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#226 「中河内」の 「己知の冷水」と「己知部(コチフ)」
~ 「中河内」の
「己知の冷水」と「己知部(コチフ)」 ~







関西屈指の豪雪地帯で、福井県との県境にある集落『中河内(なかのかわち)』は、著しく過疎化の進んだ山の集落。木之本インターチェンジを下りて北国街道(R365)を北上すること20km余り、急坂道の椿坂峠を越えて、坂を下りきった所にその集落はある。そこからさらに街道を北に4km程進むと、県境の栃ノ木峠。ずっと以前はこの峠付近に茶屋と数軒の民家があり、枝郷『栃木峠』集落が存在していたが、今そこはもう住む人はなく、無人の家屋が一軒と地蔵堂そして樹齢400年以上という栃の木の巨木が残るだけ。なお、このサイトでも紹介している廃村『半明』も『中河内』の枝郷だった。したがって、かつては本郷の『中河内』、そして枝郷の『半明』集落と『栃ノ木峠』集落を合わせて大字『中河内』だったのである。今、人が住むのは『中河内』だけになってしまっているが、いずれにしても椿坂峠と栃ノ木峠という二つの峠の間の集落『中河内』は、滋賀県の一番北に突き出た所に位置する県最北の集落ということになる。







栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より





栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より






『中河内』へ行くための唯一の道となる北国街道(R365)は、雪の降る季節は栃ノ木峠以北、福井県の今庄のスキー場までの間が通行止めとなる。峠手前の滋賀県側にもスキー場があるものの、期間中、道が峠で行き止まりとなるため、スキー関係の車以外はほとんど通ることはない。また全線開通している時期でも、車はたまに通るといった感じで交通量はまばらだ。現在、椿坂峠を避けるトンネル工事がされており、近い将来に完成予定というが、そうなると『中河内』の人たちは、木之本へ出るのに峠を越える必要がなくなるので、ずいぶんと楽にはなるだろう。それでも周囲の環境や道路状況を考えると、人里離れた静かな山深き集落『中河内』の状況は、そう変わりはないのかもしれない。








そんな『中河内』集落も、1884年(明治17)に長浜~敦賀間の鉄道が開通するまでは、近江と越前とを結ぶ街道の重要な宿駅として本陣や宿などがおかれる、旅人たちで賑わう村だった。今も村には本陣跡の碑が建てられ、当時の繁栄を偲ぶことができる。ちなみにこの碑は、明治4年の廃藩置県から100周年にあたる年に、当時の小学校職員、児童、PTAらの奉仕作業によって記念に建てられたという。明治4年から100年目というと昭和46年となるが、その時の児童数は42名。しかしもう廃校になって久しく校舎の姿は無い。それどころか学校跡を示すものさえ残っておらず、残念な気がする。






鉄道開通以降は街道の宿駅としての役目を終えた『中河内』、人々も炭焼きなどを新たな生業とするものの人口は次第に減少し、戦後の高度経済成長や燃料革命など、時代に波のうねりの中で一気に過疎化が進んでゆく。またその間の昭和31年8月には、大火により村の大半を焼失するという悲劇にも見舞われている。大火の前の写真を見ると、見事な茅葺きの家が建ち並ぶ素晴らしい景観を見せてくれている。そして火事で焼けてゆく茅葺きの家屋の写真。いったん火が燃え広がると、もはや何の術もないという状況を写真は語る。



栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より



栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より


この余呉町北部から福井県の今庄へと抜ける間の北国街道(R365)ルートは大変山深い。集落は街道沿いにポツンポツンと現れる感じで、『中河内』を過ぎると、次は峠越えのクネクネ道を走って福井県の板取まで行かないと集落には出合えない。そしてその辺りもやはり『中河内』同様、過疎が大変進んだ地域で、なんとも静かで寂しい感じだ。便利になった今の時代でも、深い山の中を延々と車で走らなければならない時などは、たとえ小さくても人里に出合えると何かホッとするもの。それを思うと、歩いて旅をしていた時代の頃、こういった山中の街道沿いの里は、旅人に多いに安心を与えてくれるとともに、休憩や宿、そして人足や馬借など、欠くことのできない大きな役割を担っていたに違いない。そして時代が変わった今も、状況は大きく変貌しているものの、この『中河内』集落の存在は街道沿いの静かな山村として、山中を走る者たちに安心感を与えてくれている。ちなみに1882年(明治15)は107戸・530人もの規模を誇っていた『中河内』だが、2010年(平成22)は31戸・48人というように人口は10分の1以下にまで減少している。さらに65歳以上の高齢者が70%以上を占める高齢化集落。それでも冬場に大変な積雪を記録する自然の厳しさは、昔も今も変わらないのである。







