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#240 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿)
~ 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿) ~






 昨年見た美しい‘しだれ桜’、今年もそれが見たくて、芹谷のかつての高原集落「桃原(もばら/滋賀県犬上郡多賀町)」を訪れた。鈴鹿山脈の中腹に位置する「桃原」は、過疎化が大変進み廃屋や倒壊した家屋などがあちこちに見られるものの、今も村は健在。住んでいる人たちはもちろん、今はここを離れてしまったかつての住人たちもけっこう頻繁に帰ってきておられ、手入れされた庭や新しく作られた畑など、村を大切にされる人々の気持ちが大いに伝わってくる。そのため、訪れた時に地元の方と出会うことも珍しいことではない。









 『かつての高原集落』ということばを使ったのだが、実際に「桃原」が高原集落という感じだったのかどうかはわからない。芹川が流れる谷底と桃原集落との標高差は140m。そこを埋める斜面一面に広がる畑とその間を縫うように走る小道、中腹に見える数10軒の民家や庭の木々、それらが作る開けた風景はきっと『高原集落』というイメージにピッタリだったはず、という思い込みから勝手に使っていることばにすぎない。
 斜面に広がっていた畑が全て杉林に変わってしまった今でも、谷向かいの斜面の林道からは、季節によっては少しだけ「桃原」が見える。ただ、山肌全体が杉林の濃い緑に覆われてしまっているので高原のイメージは全く感じない。せめてその頃の、桃原地区全景を写した写真があるといいのになど思うのだが、それも叶わず、当時の風景を思い浮かべるしかないのが現状だ。それでも集落を歩くと、所々に高原の雰囲気は残っており、木々が濃い緑になる前の春先や葉の落ちる秋には、かつての雰囲気を感じることもできる。









 静かで季節感がたっぷりのこの村が好きで、いつからか年に何度かは必ず訪れるようになった。まずは福寿草に始まり、続いて梅、桜などの花が春を彩る。梅雨の頃になると道沿いにたくさんの紫陽花が咲き、秋には周囲に見える杉林に負けまいと赤や黄色の木々の紅葉が色鮮やかに輝く。冬場の積雪時に見られる銀世界の桃原の風景も、また見事である。
 ただ、木々の花が美しく咲いていた道沿いの家屋が取り壊されて更地になったり、道に咲く紫陽花の花の多くが鹿に食べられてしまったりなどで、村の風景は確実に変わっている。それでも静かに春を感じさせてくれるのは、やはりそこを大切にしている人たちの存在があり、集落に動きがあるからに他ならない。時の流れとともに変わってゆく「桃原」ではあっても、季節季節に見せてくれる風景は今も大変美しい。

















 今回見にきた‘しだれ桜’だが、以前から「しだれ桜がきれいよ。」と地元のオバチャンに教えてもらってはいたものの、なかなかタイミングが合わず、咲き誇るその姿を初めて見たのは昨年のこと。その時はまた最高のタイミングで、見事な‘しだれ桜’を見ることができた。そして「来年も必ず見たい!」という思いを実現させたくて今年の訪問となったのだが、その時期に続いた雨で少々不安を持っての桃原行きとなった。



昨年(2014年)のしだれ桜


 集落に着き、しだれ桜のある方へと向かう。この日は何だか賑やかに人の声が聴こえる。見ると畑を新たに作っておられるご夫婦と地元のオバチャンが大きな声でお話をされている。畑の横には、これも色鮮やかな赤い桜。挨拶がてらに「こんにちは、この赤い桜、撮らせてもらっていいですか?」と声をかける。すると、ご夫婦の「ええ、どうぞどうぞ、いいですよ。でもこれは桜じゃなくてハナモモよ。」というお返事。「あ、そうだったんですか。ずっと桜だと思ってました。」ということで、桜ならぬハナモモを撮影する。









 それにしても本当に鮮やかな赤い色だ。「確か去年もこのハナモモを撮ったなぁ」「もう少し朝早く来ていたら、もっと優しい光りだったのに」など思いながらシャッターを押す。そしてハナモモの撮影を終え、この日の目的のしだれ桜の方に目をやると、なんだか花が少ない。「雨で散ってしまった?それとも時期が遅かったのかな・・」など思って、そのことをうかがいにいく。





