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#228 木地師の里『君ヶ畑』を訪ねて
~ 木地師の里『君ヶ畑』を訪ねて ~






 二月のある日、木地師発祥の地といわれる『君ヶ畑』(滋賀県東近江市:旧神崎郡永源寺町)集落を訪れた。前日の晩に少し雪が降ったものの、下界?ではほとんど積もっていない程度の雪。そういう状況でも、永源寺ダムを越えるとけっこうの雪が残っており、下界から見ると白く見える鈴鹿の山腹はやはり雪が多い所だということを、改めて感じたりした。ダムより奥の奥永源寺と呼ばれる地域に入るとさらに積雪が目立ち、その一番奥に近い集落『蛭谷』まで来ると、やはり下界とは別世界の雪の風景が広がる。
 『蛭谷』を越え、最奥の『君ヶ畑』へと続く一本道に入っていきなり出合ったのが除雪車。大きな音を立てて力強く道路の雪を押してくる。その作業中の除雪車が、集めた雪を捨てるために道の脇に入るのを少し待ってから、一本道を再び進んで集落へと向かう。そして、いつものように「木地師発祥地:君ヶ畑ミニ展示館」の横に車を停める。以前、雪が降りしきる中『君ヶ畑』に訪れた時は一面が銀世界という感じであったが、今回は雪が多いといっても道路は既に除雪されており、日当りがよくて人に踏まれる道や、南向けの屋根などは雪が融けているので、銀世界というイメージではない。山里の雪景色というには少々イメージは違っていはいるが、やはり下界とは全く違う風景、少し写真を撮っておこうと車を降りる。









 この『君ヶ畑』集落も全国の山深き集落と同様、過疎高齢化が進んでおり、人口は激減している。明治11年には65戸620人もの人々の暮らしがあったものの、昭和37年には56世帯233人、昭和45年に54世帯189人というように、エネルギー革命・高度経済成長期には人口が三分の一以下になってしまっている。そして最近の数字を見ると、平成22年は23世帯32人。一世帯の平均1.4人だ。ここで生まれて育った働き盛りの若い人たちは、故郷を離れて都市部へと出ていく。残った世代もやがては高齢化し、長年連れ添ったパートナーを失って以降は独り故郷を守り続ける。そんな厳しい現実がその数字から読み取れるのである。
 集落そのものは広く、明るく開けたその様子は、多賀町や余呉町の廃村群のように僅かな平地や斜面にへばりつくように存在した集落とは大きく違っている。同じ山の集落ではあるが、ここ『君ヶ畑』は、かつては木地師たちでにぎわい、そして明治に入ってからも600人以上もの人が暮らしていた繁栄の頃がイメージしやすい。ただそれだけに、その広さの中で20数人しか住んでいないということが、逆に寂しく感じたりもするのである。









 道を歩いていても出会う人は少なく、大変静かだ。この日も人との出会いは無いだろうな、と思いながらウロウロしながら写真を撮っていると、元君ヶ畑分校だった建物の方から歩いてくる人のオバチャンの姿を見つけた。手には空き缶の入ったゴミ袋。いつものように少しお話をうかがってみたいなあと思いながらも、寒い中、ゴミ捨てに行かれるところなのだろうと思い、「こんにちは」という挨拶だけですませる。そして再び撮影を始める。民家の軒下には氷柱が見える。しかしこの日の氷柱は、以前の雪の日に訪れた時の氷柱に比べて随分と貧弱だ。気温も高めなのだろう、氷柱からしたたる水滴の量も多い。いつも見に行く水場にも行ってみた。水道からいつも勢いよく流れ出るこの水場の風景が好きで、来ると必ず写真を撮る。しかし、この日は水道の蛇口が閉められているのか水は出ていなかった。この君ヶ畑にはいくつかこういう水場が設けられている。いずれも山水を引いており、夏でも枯れること無く村を潤してくれている。なんでもここは、明治3年、大正13年、昭和33年と大火に見舞われているそうで、そのためこの水場や防火水槽が設置されたという。













