあったというが、その頃はまだ奥に『水無』という集落があったので『大勘場』は最奥の集落ではなかった。「水無は5~6軒の合掌集落やった。よく行ったなぁ」というように山の集落同士のつながりは深かったようである。不思議なもので、その方の『大勘場』の生家が、現在、同じ滋賀県の大津市に移築されて蕎麦屋に生まれ変わっているそうだ。屋根にトタンを被せられてはいるものの立派な合掌造りの家屋、「中身は変わってなくて懐かしいー。」というから、遠く離れた滋賀の地で、生まれ育った我が家を感じることができる何とも不思議なご縁だ。ちなみに『水無』から西に向かうと、これももう早くから廃村となった岐阜県白川村の幻の合掌集落『牛首』が、当時まだ健在であった。









その方に、この地での開拓の様子をうかがってみることにした。昭和25年に一番に入植した時は5戸あったというが、途中でやめてしまったりするところなども出て戸数を減らす。しかし、この方が富山から親戚を呼び寄せるなどして最終的に5戸の集落となるが、やはり社会の移り変わりとともに現在は3戸となっているそうだ。
入植した当時は付近一帯が笹に覆われた原野・山林で、機械は無く全て人力で開墾作業を行うしか術はなかった。朝5時に起きて夜の9時になるまで働き続けたというから、何とも過酷な毎日が続いていたのである。それでも努力と苦労が実を結び、やがて周囲が驚くほどの米の収穫を得るようにもなったというから、今の時代からは計り知れない努力がそこにあったということは想像に難くない。今、家屋の建ち並んでいるあたりはひらけた風景が広がっており、原野のイメージはほとんど無い。しかし周辺の山々を見ると、開拓される前の現地の様子が何となくイメージできる。それを見るとやはり、人力のみで切り拓き、生活の場を築き上げるまでに費やした努力と苦労が並大抵なものでないことが、よくわかる。山深き故郷『大勘場』で培った生活力、そして根気や忍耐強さが、この地を築く上で大きな力になったことだろう。





途中、酪農もされていたそうだ。13頭ほどのホルスタインを飼っていたが、そのための生活は大変厳しく、朝早く起きてきっちり時間を決めて搾乳しないと乳が出なくなるので、休むことは全く許されなかった。眠る間も無い中での開墾作業と酪農。遂には大切な家族が病で倒れることとなってしまい、それを機に断念されたという。今もその頃に使っていたサイロ跡が残るが、そこには開拓者の歩んできた苦難の歴史を見ることができる。

こんな話もうかがった。子どもさんが小学校に通っている時のこと。小学校までの6kmもの道のりを、国道を歩いて通う。その当時、トラックがよく通っていたそうで、中にはいつも通る子どもたちと顔見知りになるトラック運転手もある。そのトラックが来るのを見ると子どもたちがサッと手を挙げる。するとトラックが止まって、乗せていってくれたそうである。まず疑うことから始めなければならない今の時代からでは考えられないことだが、温かい昭和の風景として何かすごく懐かしく感じてしまう。「おう、ぼうず!乗れや!」という威勢のいい運転手と、「おっちゃん、ありがとー!」とお礼を言う子どもたちの姿が目に浮かぶ。





生まれ故郷の『大勘場』に行かれることは、今ではほとんどなくなってしまったという。「行こう、と約束した人たちも先におらんようになってしまって、残っているのは自分ともう一人くらい・・」のことばに、積み重ねられた年月の重さを感じる。原野から切り拓き、60年以上も住み続けたこの地だが、やはり故郷は「大勘場や!」と即答。この地に祀られている八幡宮、そういえば『大勘場』も八幡宮。故郷を思う心はいつまでも変わることがない、そういう思いを感じる。「故郷の風景で一番思い出されるのは?」という質問には少し間を空けて、「釣りをしていた風景やな。50cm級の岩魚がたくさん釣れたなー。」という答えが返ってきた。この時、その方の中には故郷の風景がいくつも思い浮かんでいたのかもしれない。そして私も、その釣りをしていたという山深き地の風景をイメージしてみる。すると、無性に『大勘場』へ行きたくなってきたりするのだった。

お話をうかがったのは小一時間くらい。突然の訪問の見ず知らずの者に対して、とても丁寧に話していただいた。その上、帰り際に「おーいお茶」まで頂いてしまって、ただただ感謝である。





