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#230 今は無き開拓集落「横道」
~ 今は無き開拓集落「横道」 ~






 以前のこのコーナー(#225)で、滋賀県の開拓地のことについて少しご紹介した。そこでもふれているが、第二次大戦の敗戦(昭和20年)により荒廃した日本は、終戦対策の急務として開墾・干拓事業を全国的な規模で実施している。それは、数十万という海外からの引揚者や国内の数百万もの失業者に仕事を与えること、ならびに食糧不足に悩む国民のためへの食糧増産などを目的としたもので、きわめて緊急を要したものだった。
 まずは5ヶ年で実施することが決定され、敗戦から3ヶ月後の昭和20年11月に「緊急開拓事業実施要領」が制定された。また、程なくして滋賀県内においても開拓課が設けられて、開拓事業実施にむけての体制が県レベルでも整えられる。しかし緊急的に実施されたこの事業、十分な準備計画が成されての実施にはほど遠かったようで、2年後の22年10月には「開拓事業実施要領」が新たに制定されることになる。適地の選定、土地配分、営農計画、入植選考などの調査・計画が不十分で、開拓者に必要な資金や資材が与えられなかったり、開墾の進め方に手直しが必要であったりなど、当初計画どおりの実効があがらなかったからだというから、やはり緊急による弊害も多かったようだ。





 このようにして始められた開拓事業であるが、文字通り荒れ地を開き(拓き)、食糧増産に寄与して成功を収めた開拓地がある一方で、いかなる努力も功を奏さず、悲しむべき結果しか残すことのできなかった開拓地もある。
 厳しい自然環境に行く手を阻まれたのはもちろんだが、開拓地としての可能性さえ元来無いような、そんな所が選ばれていたという現実も否定はできない。そしてそこには、混乱した時代であったからという理由だけで終わらせるには、あまりにも惨いと思われるようなドラマも展開している。苛酷な労働や血のにじむような努力を重ねがらも何一つとして報われるものは無く、ついには過労と未来への絶望感は、入植者たちの命をも奪うに至る。そして最終的に残ったのは喪失感と愛する人を失った悲しみ、そして多額の借金だけという、なんとも残酷な現実がそこにはあった。今ではもうその頃のことを詳しく知る人も少なく、わずかな資料でしか当時の様子を知ることはできないが、辛さのみが積み上げられるしかなかった開拓生活を送り続けた入植者たちの無念の気持ちを思うと、ただ胸が痛むのである。





 1973年(昭和48)に滋賀県より出された「開拓のあゆみ」という資料がある。そこにリストアップされている滋賀県の開拓地を見てみると46カ所。そのうち「大中の湖」などは規模も大きく、開拓(干拓)地だったということが多くの人に知られている。これら46ヶ所の開拓地は、同時期に一斉に始められたのではなく、事業開始当初の昭和21年から始められたものもあれば、30年代半ばからのものなどもあり様々だ。また開拓地の入植者も、早々に見切りをつけて違う道を選ぶ者もあれば、途中から入ってくる者もあり、入れ替わりがあるなどして一定ではなかったようだ。ただ、この46カ所はいずれも開拓地として一定の成果をあげ、資料が作られた当時も、人々の生活のあった所ばかりである。その一方で、この46ヶ所に入らなかった開拓地、つまり開拓事業として日の目を見ることの無かった影の部分ともいうべき地が存在したことも、この資料は残してくれている。





 そういった開拓地は県内では3ヶ所あった。旧・高島町の黒谷奥の「横道」、旧・朽木村の現在の朽木スキー場辺りにあった「朽木」、そして蒲生郡日野町の「四ツ谷」だ(「 」内はいずれも当時呼ばれていた地区名)。それらはいずれも志し半ばで諦めざるを得なくなり、入植者が精も根も尽き、全員離村という道を選ぶしかなく消えていった地である。このうち「四ツ谷」の開拓団は8世帯で、地元を中心とした県内の人たちばかりで構成されているが、「横道」は9世帯全てが長野県からの入植、「朽木」は12世帯(当初は14世帯)中の半数以上が長野県からの入植だ。「横道」「朽木」については、その多くが、遠く異郷の地から夢と希望を持っての入植だったわけである。
 同資料には、それらの人たちの開拓生活の手記が載せられていおり、それを読むと、40年以上たった今でもその悲しみや無念の思いが強く伝わってくる。そのうち今回は高島町の「横道」について、残された僅かな資料と当時のことを知る地元の方のお話をあわせて、ふり返ってみる。ちなみに上の写真は、「朽木」の開拓団の家屋があった辺りであるが、現在はもうその痕跡を見ることはできない。









