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#233 春の「中河内」にて
~  春の「中河内」にて  ~






 平野部では桜が満開のある日、滋賀県の旧・余呉町にある、県最北の集落「中河内」を訪れた。その枝村であった「半明(はんみょう)」にある六体地蔵さんを見に行った帰りである。この時期、年によっては雪が多く残っていて、除雪されていない道は雪に埋まったまま、なんてこともあるのだが、幸いに雪は全くといっていいほど残っておらず、周囲はなんとも春らしい雰囲気に満ちていた。





 北陸自動車道の木之本ICを降りると、県境に向かってそのまま北進するのであるが、少し平担路を走った後に道は山坂道となる。山間部に入っていくほどに、それまで見えていた満開の桜も姿を消して杉林の緑の山の風景に変わる。そしてその中を、快適な舗装道路をひたすら走る。かつては難所といわれて旅人たちを苦しめた椿坂峠も、今ではトンネル工事が進められて開通まであと少しとなっている。2014年に開通予定と何かで見たことがあるが、まだ完成していないところを見ると、予定が少し遅れているのかもしれない。
 そういえば、北国街道と呼ばれるこの道がまだガタガタ道であった頃、中河内の大火の際に、消防車が坂を登れず消火活動が遅れたという話を以前聞いたことがある。それほどの急坂の道だったということなのだろう。それから何10年という月日が流れ、きれいで立派な道が取り付けられた今でも、冬場の峠越えは時間もかかるし、凍結によるスリップなどの危険も伴う。それを思うと、トンネル(バイパス)は、集落の人たちにとって積年の思いのこもった‘待望の道’なのであろう。









 その椿坂峠を一気に越えて「中河内」へと向かう。峠を越えた後は、そう時間はかからない。この日は集落手前の道路脇のスペースに車を停め、そこからは歩くことにした。なぜかというと、集落の少し南にある湧水を見るためだ。この湧水は、昨年のこのコーナーの#266「中河内の‘己知の冷水’と‘己知部(コチフ)’」でご紹介したものだが、けっこう有名な湧水のようで、外部から訪れる人も少なくない。
 しかし、近づいて見るといつもと少し様子が違う。これまでより、何かずいぶんとスッキリして見えるのだ。昨年1月の訪問時では古いままだったので、その間に整備工事が行われたようである。周囲がこぎれいに整備され、真新しい祠などが設置されて看板も新しくなっている。いつも冬の積雪のために荒れてしまうので、ちょっと規模を大きくして整備しなおしたのだろう、など思いながらさらに近づく。





 すると、その新しくなった看板を見て驚びっくり。というのも、新たに作り直された看板には、湧水名が「己知(コチ)の冷水」ではなく「小峠の冷水」と書かれているのだ。「あれ?」と思いもう一度確認するが、確かに「小峠の冷水」と書かれているている。どうやら名前が変わったようだ。別に雑誌に紹介されていることがいいこととは思わないが、いくつかの雑誌に名水として紹介されたりして、それなりにここは‘己知の冷水’として、その名が内外に定着していたはずなのだが・・。





 思わぬ、湧水の名称変更、「何か理由があったのだろうか?」ということで、そのまま集落へと向かい、地元の方にうかがってみることにした。
 まずはお墓のまわりをきれいに掃除されている男性の方にうかがってみたのだが、名称変更のことはご存じなく「コチの冷水でしょう?え?違ってるの?」と驚かれている様子だった。「あのへんは‘小峠’と呼ばれてるからかな。」と名称変更に意外な感じだった。「ここで生まれ育ったけど、今は離れているので、昔からの人に聞いてもらったらわかるかも・・」ということで、そうしてみることにした。ちなみにこの方は#266で書いた‘チコベ坂’の名はご存知だが、やはりその謂れは、もうわからないとのことだった。




 次に庭でお仕事をされている70代くらいの女性にうかがってみた。するとやはり先程の方と同様、冷水の名が変わっていることは気づいておられなかった。しかしこの場所が最近になって整備し直したことをご存知だったので「そこを整備された方が、(湧水を新しくしたかのを機に)変えはったんと違うんかなぁ・・」とのことで、正確なことはわからず。この後何人かにもうかがったのだが、ほとんどの方が名称の変更についてはご存じなく、そして名称変更の理由もわからなかったのである。
 結局、何人かにうかがってわかったことは、整備されたのは「中河内」以外の方ということ、‘小峠’という名称はその場所の呼び名(小字)であること、そして地元の方はほとんど名称の変更についても知らなかったということぐらいだった。





