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#236 奥川並(旧伊香郡余呉町)と奥川並分校
~  奥川並(旧・伊香郡余呉町)と奥川並分校  ~






 久しぶりに「奥川並」集落跡を訪れた。「奥川並」は、滋賀県最北部の旧・伊香郡余呉町(現・長浜市)にあった集落で、高時川の支流、奥川並川の上流部に位置する。「奥川並」とともに北丹生六ヶ字と呼ばれていた「針川」「尾羽梨」「鷲見」「田戸」「小原」のいずれの集落も、時期の違いはあるものの廃村の道をたどっているが、その中でも一番早い昭和44年に廃村となったのが「奥川並」だ。村が無くなってから今年で47年、既に半世紀近くもの年月が過ぎたことになる。









1993年(平成5)の奥川並


 後になって、「奥川並」が丹生ダム建設の水没予定区域(「奥川並」集落跡地自体は水没予定ではなかった)となり、それ以降、独立行政法人:水資源機構の管理となったため、周辺は広く一般車両の乗り入れは禁止となった。それでも、ダム建設計画が凍結(その後中止)されて以降は工事もストップし、地元の方以外でも釣り客や登山者など、季節にはけっこうな人が入るようになった。私自身が写真撮影で入った時にも集落跡地に車が停まっていたり、5月の山菜の季節などには他府県ナンバーの車がいっぱいで、少し離れたスペースまで停めにいくことなどもあった。落石などの事故があった場合の責任はもちろん負えないし、業務の邪魔になることもせず、きちんとマナーを守った上での通行であれば水資源機構も黙認している、そんな状態なのかもしれない。なお、このあたりの川は丹生川漁業協同組合の管理となっており、遊漁期間中の釣りは遊漁券が必要となる。また「奥川並」奥の森林は、奥川並生産森林組合の管理下にあるので一般の人の山菜採りなどは一切禁止だ。









 「田戸」から「奥川並」への林道は、道の崩壊や崖崩れなどでしばらく通れなかったが、今は工事も終わって車の通行自体は可能な状態となっている。ただし工事関係者や森林組合、許可を得た車以外の一般車両の通行はできず、「田戸」からの分岐の橋にはチェーンがかけられている。これは落石や崩落の危険があるから一般車の進入を制限しているのであろうが、部外者による山菜や貴重な山野草などの無断採取を防ぐのにも大いに役立っているように思える。
 「奥川並」の奥の森林に栽培されているワサビや山椒などの山菜が、外部者による窃盗被害にあい困っているということは、奥川並の関係の方からは何度かうかがったことがある。もちろん採取禁止や入山禁止の立て看板なども立てられてはいるが、それでも入山し持ち去っていく。これは完全に犯罪である。素人もいれば窃盗のプロもいるのかもしれない。そう考えると、チェーンどころかもっと強固なゲートで塞ぐのもありだと思えるが、私道でない一般の道路をそのように塞ぐことはできないのだろう。現在、別の目的ではられたこうしたチェーンにより辛うじて山が守られているのだとしたら、それは本当に情けない話でもある。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 訪れたのは5月の末、この時期ならまだ雑草はそんなに多くないだろうという判断での訪問だ。この日は「田戸」に車をおいて、人力で「奥川並」集落跡まで行くことにした。ちょうど奥川並川との合流点の、高時川に架かる橋がスタート地点で、そこからは4kmちょっとの道のり。スタートしてしばらくは、奥川並川が谷の下の方に見えるが、林道から川までがさほど深くないため谷底というイメージはそう感じない。それでも両側の山の斜面は急峻で、杉の植林も多いため空は狭く、道の見通しも良くない。だから、「田戸」から「奥川並」方面へと進む道を見ると、いかにも山の奥へ入っていくという感じがする。そして実際、林道を進むほど山深さを感じるのである。









 「奥川並」の集落の起源は、岐阜から山越えでやってきた木地屋にあり、しばらくの間は下流の集落にその存在が知られていなかったという。ある日、奥川並川の上流から木のお椀などが流れてきて下流の集落の人が驚き、その存在が知られたという言い伝えが残っている。これは全国のこういった山深い木地屋関係の集落でも同様の言い伝えがけっこうあるようだ。しかし、こうして深い山々の奥から細々と流れてくる奥川並川を見ていると、そういう伝説も決して作り話とは限らないのではと思えてくる。
 昔は当然、今のような道は無く、上流を見ても山と川が見えるだけ。まして「奥川並」は下流から遡った人たちに作られた集落ではなく、遠く山向こうからやってきた美濃の人たちによって作られた集落。当然、最初は下流との交流は無かったのだろう。そう思うと、下流の者たちにとっては、存在さえ知られぬ隠れ里であったとしても不思議ではない。伝説も普通に受け入れられてしまうような環境にあったことは、今のその風景を見ても理解できるのである。その真偽はともかくとして、それだけ山深い集落の、そこからさらに奥にある集落だったということが、この話から読み取れそうだ。

