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#244 動く村 「越波(おっぱ)」
~ 動く村 「越波(おっぱ)」 ~






 これまでにも何度かこのコーナーでご紹介している岐阜県の山村「越波(おっぱ)」。本巣市の最北部(旧根尾村)にあるこの山峡集落は、いつ訪れてもたいそう美しい季節の風景を見せてくれる山里らしい山里だ。福井県境に近いこの周辺には「越波」の他に「黒津」「大河原」という集落があるが、いずれも冬場は雪に埋もれ、年間を通して居住している人はもういない。冬季に無住となってからもうずいぶんと年数が経つが、それでも「越波」では、雪解けを待つようにして今も人々が帰ってきて、畑仕事、家屋や周辺の手入れなどに精を出す。数多く残る老家屋や耕された畑、神社や古刹、木造校舎などの風景は、多くの人が住んで大いににぎわっていた頃の面影を今も残す。













 その「越波」に昨年の秋と、雪解けの林道開通を待ったこの春に二度ばかり訪れた。それはある一通のメールがきっかけだった。そのメール、差出人は松葉三郎さんという「越波」のご出身の方で、その時に公開していた当サイト ‘たまに一言’『#238 越波(おっぱ)集落と、リキさんのこと』をご覧になって連絡をいただいたのだった。そして松葉三郎さんは、その『越波のリキさん』に登場する、現地でお話をうかがったご夫婦のご主人の弟さんでもあった。連絡をいただいた時の「私の兄だと思います。」というその文面に、何ともいえない嬉しさを感じたものだった。





 これまでに、いろいろな山の集落を訪問した様子などをサイトでご紹介しているが、やはり実際にそこにお住まいだった方やその関係の方から連絡をいただくのは、また格別なものを感じる。もしかすると「勝手に人の村をネットで晒すな」といった苦情も来るかもしれないな、など思いながら村を実名のまま公開する時もあり、それだけにこうした集落の方からの連絡には心安らぐものがある。この時も、「越波」を取り上げたことを喜んでいただけていたようで、本当に嬉しい限りだった。そして、こちらの「いろいろお話をうかがわせてください。」という早速のお願いにも快諾いただき、急遽、秋の「越波」訪問となった。





 山深く積雪の多い集落が廃村に至るまでの過程を見た場合、通常は過疎が進んでいくとやがてはこの「越波」ように冬季無住となり、そうなることで家屋の傷みが一冬ごとに進み、程なくして家屋は倒壊して廃村状態へとなっていく。豪雪地帯と呼ばれるような地域では積雪などによるダメージが大きく、それはより早い時間で進む。









 ところが不思議なことに、この「越波」集落は豪雪地帯でありながらも、そういった多くの過疎集落がたどる廃村への道とは違い、今も美しい村の姿が保たれている。もちろん主が来ず傷んでいく家屋もあるが、新たに家が立てられたり、毎年畑に作物が実ったり、分校校舎が改修されたり、なんと最近になって携帯電話のソフトバンクが通話圏内になったりなどもしている。驚くことに、ここ数年は村が元気を失わない、というかより元気になっているような感じさえするのだ。これだけの山深い所であるのに、‘村が動いている’この感じがずっと不思議でならなかった。そのこともぜひ知りたいと思いながらの、松葉三郎さんとの出会いとなった。





  昨年の11月の初め、いよいよ秋本番というある日「今、ちょうど山に散策道を作って作業しているから、そっちで会いましょう」という事前の約束のとおり、山の作業現場へ向かう。折越林道の峠を越えて少し行った所に2~3台の車が停まり、その横に散策道の入り口と思える場所を見つける。早速登っていくが、日頃の運動不足ですぐに息が上がってしまう。ハアハア喘ぎながら10分くらい登っただろうか、やがて人の声が聞こえ、あちらでも「誰か来るぞ」という声。その声のする作業現場につくと3人の男性の姿があり、ちょうど散策道の終点の展望台の仕上げをされているところだった。
 自己紹介をする。3人は、メールをいただいた松葉三郎さん、そして後藤さん、クマさんと呼ばれている方。松葉さんと後藤さんは「越波」のご出身で、クマさんは他所から作業のお手伝いに来られているとのことだった。山の中での肉体労働は大変だろうが、3人からはそういったしんどさなどまるで感じさせない清々しさがあった。それは、散策道がちょうどこの日に完成ということもあったのかもしれないが、何よりその道を作ることに意義とやりがいを感じられているから、など勝手に思ったりもした。