それからしばらくして『大勘場』(正確には‘奥大勘場’)を訪れてみた。以前訪れた時は写真撮影もできていないので今回はじっくりと写真撮影もしてみた。どこで釣りをされていたのだろうと探してみたが、山の中腹にある集落なので周辺に釣りができるような川は見当たらず、結局、思い出の風景の場所はわからなかった。谷に下りるには大変だし、もしかするとお話にも出てきた『水無』方面なのかもしれないなぁ、など考えながらあちこち撮影する。













集落内をうろうろしていると分校跡にオバチャンの姿が見える。早速うかがってみる。「ここから滋賀県の開拓地に入植された方がおられまして・・」と切り出すと「あ、それ○○さんやろ!よう知ってるわ。あそこに家があったんやわ」とすぐに返答がかえってきた。小さな集落だったとはいえ、60年もの歳月が流れているのにすぐにわかったことに何か感動。人同士のつながりも深かったんだろうなぁ、など感じる。「ここは涼しいよ。夏でもクーラーなんかいらんし。」という山の集落『大勘場』、今でも人々の生活はあるが、やはり空き家や更地などが目立つ。そんな、もの寂しく感じる集落の風景の中で、八幡宮のしかめっ面の狛犬の頭の上にバッタが乗っていたのが何かおかしく、ホッとする。












『大勘場』をあとにする頃、まだ4時前だというのに山なみに日が沈もうとしていた。その日を浴びて鈍く光る山なみを見ながら、60年前にこの村を離れ滋賀の開拓地へと入植を決意された頃は、いったいどのような風景がこのに広がっていたんだろう、など考える。魚釣りをした子どもたちが、沢山の岩魚を抱えてにぎやかに帰ってくる姿が普通に見られた風景は今は無い。しかし、その頃の元気溢れる村の姿をイメージしてみると、子どもたちの元気な声が谷合に響いて聞こえてくるような気もする。そして、富山の山深い地の集落『大勘場』と滋賀の県境の山の開拓地、大津のにぎやかな通りにある合掌家屋の蕎麦屋など、一見なんのつながりのないこれらのものが、実は長い年月の中でつながっていることなども何か不思議に感じたりもした。













今回ご紹介した方は、戦後の緊急開拓事業の中で計り知れない努力の末、苦難を乗り越えて結果を出されている。しかし冒頭にもふれたように、この緊急開拓事業については、その場所場所により悲喜様々なドラマが展開していた。というか、もしかすると全体を見れば、喜の部分は僅かだったのかもしれない。苛酷な労働のため愛する家族を失い、命をすり減らす努力と苦労を重ねても何も残らず借金だけが残り、村をあとにした人たち、結果として新しい村を作り上げたものの、借金返済に人生を捧げることになった人たちなども存在する。そして、それらの悲しい歴史のしみ込んだ大地が、滋賀県にも多く存在していることを忘れたくないと思うのである。






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【2012/12/31 19:30】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#224 芹谷の、花咲く村とオバチャン
~ 芹谷の、花咲く村とオバチャン ~






鈴鹿山脈の最北部を水源として琵琶湖に注ぐ芹川、その水源に近い山峡の地の芹谷(滋賀県犬上郡多賀町)にはいくつかの集落が点在するが、既に廃村となってしまった所も少なくない。現存集落も、その大部分で過疎が進行し、空き家や廃屋が目立つ。特に谷の奥、ならびに谷を形成する山の中腹に位置する集落は、廃村もしくはそれに近い状態となっているところが多い。そして、それらの集落や集落跡の風景は、山の多くを占める杉林の薄暗さと相まって何とも寂しく感じる。季節でいえば、ちょうど冬枯れで荒涼とした感じ、そんな雰囲気を漂わせている。









そんな中で、一つだけ異質な雰囲気を感じさせてくれる集落がある。周囲が、いかにも廃村という風景を見せている中で、そこだけが別世界の感じがするのだ。「石垣のきれいな所ですよ」という話を聞いてはいたのだが、初めて訪れた時は、その美しさに驚いたものだ。周辺の集落が見せる荒れ果て、荒涼とした雰囲気は全くなく、各家屋はきれいに手入れされ、庭先には色鮮やかな花が咲く。ごく普通に人々が暮らす美しい山村、そんな感じだ。この周辺集落とのギャップは一体何なのだろう。もし廃村群のイメージのまま、何も知らずにここを訪れたなら、それこそ桃源郷のように感じても不思議ではない。それだけに、いつ訪れてもそのような風景を見せてくれるこの村に、「なぜここだけ、こんなに美しいんだろう」という疑問が私の中にはずっとあった。自分の中でこの美しき花咲く村は、長きに渡っての「芹谷の謎」だったのである。