 そうこうしていると、道の向こうから重機の大きな音がしてきた。先程見た除雪車が村の道を除雪しながら戻ってきたのである。もう道の雪はほとんど除雪されて、最後の仕上げという感じであった。そしてふと見ると、軒下でその作業の様子を見ている、先程のオバチャンの姿。「昨日はたくさん雪が降ったんですか?」と声をかけてみると「10cmを越えると、こうやって雪をどけてくれはるんよ。」と言われる。昨晩から朝にかけて、ここでは10cm以上の積雪があったようだ。「それでも今年は少ないよ。前の雪が融ける頃に次の雪が降るから、屋根の雪下ろしもほとんどしんでもいいし。」と、例年に比べるとまだ雪による負担は少ないようだ。また村の中心を通る道路については融雪剤がまかれており、少々の雪だと融けてしまうという。それでもここはやはり鈴鹿の山腹の標高450mの地、多い時はかなりの雪が降り、積雪量によっては村への一本道が通れなくなり孤立してしまうことも珍しくはない。
 そしてそのような豪雪時は、やはり屋根の雪下ろしが大変だという。「高齢者ばっかりやしねえ。危ないからねえ・・」それでも「永源寺町の頃は町からすぐに来てくれたから、よかった。」という。そしてそのあとに「東近江市になってからはねえ・・」のことば。折しもこの時は、ちょうど東近江市の市長選挙の直前。2名の候補者の内、1名は地元『蛭谷』のご出身だという。ややもすれば切り捨てられがちになってしまう山間地域、その地域の気持ちがよくわかる地元出身の候補者への期待は、ここ『君ヶ畑』でも大きいようである。









 『君ヶ畑』のある滋賀県神崎郡永源寺町は、今から8年前の平成17年(2005年)2月に八日市市、湖東町、愛東町、能登川町、五個荘町、蒲生町などとともに合併して、広大な面積を持つ東近江市となっている。そうなると、これまでだと行き届いていた細かな配慮などが行き届かなくなるのでは、というのは素人目に見ても明らかである。特にこういった山深い山間の小さな集落だと、それは顕著に表れる。組織や団体が大きくなればなるほど、少数の声が行き届かなくなるのは自明の理。人口の多い都市部が優先され山間部は切り捨てられる、このことは平成の市町村大合併の大きな弊害の一つで、過疎化に追い打ちのパンチを見舞うことにもなる。日常の中でも、そういった地域の人々には様々な面で不便がふりかかる。このオバチャンの場合でも、役場へ行くにも、支所は一応あるものの八日市の本庁まで行かなければならないことも多く「大変やわ・・」という。特に冬場は高齢者にとって車の運転は危険で、一日数本しかないバスを頼らざるを得なくなる。体力十分な若い人なら苦にならないようなことでも、高齢者にとっては本当に大変な負担となる。









 このオバチャンは、昭和の35年頃に『君ヶ畑』に嫁いでこられたそうだ。その頃はここでも林業が活発で、村は多いに賑わっており、「ここ(君ヶ畑)にも製材所が二カ所あってねえ。村の人もそこでたくさん働いてはったんよ。」という。その活発だった林業も安い外材に押されて廃れていき、村の唯一というべき仕事の場は失われることとなる。生業を失った山深き村では、若い人たちや小さな子どもを抱えた家族は生活できない。「冬は雪が(多いから)ねえ、仕事に通えへんの。」というように、ここで生活をしながら町で仕事をするのは距離や気候などの関係で難しく、子どもたちの高校進学などの面から考えても若い家族が生活するのは困難なのだ。それでも昭和57年に政所小学校と中学校の君ヶ畑分校小・中学校校舎が新設されているので、その頃にはまだ児童生徒数もそれなりの数があったのだろう。しかし平成元年に中学校が休校、そして小学校も平成8年に休校となった後に同11年に統合され閉校となる。ちなみに休校となる1年前の平成7年の君ヶ畑分校の児童数は、わずか2名だった。同年、本校である政所小学校の児童数は50名、政所中学校は25名というから、校区内の子どもたちの少なさは、地域にとって極めて深刻なものだったことと思われる。その政所小学校も平成21年3月、中学校はそれよりも前の平成16年3月にそれぞれ閉校となっており、現在、地域から学校は完全に姿を消してしまっている。