 山の散策道は、何もない全くゼロから工事で、全てが手作業で進められていた。もちろん観光地にあるようなコンクリートで固められた贅沢なものではなく、人一人が通れるくらいの幅の登山道だ。それでもこれだけの山道を数人の手作業で一から切り拓いていくのが大変な作業というのは、素人目に見てもわかる。その細い山道を少し歩いて辿り着く展望台、観光地でないこの自然に近い感じが、自分のような人間にはピッタリとはまる。そして、そこから見える越波の山のV字谷。その光景に思わず「うわー!」と声が出る。





 しかし「そんな驚くほどやないで、こんなん山に登ったらなんぼでも見えるで(笑)」ということで、地元の方にとってはごく普通に見慣れた風景であるようだ。あと少しというところで「越波」の集落そのものは見えないのだが、それでも腰をおろしてずっと見ていたくなる美しい山の風景。その幾重にも重なる遠くの山々のシルエットは、ここが山深い所であることを感じさせてくれる。この谷、そしてさらに先の谷にも集落があることなど、この風景だけではイメージし難いのだが、現実に視界のすぐ先に「越波」集落があるということで、ここが隔絶した山峡集落であることを再認識する思いだ。
 せっかくなのでそこからの越波谷の風景を撮影し、その谷をバックにして「越波」ご出身のお二人の写真も撮らせていただく。「春にはシャクナゲがきれいに咲くよ。」とのことで、春の越波谷への思いも高まる。下の写真は、左が松葉さん、右が後藤さんだ。









 山にこうして拓かれた散策道、自分などは山野草の盗掘などをよく話に聞くので、そのことが心配になってしまう。すると山野草どころか、集落では畑に育った芋なども平気で盗っていく輩がいるとのこと。そういう経験もされているのに、こうして散策道を拓いて外部の人を招き入れようというのは危険なのでは?などという思いがよぎる。せっかくのシャクナゲも乱獲されて持ち去られてしまったりしないのだろうか、とその時は理解できず不思議に思ったりもしたのだが、それは後になって実に視野の狭い発想であったことと気づかされることになる。









 この後、散策道現地から(旧長嶺小学校)越波分校跡に場所を移し、松葉さんにゆっくりお話をうかがうことになった。
 この木造校舎、自分にとってはずっと憧れだった。外からは何度も見ているが、分校の中に入るのは初めてなのでなんだか嬉しい気分だ。いきなり演歌のポスターが目に付く。「なぜ??ふるさと越波??越波ご出身の方なんですか?」「いや、違いますよ。」「??」
 この歌い手さんは、なんでも岐阜県のご出身で、「越波」とは全く縁の無い方ではあるが、「越波」のその風景に魅せられて「ぜひ歌にしたい」ということだったという。曲名からすると、「越波」に故郷のイメージを強く感じられたのだろうが、何だかそう感じられたことには大いに共感できてしまうものがある。自分も、「越波」には全く縁の無い外部者であるが、初めて見た時からその風景に故郷のイメージを強く感じたものだった。「越波」集落のこの風景、やはり訪れる者に何か訴えかけてくるものがあるようだ。





 この日、松葉三郎さんからたくさんの貴重なお話をうかがうことができたのだが、今回は「村が動いている、村が元気になってきている」という不思議に思っていた部分についてをご紹介したい。

 「越波」でお生まれになった松葉三郎さんは、小学校を卒業されるとともにこの地を離れ岐阜へと出られている。お話をうかがった時のお年が73才というから中学校入学は60年ほど前、1955年(昭和30)頃となる。その頃の「越波」は戸数40・人口210で、まだ山仕事でも生活ができていた活気のあった時代。「子どもだけでも70人はいました。」というから、村は子どもたちの声でさぞかしにぎやかだったことだろう。三郎さんが「越波」を出て岐阜市内の中学校に学習の場を求めたのは、地元に通う中学校がなかったとかという山間部の事情によるものではなく、分校の先生の強いすすめがあったからだという。これはおそらく、三郎少年に潜在する能力の高さを見抜き、それをこの深い山中に埋もれさせてはいけないという担任の強い思いがあったからなのだろう。