 高島市の旧・高島町の黒谷の奥にあった開拓地「横道」は、松や雑木林そして背丈ほどのクマザサの密生する山麓の北向き傾斜地で、ここには昭和27年5月に、遠く長野県より9世帯が入植されている。だれもが、新たな地に夢と希望を抱いての入植だ。離村が昭和38年なので、10年余りの開拓生活だったことなる。以下は、先の資料『開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)』からの、黒谷横道地区で開拓生活を送られた方の手記の全文抜粋である。


「昭和27年5月長野県より9世帯が新天地を求め、希望に燃えて入植した。当地区は前述の通りの悪条件を伴う地帯であって、熊、鹿、猿が野生していた。
 9名がやっと横になれるだけの山小屋を造り。昼食を共にしながら、家族の住める住宅の建築に取りかかったのである。少しでも安く仕上げるため、附近の山から原木を買い、自分等の手で伐採、搬出し製材所まで運搬、製材、その年の10月頃全戸の住宅を建設したが、まことに形ばかりの粗末な家であった。
開発は人力で、1鍬1鍬と開いていったが、その面積も次第に増え、畑作を始めるに至った。まず第1にたばこを栽培したのであるが、気温が少し低い関係で思うような成果を挙げることができず、3年余りで止め蔬菜作に転換していった。
 蔬菜は大根、甘らん等を栽培し、京都市場へ共同出荷したが、肥料代どころか、甘らん等は運賃にも足らぬ有様であった。
 入植後5年目の32年1月に県と高島町の援助を受けて電気を導入し、全員の喜びは大きなものであった。
 はるばる長野県から入植したのであり、何とか頑張らなければと、当初の夢も持ち続けたが、収入は全く僅かで、命を繋ぐのが政府借入れの営農資金と、農作業のあいまに稼ぐ日傭賃だけで仮地なるが故に交通の便悪く、有利な農外収入は無かった。それに冬の積雪は多く、児童の通学路の雪踏みも大仕事であった。冬期間住み込みで出稼ぎするもの、内職する主婦たち、皆んなが夫々自分のできる仕事を懸命に続けたけれども、生活の困窮は改善されず、遂には過労のため病人続出し、男女3名の死者をも出して、民生委員をわずらはし、生活保護を受けなければならぬ家庭も増えていった。
 この状態は何んとかせねばと、県や県や県開拓農協連等の援助を受け、営農を共同経営に踏みきり、男子の大部分は農外収入を得るため、泊まり込みで働きに出かけ、残った一部男子と主婦たちで営農を続けた。然しながらこれも精算の結果は肥料代が払えないと云う有様であって、それこそ政府資金の償還どころではなく、借金はかさむ一方でであった。
 かくて前途に全く希望を絶たれ、不安は深刻化し、精神的打撃も大きく、共同経営も瓦解し去り、ここに全員解散を決めて、山をおりることとなったのである。
 苦難の途十年、幾多の犠牲を払ったが稔りは何一つ無かった。ただ残ったものは戦後開拓の「残酷物語」だけであった。
 昭和38年山をおりた開拓者たちは、転職する者、他の開拓地へ再入植する者等に分かれて西へ或いは東へ散っていった。」
(以上、「開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)」より全文抜粋)










 短い手記の中であるが、当時の生活の厳しさや入植した人たちの苦しい状況が生々しく伝わってくる。おそらく他地区の開拓地においても、入植者は血のにじむような努力と過酷な日々の労働、苦しい生活を積み重ねてきたことは間違いない。「横道」同様に過労による病人や死者もあったかもしれない。それでも結果が出れば報われるだろうし、苦労の末の至宝ともいうべき広大な農地を子孫に残していくこともできた。しかし「横道」の場合は、10年間にもおよぶ苦しい日々の末に何の未来も見ることができず、逆に辛い過去と絶望感しか残せなかった。この「横道」の開拓に関しては資料「開拓のあゆみ」以外に、季刊誌「湖国と文化」(1988年秋号)でも見ることができる。当時ノートルダム女子大学文学部教授の中埜喜雄先生が、実際に「横道」で開拓生活を送られた方からの聞き取り調査をされているのである。以下は、それを参考にして大まかであるがまとめた当時の状況だ。