 君ヶ畑のことを記す貴重な記録である『ー木地屋のふるさとー君ヶ畑の民俗(著者:菅沼晃次郎)』を見ると、愛知川沿いの道路は大正12年に箕川まで馬車道が通り、政所までバスが通じたのは昭和29年以降とある。今でこそ愛知川沿いの道が普通に使われているが、長い歴史を見ればそうなったのはつい最近のことだった。それまでの『君ヶ畑』の交易は、多賀の川相や彦根方面との交流が主で、八日市に出ることはほとんどなかったとも記されている。古道として、東へは「伊勢~治田峠~茨川~君ヶ畑」北へは「八丁坂(宮坂峠)~萱原・川相(多賀)~彦根」そして西への「蛭谷~大萩~百斉寺」のルートがあったようだ。『茨川』が鉱夫で賑わっていた時期があったり、ここがちょうど湖東地域から伊勢へ向かう道の途中に位置しているなど、昔の『君ヶ畑』が今とは比べものにならないくらいの人の出入りとともに繁栄があったということは、その歴史をふり返ると容易に想像がつく。しかし、やはりここは『蛭谷』とともに木地師発祥の地とされる地、その最も栄えたのは木地師が全国へと散ってゆく前の時代のことで、筒井千軒、小椋千軒、藤川千軒などの古い言い伝えがあるように、古の小椋谷周辺は多くの木地師やその家族などの大集落で活気に溢れていたことだろう。

 下の写真の木製ロクロは、集落内の「木地師発祥地:君ヶ畑ミニ展示館」に展示されているものを撮影したものである。









 『君ヶ畑』は木地師のふるさとでありながら、木地師が姿を消して久しく、先の『ー木地屋のふるさとー君ヶ畑の民俗』では、調査段階(昭和40年代初め頃?)で愛知川谷に木地師は現存せず、ロクロを挽いていた慶応生まれの人がいたという伝承のみが残されていると記されている。慶応といえば明治時代になる直前の頃(1865~67年)なので、おそらくその方が木地師として現役だったのは、戦後少し過ぎたあたりまでのことだったのだろう。しかもそれは『君ヶ畑』ではなく『黄和田』地区でのことだったというから、『君ヶ畑』から木地師が姿を消したのは、それよりもさらに前のことになる。
 現在『君ヶ畑』には、いったん消えた伝統の技を伝承すべく木地職を始めている方がおられるという。その方の何代か前のご先祖様は間違いなく木地職に就かれていただろうから、長い空白の年月を経ての伝統の技の復活ということになるのだろうか。周辺地域には同じようにロクロを挽く人が何人かおられるようで、文化伝統の灯を消さず継承してゆこうというこれらの人々の存在は、木地師発祥の地としても、また過疎で悩む地域においても大変貴重であると感じる。集落が消えていくとともに、そこでの民俗や文化も途絶え消えてゆくという事例を多く聞いてきているだけに、そのことを強く思うのである。