 といっても分校の教育は4~6年生が1学級で、そこに教師が1人という複式学級。1つの教室で1人の先生が、違う学年の子どもたちを順繰りに教えてゆき、他学年を教えている間は自習という学習形態では、都市部と比較するとその6年間の学力差は天と地ほどの開きがある。さらに、進学した岐阜市の中学校が全校生徒2000人を超えるマンモス校で、山奥から1人出てきた少年はまるで大海に放り込まれたメダカ。






 「(越波の)言葉が通じない、僕の言うことが通じない。相手の言うことはわかるんだけど。だから毎日図書館へ行って本を読んで勉強しました。」
 というように、学力だけではなく全てにおいて違った新しい世界での生活は、わずか12才の少年にとっては大変な壁となった。通常なら、まだまだ親元を離れるには早すぎる年齢であっただろう。ただそれでも、「やらなければならない」という使命感ともいえる思いだけで努力を重ね、やがては志望高校へと進学し、一般会社への就労を経た後には新たに会社までも興す。そこに至るまでの努力や苦労は、我々では想像さえできない厳しいものだったに違いない。現在はそこでの社長業も引退され、「越波」への時間がと取れるようになっているが、現役で働かれている頃は、切った張ったの厳しい毎日の中で、「越波」に帰ってくることはほとんどできなかったという。
『#238 越波(おっぱ)集落と、リキさんのこと』でご紹介したように、三郎さんのお兄さんも故郷「越波」で、全国でも先駆けとなるアマゴの養殖を起業されて、それを軌道に乗せることに成功されている。「越波」で生きる、「越波」を離れて生きる、それぞれ活躍の場は違うが、生きていく中で共に時代の流れにつぶされること無く新たに起業するという志は、共通していたといえるのだろう。









 現在の「越波」を語る上で大変重要なものの一つとして、上大須から越波までの林道「折越林道」の存在がある。それ以前の上大須~越波のルートは、車がまともに通ることができない山道だけだった。したがって折越林道ができるまで、車で「越波」へ行くには、酷道なるありがたくない名前で呼ばれるR157を通っていくしかなく、しかも「越波」はその最奥の村として位置していた。
 ご存知のように、この国道157号線は、崖崩れや崩落などで通行止めが大変多い断崖絶壁の危険な道。「落ちたら死ぬ」の看板で有名な、あの道なのである。実際何名もの犠牲者も出ている。地形的に改修がなかなか難しいようで、もし折越林道の存在が無ければ、今のように楽に安心して「越波」には行けなかったことは、容易に想像がつく。そうなると帰ってくる人の数も回数も必然的に少なくなり、家屋も今のような状態には保てていなかったはずだ。畑が荒れ、倒壊家屋が増えていくと、帰る人はより少なくなる、するとさらに村は荒れ人が帰らなくなるという悪循環が発生し、村は荒廃を早める。このことを思うと、新しい折越林道の完成は、今ある「越波」とは切っても切れないほどの重要な関係にあったということがわかる。
 もちろんこの折越林道の開通以外にも、村を離れても人々の故郷への思いが強かったことや、村に杉の植林がされず鬱蒼とした林にならなかったこと、なども荒廃しなかった大きな要因ではあっただろう。ただそれでも、その村の人たちが安心して通える道ができたことのメリットはやはり大きかったように思える。そして、その折越林道の開通が、実は松葉さんと大いに関わっているのである。









 折越林道が通っている山の多くの場所は、松葉家が先代より引き継いできたもの。そこに道を造りたいということで、当時の根尾村から話が来たそうだ。所有地に道が建設されるのであれば、所有者は当然土地の買い取りや補償金などを要求するところであるが、松葉家は「お金もいらないし、土地も自由に使ってください。」と返事されたという。村の予算が乏しいことへの配慮もあったかもしれないが、何より、安全に「越波」へ行ける道が早くできることが第一、と考えての英断だったと思われる。
 道ができることによって、元の住民も頻繁に帰ってくることができるし、外部の者が訪れたりもできる。ひいてはそれが「越波」集落の存続にもつながる、そう判断されたのだろう。補償金や土地売買など目先の小さなことにこだわること無く、その先を見据える、背景にそういう事情があっての折越林道の開通だった。その結果、国道であるR157より、今や折越林道の方が遥かにメイン道として利用価値の高い重要な道になっているのは、R157の大型工事車両がこの林道を利用していることからも明らかだ。