 ご夫婦と元気にお話をされているオバチャンをよく見ると、これまでにも何度かお話をうかがったことのあるオバチャン。髪の毛がまっ白に変わっておられたので以前とは少し違った印象だった。そのオバチャンに
 「あの、すいませんが◯◯さんですか?以前お話を何度かうかがったことがあるんですよ」と声をかける。
 少しお耳も遠いので、横のご夫婦の奥さんが伝えてくれる。
 「あー、そやけど、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 「◯◯といいます。霊仙分校のことでいろいろ教えてもらった者です。」
 「・・あかんわ、思い出せへんわー、かんにんな」と、茶目っ気いっぱいに笑う。
 「今日はしだれ桜を見せてもらいにきたんですけど・・」
 「ああ、そうか・・そやけど今年は花が少ないんよ。去年はほんまにきれいに咲いて多かったんやけど、なんでやろなぁ・・」
 そう話すオバチャンは、花の少なさが心配そう。





 実はこの日の訪問は、このオバチャンにお会いできたら・・と思っての訪問でもあった。地元でお生まれになり、地元で育ち、ずっと地元の学校(芹谷分校、霊仙分校)で教鞭をとられ、仕事を終えられたあともここで暮らし続ける、まさに芹谷一筋、桃原一筋で生きてこられた方、その方に見ていただきたい古い写真があったのだ。
 「実は今日見ていただきたい写真があるんやけど、持ってきていいですか?」と切り出すと、「え?そうなん?そしたら家の方で見せてもらおかな。ここでずっとおしゃべりばっかりして(ご夫婦の畑仕事の)邪魔ばっかりしてたんやわー。」と元気に笑う。ご夫婦は「いろいろ教えてもらって、邪魔なんてとんでもないですよー」と恐縮。ということで車に写真をとりに戻り、オバチャンのお宅へ。





 まずは写真を見ていただく。持ってきた写真は、古い芹谷小学校時代の校舎と、その前で写る先生や子どもたちの写真。「これはわからんなぁ・・、◯◯先生やろか・・、いや、違うなぁ・・」ということで、この写真はオバチャンとは違う世代の写真のようだった。
 ところが別の写真を見ていただくと、「これは◯◯先生。これは◯◯さん。こちらは霊仙の◯◯さん」「あ、私も写ってる、恥ずかしいわー。」というように次から次にことばが出てくる。そして「(霊仙分校に勤務している頃は)帰りになると道に猿がズラーッと並んでてね、それ見ていったん学校に戻ってね、怖かったよ。30分くらいするとサーッといなくなって、それから帰るんやけどね。猿はたくさんいたよ」「うん、霊仙分校の写真は少ないね。何か行事の時は芹谷分校の方へ行ってたから、あっちではあんまり撮影しなかったからと違うかな。」「芹谷分校の閉校式には私も参加しててね・・。」など、当時の様々な様子をきかせてくれた。うかがう前は「ボケてしもうて、なんもわからへんよ。」とおっしゃっていたのだが、全くそんなことなく、いろいろなお話が出てくる。また、小学校の頃のオバチャンの教え子が、今は地元の学校の偉いさんになって活躍されており、その方が先日、私が霊仙の集落や分校についてお話をうかがおうとお願いした方だったりで、年代を越えた地域のつながりなども、おもしろく感じた。幼い頃の恩師、その偉いさんの先生もきっとこのオバチャンには頭が上がらないことだろう。



霊仙分校跡




霊仙分校跡




芹谷分校(2002年)


 ここ「桃原」に昔あったスキー場、以前もうかがったことがあったが、そのことについてもう少し詳しく聞いてみた。
 ゴボウやサトイモなどの畑をしていた山の斜面一面が、冬場にはスキー場となる。昭和9年に小学校に入学したオバチャンが小学校3~4年の頃に、その多賀スキー場ができたそうなので、おそらく昭和10年代初めの開業のようだ。スキー場に来るのに彦根から歩いてきたという時代もあったが、バスも運行されていた。遠くからやって来たスキー客は、今は大きなブロックが積んである芹川沿いの「桃原口」でバスを降りる。昭和39年頃に現在ある集落までの林道ができたというから、それまでは桃原口からひたすら斜面を歩いて登っていく感じだったのだろう。当時はもちろんリフトなどはなく、スキーをかついで雪の中を徒歩で登る。それでも「ここはすごくいい斜面でね、お客さんが多かったんよー」という。