 『君ヶ畑』から帰る途中、『蛭谷』へと向かう下りの坂道を1台の軽トラックが歩くほどのスピードでゆっくゆっくりと走っていた。追い越すにも狭い道なので追い越せず、仕方無くスピードを落としてゆっくり後をついていく。やがて『蛭谷』集落に着くと、そこには何本もののぼりが立ち、多くの人たちが集まっている。どうやら市長選挙の候補者の方の集会があるようだ。集まっている人の大半は高齢者の人たち。そして軽トラのドアが開き、ゆっくりとおりてきたのは100才に手が届きそうにも見えるくらい高齢のおばあちゃんだった。周りにいた人が、ドアを開けてあげて、おりる際に転ばないように手を差し伸べている。このおばあちゃんは、地元地域から市長さんに立候補するということで、なんとか応援したいということで駆けつけたのだろう。そしてその姿を見せてもらって、地域の人たちの期待の大きさを強く感じたりした。

 数日後、この候補者の方が見事当選を果たしたことが報道されていた。切り捨てられようとしている地域の気持ちを一番よく知る市長さんの誕生ということになる。これから、地域の期待にどのように応えてくれるのか大いに期待されるところだ。そして同じような期待を持っている人たちが各地域にたくさんおられるということも、この選挙結果を見て感じるのだった。






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【2013/02/18 19:43】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#227 「次郎九郎」を訪ねて
~ 「次郎九郎」を訪ねて ~






滋賀県甲賀市の神(かむら)にある集落「次郎九郎」を訪れた。2年前の春に訪れて以来のことだ。以前のこのコーナーでもふれているように、正式な集落名としての「次郎九郎」は存在しない。また小字名としてもこの名は存在しないので、「次郎九郎」という呼び名は俗称ということになる。旧地名でいえば、滋賀県甲賀郡甲賀町の大字「神」の小字「藤木」、その「藤木」の北部にある小高い山を越えた僅かな川沿いの平地に、その小さな集落はあった。野洲川に注ぐ次郎九郎川の源流に近い所だ。残念ながら、今は崩れかけた家屋が一軒とプレハブが一棟、かつては村の季節を彩ったであろう柿の木、そして村の共同墓地などが残っているだけで、住む人はもういない。









桃源郷を思わせるような静かで美しかった山村「次郎九郎」に、周辺の山林や田畑跡地が大きく切り拓かれて大規模な産業廃棄物最終処分場「クリーンセンター滋賀(平成20年10月開業)」が建設されたのは、ここ数年の内のこと。これにより周辺の風景は一変した。すでにもう人が住まなくなってかなりの年数が過ぎていたとはいえ、その変貌ぶりには驚かされた。今ではその巨大で荒々しく現れたモンスターのような施設に追いやられるようにして、紅葉の巨木と村の共同墓地、そして一軒の崩れかかった老家屋が、かろうじて昔の面影を残す。踏みとどまるようにして残るこれら在りし日の名残りは、何とも切ないながらも地元の人々の思いを静かに語っているようにも見える。













ダムや原発、産業廃棄物処分場など、俗に‘迷惑施設’といわれるこれらの施設が建設される際には、必ずといっていいほど地元の人たちの反対が起こるものだが、この神地区でも例外なく強い反対があった。安全面に関して万全の対策が施されると説明を受けたとしても、環境汚染、自然破壊、イメージの悪化、搬入用大型車の乗り入れによる騒音や脅かされる交通安全、大切な故郷の破壊など、様々な心配要素が発生することを考えれば当然のことだろう。何かあった時に「想定外だった。」で片づけられてしまっては、たまったものではない。それ以外に今回の場合は、受け入れ派と反対派の間で疑心暗鬼のような気持ちが生まれたりして、それまで平穏に暮らしていたお隣同士の区民の間の空気が非常に悪くなってしまうなど、村の人たちの心をも分断してしまったのである。
これら外部から見ているとわからない様々な問題が、こういった施設建設用地に該当した地域の人々にふりかかっていることを、やはり外部の我々も知っておかなければと感じる。「ゴミ捨て場(迷惑施設)は必要だろう?どうせ人がほとんど住んでいない所だからいいじゃないか。誰かが犠牲にならないとダメなんだから。」というような発想で、これまでどれだけ多くの自然や地元の人たちの心が壊されてきたのだろう。そこに感謝や謙虚な気持ちがあれば、変わっていた部分も多かったのではないのか、など思う。