 この話は、先の越波谷の見える散策道造りにも通じる。植物の盗掘など、目先のチマチマしたことにこだわって道づくりを中止にしたり遅らせたりするより、まずそこに人が訪れ「越波」の美しさを見てもらう、訪れた人が楽しめたり、また来たくなったりできるような環境づくりを先決と考え、それを整える。その結果、「越波」に人が多く訪れるようになって、‘動く越波’となり得る、ということだ。
 「シャクナゲとか大丈夫でしょうか?」と質問した自分が何とも恥ずかしくなってしまう。






 分校校舎の改修と将来計画、ソフトバンクの通話圏内なども‘動く越波’の一環で、この動きは今も進行中だ。‘地域おこし協力隊’の方もインターネット等で積極的に「越波」の情報発信をされ、それを見た若い人たちがやって来る。さらに三郎さん自らも「ふるさと越波」というホームページを立ち上げて「越波」の歴史や魅力などを詳しく紹介したり、facebookなどによる情報のやり取りの場も作る。それらを活用して、この春にはボランティアを募り、集まった若い人たちとともに雪で崩れた散策道の補修を行ったという。昨夏に企画した「蛇池で遊ぼう」という昔の遊び場を蘇らせたいというテーマのイベントでは、全国から多くの若い人たちが集まり、今年もいろいろ企画されるそうだ。おもしろいのはリピーターの人たちが多いこと。やはり「越波」の魅力を感じられたのだろう。
 このように 「越波」は、現在の区長でもある松葉三郎さんを軸としながら、地元の人たち、これらを応援・支援してくれる内外の人たち、など様々な力がうまく噛み合わさって、こういう厳しい状況下にある集落としては類い稀ともいえる‘動く村’を作っている、そう感じるのである。









 これまでにない新しい動きゆえ、地元の中でも全ての方が賛成しているわけではないのかもしれないし、外部の人が入ってくることで今後様々な問題も起こってくるのかもしれない。そこは、将来のどんな「越波」をイメージするかで分かれてしまう部分なのだろう。しかし何より、この時代の流れの中で、廃村になりかけていた一つの歴史ある山深き集落が新たに元気を取り戻していることは、本当に画期的なことであるように感じてならない。そしてそれが、一つの企業が営利目的でやっているのではなく、地元の人たちが中心になって動いていることに大きな意義を感じるのである。
 この従来の過疎集落とは違った「山深き集落の動き」はやはり注目されているようで、今はTVや新聞などの取材も少なくないという。岐阜、愛知など地元のテレビ局が中心で、残念ながらこちら(滋賀)では目にすることはできないのだが、そういった地域の方々なら目にしたり聞いたりしたこともあるのではないだろうか。









 不思議に思っていた ‘動く越波’のこと、お話をうかがう中で自分なりにその理由が理解できたように感じる。その‘動く越波’の中心となられている三郎さんだが、ご本人は故郷再生などの大それたことは思っておられないようで「ただ自分が動ける限り越波が生きててほしい」という気持ちで「自分でできることをやってみようかな」ということだそうだ。そしてその奥底には
 「自分が生まれた所って、全てのものに見覚えがあるものなんですよね、岩一つにせよ、せせらぎ一つにせよ、全部が子どもの頃と同じじゃないですか。朝起きて体の調子のいい時はついつい車に乗って、こちらにやってきて、あそこの草刈ろうかな・・とか」
 という故郷への温かい思いが流れている。それは「越波」集落をゆっくりと流れるあの小川のように、自然によどむことなく流れているように感じる。一方で「村を盛り返すということがどこまでできるか・・、ここで生業に出来るものがあるのかといえば・・、コンビニもないですしね・・。」という厳しい現実も冷静に見る。そして、個人や地域だけではどうしようもない問題が、そこには見えてくる。