 「己知の冷水」から新たに「小峠の冷水」に変わった「中河内」手前の湧水は、きれいに整備されたものになり、小さな車なら停められそうなスペースも作られている。雪が積もる度に崩れてしまっていたことを考えると、手間をかけての今回の整備は、湧水の維持の負担を大きく減らすことになり、今後の存続にも大きな助けになるものと思われる。しかしその一方で、歴史ある「己知」の名が消えてしまうことは、何とも残念でならない。地元でも「己知の冷水」として定着し、その名が外部の湧水ファンにも知れているということはもちろん、もしそれが#226に書いたように日本書紀とも関わりのあるものだったとしたら、尚更そう感じてしまうのである。





 この日、‘旧・己知の冷水’のこと以外にも、「中河内」について地元の方にうかがってみた。
以前から気になっていた敦賀への道については、ある程度以上の年齢の方は全てといっていい程、山越えを歩いての敦賀行きを経験されているようだ。買い物に行くからである。北国街道が自動車の通れる道として整備されるまでは、暮らしの中でつながりの深かったのは、滋賀県ではなく福井県の敦賀。もちろん椿坂方面に出ることもあったが、「木之本」まで出るには距離も長く、難所である椿坂峠を越えてからも時間がかかる。日用品などを買い物に行くのであれば、敦賀方面に出る方が遥かに近くて楽だったのだ。その時のルートは、中河内~池河内~敦賀だ。その中河内~池河内(福井県敦賀市池河内)間は、山越え(標高:約576m)で2.5kmほどの道のりで、「中河内」集落(標高:約426m)のはずれからスタートするその山道は今も残る。ちなみに「池河内」の集落の標高は、約295mだ。









 「池河内」の少し北にある、同じ‘河内’のつく町「獺河内(福井県敦賀市獺河内)」については、資料などを見ると、その昔は「中河内」から「獺河内」へのルートで塩を買いにいくなどもあったようだが、これは「中河内」から敦賀へと向かうのとは目的地の異なる別ルートだったようだ。ちなみに、この敦賀まで歩いて買い物に行かれたという70~80代の方は「獺河内」の名前はご存じなかった。「中河内」と「池河内」は近年までつながりは深かったが、「獺河内」とのつながりはその頃はもう薄かったと考えられそうだ。





 それにしても、この狭い地域に「中河内」「池河内」「獺河内」の3つの‘河内’のつく集落の存在、やはり何か関係づけたくなってしまうのである。前の#226にも少し書いたが、「中河内」内にも「角鹿」という地名が残っており、これは「敦賀」にも通じ、関係の深さを表す。長い歴史の中で「中河内」と「敦賀」の関係は大変深いもので、もしも深く埋もれてしまった歴史が見えるとしたら、両者の間には「角鹿」「天之日槍(アメノヒボコ)」「己知部(コチフ)」「己知(コチ)」「ちこべ坂」などの、「中河内」と渡来関係のキーワードが結びつくようなおもしろい事実が見えてくるのかもしれない。





 話を‘道’に戻す。「木之本」までのバスが開通(昭和31年)する以前は、木之本方面に出る時は椿坂峠を歩いて越え、そこからは汽車(柳ケ瀬線・昭和39年廃線)に乗っていたという。それでも「そら敦賀に行く方が近かったよ。」ということなので、列車があっても日常のメインは敦賀だったのだろう。