そのクリーンセンター滋賀だが、折からのエコ・省エネの流れにより、廃棄物の受入量が1/2、処理量金収入が1/4(いずれも平成22年度実績)というように、当初計画から大きく下回ってしまった。それによって、多額の公費負担が強いられ、経営改革が余儀なくされる状況にある。用地は一部を除き、地元の人たちからの借地。15年間(平成20年10月30日から)という期間を決めて、平成35年までには処理された廃棄物が全て埋められ、植林された上で地権者に返されるという約束。そのようにして何とか両者折り合いをつけてスタートした大事業だが、新たに経営の見直しをしなければならなくなったのである。そのことへの不信感、そして新たに進もうとする方向や将来についての不安などが地元で沸き起こるのも無理はない。

経営改革方針を定めるための地元区長との意見交換会の記録を見てみた。そこには地元の人たちの不安な気持ちや憤りの気持ちなどが強く表れている。将来に向けても、この地では地元の人たちの様々な不安が渦巻いているのである。そのあたりのことは、滋賀県のホームページを[ホーム > 組織情報(電話番号) > 琵琶湖環境部(循環社会推進課) > クリーンセンター滋賀の経営改革について]とたどっていくと、資料などで見ることができるので、もし関心をお持ちであればればご覧いただければと思う。





上の茅葺き家屋の写真は、かつての「次郎九郎」だ。これを撮影したのは今から20年前の平成5年(1993年)、その頃はまだ畑仕事をされる人の姿もあったように記憶している。20年前の風景は今の「次郎九郎」とは全く違っており、いかにも隠れ山里といった趣きある風景だった。周囲が山に囲まれたこの集落に行くには、小高い山越えの極細の道をトロトロ行くか、産業廃棄物処理場の横辺りからの薄暗い未舗装路を行くしかなかった。それだけに、その山道を行った後に現れる大きな紅葉の木、そして茅葺き家屋の風景はまさに桃源郷のイメージの美しさで、今でも強く心に残っている。また、集落から次郎九郎川沿いで北へ向かう道は、地図には記されていたもののほとんど廃道状態で車で進むことはできず、夏場など雑草に覆い隠され、通り抜けのできない行き止まりに近い状態の集落でもあった。













それからしばらく訪れる事なく、9年ぶりに訪れた時の「次郎九郎」の風景は何とも切ないものだった。写真は平成14年(2002年)に訪れた時のものだ。ご覧のように、そこには人の姿や温もりを感じさせるものは既になく、あの美しかった茅葺き家屋の屋根は崩れ落ち、ただ崩壊するのを待つだけという現実の風景があった。「あの茅葺き家屋をもう一度見たい。」とずっと思っての訪問だっただけに衝撃は大きかった。トタンが被せられていない、ありのままの茅葺き家屋の維持には大変な手間と多額の費用がかかる。したがって、もう人が住まなくなった家にお金をかけることはできず、自分たちだけでできることをやり尽くした後は、崩れていくのをただ見るしかないのが現実。さらにそこは大規模な廃棄物処理場が建設される所。畑仕事をすることも、もうない。そういったことを考えると、崩れて朽ち果てる風景となってしまうのも当然のことなのであるが、やはり温もりが失われ、灯りが消えていく風景は何とも寂しい。
ただその時、集落内の一画にあるコンクリートの建物から聞こえる「ブキィー!ブキィー!」という豚の鳴き声が、何か妙に不思議な感じでホッとしたのを覚えている。コンクリートの壁が高く姿は全く見えないのだが、鳴き声とガサガサと動く音だけが聴こえてくる。「なぜここに豚?」と当時不思議に思ったものだった。