 それにしても思った以上に、もう緑が濃い。集落跡あたりはどうなんだろう・・など考えながら先に進む。









 やがて谷が低くなり、川が近くに見えるようになる。こうして川と道が近くなったのは、集落跡まであと少しという証でもある。それでももう草木の葉が伸びているせいか、すんなりと川の姿を見ることはできない。写真の橋は、奥川並川に流れ込む小さな谷に架かる橋だ。この日はけっこう暑かったのだが、ここに来ると空気がひんやりとして、とても気持ちがいい。集落跡まではもう1kmもないのだが、心地よいのでここで少し休憩をする。





 ここから集落跡までの間に、ずっと以前、江戸の享保の頃には「口河並」という集落が存在していた。「奥」に対して「口」だ。おそらくこのあたりが彦根藩御用達の炭焼きの村として一番繁栄していた時のことだろう。その頃は75戸もの家が建ち並び、人々が炭焼きに従事していたというから、平地がごく僅かなこの地域からすると大変な数字である。しかし江戸時代中には「奥川並」に吸収されて、既にその存在は無くなっている。以前、地元の方にうかがった時は、「口川並」は「奥川並」より少し下流の平地にあったということだったが、確かにそのあたりには、川近くに少しの平地を見ることができる。しばし周辺を歩きながら「口河並」のことを思うも、その場所はわかるはずも無く休憩を終える。









 程なくして「奥川並」の共同墓碑が見えてきた。このあたりは豪雪地帯。雪どけ後はかなり荒れるであろうことを思うと、共同墓碑や地蔵さまともに小ざっぱり整備されている感じがする。かつての住民の高齢化や道の崩落、通行止め等々でなかなか訪れにくくなっているのだろうが、その様子を見ると今でも奥川並出身の人々が故郷を訪れ、手入れをされていることがわかる。それでも離村後半世紀も過ぎていることからすると、今ここに来られているのは当時の働き盛りだった世代よりも、村で少年時代を過ごした世代の人たちが中心になっていることだろう。
 墓碑の横には、これから伸びてくるであろう雑草を押しのけて自生する花々の姿が見える。その花も雑草と呼ばれる類いのものなのだろうが、日照の少ない緑と濃い緑ばかりの風景の中にそれがあることだけでも、何だか清々しくホッとせてくれる。













 ここから集落跡まではすぐ。先にも書いたように5月にしては、やたら雑草が多いように感じるが、その雑草いっぱいの林道を歩いて行くと集落跡が見えてきた・・というか、もう、すごい雑草。覆いかぶさるような雑草で、集落を思わせるようなものがほとんど見えなくなってしまっていた。





 奥川並の表示板や水資源機構の警告看板も、今にも木々や草の葉に隠れてしまいそうで、石垣などはほとんど見えない。5月の終盤とはいえ、こんなに草は多かったのだろうか、など考えるが、これが夏本番になるとさらに草木が伸びるはず。集落跡の痕跡さえ覆い隠してしまいそうな自然の勢いを、この日の「奥川並」からは感じる。それでも少し集落内の道を入ってみると、村の中央を流れる小川や石垣などを見ることができた。先程、軽トラで人がやってきたが、その方はそのまま集落跡の奥へ入り、山へと向かった。おそらく山仕事なのだろう。それにしても集落内の予想外の雑草は、軽装の私などとても入れそうになく、入るのを拒まれ、はね返されたというような感じさえした。いろいろな時期に「奥川並」を訪れたが、こんなに草が多い印象を受けたのは初めてだった。










 村の雰囲気がほとんど感じられなくなった集落跡の反対側、川向こうも見てみる。そこは村在りし頃、丹生小学校奥川並分校のあった所だ。しかしその分校跡周辺はさらにすごいことになっている。そこに学校があったことなど100%信じられないほどのワイルドな光景だ。かろうじて学校へと架かる丸太橋を見ることができたが、それも草をかき分けてのぞきこまないと見えない。とはいえ、この丸太橋が今も健在だったことをとても嬉しく感じる。かなり苔むし、腐食もあるようなので、当然渡ることはできない。それにしても、半世紀以上もこうして村と学校をつないでいるのには驚くばかりだ。当時、子どもたちが渡るための大切な橋ということで、立派な木を使って作られたのだろう。今は残念ながら渡れないし、渡る人もいない。それでもこの橋がある限り、ここに小さな村の分校があったことは伝え続けてくれる。