 『ふるさと中河内(編集:ふるさと中河内編集委員会/発行:余呉町)』に椿坂峠越えの道に関しての記述がある。そこには、宿場町としての役目を終えた後の「中河内」は炭焼きを生業とする村へと変わっていったが、昭和25、6年頃までは、大八車に炭を満載し椿坂峠越えで出荷していたとある。子どもも含めた家族総出で大八車の先につけた綱を引っ張って坂を登り、下りは大八車の後に綱をつけて逆に引っ張りながら急坂を下った。そして坂を下りると子どもたちは来た道を戻って学校へと急ぎ、父親はそのまま「柳ケ瀬」まで炭を持っていって、帰りには米や日常品を購入して再び峠越えで我が家まで帰る。もちろん今のような太くて快適な道ではなく、細くてガタガタの山道だ。昭和27、8年以降は、大八車に変わってオート三輪が使われたので随分と負担は減ったようであるが、それでも道の状況はあまり変わらなかったことだろう。そういう事情であるから、「中河内」から「木之本」までのバス開通以前は、滋賀県でありながらも、より便利な町‘敦賀’との交流の方が深かったのもうなづけるのである。













 「中河内」にせっかく来たので、これまで行ったことのなかった「秋葉神社」へ行ってみた。集落の中央あたりの小高い山の上に鳥居が見える所だ。登るまでの道に咲く水仙の花が逆光に光り大変美しく、まだ桜の咲かない「中河内」の春を大いに感じさせてくれる。石段を登ると見えてくる祠も大変新しいものとなっており、祭神様は今もここから村を火から守ってくれている。祠の向こうは広場になっており、ここでは村の全員が集まる園遊会が毎年7月に行われていたという。今現在も行われているのかは確認できなかったが、かつては屋台も出て村を挙げて多いに盛り上がっていたそうだ。そして、この広場から見おろす景色もなかなかのもの。県境の栃ノ木峠への道がよく見える。部外者の自分なので長居は控えたが、なんだかずっと見ていたくなるような秋葉陣屋からの春の風景だった。









 先にも書いたように、もうすぐ椿坂峠のバイパスが完成する。そうなると今の椿坂峠への上り下りの道は利用が極端に減り、いずれは登山者くらいしか利用されなくなるのかもしれない。八草峠、石榑峠などはトンネルが完成するとともに、かつての峠道は利用されなくなり、整備もされなく通行止めになったりして、ほとんど廃道状態となってしまった。ここもそうなってしまうのだろうか、など心配しながら帰り道は椿坂峠で車を停めてみた。「いずれ見れなくなってしまうのだろうか・・。」など考えると、妙に寂しい風景に見えてくる。









 夕暮れ前の峠だが、残念ながら展望はそれほど良くない。下界が広く見渡せるなら印象も大きく変わるのだろうが、見えるのは山と今ある道くらい。この道はもちろん昔からある道ではなく、近年になって取り付けられたものだ。だが峠の位置そのものは昔と今とはそう変わっていないだろう。その峠には、一体の古びた地蔵さんの姿が見える。「かりかけ地蔵菩薩」という名が書かれているが、かなり荒れてしまっている感じだ。供えられる花も無く、花瓶代わりの瓶も割れたまま・・。まわりを見渡しても咲いている花など無く、私自身お供え用の花を持ってくるほど気のきいた人間でもない。せめてもと思い新しいお茶を入れさせてもらった。

 よく見ると、この地蔵さんには首がないようだ。近くの菅山寺には首無し地蔵(石仏?)がけっこうあるし、栃ノ木だったかどこかの地蔵さんにも首がないと聞いた気がするが、そんなに珍しくはないのかもしれない。祠の奥の方からはブーンという羽音のような音が小さく響く。何かオカルトファンの格好の題材になってしまいそうだが、私自身はそんなことよりこの「かりかけ」の謂れが気になって仕方がない。おそらくなんらかの言い伝えでこのような名前となったのだろうが、帰宅後に調べてみても残念ながらわからなかった。









 峠の風景をしばらく見た後、ふと下を見るとアスファルトの隙間から、まとまって伸びるツクシと愛嬌あるフキノトウの姿。「おおー!峠の春かー!」と思わず口に出る。毎年咲いているのか、種や胞子がうまく飛んできたのかわからないが、コンクリートやアスファルトで固められても、近くに仲間がいる限り、こうした自然は顔を見せてくれる可能性を残すもの、など感じさせてくれる。そして、バイパスができて今の峠道が廃道になった時、こういった自然の生き物たちは案外ホッとするのかもしれないなぁ、など思いながら夕暮れの峠の春を少し味わった。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2014/04/15 00:50】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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