夏のある日、その村へ向かった。一度、村の人にお話をうかがってみたいと思って、これまでにも何度も行ってはいるが、残念ながらタイミング良く出会うことができずにいた。訪れたこの日は、村へと続く道の少し手前に車を停めて歩いて行くことにした。途中、眼下に芹川を見おろすことができるポイントがある。暑さのせいか、クッキリとは見えず霞がかかっているが、両側からの山の斜面と底部に流れる川は、いかにも谷の底という風景を作り出していた。この日は晴れたり曇ったり、パラパラと雨が降ったりの変な天気。そのため深緑の斜面にはガスも見える。標高は400mほどなのだが、下まで見おろせるせいか、実際よりはるかに高く感じる。車1台で目一杯という何とも心細い舗装路は、もちろんガードレールもなく、運転を誤れば一気に谷底へという感じ。さらに路面にはいくつもの落石。そのどれもが尖っているのは、このあたりの岩の特徴なのだろうか。運転中に気づかず踏んでしまうと簡単にパンク、なんてことも普通にイメージできてしまう。













そんなことを考えながら歩いていると、その村が見えてきた。やはりいつものように美しい。そして人の姿が見えないのもいつもと同じ。鈴鹿の中に静かに佇む天空の里、そんな感じだ。ここの集落の駐車場横には、大きなムクゲの木がある。つい一ヶ月ほど前に訪れた時には全く咲いていなかった花が、この日は木全体にたくさんの白い花を咲かせ、とても美しくにぎやかな感じになっている。そのムクゲの木のまわりをウロウロしながら、しばらくの間、写真撮影をする。覗き込んだり見上げたり、接近したり離れたり。撮影を終えふと見ると、ムクゲの木の向こう側の家の縁側に、オバチャンの姿。「誰かいな?」という感じでこちらを見ている。無理も無い、駐車場に車も停まっておらず、人がきた様子も無いのに、見かけぬ変なおっさんがカメラを持って木のまわりをウロウロしているのだから。そこで声を大きく挨拶をして、そちらへと向かう。









いつものように「山の集落が好きで、写真を撮らせてもらっている者で・・」と簡単に自己紹介。この挨拶の段階で、話がうかがえそうか、忙しかったり怪しまれたりでうかがうのが難しそうかが大体わかるのだが、この時のオバチャンは大変親切に応対してくれた。そういえば、こういう場で迷惑そうにされたことは、これまでに数えるほどしか無いのは、本当に運がいいんだなぁなど思う。今の時代、見ず知らずの人に話しかけるなど街中などでは考えられないことだと思うし、こちらもそういう気持ちになることはない。それが、山の集落では挨拶したり、声をかけたりなどが自然にできる雰囲気のあるのが不思議だ。集落の風景、そしてそこに住む人々が、そういう雰囲気を作ってくれているのかもしれない。もしかすると、流れゆく時代の中で失われつつある大事なもの、そういうものの一つなのかもしれないと感じたりもする。





縁側の椅子に腰掛けたオバチャンと静かな山の集落の風景は、何とも自然な感じだ。「まあ、すわってちょうだい。」のことばにカメラを置き、腰をかけさせてもらう。そういえば、縁側というものに座るのは映画やドラマではよく見る風景だが、自分自身は全く初めての体験。そこに座って前を見ると、さっきまで自分がいた風景が見える。そのさらに先には遠くに谷の川向こうの山が見える。時間が静かに流れていることを体感させてくれる風景だ。そして、その場にいる自分が何か不思議にも思える。いつもは見る側にいたのが、その中に入っていけたようなそんな感覚だ。
この心地よい雰囲気を満喫しながらいろいろお話をうかがう。現地の人から聞く様々な話は、どれもが興味のあるものばかりで、ついつい話が長くなるのだが、この日はいつも以上に話し込んでしまった。そして、そういう私に申し訳なく思われたのか、「申し訳ないね、どうぞ中に入ってちょうだい。」のことば。そしてそのことばに甘えさせてもらい、途中からは中でお話をうかがうこととなった。「こんなんしかないけど・・」と次から次へとお茶菓子を出してくれるオバチャンに恐縮しながらも、結局2時間あまりもお邪魔して、いろいろ貴重なお話を聞かせていただいたのである。