1993年(平成5)の分校への橋


 初めて「奥川並」を訪ねて以来、この丸太橋を渡って川向こうの分校跡地へ行きたくてずっと決心がつかなかったのだが、5年程前、ついに学校跡へ行ってみたことを思い出す。ただし、今にも落ちそうな丸太橋を渡る勇気は結局無く、川を渡って跡地へ行ったのだった。川幅は狭くても、水の中を歩かないと渡ることはできない。しかし、その時は3月。一応長靴を履いて川に入ったものの、水量が多く水はあっという間に膝を越え、長靴の中に入ってきた。川の水は凍るように冷たく、その水のため長靴は重くなる。「奥川並」の3月はまだまだ寒く、流れる水は雪どけ水だ。そのことを思うと水が冷たいのは当たり前なのだが、草に覆われない時期といえば、この時期か雪降る前しかない。したがって、学校跡の様子が一番良くわかるのは、いずれにしても寒い時期しかないということになる。そのためにこの時期を選んだのだが、やっぱり冷たく寒かった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 結局、長靴に入った水を捨て、太腿あたりから下がドボドボになった状態で、寒さに震えながら分校跡地の写真を撮影したのだが、あまりの寒さと冷たさで長時間は耐えられず、そうそうに引き上げたのを覚えている。車に戻って、靴下やらズボンやら下着やら全部を取り換えた時の幸福感は、今も忘れることはできない。
 「2009年(平成21)撮影」と書かれている写真は、全てその時の写真だ。倒れかけた電柱は残っていたが、学校を思わせるようなものは玄関前の石段と校舎の基礎くらいしか見つけることはできなかった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 それにしてもこのスペースに学校があったとは信じられない。立派なグランドはもちろん無く、庭のようなスペースがあっただけといっても、今のこの鬱蒼とした感じからは想像がつかないのである。当時の2階建ての小さな木造校舎を古い写真で見ることはできても、それがここにあったということはなかなかイメージできない。むしろ現地を見て、よりイメージしにくくなったという気さえする光景だった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 学校在りし頃は、学校への橋が2つあったそうだが、離村後に1本が完全に落ちてしまい、今あるのはその残った1本。ただし上にはられていた板は落ちて丸太ん棒だけになっている。雑草の無い雪降る前や雪どけ後すぐであれば、集落跡などからも、もっといろいろなものが見られるのだろうが、今の奥川並の風景を見た時、かつての存在をはっきり示してくれるような当時のものは、結局この丸太橋と石垣くらいしかないのかもしれない。そしてこの丸太橋も、そう遠くない将来、朽ちて落ちてしまうかもしれない。そうすると残るのは石垣のみ。そういった、石垣だけが残るという古い集落跡をこれまでにも見てきたが、「奥川並」集落跡もただそれと同じ道をたどるだけということなのだろう。





2009年(平成21)撮影


 「奥川並」の子どもたちは、小学校の1年生から4年生までをここ奥川並分校で学び、五年生からは「小原」にある丹生小学校小原分校で学んだ。奥川並分校の先生は2人だけで、小さな学校の1~4年生の子どもたちを指導されていたという。当時は滋賀県にも多くの分校があり、その中でもこの余呉村立丹生小学校奥川並分校は「へき地等級」が4級だったというから、大変な立地環境であったことがわかる。なお中学校は、昭和23年に丹生中学校が中之郷の鏡岡中学校に統合されてからは学校に通うことができなくなったため、全員が鏡岡中学校の寄宿舎で3年間をすごしていた。





記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より







記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より



 以前、この奥川並分校で教鞭をとられていたという林尊先生にうかがったお話だ。先生が赴任された昭和39年は東京オリンピックの年で、それを機に「奥川並」でもテレビを購入する家が何軒かあったという。学校にテレビがついたのもその年で、自宅にテレビの無い家の人たちは、学校に集まってオリンピックを見たそうだ。東洋の魔女で有名な女子バレーが優勝した時など、おばあさんたちは皆感激して泣いていたという。
 「奥川並」など北丹生六ヶ字に電気が通じたのは昭和36年で、オリンピックの3年前。林先生が「奥川並」を離れる昭和42年頃には大方の家でテレビがついていたというから、電気がつく前までだとラジオの北京放送くらいしか入らなかった状況を思うと、短期間で急激な変容とげたということになる。様々な情報が流れるテレビの出現は、外の世界をほとんど知らない子どもたちにとっては大変なカルチャーショックだったことだろう。写真は7年前に写した「奥川並」集落跡で見た壊れたテレビ。このテレビの前に陣取り、目を輝かせて画面に見入る子どもたちの姿が目に浮かぶ。