 スキー場の経営は近江鉄道グループだったが、全部で4つあったヒュッテのうち1つだけが近江鉄道の経営で、残りは地元の方がされていたという。最盛期には、大阪など遠方からのお客さんも多数あったらしく、泊まりがけで来る人たちも少なくなかった。そのためこの集落では多くのお宅が民宿を経営されており、オバチャンのお宅でも冬場は民宿をされていたという。もちろん地元の利用者も多く、地元で生まれ育った方で60歳代以上の多くの人たちは、このスキー場での学校スキーがとても楽しい思い出となっている。そういった世代の方々にお話をうかがうと、作った竹スキーやそりで楽しんだ当時の思い出話などがよく出てくるが、これもスキー場が長きにわたり地元に根ざしていたということなのだろう。
 しかしそんな多賀スキー場も、新たに伊吹山に大きなスキー場ができたり、雪が少なくなってしまったことなどで、昭和30年代後半から40年代あたりに閉鎖となってしまう。今はこのあたりの観光といえば『河内の風穴』くらいだが、当時はスキー場や芹川での渓流釣りなどでかなり賑わっていたということが、少し年代を遡ると見えてくるのである。






 今スキー場の存在を伝えるものは、残念ながら現地にはほとんど残っていない。ゴボウやサトイモ畑のスキー場も、全てに杉が植林されてしまって鬱蒼とした林となり、スキー場があったことすら想像することは難しくなってしまった。写真などもほとんど残っておらず、経験した人たちの記憶と、訪れた人たちが写したわずかな写真のみにその存在が伝えられているのだろう。何か寂しく感じたりするが、閉鎖後半世紀も過ぎたことを思うと仕方の無いことなのかもしれない。





 この「桃原」で一番盛んだったのは、ゴボウ作りだ。桃原では、他の山の集落のような炭焼きは行われず、ゴボウやサトイモの生産、そして割木生産などで生計を立てていたところが多かったという。中でもゴボウは有名で「お多賀ゴボウ」として京都まで出荷されていた。見かけは細く、ヒョロ長くてかっこよくはなかったらしいが、太く短いものは見かけはよくても鬆(す)ができやすい。一方で、細く長く成長する桃原のゴボウは鬆が無い。加えて味は良く、日が経ったものでも水に戻すと元に戻り美味しくいただけるというので、京都では高級食材として珍重されていた。ところが彦根などでは太いものが好まれていたそうで、ここでの生産されたものは京都への出荷が主だった。
 桃原のゴボウは独特の赤土で育つ。それと同じような土壌の谷向かいにある「屏風」集落でもゴボウの生産が行われていたという。また川沿いの集落「河内」などでも生産されていたが、これは太く短いゴボウだったので彦根方面への出荷が主だったようだ。





 その桃原のゴボウ作りも、人々が山を離れるとともに廃れていき、遂には幻の食材となってしまう。ところが、最近になって、この桃原のゴボウを復活させようと地元の方や関係者が中心となってゴボウ作りが始められ、昨年も収穫されたそうだ。このオバチャンも長年ゴボウ作りをされていたので「何かコツみたいなものはあるんですか?」とうかがってみたが「ゴンボ作りのコツ?そんなんあらへんよ」と一言。でもいろいろうかがっていくと、ゴボウは連作は良くなくサトイモと隔年で作っていたことや、種まきの時期によって出来具合が大きく影響すること、そして油かすなどの堆肥を使うとダメで化成肥料を使っていたこと、などいろいろ出てきた。おそらくこれらどれもが、オバチャンの長年の身に染み込んだ経験で、ごく普通にされてきたことばかりなのだろう。だからご本人にしたら「コツなんて無いよ」ということになってしまうのだが、それは貴重な経験の裏づけがあったからこそといえそうだ。