 開拓団は、長野県の旧下伊那郡下久堅(しもひさかた)村から1952年(昭和27)に「横道」に入植した。その時の同時入植者の9戸のうち5戸が妻帯家族であった。当時の開拓団長の下見報告を頼りにしての入植であったが、故郷の長野とのあまりの気象の違いに驚く。乾湿度、積雪量、獣害(猪、猿、鹿)の有無などで、すべてにおいて長野よりこの黒谷奥の地が不利であったのだ。開墾作業は朝の4時半か5時から始まり、薄暗くなるまで休息の暇もなく続けられる。栗・ブナ・巨大松などの伐採に疲労困憊し、辛酸をなめ尽くす。それでも固い岩盤上の雑木林を伐採し、蔬菜(高島キャベツ、四ツ葉キュウリ、菜種)や煙草の栽培を試みるが、その結果については先述の手記のとおり運賃、肥料代にさえならない。また、麦の耕作は雀のため収穫はゼロという状況で、果樹栽培も獣害・虫害で惨憺たる結果に終わる。農作物を育てて収入を得るはずの開拓地で、まともな収入が得られない現実がそこにはあった。
 開墾地の1戸あたりの割当は3町歩(9000坪)だったが、実にその半分が農耕には不適地で、先の自然条件と合わせて立地条件も不適であったのは間違いなく、当然のことながら生活していく上での環境も最悪であった。入植から6年間は電気のないランプ生活で、電柱設置工事の際には、労力の提供も求められたという。交通の便も悪く、5年目でようやくバスが開通するも、バス停までは徒歩20~30分もかかる。そして、子どもたちの通う学校も合併されて廃校となってしまう。夏場にはマムシやブヨ(ハエ科の吸血昆虫)に悩まされ、さらに水利関係では地元農家と摩擦が生じてしまう。何より医療設備が貧弱に尽き、女性の出産時は難渋を極めたという。
 滋賀県からのノルマは5年間での開墾完了だった。畜産の農業行政指導も受けたもののいずれもが失敗に終わり、何一つとしてまともにことが運ぶことは無かった。さすがにこういった状況であるから、入植後2年目で早くも開墾挫折を悟るものの、既にその時は借金を抱えており逃げ場も無かったというから、先の手記にあるように、まさに「残酷物語」としかいいようがない。ただ、そういう中であるが、開拓者の子どもたちの唯一の遊びである竹スキーで、地元の子どもたちとの交流ができた。

 以上が季刊誌「湖国と文化」(1988年秋号)に掲載されている中埜喜雄先生による聞き取り調査からによるものである。やはりここでも当時の生活の厳しさが語られている。なお、ここで子どもたちのことが出てきているが、当時の小学校に開拓村の子どもたちが何人くらい通っていたのかを地元の方にうかがってみたところ、「3~4人だったかなぁ・・」という答えが返ってきた。妻帯家族が5世帯くらい、開拓生活年数が10年だったことを考えると、実数はもう少しいただろうが、小学生に通う人数はそれくらいだったものと思われる。





 これら二つの資料の他に、地元にお住まいの方が書かれた「ふるさとの山河~抒情詩で綴る~(矢盛義信:著)」という書の中にも、開拓団のことが記されている。これまでの開拓団当事者ではなく、開拓団の外からの視点で書かれており大変興味深い。なお、この書の中で開拓地の辺りは「横道平」というように表現されているが、おそらく地元ではそのように呼ばれているからだろう。そういえば北向き傾斜地とはいえ、なだらかな平らな斜面になっており、そのためそのように呼ばれているものと思われる。地元の方にしかわかり得ない内容で綴られたこういった書は、大変貴重な記録でもある。そこからも少しご紹介したい。

 まず、入植した昭和27年のこの時期自体にも無理があったのではないかということが、以下のように記されている。
「戦後の食糧事情は近年に入って急速に充実を始めていた。そんな訳で、当時としては全く時代に逆行していたのである。町行政は、当初から無謀を承知しながら推進を計ったのであった。此の日から凡そ十年間開拓団の人々は艱難辛苦の結果、政治家や行政機関らと時代の流れに翻弄され続けとうとう撤退に追い込まれていった。」(以上「ふるさと山河」より抜粋)

 また開拓地については、
「そんな中でも昭和30年初頭には、あの大原生林は伐り払われ、予定の7割強の広大な高地に生まれ変わっていた。然し高冷地と絶対的に悪い水利条件のもとでは、収益なら絶対の米作りは不可能だったから、代わるべく主に蔬菜などを中心に収益の上る作物の選択に苦労を重ねていた。そんなわけで収入は全く零に近かった。当初の生活費は入植開拓などの補助金と生活扶助等に頼っていたのだが、日が経つにしたがって借入金、買掛金などは雪だるま式に増えていった。」(以上、同書より抜粋)