2007年(平成19)撮影


 林先生が赴任されている時から「炭もあかんし、もうこの村も・・」という話は出ていたという。そしてその言葉どおり、先生が奥川並分校を転出された2年後に「奥川並」の人々は集団移転し学校は廃校、村は廃村となる。そのことを聞いた時、「やっぱり来たか・・」という思いとともに何とも言えない寂しさを感じられたという。
 その後、先生が「奥川並」を出られて二十年ほど過ぎた頃に奥川並分校を見に行かれている。その時はもうほとんどの家が倒壊してしまっていたが、学校はまだ残っていたそうだ。その光景を見て「木の橋が落ってもて、丸太ん棒だけが残ってた。もう涙が出た。」という。それは、当時のいろいろな出来事、学校や村の風景、子どもたちや村人たちの姿、温かい交流、そしてそこでガムシャラにがんばっていた若い日の自分、それらあまたの思い出が湧き出るとともに、今のその荒れ果てた光景との余りもの違いに、ことばにならない寂しさや切なさが感じられたからに違いない。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 今の分校跡の光景を見てそれらのことを思うと、やはり時の流れを感じざるを得ない。ここに学校があったことさえわからず、それを伝えることさえされないまま、この先、静かに自然へとかえっていく。この地にあった人々の生活は人がいなくなるとともに消え、その痕跡は時が流れるとともに朽ち、やがては周りと同化し見えなくなる。そしてあとは自然に覆い隠される。それが自然の流れなのだろう。





 幸い周辺はダムに沈むことなく、自然環境も残されそうだが、この中途半端に終わってしまったダム計画の裏には多くの人たちの大切な故郷や、故郷への思い、生活、そして国民の多額の血税などが犠牲になっていることを忘れてはいけない。感傷に浸るのではなく、また時代に流されたなどという簡単なことばだけで済ますのではなく、なぜ村々や人々がそこから消えていかなければならなかったのか、そのことを考えると、新しく多くのものが見えてくるような気がする・・など思えてならない。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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テーマ:滋賀県情報 - ジャンル:地域情報

【2014/06/17 00:47】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#235 春の地蔵峠、寒坂そして「保月(旧・脇ヶ畑村)」へ
~  春の地蔵峠、寒坂そして「保月(旧・脇ヶ畑村)」へ  ~






 「杉」を出発して「保月」へと向かうことにした。

 再び山間の林道に入り、少し坂を下った後に標高をぐっと上げながらしばらく進んでいくと、右手に見えてくるのが古びた地蔵堂。3本のたいそう立派な杉の巨木に、左右、後と守られるようにしてひっそりと佇む小さなお堂だ。鈴鹿のバイブルともいえる『鈴鹿の山と谷(著:西尾寿一)/発行:ナカニシヤ出版』によると、この地蔵堂は北側の小鍋尻山と南側の地蔵山(日山)の鞍部に位置する峠にあり、そこは地蔵峠あるいは保月峠とも呼ばれているとある。また林道ができる以前の旧道は、峠までがかなりの急坂だったという。脇ヶ畑を訪れる時はいつもそうなのだが、この日もここで車を停めてしばらくウロウロする。









 1972年(昭和47)発行の『脇ヶ畑史話(編集:多賀町史編纂委員会/発行:多賀町公民館)』にも、この地蔵堂に関しての記載がある。それによると、ここの地蔵さんは乳地蔵といってお乳の地蔵尊で、母乳の多い親は余ったお乳を地蔵さんに預かってもらい、逆に母乳の出の少ない親は地蔵さんに願をかけてお乳を授けてもらったとある。地元の人だけではなく、遠く京都や大阪からもお参りに来られていたというから、多くの人たちから親しまれ、愛されていた地蔵さんだったようだ。また夏の地蔵盆の時には、「保月」の子どもたちが地蔵尊のおもりをして、ここを通る人たちに盃にお酒を注いでまわり「御奉加、御奉加」と頼んでいたそうだ。そのおかげで、ここでのお供え物はたいそう多かったという。しかし残念ながらその楽しい光景も、「保月」から子どもたちの姿が消えるとともに見られなくなってしまっている。