 春の「越波」と展望台からの風景が見たくて、連休明けに急遽訪れた。ついた時刻が遅くゆっくりはできなかったのだが、展望台からの美しい越波谷を見ることができた。満開とはいえないがシャクナゲも咲いていた。この冬の大雪で散策道のあちこちは崩れていたものの、道は健在。集落を歩くと、あちこちにきれいに耕された畑が見える。そして、小川の清流と道に咲く花が春を感じさせてくれた。きっと連休に多くの方が帰ってこられて、春の心地よい故郷を味わいながら畑仕事に精を出されたことだろう。













 やがて村の端にあるお寺が見えてきた。願養寺だ。薄暗くなった寺の境内にある鐘撞き堂、最後にそこで鐘を撞いた。控えめに3度撞いた鐘の音が、静かな村に響く。その音の余韻にひたりながら集落をふり返ると、そこには春の山里の風景が見える。そして、しばらくボーッとしながらこの日見てきた風景を思い出す時、「春の越波は、より美しい」そう感じるのだった。






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【2015/06/24 11:20】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#243 「椿坂」にて見た風景
~ 木の又地蔵(長浜市余呉町椿坂) ~






 前回のこのコーナーでお伝えした、「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)の村はずれにある古木と地蔵さん、やはり気になってその後二度現地を訪れた。一度目に訪れたのは、5月の連休の真ん中。その日は大変天気が良くて暖かく、この村はずれの古木も新緑の葉を穏やかな風に揺らしながら、春を大いに感じさせてくれていた。ほとんど葉をつけていなかった前回に比べるとずいぶんにぎやかで、一目で春とわかる、そんな風景だ。ただ、葉の緑の量が多くなっているせいか、前回の訪問時で目立っていた幹を覆う苔の緑は、さほど目立たなくなっている。





 春にしては少々暖かなこの日、木陰では赤い布をつけた地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。前回は赤白黄色の花が供えられていたが、今回は白い水仙。山里の春に多く見られるお馴染みのこの花は、きっとお世話されている方の庭で花開いたものなのだろう。新緑の葉、赤い布、強い光りの影、そして水仙の白い花、これらがほどよいコントラストで互いにひきたて合い、心地よく目立っているのが美しい。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。





 この日もどなたかにこの地蔵さんのことをうかがおうとしばらくウロウロしてみた。しかし、結局どなたとも出会うことは無く、ただ1台のバスとすれ違っただけだった。そういえばこの辺りの集落を訪れた際には、このバスとよく出合う。本数がそんなに多くない割に出くわすのは、こちらの滞在時間が知らぬ間に長くなっているからなのだろう。









 それにしても人の姿を見かけない。きちんと発表されているデータを見ると、現在の椿坂は27世帯48名(H.27.5.1)などとなっているのだが、とてもじゃないがそのようには見えない。人の姿がなくても、どこかで人の声や生活の音などが聴こえると賑やかに感じるものだが、ここではそれがほとんどなく静か。これはやはり集落に子どもの存在が無いというのが大きく影響しているのだろう。子どもが居れば賑やかに遊んだり、笑ったり、泣いたりする声が聞こえ、それに伴って周りの大人たちの声も聞こえてくる。この静かな感じは、小さな子どもが居なくなった山深い里の多くで感じる独特なもの、そのような感じがする。ここにはもう小さな子どもたちがいなくなってしまった村、そのことを改めて認識するのである。





 古木と地蔵さんのある所からさらに村はずれ、南の方へ下がると、空き地一面が黄色く染まっているのが見える。タンポポが群生しているのだった。早速空き地へ降り、撮影する。見事な群生だ。前回の訪問では全くその気配を見せてなかったのだが、こういう風景の変わりっぷりが大いに季節を感じさせてくれるのは、やはり山里ならではなのだろう。そういえばこの春は、あまり花の撮影していなかったなぁ・・など思いながら、しばらく春を味わう。
 撮影が終わる頃には陽は一段と高くなり、それにともない温度はさらに上がっている。本当に春?と思えるような陽気になってきて、日差しもかなりきつい。こういった山村の人たちは朝が早い。これからの時間帯にはしばらく人は出てこないだろうなと判断し、この日は地蔵さんの話をきくことをあっさり諦めることにした。それでもせっかくの好天、先だって開通した「栃ノ木峠」を越えて福井県の「二ツ屋」まで足を伸ばし、かつての街道の雰囲気を味わいながら残りの半日をすごすことにした。