 というように苦しい様子が記されている。この本を書かれた方は、当時木材業を営んでおり、開拓村の若い人たちも雇用されていた。それだけに開拓者の人たちの生活の苦しさを、より身近なところで感じられてきたのであろう。また開拓村にお住まいの方の奥さんが自ら命を絶たれた時や、開拓団が撤退を決めるという際には、我が身を削るほどに尽力もされている。これは開拓団の人たちが他に頼るあての無い状況を理解してというだけではなく、実直に働く普段の姿を見てきた故のことだったと思われる。このあたりのことについては、ここでは書き切れないので、詳細を知りたいという方は、ぜひ実際に書をご覧いただければと思う。自費出版なので一般書店での購入はできないが、地域の図書館であれば閲覧可能だ。





 取材をする中で地元の方にもお話をうかがうことができたので、そのことも少し加えておく。
 まず開拓地としての場所だが、やはり地元の人たちの間では最初から「あのような奥地を農地にするのは無理」と話されていたという。雪多き地の、しかも山の北斜面の山麓なので雪どけも遅く、温度も低く、そして日照時間も短く水利も悪い、そのような所で豊富な作物を育てることが難しいのは明らかだ。その土地のことを一番よく知る地元の人たちは、はなからああいった所での農業は困難だということがわかっていたのだ。緊急事業として始まった開拓事業とはいえ、やはり十分な調査がされなかった行政の不備であったことは間違いないところだ。
 また、周辺集落との関係だが、農地の収穫物による収入がほとんどない状況で、開拓地の人は現金収入を求めて周辺集落へ出稼ぎなどに出ていたようであったが、開拓地の人たちと地元の人たちとの交流は決して深いものではなかったようだ。お話を聞かせていただいた方は、個人的には入植者との関わりを最後まで持たれていたのであるが、やはり当時の地元の人たちからしたら、よそからやって来た者という意識もあったのかもしれない。また、あのような時代では、お互いに日々の労働に追われ、交わりを持つ余裕も無かったのかもしれない。先の利水問題で摩擦があったというのも、そのことを表しているようにも感じる。
 それぞれの入植者の家屋は木造で、隣り合って建てられているものもあったが、平均すると100~200mほど離れて、それぞれの家屋があったという。それからすると、広大な土地に家屋が点在していたという感じなのだろう。ただ先の手記にもあったように、家屋自体は「形ばかりの粗末な家」である。土地のゆったりとして広々としたイメージとは裏腹に、その日常の生活の厳しさは想像できる。













 今「横道」の開拓地跡周辺には立派なキャンプ場ができている。また開墾した開拓地は、入植者が去って以降はまた山林へと戻り、その後別荘地として分譲開発されたりしているものの、ごくわずかな別荘が建っているだけで、再び自然に還りつつある状態だ。そうした中、開拓村のあった辺りを歩いてみた。「湖国と文化」(1988年秋号)に掲載された頃には、現地には家屋の残骸が残されていたようであるが、それからさらに25年も過ぎた今となっては、もちろん残ってはいない。ただ別荘分譲地の中に、不自然な古い石垣などが残されていた。おそらくこれは開拓地の頃の名残りであると思われるが、確かなことではない。その石垣は、地元の方のお話にあった、100~200mほど離れて建てられていたうちの一軒が、土地造成時にも壊されること無く残っていたものなのかもしれない。だとしたら、かつてこの地で懸命に生きた人たちの唯一の痕跡となるのだろうか。そんなことを考えながら周辺を歩く。













 今ある直線的で不自然な林道と背の低い木々の林からは、開拓村だった頃の様子は想像がつかない。しかし、50年余り前には間違いなくここに毎日の開墾作業に汗を流す人たちがおり、そしてこの地で誕生したであろう子どもたちもいた。入植中に生まれた子どもたちは、今は50~60歳くらいになっているはずだが、果たしてその人たちは生まれ故郷となるこの地の風景を覚えているのだろうか。ここで苛酷な苦労をした親の世代にとっては、この黒谷奥の「横道」の地は思い出したくない過去なのかもしれないが、無邪気に幼少期を過ごした世代の人たちは、この地のことをどう思っているのだろう。もしかすると、生活した僅かな期間のことは、苦しい思い出しか持てなかった親の思いとともに消えてしまっているのかもしれない。
 
 そんなことを思いながらしばらく歩いた後、山越えで琵琶声向かう鵜川村井林道に行ってみた。そして標高を上げて開拓地の方をふり返ってみたが、そこに見えるのは普通の山の風景だけ。当たり前であるが開墾地の風景は、もう見えない。しかしこの地に、志半ばにして去らざるを得なかった人たちの汗や涙が染み込んでいることを思うと、それらの風景もまた違った風景に見えてくるのである。






※参考資料
 「開拓のあゆみ(1973年:滋賀県)」「湖国と文化(1988年秋号)」
 「ふるさとの山河~抒情詩で綴る~(矢盛義信:著)」




http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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