その集落にオバチャンが嫁いできたのは昭和16年というから、今から70年も前のことになる。その頃は、今ある自動車が通れる道などもちろんなく、芹川の流れる谷底からの山道を歩いて登るしか無かった。畑で採れた収穫物や炭俵、薪材、そして町で購入したコメや生活用品など全てのものが、人力による運搬。女でも、背中に30kgもの米や生活用品などを背負って山の上り下りをしたという。しかもこのオバチャンは、19歳で嫁いでくるまで山の生活など全く経験のない、町で育った娘さん。さぞかし山の生活は苦しかったことだろうと思う。

そのことをうかがうと、「道は、こんな狭い狭い道で・・こんなとこや思わなんだ・・」というように、来るまでは山の見える田園風景の山里をイメージされていたようだ。それが「着物の裾をまくって、下駄をわら草履に履き替えて・・」というほどの険しく細い山道を登って行かなければならない所。山道を登っていくほどに不安が大きくなっていったのも無理は無い。しかも嫁いできた当時は戦時中、心の支えとなる夫はすぐに招集されて戦地へ赴かれ、多くの親類の人たちがそこに疎開されてきたというから、嫁いできたばかりの娘さんにとっての気苦労は大変なものだったことは想像に難くない。さすがにオバチャンのお兄さんも心配になって、実家へ帰ることもお話しされたという。しかし、それに対し「兄さん、(主人は)遊びにいってはるんとちがうんやで、戦争に行ってはんねんやで。家にいるもんがこの家守っていかんなん。そんなんしたら主人の顔が汚れるし、たちまち私が笑われる」ときっぱり。









二十歳そこそこの娘さんのこのことばや姿勢、そこには今の時代の同年代の若い人からは考えられないものがある。もちろんその背景には、ご主人への深い愛情とご主人からの愛情、そして家の人たちや家族たちの愛情や支えがあったことは間違い無いだろう。そういえばそのことも含めて、山の様々な生活のことをうかがったが、オバチャンからは最後まで愚痴のようなことばは一切出てこなかった。むしろ教えてもらったこと、お世話になったことのお話が多かった。町の娘さんが山奥の村に嫁いできて、周りも知らない人ばかり。苦労や辛いこともあったに違いないことだが、そこにオバチャンの人柄と村の雰囲気が見えるような気がした。





この村から一気に人が減ったのは昭和50年頃。芹谷にあったセメント鉱山が閉鎖された時だ。この頃はもう、製炭は衰退し山の仕事だけでは生活できなくなっていた時代で、村も鉱山に頼らざるを得ない状況にあった。そういう中での閉山。それ以前からも社会の変貌による人口減少はあったが、そういう時代の中で、村はこの鉱山に生活を支えられていたといえる。それだけに閉山は、村にとっては決定的なダメージとなった。これにより村の若い人たちの地元での仕事は無くなり、職を失った人々は家族とともに生活のために山を下りることとなる。これはこの村だけではなく、セメント会社に努める人が多かった他の周辺集落も同様だった。
こうして村に残ったのは、地元に勤務してる人たちとその家族、そして高齢者くらいとなる。資料から当時の人口を拾ってみた。昭和45年が38人、同50年が23人、同55年が10人となっているが、やはりオバチャンの言われるとおり50年以降人口が激減しているのがわかる。「セメント会社が無くなったら若い人はいなくなり、年寄りだけになったのよ。」ということばのままに村は変わっていったのである。





通常であれば山を下りた若い人たちは、新しい生活の慌ただしさもあり、なかなか山に帰ってくることはない。帰ってくるとしても、村に残った両親が健在の間に里帰りで年数回帰ってくるくらいだろう。しかしこの村では、この時に村を下りた若い人たちが今でも月に1回帰ってくる。50代、60代の人たちだけではなくて、30~40代の人たちも帰ってこられるという。帰ってきた時には各自が家の様子を確認し、そして寺に集まる。その後は村の草を刈ったり、途中の道の落石を取り除いたりなど村の整備が行われる。中には既に家屋が無くなってしまっている人もいるが、その方も帰ってくるとまず屋敷跡を見に行かれるという。遠い昔に離れ、両親もいなくなり、生まれ育った家屋も倒壊してしまった故郷であるが、今でも大切にする気持ちは変わらない。「それがすごいなぁ・・」というのはオバチャンのことば。

こういった状況の集落で、このように定期的に、それも長年にわたって若い人たちが帰ってきている例は、本当に稀なのではないだろうか。少なくとも、私自身今まで見たことも無いし、聞いたことも無い。各自が時々自分の家を見に来たり修理する、帰ってきている親を迎えにくるなどは、けっこうあるのだが、この村のような例は知らない。