 この『脇ヶ畑史話』が発行されたのが昭和47年。保月の小学校、中学校がともに休校もしくは廃校となったのが昭和44年の春だから、山から学校、そして子どもたちがいなくなって3年程が過ぎた頃の刊行となる。子どもたちの姿が消え、当たり前のように毎日響いていた元気な声が聞かれなくなってしまった現実は、村の未来の灯が消えていくような寂しさ。そしてその寂しさは、『脇ヶ畑史話』からも随所に読み取ることができる。
 過疎化が急速に進む「杉」「保月」「五僧」といった旧・脇ヶ畑村3集落に、明るい展望が持てない中で作られた『脇ヶ畑史話』、消えつつある村のことを後世に伝え、今のうちに残しておかなければ、そういう強い思いを感じるのである。





 地蔵峠の地蔵堂がいつ頃からあったのかは、同書にも書かれてはいない。しかし、今の峠の静けさからは到底イメージできなくても、このお堂に多くの人たちが集い、愛され親しまれたという長い歴史があったことは間違いない。その昔日の賑やかさを思いながらこの地蔵堂を見た時、今の地蔵峠がまた違った風景に見えてくる気がする。
 この日も、お堂には可愛らしい花が供えられていた。かつての脇ヶ畑の住民によるものなのだろう。雪どけを今かと待って、住民が戻って来られる「保月」の温もり、それはこの村の少し手前でもこうして感じることができる。





 しばらくすると、一台の軽自動車が「杉」方面から走ってきた。地蔵堂で見慣れぬ男が写真を撮っていたからか、お堂付近で少しスピードを緩めるものの、そのまま通り過ぎて「保月」へと走っていく。故郷へと戻る人、山仕事に向かう人、そして登山者、それら以外でこの道では滅多に人と出会うことはない。「あの車、故郷に帰って行く車なんだろうな・・」など静かな峠で一人考える。そして私もしばしの撮影を終え、地蔵峠を後にする。





 地蔵峠を越えると道は少し下り、その後再び上り坂となる。その坂を越えれば、もうすぐに「保月」の集落だ。この坂のあたりは「寒坂(かんざか)」「寒坂峠」などと呼ばれており、その名のとおり、他より一段と冷える所で、冬の時期は峠からの冷たい風の吹き上げで雪が舞い積雪も多かった。また、それゆえに、近年になってこの場所では悲劇も起こっている。出典は忘れてしまったのだが、冬の積雪時に「保月」にお住まいのご婦人が山下の集落「来栖」からの帰り道、我が家まであとわずかという所のこの寒坂で力尽きて動けなくなり、帰らぬ人となったというのだ。





 その時の状況を推察してみる。
 凍えるような寒い時期に、婦人は雪の山の急坂道を一人で歩き、杉坂峠を越え家路へと急いだ。積雪が多いとはいえ、「普段歩き慣れている勝手知った道だから」という安心感もあったのだろう。また「明日になればもっと雪は降り積もるかもしれないので今日のうちに」、そんな思いもあったのかもしれない。そして雪の中、家路につくことを選択する。しかし、雪の山坂道と寒さは思った以上に厳しく、体力はどんどん奪われていく。それでも家族の待つ我が家を目指し、冷えきった体にムチを打って暗くなった雪の道を何とか進もうとする。そして「保月」までの最後の山坂道にさしかかる。だが、ここは寒坂、これまでとは違う吹き上げる雪と厳しい寒さが、疲れ切った婦人に追い討ちをかけるかのように襲いかかる。そして、ついに力尽きる。
 薄れゆく意識の中で思うのは家族や故郷のことだったのだろうか、そのことを思うと胸が痛む。あと少し、ほんのあと少しで我が家という所での悲劇だ。









 この坂を上る時、いつもこの悲しい話のことを思い出す。この日の穏やかな春の寒坂からは想像もつかないが、雪の多い山の集落では、こういった山深さゆえの悲劇が、日常の中で普通に起こりうるものだったのかもしれない。大雪、雪崩、落石や土砂災害、鉄砲水、急な病気や怪我に対応できない医療体制・・町部では心配する必要のない危険と常に隣り合わせの生活が、そこにはある。





 その寒坂を越えて道を下ると「保月」集落が見えてきた。いつものように中学校跡の空き地に車を停める。以前にも書いたと思うが、ここにある三角屋根の古びた公衆トイレは、中学校校舎の名残り。中学校のトイレの部分だけを残して、校舎は解体されたのだった。それとこの地に建つ『脇ヶ畑小学校跡』の石碑は間違いで、ここは中学校跡だ。小学校跡はその上の高台になるのだが、もう改められる気配はないようだ。