 椿坂の古木と地蔵さん、やはり気になる・・ということで、3度目の「椿坂」訪問を実行したのは連休後のことだった。

 古木の葉はさらに多くなっており、その量を増した葉の緑と苔の緑が一体化した感じで、地蔵さんの赤い布がより浮かび上がって見える。緑の量の多さは、このまま一気に夏に突き進みそうな感じさえする。
 何か寂しいな、と思いよく見ると、この日は地蔵さんの前にいつもあるお花が供えられていない。どうしたんだろう?水仙も枯れてしまって、庭の花も無くなってしまったのかな、など思いながら、村はずれから集落方面へと歩いて行く。すると、少し先の道沿いの家屋の玄関前に女性の姿が見える。60~70代くらいのお年だろうか、早速地蔵さんのことを聞いてみた。するとやはり、前々回にうかがった時のように、謂れや名前などは特に無いという。でも「長い間お世話されている方が今でもお元気やから聞いてみたら?何かご存知なんと違うかな。」ということで、その方のお宅を教えていただいた。普段はわざわざお宅を訪問してまで話を聞くということは滅多に無いのだが、この日はもう3度目、なんとかして知りたいという思いが強かったので、失礼ながらお邪魔してみることにした。





 呼び鈴を鳴らすと、すぐにオバチャンが出てこられた。突然の見知らぬ男の訪問に少し驚かれた様子だ。悪徳セールスマンなどには見えないと思うが、不審者には見える。それでも、いつものように「山の集落が好きで・・」と挨拶をし「今日はあの木の地蔵さんのことを教えていただきたくて。お世話をされてるとうかがって・・」と切り出すと、安心された様子でいろいろお話しいただけた。うかがうと、もう90才になられたというが、受け答えはとてもハキハキとお元気そう。でも「足が痛うてなぁ・・、花の水もようやれへんのよ。」ということで、そのため地蔵さんのお供えの花も新しくしてあげられないそうだ。玄関先には、これから花を咲かせるであろう菊が、丁寧に育てられている。きっと花が好きな方なのだろう、向こうに見える庭にも花が植えられているのが見える。これらが花を咲かせると地蔵さんのお供えの花となり、あの一画がきれいに彩られるのだろう。でも、この前の水仙の花は何とか頑張ってお供えできたのだが、今はできず、そのことを気にされている様子だ。





 「地蔵さんのお世話は、もう10代の頃からやってるよ。」というから、なんと80年近くもされていることになる。なんでもかつては、この並びの6軒のお宅が地蔵さんの世話係になっていて、交代でやられていたという。しかし過疎化がどんどん進むとともに、その6軒のお宅も次々とこの地を離れることとなり、とうとうここ1軒になってしまった。季節のよい時はいいが、雨や雪などが続く時などは、ご高齢の身にはかなりこたえることだろう。「そやけどね、ここの地蔵さんは目にご利益があるそうで、おかげさんで私の目も悪くならへんのよ。」と、以前悪くされた目の症状が今は進行すること無く、具合も良いという。地蔵さんからすると、80年近くもお世話し続けてくれたことのせめてものお礼なのかもしれない。





 「お世話し始めた頃は、あの木もこんなに細くてね。」と、両掌だけで表現できてしまうような、そんな太さしかない木だったという。立派に成長し、苔むした今の古木の姿からは到底想像できるものではないが、それだけに80年もの時の長さをそのことばの中に感じる。ただ、それほど長きに渡ってお世話をされてきたその方でも「木の又地蔵?そういうの聞いたこと無いなぁ・・。」と、他の方と同様、その謂れや名前もご存知ない様子だった。それでも「毎年、1月24日がご命日でね、昔はたくさんの子どもが集まったんよ。地蔵さんの所に行って、それからみんなが私の家に来てね、おもてなししてね。」などという行事があったそうで、それは今なお継続されているという。そして「もう子どもはいなくなってしまったんやけどね。」ということばが、その後に寂しげに続く。
 ご命日の行事そのものは今も村で行われている。しかし、時の流れとともに形は変わらざるを得なくなり、今では大人達だけで行われているのである。それでも大方が高齢者となってしまった今でも絶やすこと無く続けられているのは、この地蔵さんのことを大切に思う心があるからこそ、なのだろう。