冬の積雪の時期や激しい悪天候の時を除き、ここで暮らす方は2~3人という。もちろんどの方も高齢の方だ。その方たちは、昔のままに庭の花を手入れしたり、生活のための薪を作ったりなどをしてすごす。もちろん、もう昔のように仕事に追われることは無い。そしてそういう高齢者の方に加えて、若い頃や子どもの頃にこの村を去った人たちも月に1回、生まれ故郷に集まる。その時、静かな村はにぎやかになる。
そこでオバチャンのことば。若い人たちが村に帰って来た時の、オバチャンとの会話の様子だ。

「おばさん、おばさん、ゆうて帰ってきてくれるからな。嬉しいよ」
「おばさん、おばさんらがいてくれるで、こうしておれらが帰って来れる。おばさんらがいてくれんかったら村は草でボウボウや。こんなきれいなんは、おばさんらがいてくれるからや」
「まだ、おばさんがいるばっかりに、こうして帰ってきてもらわんなん。負担かけて苦労かけるね、すまんね。どうか苦労かけるけど、助けてくだいね。」
「おばさんらがいてくれるから帰ってこれるんや」
「よう言うてくれるわ、そう思うとってくれるか。おばさん嬉しいわ。なんちゅうエエ村なんやろな。ここみたいな村は他にはあらへん」

そして若い人たちが村から帰る時、オバチャンは縁側から見送る。そのオバチャンにみんなは声をかけていく。
「おばさん、かえるでなー。こけたらあかんでー。こけたらしまいやでなー」
これは足が悪いおばちゃんへの心配のことばだ。おばちゃんはそのことを話された後、しみじみと言った。
「どんな嬉しいことか・・」

村に帰ってくる若い人たちはどの人たちも、オバチャンが小さい頃から知っている子ばかり。芹谷の分校まで、山道を15分で駆け下りていた子どもたちだ。小さな山腹の村で共にすごしてきて、人が次々と減って周囲の村が消えていく中でも、村が生き続けていく姿をずっと見守り続けてきた同胞。その両者の間で交わされている会話。その中には、互いに相手を思いやるやさしさや温かさが溢れている。それを聞くと、お互いに感謝し思いやる気持ちにより人も村も支えられている、そのように思えてならない。
また、生前、長きに渡って村の区長さんをされてきたオバチャンのご主人は、ずっと「12軒が背中合わせてしてたら何にもまとまらへん。あんじょうやっていこまいか。」という思いを、村のみんなと話しされていたという。美しい村が保たれている影には、多くの人々が村を去った後も、村の人たちのこういった思いが礎となって残っていることも強く感じるのである。このように、村の美しさの背景には、昔から築かれてきた人と人とのつながり、さらに思いやりや温かさなどが見えてくる。

この日、最後にオバチャンに「写真を撮らせてもらっていいですか?」ときいてみた。すると「いやぁー、恥ずかしいわー。」と言われながらもOKの返事。そして「玄関前に行きましょう。」ということで写真を撮らせていただいた。









それから後、その写真をお渡ししようと何度かこの村を訪れたのだが、タイミングも悪かったのか、なかなかお会いすることができず、そのまま1年が過ぎてしまった。そして先日ようやくお出会いできて、写真を渡すことができた。お話を聞かせてもらえたことへの本当にささやかなお礼だったのだが、「うわー、額に入れてくれはったん?嬉しいわー。ありがとうー。」と喜んでいただけた。そのあと「ちょっとまってね」「こんなんしかないんやけど。」と奥から持ってきてくれたのが、ビールと栄養ドリンク。かえって悪かったかなと思いながらも、ありがたくいただく。そういえば1年前も、帰り際にドリンクをもらったなぁ・・など思い出す。帰る時、縁側から見送ってくれながらの「ビールは車で飲んだらあかんよ。持って帰って飲むんやでー!」ということばは大変温かく、そして感謝の気持ちとともにその縁側からのオバチャンの光景は忘れられない大切な思い出となった。





高度経済成長期以降、芹谷周辺の多くの山峡の集落が廃村となり、残った村々も過疎化が深刻で、それは未だ止むことはない。昭和のある時代までは、この村のような美しい山里の風景が、芹谷のあちこちで見られたことを思うと本当に残念でならない。山間部では生活ができない、そういう時代の中、今でも当時の面影を残してくれているこの美しき花咲く村が、これからも末長く続いていってくれることを願うばかりである。






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