 「保月」の村を貫く坂道を下りながら集落風景の写真を撮る。ファインダー越しの風景を見ていると、やはり「ずいぶん変わったなぁ・・」など感じる。トタン屋根を被せた茅葺き家屋は今も数軒が健在であるが、茅葺きのままの家屋はほとんどが姿を消してしまった。道沿いの家屋の跡地は整地され、今はやけにすっきりとした感じがする。そういえば道横の川とガードレールの整備も最近になって施されたものだ。
 これまでに何度も「保月」を訪れているが、その時の写真と今の風景を比較してみた。

 まず、次の2枚の写真をご覧いただきたい。今から21年前の1993年の写真だ。この時は、右側に見える崩れかけた茅葺き家屋と奥のきれいな茅葺き家屋が健在で、初めてこの風景を見た時には、「ふるさと」というイメージを強く感じたものだった。しかし下の現在の写真を見ると、そのどちらもがもう姿を消してしまっている。









 奥にあった美しい茅葺き家屋も2003年頃には、まだその美しい姿を見せてくれていたが、年月とともに屋根部より傷み始め、ついには崩れ落ちてしまう。上から2003年、2010年、2014年となる













 離村の頃には、まだまだ多くの茅葺き家屋が健在だったことを思うと、それらの大半は、何度も冬を越す中で同様に崩れていってしまったのだろう。その美しい風景が消えてしまったのが、本当に残念でならない。下の写真は、一昨年に「保月」において関ヶ原踏破隊を見に行った時に、現地でお出会いした井原耕造氏に見せていただいた写真だ。これだけ多くの茅葺き家屋が「保月」集落をつくっていたのである。それにしても、ため息の出るような美しい山村風景だ。





井原耕造氏:撮影


 下の2枚は1993年と現在を比較したもの。今の風景の方が賑やかに思えるのは、プレハブが建てられていたり、新たに木が植えられたりして人の手が入っていることを感じさせてくれるからだろう。









 次の2枚は、2001年と今との比較だ。トタン葺きの家屋は健在で、屋根も塗装され直しているものもある。また空き地に、何か植樹だろうか新たにされているのがわかる。









 これは集落の東端(五僧側)あたりの2008年と現在の比較だ。やはり植樹だろうか、新たに人の手が入っているのがわかる。ネットは鹿などの獣害から守るためのものだろう。夏場の雑草や獣害などに負けることなく、なんとか育っていってほしいものだ。









 山村の集落や集落跡を訪れた時、廃墟となってしまい、荒れるにまかされた無人の故郷を見ることは少なくない。しかし「保月」は、冬場の積雪時こそ無住集落となるが、それ以外は今も人々は健在で、村は動いている。この先、年月の流れとともに村に戻ってくる人の世代も変わっていくのだろうが、この美しい村はそれとともに動き続けていく、今の風景を見ているとそんな風にも感じるのである。





 車から降りて写真を撮っていると、「ご~~~ん」という音がしてきた。それは何度か繰り返された。下のお寺で鳴らされている鐘の音だ。そういえばここで鐘の音を聴くことはほとんどなかったように思う。ちょうど村の人が帰って来られて、鳴らしているのだろう。早速行ってみることにした。
 お寺の前には、先ほど地蔵峠で見た車が停まっている。やはり「保月」の方だったようだ。そして道の脇には、2人の男性の姿。1人は70代~80代で、もう1人は50代~60代くらいの方だろうか。年代でいうと、村が元気な頃には働き盛りだった世代と、わんぱくな少年だったという感じの世代だ。挨拶をすると「さっき地蔵峠で写真撮ってなかったか?」「ええ、山の集落が好きで・・」ということで、そのお二方に少しお話をうかがうことができた。





 こういった実際に生活をされていた方のお話は、私にとっては何よりも貴重なもので、うかがっていても本当に興味が尽きない。この日も、資料などでは決して得ることはできない貴重なお話をうかがうことができた。もちろん何10年も昔のことを思い出しながらのことなので、いかにそこで生まれ育った人でも忘れてしまっていたり、記憶違いがあったりもするだろう。したがって史料とは成り得ないものかもしれないが、当時の生活の様子がわかる、まさに‘大切な故郷の記憶’なのである。