 10~11月に収穫された桃原ゴボウは、背駄で背負って谷まで下ろし、そこに積んでおく。そして京都へ出荷される。今なら車で林道を使ってすぐに行けてしまうが、その当時は多くの人たちがゴボウを背負って畑の道を通り、何度も谷を登り降りして運んだ。ゴボウの収穫は冬を迎える前の最後の大仕事、この時の風景は、きっと桃原の秋の風物詩といえるものだったのだろう。









 最近の「桃原」は猿が多い。「桃原」だけではなく、芹谷では当たり前のように猿を見かける。車で走っていて、目の前に猿が落ちてきたこともあった。電線を渡っていて落ちてきたようだが、何とも驚いた。桃原地区でいうなら、人間の何十倍も猿が多く、どちらが主役なのかわからないくらいだ。そしてその猿も、これまでとは違う行動が見られるようになってきたという。
 例えばオバチャンの家の桜の花を、昨年は猿が食べてしまったという。そんなことはこれまでには無かったこと。その桜の木には、今年は全く花が咲かなかったというが、何か関係があるのだろうか。また庭の池に毎年産みつけるモリアオガエルの卵も、昨年は猿が食べてしまった。これも初めてのことだったそうだ。
 「猿も食べ物が減ってるんでしょうかね」
 「そやろか・・、うん、そうかもしれんなー」

 鹿や猿が山の植物や、人の庭の花、畑の作物を全て食べ尽くすのはこれまでにもうかがったが、食糧難の猿はそれだけでは足りず、これまで食べなかったものにまで口にするようになっているのかもしれない。杉林ばかりになってしまった周辺の山々、そこに住む動物たちの食糧事情がなかなか厳しいものがあることは想像がつくが、それによってさらには山全体のバランスまでも崩れてきてる、そんな気がする。









 ある日、オバチャンの家の屋根の上で猿が群れで大騒ぎをしていた。今まで群れで猿がやって来ることがあっても庭に来るのはせいぜい数匹で、屋根の上に登ったり、そこで大暴れすることは決してなかった。何事とかと思って庭に出ると、庭の鹿よけのネットに子猿がからみついて動けなくなっている。それを心配して大騒ぎしていたようだ。いろいろやってみたものの子猿を網から脱出させてやることができない。仕方無いので地元の方に応援を頼んで、網を切り取ってようやく子猿を助けることができた。するとそれを機に大騒ぎしていた猿たちは急に静かになり、そのまま子猿とともに山に帰っていったそうだ。
群にとって大事な子猿、猿たち皆で心配していたのだろう。
 「いつかきっと、その子猿が恩返しに来ますよ。」
 「そうか? そうやといいな」
 「猿の恩返しですね」
 「ハハハー」


 など話していると、庭に三毛猫が走っていくのが見えた。
 「あれも2~3日前から来てるん。誰か捨てていったんやろか・・。前はおらんかったのにな。」
 「◯◯さんの周りにはいろいろなものが集まってきますね」
 「そうやろか、ハハハー」





 この日、満開の‘しだれ桜’は見ることができなかったが、オバチャンと出会えたことで、いろいろな貴重なお話がうかがうことができた。そして何よりも素晴らしい春のひと時をすごさせてもらった。いろいろと被害を受けることの多い猿に対しても、どこか愛情を持って接しておられ、決して憎々しげに語るなどということは無かった。受け入れるところは受け入れる、そんな姿勢が感じられるのである。自然と接する時に、人間は自然を支配する、コントロールするという立場をとりがちだが、受け入れるところは受け入れる、そういうことも大事だと感じてならない。





 オバチャンとは何年かに1回お出会いできるかできないかなので、次にお出会いできた時もたぶん
 「あー、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 という会話から始まりそうだが、それはそれで楽しいもの。難しいことは無くてもいいので、これからも末永く「桃原」のことをいろいろ語り続けてほしい、そう願うのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2015/04/30 21:01】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#239 福井・木造校舎の残る村にて
~ 福井・木造校舎の残る村にて ~