「上板取内の案内看板(今庄町教育委員会)」より




椿坂峠を越えて坂を下っていくと、ちょうど『中河内』の手前あたりの右手に湧水があるのをご存知だろうか。‘己知(こち)の冷水’である。湧き水紹介などの本では「おちのれいすい」と紹介されているものもあるが、現地ならびに役場などで何人かにうかがった限り、どの方も「こちのれいすい」と呼ばれていた。漢字の「己知」の読みを「おち」と誤植されてしまったのかもしれないが、ここでは‘己知(こち)の冷水’と呼ぶことにする。飲んでみると、これがなかなか美味しい。訪れた時などはいつもタンクに入れて持って帰る。夏は冷水にして飲んだりすると格別だ。またコーヒーや料理に使ったりするのもよい。道ゆくハイカーの喉を潤している光景もよく目にする。別に湧水ファンというわけではないのだが、『半明』の山水とともに、‘己知の冷水’にはけっこうお世話になっている。いつの時代からあるのかはわからないが、きっと長年にわたって旅人の安らぎの場となっていたことだろう。






で、気になるのはこの「己知(こち)」ということばだ。中河内(なかのかわち)の河内は「こうち」とも読め、その「こうち」から「こち」が来ている。つまり「河内(己知)の冷水」と考えるとすんなりいいってしまうのだが、どうもそれだけではないような気がする。そのあたりが、平成10年発行の‘ふるさと中河内(発行:余呉町)’の中でふれられている。以下はそこからの抜粋である。

古き日本書紀の中にも、次の記録が見られる
「越しの国に通ず古代よりの道路(要路)亦官路越前六道の内、虎杖越謂ゆる北陸道東近江路の集落中河内とあり、欽明天皇元年(西暦540)春2月百済人、己知部の条にみゆる己知(河内)チコベ(知己部)とあり、平坦な坂を越ゆれば池の河内、獺の河内に通じ角鹿(敦賀)に至る」とあり、これより先、越前角鹿より天之日槍一族が近江の国に進出し来る道程としてこの地に住みつき、土地開発に努力したと思われる。


以上は‘ふるさと中河内’からの引用であるが、己知についてはこれだけしか書かれておらず詳細がわからないものの、己知部と天之日槍の両渡来人と『中河内』との関連を示唆している。「」内の部分はどこかからの引用とも思えるが、引用元はわからない。

日本書紀を調べてみると「欽明天皇元年(五四〇)二月。百済人己知部投化。置倭国添上郡山村。今山村己知部之先也。」という記述がある。これは「日本書紀-全現代語訳-(宇治谷孟:講談社学術文庫)」によると「二月、百済の人己知部(こちふ)が帰化してきた。倭国の添上郡山村(そえのかみのこおりのやまむら)に住まわされた。今の山村の己知部の先祖である。」となる。
この己知部という人物は秦氏の系統の帰化人で、帰化後は現在の奈良県に住み、その地周辺に多くの子孫を残した一族の祖となる存在の人だ。己知という以外にも己智、許知、巨智なども同じ。己知部という一人の人物なのか、己知部姓の一族を指すのかはわからないが、日本書紀では己知部という帰化人の存在が記されているのである。
また文中の天之日槍(あめのひぼこ)というのは、己知部より先に新羅の国より日本にやって来た渡来人で、畿内を中心に多くの言い伝えが残されており、この余呉町においても土地を拓いたという伝承がある。神として崇められているところからすると、当時の日本に大きく貢献された人物だというのは間違いないだろう。そして「中河内」にも天之日槍を祭神とした大上宮跡が残っていると余呉町誌に書かれており、このあたりの地域と渡来人とのつながりの歴史の深さを物語る。




では、なぜ渡来人の己知部が『中河内』と関係するのか、‘ふるさと中河内’の記述をもとに勝手に推測してみる。

当時、朝鮮半島から日本に渡るにはいくつかの海路があったようである。半島東岸から海流に乗り敦賀に至るルート、半島の西岸より海流に乗って九州を経て瀬戸内から畿内へ入るルートなどで、この己知部もいずれかで渡来したと考えられる。先の天之日槍が敦賀(角鹿)よりわが国に入ったと言い伝えられていることからすると、己知部も敦賀から入ったと考えても別に無理があるわけではない。そして敦賀に渡ってきた渡来人はどのようなルートで畿内へ至ったのか、そのことを考えていくと『中河内』が浮かび上がってくる。

歴史を振り返ってみると、『中河内』は敦賀との関係が非常に深い。『中河内』の裏山には角鹿山という名の山があり、敦賀との関係の深さを物語る。そしてつい最近の時代まで『中河内』の人々は、買い物は山越えの道を歩いて敦賀へ行くのが普通だった。現地の高齢の方にうかがうと、今でこそ車で北国街道を南下して木之本まで出て買い物をするのが当たり前であるが、北国街道がまだ十分に整備されておらず、個人での車の移動が一般的でない頃は、椿坂峠を越えて木之本へ出ることは少なく、西に向かって山越えで福井県の『池河内』へ出て、そこから敦賀へ行くというのが一般的だったという。つまりこの集落では、長い歴史の中でその大半が滋賀県内より敦賀との方が交流が深かったのである。それは地図を見れば納得する。木之本へ行くには、難所の椿坂峠を越えてからも大変な距離を歩かねばならない。それに比べると敦賀へのルートは遥かに近い。行って帰ってくることを考えると、西に向かって敦賀に出る方が時間的にも体力的にも楽。したがって中河内~敦賀間には古の時代から、深いつながりと人や物の往来があったと考えられる。