 まず小学校のことをうかがってみた。これまでに中学校の校舎は、廃校後ではあるが実際に建物を見ることができたし、写真などでもいくつかの年代のものを目にすることもできた。しかし小学校は、現物はおろか写真さえも見たことがない。今は基礎のコンクリート部分とトイレ跡が残るくらいで、そこから形などを想像するしかない。うかがってみると、建物は平屋で、中学校より早く潰れてしまっていたという。
 お2人のうちの年配の方の方の息子さんが、小学校の中学年の頃に休校となったというから、この方のご家族は学校が無くなるのを機に山を下りられたのだろう。最後の頃の生徒数は「20人くらいやったかなぁ・・。」のことばからもわかるように、在校生がいなくなるから休校になったというのではなかった。ただ、それより前に「学校が無くなるかもしれん。」という噂が流れていたようで、そのことを不安に感じて離村を決断した家庭も少なくなかったという。もちろん、炭焼きや山仕事では食べていけなくなってしまったというのも、村を離れる大きな要因ではあったのだが・・。









 帰宅後に多賀町史で調べてみると、昭和40年度の脇ヶ畑小学校の児童数が25人。以後、21人、17人と減り、最後の年は9人にまで減少している。17人から9人に激減したのは、新入生が入って来なくなっていたのと、低・中学年の児童の半数が転出してしまったことにある。やはり休校になる数年前からの噂が、より離村を急がせるきっかけとなり、小さな子どもを持つ家庭が次々と山を下りていったのだろう。どの地域でも、教育環境や進学問題は離村の大きな要因。そういう意味では、今の時代においても、学校の無い地域、学校が大変遠い地域に子どもを持つ家族が新たに入っていくというのは、きわめて稀なことなのだろう。





 脇ヶ畑小学校には、「保月」の他に「杉」「五僧」からも子どもたちが通っていた。雪の季節の「杉」「五僧」の子どもたちの登校は大変だったようで、必ず親が先に歩いて雪を固めながらの登校だった。でも「保月」の子どもたちは、「わしらはすぐ前やから、楽やった。」そうである。「杉」もそうだが、特に「五僧」は道路事情が悪く、雪の日の登下校は特に大変だったことだろう。

 その雪だが、昔はもっと寒くて積雪も多く「2mは積もった」そうだ。ひどい時は積雪のため電柱が埋まり、電線が膝のところあたりになったというから、豪雪地帯の「中河内」ほどの積雪量だ。その頃は30軒程の家があり人も多く、村の中央の太い道は雪が踏まれて通れたものの、少し入った所では屋根からの雪などで、道はもう道として機能していない状況だったという。そんなだから、「来栖」までの道は当然、車やバイクなど通れるはずもなく、学校の先生は週1回、歩いて帰宅されていた。冬場は、風呂に入った後に外に出ると、寒すぎて髪がすぐに凍ってしまったというから、やはり今とはかなり違った冬の厳しさがあったことがわかる。





 雪の話をうかがっていた時に、先述の寒坂での悲しい出来事のことも出てきた。今のように携帯電話ですぐに連絡が取れる時代ではない。その時も婦人とは連絡が取れなかったが、雪のためこの日は帰宅を中止して「来栖」にとどまっていたのだろうと村の人は思っていたようだ。それでもなかなか帰宅しない婦人を心配して「来栖」の人に聞いてみたところ、「もう出た」という返事。そこで急いで捜索隊を作って雪の中を捜しにいったという。
 お話をうかがった年配の方の方も、この時の捜索隊に加わっていたそうで、道を少しはずれると首まで雪に埋まってしまう状況なので、道の境に棒を突き刺すなどして道を探りながらの捜索だった。大雪により困難をきわめる捜索の中、ようやく雪に埋もれたご夫人を見つけたものの、その時は既に手遅れだったという。お話をうかがった年齢の若い方の方は、まだ幼い年頃であったが、やはりその時のことは今も鮮明に記憶に残っているそうだ。「今のようにすぐに電話連絡できるんやったら、あんなことにはならなかったのになぁ・・。」ということばの中に、当時の悲しみを感じるのだった。





 「(数は減ってしまったが)イワナは今でもおるよ」という意外なことばも聞かれた。川の水量が減っても、砂に潜るようにしてイワナは生息しているらしく「10年くらい前でも、年間200尾はあげたなぁ。」という。もちろん地元の谷を知り尽くしてるからこそできることなのであろうが、今でもイワナの魚影を見ることができるのは驚きだった。そういえば、この春に芹谷から彦根方面に抜ける途中の、ほんの小さな川にもイワナらしい魚影を見た。イワナもアマゴも昔はずいぶんといたそうだが、山が変わり、川が変わり、人が入り、そしてどんどん減ってしまったのだろう。