 「今年の雪はサンパチ(昭和38年の大豪雪)以来やったよ。あの時はほら、あそこの学校の電線が膝ぐらいの高さまできて、そら大変やった。」「雪も、ほらまだ残ってるやろ。」とお話をしてくれたのは、福井県の山間部、とある木造校舎の残る小さな集落で畑仕事をされていたオバチャン。80才を越えられても、こうして畑仕事を毎年されているという。「今は趣味みたいなもんやから」ということだが、このスペースを全て手作業でするのはかなり大変なことのように思える。ご高齢とあれば尚更のことだ。とはいえ、すぐに腰痛を起こしてしまう軟弱な自分を基準にするからそう感じてしまうのであって、何十年とこういう生活をされてきた方にとっては、これらの身体を使う作業は、毎日続けてきた日常普通のこととして体にしみついていることなのかもしれない。









 今、70才代後半から80才代、90才代の年齢の人たちが生きてきた時代は、まさに激動の時代。軍国主義、戦争、敗戦、どん底の貧困、それを乗り越えての戦後復興、高度経済成長、そしてバブル・・等々、まるで映画の中の物語のような時代をその身で体験されている。さらに、山で生活されていた人たちは、日本の多くの人々の生活が豊かになっていった高度経済成長の時代に逆に生業を失い、過疎が進み、苦労を強いられている。そんな中でも山で暮らし続けることで積み上がってきた経験の重さ、それらは我々の世代とは決して比較し得るものではないなど感じる。今に至る時代背景を知れば知るほど、山で暮らし続けた人々の経験の重さへの畏敬の念が、自分の中ではより強くなっていく。









 それにしても80才を越えた年齢で、こうして元気に畑仕事をされているのは本当にたいしたこと。その体力や気力、根気はもちろん、私のような人間にとっては、普通に作物を実らせる技術も憧れなのである。これまでに何度か、庭に小さな菜園スペースを作って野菜作りなどに挑戦してみたことがあったが、夏場の猛暑や雑草の猛威、様々な虫の襲来などに負けてしまって、まともな収穫ができたことがない。やはり人間には向き不向きというものがあるな、などいつも逃げ道を作っているが、できないながらも未だ憧れは強く、懲りずにぜひやってみたいなど今も思ったりする。





 実は今回この山の集落を訪れたのは、そこに残る木造校舎と桜の風景が見たかったからだ。ずいぶん前に、ここに木造校舎があることをサイトをご覧になった方から教えていただいて以来、この風景が好きで度々訪れている。そしてその度に、小さな木造校舎と小さな校庭に咲く桜の風景をいつか見たいと感じていながら、未だそれは実現できていない。そういえばここの木造校舎と桜のことは、ずっと以前のこのコーナーでも書いている。8年前の『#98 廃校の桜』だ。そこにもあるのだが、その時の「桜の季節に来たらいいのに。」という工事のオッチャンのことばがずっと自分の中に残っており、それにより「ここで桜を見たい!」という思いがより強くなったような気がする。





 そして今回の訪問は、下界では桜が散る頃。時期的に少し遅れて桜の開花が見られる山では、ちょうど桜が咲き始めていてもおかしくない時期で、今日こそ桜と木造校舎の風景に出合えるのではないかと思っての訪問だった。ところが現地に着いてみると桜は全く咲いておらず、まだまだ固い蕾が見られるだけ。残念に思いながら、その時に校舎横で畑仕事をされているオバチャンに桜の開花のことをうかがった時のことばが、冒頭のサンパチ豪雪のことばだった。






 「今年はちょっと前まで雪がいっぱい残ってたからねえ。桜が咲くのはもう少しかかるよ。」
 「4月末くらいですか?」
 「いやー、そんなに遅くないよ」
ということで、開花にはあと10日前後かかるようだ。決して立派な桜の木ではないが、満開になるときっと小さなその木造校舎を桜の花が覆ってしまうような光景が見られるはずだ。お話を聞きながらその風景をイメージすると「もう一度来たいなぁ・・」という気持ちが強くわいてくる。