ところで2年ほど前の秋に「次郎九郎」を訪れた時、たまたま草刈りをされている方がおられたのでお話を少しうかがうことができた。その方は3軒ほど残っていた家屋の真ん中に住んでおられたそうで、おそらく先の写真の茅葺き家屋にお住まいだった方と思われる。しかし、その方のお話によると「昭和50何年かに、ここを出た。」ということだったので、写真撮影の時は既に住居は他所に移され、畑仕事に帰ってこられていたところだったようだ。

これまで「次郎九郎」では、現地におすまいだった方になかなか出会うことができなかったのだが、この日運良くお出会いできたのを機にいくつかのことをうかがってみた。
まず集落のことだが、先に3軒の家屋と書いたが、それ以前は4軒あり、早いうちに1軒がここを出て他所に移られたのだそうだ。また、ずっと昔には8軒もの家があったという。村の広さからいくと3軒では少ないなと思っていたのだが、8軒だとなんだか納得してしまう。
また、この方がここを出られた理由だが、やはり雪が多かったということが大きかったようだ。湖北地域のような桁違いの積雪量ではないにしろ、積もるとなかなか融けず、山越えをしての村への出入りは生活に大変な支障をきたすということは、当時の状況を考えるとすぐにわかる。今の、廃棄物処理場への立派な道が着いてる状況からは、イメージさえも難しいのだが・・。









学校の問題も大きかったという。小学校の4年生までは、隣の集落の「唐戸川」の分校(昭和42年廃校)まで歩いて通い、それ以降は大原小学校までバスで通う。もちろんバス停までは山越えで歩いて行かなければならない。そして中学校はさらに遠くなる。距離的には、彦根市の「男鬼」のように10kmもの道のりを歩いて行くのとは、だいぶ違っているが、やはりこの独特の山越えの隠れ里的な地形が、日常生活の中で大きな負担になっていたのは間違いのないところだ。特に冬場の積雪時や凍結の中の山越えは、小さな子どもの足では困難を極めたことだろう。
こうしてこの方は、家が傷んできて修繕が必要になってきたのを機に、転居を決意されたという。修繕には大変な費用がかかる、それならば引っ越しして便利な所に住もうというのも自然の流れだろう。いずれにしても今の「次郎九郎」の風景からは、なかなか想像がつかない。私が訪れた平成5年の頃でさえ、この集落への道は大変細くなかなか困難だった。昭和の40年、50年代であれば、さらに状況が悪かったということは想像に難くないのである。









『ふるさと神村(編集:神村史編集委員会)』という郷土史書に「次郎九郎」について少しふれられていた。そこには「谷間が狭く高い険阻な山に囲まれているので、日の出や日没が神村の平地とは大きな差があり、・・・(以下省略)」と書かれている。やはり距離はそう離れていなくても、周辺の集落と比べると、生活する上でかなり厳しい条件にあったたようだ。また「平成11年には1戸が残るのみとなった。」とも書かれている。その頃には、まだ人がお住まいだったということなのか、家屋が残っているということなのか判断はつかない。なお次郎九郎という珍しい名の由来だが、「昔次郎九郎という人が住んでいたので神の人たちは次郎九郎といったのである。」と記されている。













今この「次郎九郎」には、その一軒の家屋が健在だ。かなり崩れてしまっているが、家の様子からすると、先のお話をうかがった方よりも長くこの地に住まわれていたように思える。今でもこの「次郎九郎」は僅かではあるが、春には梨の木の花、そして秋には紅葉など季節の花に彩られる。人が住んでいた頃は、それに加えて夏には田んぼの青々とした稲穂や蛍も見られたことだろう。

少し高台にあるこの家屋から見る風景は、過去の風景からは想像つかない風景になっている。それでは、未来はまたどういう風景になっているのだろう。今見えるのは、古びた老家屋や墓地の巨木とともにある巨大施設の風景。時代の流れを凝縮して表しているようなこの風景は、今後どう変わっていくのだろうか。






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【2013/02/02 17:48】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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