 お寺の道向こうにある招魂碑についてもうかがってみた。「保月」の戦没者は他に比べて多かったというのは、以前にも聞いた話だが、やはり村の誰もが思っていたようだ。「なんでやろ・・みんな真面目で正直やったからかなぁ。そんなんもあったんかなぁ・・。」当時は、兵役検査の前に醤油などを飲んだりして兵役を逃れるなんてこともあったときく。招魂碑を見ると、支那事変~第二次大戦で18名の戦没者の名が刻まれている。この数字は脇ヶ畑、芹谷の各集落の中では最も多い数字だ。もちろん字の規模の違いもあるので比較はできないだろうが、それでも小さな村にとってこれだけの数の若者が異国の地で命を失ったのは、家族はもちろん村にとっても大きな悲しみと打撃だったことは間違いない。以前「保月」に訪れた時に出会った、この招魂碑の手入れをされていた方も、やはり「ここは(戦没者が)多かったんや」と言っておられた。その方は、親兄弟ではないが、いつも一緒に遊んでくれていた優しいお兄さん的な存在の方が戦地で亡くなられ、それ以来ずっと招魂碑周りの手入れに来られているということだった。
 出征の際には村人総出で峠まで見送りに行ったというが、それが最後の別れとなってしまったというのも少なくなかったのだろう。生まれた頃から互いによく知り合う関係、そういうお兄さんのような、我が子のような彼らを涙で見送り、そしてさらなる涙で迎えなければならなかったことの心痛は計り知れない。その大切な人を失った悲しみの記憶は、いつまでも人々の心から消えることはないのである。





 「茅葺きの家は次々潰れていったなぁ・・。」「あった頃の村の風景は見事なもんやった。ちゃんと保存してたら、あの合掌集落みたいに(美しく)なっとったんとちがうかな。」ということばのように、昔の写真を見ても本当にそう感じる。しかし、こういった茅葺き集落の生き残る道は実に難しく、後に世界遺産になった岐阜・富山の合掌集落や、京都の美山、滋賀県でいえば在原集落(昨年の火事で数軒焼失)などの今も残る茅葺き集落は、極めて稀な存在といえよう。まして山深く、積雪も多く、行くことさえ困難な場所では、人が離れるとともに家屋は荒れ果て倒壊し、人知れず消えていく。個人の力ではどうにもならない現実がそこにはある。





 「今でも宮さんや寺の行事では、村の人が集まるんや。この4月の時は中日新聞の取材もあった。」ということで、私自身も同新聞を取っているので、この記事を見たことを覚えている。その時の記事(中日新聞2014.4.16びわこ版)を改めて見てみると、宮さん(八幡神社)の春祭りで「保月」の元の住民の方が30名程集まって旧交を温めたことや、春と秋の例祭以外に、8月には全国に散らばった元住民が参加する「故郷を愛する会」も催されていることなどが書かれている。また多賀町では、「保月」のような活動が続く集落が5、6カ所あることも書かれていた。人が住まなくなったといっても、そこには人々の思いが健在で、村は動いているのである。
 多賀町の芹川周辺の谷や鈴鹿の山腹にはいくつかの廃村が点在しているが、そのどれもが、そこに住んでいた人たちにとっては大切な故郷の地であり、心のよりどころの地だ。そのことが、この記事からも読み取れるし、今回の「杉」~「保月」の訪問でも強く感じられた。訪れる外部の者は、その思いを感じ取り、そして接することが最低のマナーであり、礼儀でもあると、改めて感じる次第だ。





 いただいた缶コーヒーを飲みながらの半時間くらいの短い時間であったが、お2人からは実際にそこで生活した人にしか語り得ない貴重なお話をうかがうことができたように思う。そして新たな動きが随所に見られる「保月」の風景からは、何か以前より活気が感じられるような、そんな印象も受けた。世代から世代へ、うまく引き継がれているのかもしれない。5年後、10年後、「保月」がどのような山里の風景を見せてくれているのか、少し楽しみな気がする。





 この春の「杉」「保月」訪問では、思わぬ動物たちとも出会うことができたので、最後にそれを紹介したい。といってもすぐに逃げられてしまい、うまく撮影ができなかったのだが、どちらも普段はなかなかお目にかかれない相手。
 上の写真はアナグマだ。これまでアナグマは1度しか見たこと無かったが、この春はなぜか出会う機会が多く、「杉」「保月」「男鬼」などで5回程見ることができた。ただ、いつも先に気づかれてしまい、きちんと撮影できなかったのは誠に残念で仕方がない。
 そしてもう一匹はリスだ。これまでにも何度か出合ってはいるが、動きが早いため撮影はできていなかった。それが、今回は幸いにも、逃げるところをなんとか撮影することができた。

 とても長くなってしまった今回の「たまに一言」。この2枚の、構図も定まらないようなぶれぶれ写真だが、締めの写真としたい。










http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

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【2014/06/06 19:49】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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