 このオバチャンのお子さんはもちろんずっと以前に山を降りて独立され、今はお一人で、この山の小さな集落で生活をされている。「昔はにぎやかやったよ。ほら、その前の道の向こうにも全部家が建っててね。」と言われるように、道の向こうには今は畑や田んぼであろうスペースが大きく広がっている。それでもこの静かな山の風景の中では、その頃のにぎやかな集落の様子がなかなか想像ができない。
 「今は年寄りが少し住んでいるだけよ。わたし80才やけど一番若いのよー」と元気に笑うその姿が、何かとても爽やかな感じだ。









 そういえば4年前の秋、この畑の上の道で木造校舎の写真を撮っていると、その上にあるお宅から人が出てこられて「いい写真撮れますか?この庭からも木造校舎がよく見えますよ。」と声をかけていただき、庭から柿の木と木造校舎の写真を撮らせてもらったことがある。その時の男性はかなり若かったように思ったので、そのことをオバチャンに訪ねてみると、「あの人は下に住んでてね、帰ってきてるん」ということで、ずっとここにお住まいではないようだった。でも「よく帰ってこられてるよ」ということで、今も家屋はきれいに保たれている。この日はおられないようなので、道から校舎の写真を撮ることにする。下の写真は、4年前の時にその方の庭から撮らせていただいた柿の木と木造校舎の風景だ。









 今ここにお住まいになられるのは、高齢者の方が数人だけ。80才のオバチャンが一番年下だというから、平均年齢の高さが大変なものだということがわかる。この冬の豪雪でも「何回も雪下ろしをしなあかんかった」というが、高齢者だけの雪下ろしはさぞ大変だったことだろう。
 それでも角川地名大辞典を見てみると、この村の人口は平成になる直前でも25世帯71人という記録がある。さらに遡ると、昭和30年40世帯224人、昭和10年50世帯231人、そして大正9年には57世帯384人というすごい数字が見られる。とても大きな村だったのだ。もちろん大正の頃にはオバチャンはまだおられないが、昭和のその大きな数字を見ることで、なかなかイメージできなかった「その前の道の向こうにも全部家が建っててね。」という先のことばの風景が、現実のものとして感じられる。





 ちなみに今はこの村が、山を越えるまでの最奥の集落となっているが、以前はさらに奥にも集落があった。その村は、オバチャンの話にも出てきた「サンパチ豪雪」を機に離村が進み、昭和57年までに全戸が村を離れたという。
 10年ほど前に小雨の降る中そこを訪れた時は、何とも薄暗い山林の中にポツンと蔵が建っていた。その寂しい風景がとても印象的で、今も心に残る。山間部の廃村の多くは、離村後に家屋跡や田畑の跡には杉や桧が植林される。それらが高く伸びると辺りは薄暗い景色へと変わり、人が住んでいた頃の開けた明るい村の面影は大きく変わってしまう。この既に消えてしまった村も、人が住んでいた頃はもっと開けた空の見える風景だったのだろうなど思いながら、時の流れを感じたものだった。









 それにしても、このように山でお住まいの方やお住まいだった方にお話をうかがうと、「サンパチ豪雪」や「伊勢湾台風」そして「56豪雪」のことばが実によく出てくる。それは、それらの大きな自然の猛威が、こういった深い山間部で暮らす人々に多大なるダメージを与え、生活を変える転機となっていたからなのだろう。壊滅的な被害を受けた後についに見切りをつけ、先祖代々の故郷の地を離れる例は少なくないのである。






 帰り際に「今は何を植えているんですか?」とうかがうと、「ジャガイモよ。作ってもいっぱい余らしてしまうんやけどね。若い人はこんなん食べへんし。」とのことだが、自然に囲まれ、澄んだ空気と山の水や土で育つジャガイモは、とても美味しそうに感じる。7~8月頃が収穫というから、今は土しか見えないこの畑もこれからは緑でにぎやかになっていくのだろう。
 今はまだ雪が残り、冬枯れの色が多いこの里山の風景だが、もう少しすると春の花や新緑の色で彩られる。でもそれも、こうしてここに暮らす人たちがあってこそ見ることのできるもの。何百年と続いてきたこの日本の美しい風景を絶やすことは、日本を壊してしまうこと。それを思うと、これまでに消えていった多くの集落が作っていた山里の風景、その大切さをより強く感じるのである。







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【2015/04/20 18:55】 | 福井県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
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