次に中河内~敦賀までの具体的なルートを考えてみる。『中河内』から西に山を越えて『池河内』へ向かうルートは問題ない。次に池河内~敦賀を考えてみる。『池河内』から直接に西の敦賀へ向かう西谷川の谷を通る西のルートは急峻な谷を歩かなければならず、また川幅広い木の芽川も渡らなければならない。それを思うと、距離的には遠回りすることになるが、『池河内』から北の『獺河内』を経由して、古くから拓けていたという木の芽峠~越坂~樫曲~敦賀という古道に合流するというルートの方が安全に行ける。実際『中河内』の聞き取りの中で、「池河内から獺河内、そして敦賀への道はよく使った。」という声を聞いた。それが古代においても、敦賀~獺河内~池河内~中河内というルートが使われていたと考えても不思議ではない。しかし地名辞典などを見ると『池河内』『獺河内』ともにその発生は中世とある。つまり、どちらも渡来人がやって来るその頃には存在していなかった村ということになる。ただ、人が通る所に道ができる、道がある所には人が住む。山中の長い道の途中に里があることは大変重要なこと。古代においても、この周辺の山中を練り歩いて道ができ、山の中の少し平な地(河内)に人が住み始め集落ができていたということも、十分に考えられる。そう考えると古代、敦賀に渡ってきた大陸の一行が敦賀~獺河内~池河内~中河内、そして南下して畿内を目指したと考えても、決して無理があるとは思えないのである。





「上板取内の案内看板(今庄町教育委員会)」より


いささか強引ではあるが、敦賀にやって来た渡来人の畿内への南下ルートとして、敦賀~獺河内~池河内~中河内という道順を作ってみた。そしてさらにこれを‘己知の冷水’に関連づけると面白い。なんと地元では、『池河内』から山越えで『中河内』へとやってくる山の道の周辺が「チコベ谷」、そして『中河内』へと至る坂が「チコベ坂」と名づけられているのである。小字名としても残っている。そしてその坂にあるのが‘己知(コチ)の冷水’。コチベとチコベ、ひっくり返ってはいるものの、何か関連があるように思えてならない。

帰化人の己知部が畿内へ向かうのに、敦賀~獺河内~池河内~中河内というルートを使っていたとしたらどうだろう。コチフ(ベ)という人が通った跡にコチ(河内)のつく名の集落が3つ。そしてチコベの坂を経てコチの水場からコチ(河内)の集落へ。「中河内」と「池河内」をつなぐ古道横の谷がチコベ谷、行きついた所がチコベ坂、そしてその前の己知(コチ)の冷水、ややこしいが、そんな感じになる。はるばる海を越えてやって来た尊貴な方が、我が村にお立ち寄りになったというので、小さな山の部落は大変な騒ぎになったことだろう。そしてそのことが伝承され、山越えの旅で己知部がやってきたあたりの湧水にもコチ(己知)の名をつけ、己知部が越えて来た坂を知己部坂と名づけた、など考えられはしないか。コチとチコ、なぜ字が逆になっているかはわからないが、由来を同じものと考えると、強引ではあるがこのようにつなげられないこともない。「河内のつく地名の語源は、山の中の平地だから・・」などと片づけてしまうには余りに惜しいような、「中河内」と「己知部」と「己知の冷水」なのである。




残念ながらこれに関する資料は見つからず、また地元でこのことをうかがっても、己知の冷水やチコベ坂・チコベ谷のことは誰もが知っているが、その名の由来などは一切わからず、明らかにする術も無かった。余談であるが、現地取材の時に「コチの由来?チコベ谷?それのいわれなんか、そんなもんあれへんよ。ここはどこの山もずっと昔から名前ついてるよ。」とオバチャンに笑われてしまったが、その後の「昔のこと?知ってる人はみんなおらんようになったからなぁ・・。」ということばに、何か時の流れの中に埋もれていくものの重要さを感じたりしたものだった。そういえば、先述の角鹿山についても「それ、どこ?」という声も地元で聞かれた。私のようなよほどの物好きでないとわざわざそんなことに興味を持ったり調べたりしないし、ましてや地元の人は、昔から普通につけられてる土地の名前など普通のものでしかないのかもしれない。




一世代前の者なら普通に知っていることが、次の世代には必要がなくなって伝えられず消えていく。環境の変化や人の移動、意識の希薄さや心の余裕の無さなどから消えていくものも数知れずあることだろう。山の村や集落が次から次へと消えていく中で、伝えていきたいものがあるに関わらず伝えられず消えていくものが数多く存在していることを思うと残念でならない。知識として残すだけではなく、それを考える時、そこに人の心の存在があることを思うと、伝えることの重要性を強く思うのである。ただ、そのような難しいことを考えて頭を悩ますより、素直に‘己知の冷水’を味わうのが一番など思いながら、新春の妄想をするのもなかなかのもの。できれば初夢で、『中河内』のチコベ坂を歩く己知部ご一行の姿を見たかった、など思うのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2013/01/19 21:00】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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