 以前、ここの地蔵さんを持ち帰り、場所を移し替えてしまった人がいたのだが、その人はその後お腹の具合を悪くされてしまったそうだ。そして、これは地蔵さまを勝手に移してしまったからだということで、慌てて返しに来られたという。これは現地でうかがったお話だ。一方『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の口承文芸の椿坂の項には、ある旅人が地蔵さまを盗んで売って、それを買った人がひどい腹痛に悩まされ、それが地蔵さんの祟りだというので椿坂に返したところ、腹痛が嘘のように治ったという伝え話が書かれていた。おそらく元は同じ話だが、口承ゆえ形が少しずつ変わっているものだと思われる。おもしろいのが、いずれもがけっこう最近のこととして伝えられていることだ。いつの時代から伝えられているのかはわからないが、この地蔵さんにはこうした伝承も残っていたのである。





 現在、古木の枝は道を覆うくらいに広がっており、この道にバスなどが通行することを思うと、枝払いなどが行われても不思議ではない状況になっている。しかしながら、なかなか切り手が現れないそうだ。子どもの頃から親しみ、この木や地蔵さんのことをよく知る人たちにとっては、やはりここは神聖な場所であり、特別な存在であるのだろう。村で地蔵さまをずっと大切にしてこられ、さらに安全上やむを得ないという理由であれば、少しの枝をはらうくらいであれば、おそらく地蔵さんもお怒りになることは無いとは思うのだが、自分がもし同じような立場だったとしても、やはり切ることには大いに躊躇してしまうだろう。





 古木の横にたくさん並んでいる石仏の中には、集落横に大きな道路を通す際に掘り出されて持ってこられたものも含まれているという。ここ椿坂は歴史が大変深く、戦国の世には戦の舞台ともなり、長きにわたり多くの旅人が行き来した街道の宿場町でもある、さらに冬場の豪雪は人々を苦しめ命を落とすことも珍しいことではなかったことなどを考えると、これら石仏の中には悲しい歴史を背負っているものがあっても不思議ではないだろう。というか、石仏が置かれたいきさつを思うと、そこには様々な悲しみのドラマがあったことは間違いない。そういう思いでこの古木と地蔵さんの風景を見ると、この風景から感じる思いもまた変わったものとなってくる。





 結局、現地でもその謂れなどの詳細について知ることはできなかった。おそらく現地で他の方にお話をうかがったとしても、これ以上の詳しいことはわからないものと思われる。ただそれでも、村の人たちからは大切にされ続けている地蔵さんだということは伝わってくる。「花はね、畑に咲く花をね。前掛け?それはちょちょっとすぐにできるよ。」ということだが、やはりお一人で長年にわたってお世話を続けるのは、本当に大変なことだろう。そして過疎・高齢化がますます進んでいくであろうことを思うと、これから10年後、20年後のことが、やはり気になってくるのである。





 帰宅後、もう一度あらゆる資料をさがしてみた。すると昭和44年度に調査報告された『余呉村の民族(東洋大学民族研究会)』ならびに、地元の鏡岡中学校郷土クラブの昭和52年度の報告『余呉仏教史第二編』に、これら椿坂の地蔵さんについての記述があった。いずれもPCに保存しておいたもので、当初は見逃してしまっていたものだ。そこからの記述を原文のままご紹介しておく。






 あごなし地蔵と木のまた地蔵
 椿坂にある。一月二四日がお地蔵様の御命日にあたる。朝九時から、六軒町の人々が地蔵様に御仏さんといって、ご飯や珍しいおかず(わらびやぜんまいの白あえなど)を供えた。花などは、町から買ってくる。この時のお金は、昨年の御賽銭などを持って詣る。詣り終わると、六軒町の家を全部「御命日様で、おめでとうございます。」と言って訪れる。すると、六軒町の人はお茶やお菓子などを振舞う。また、この日地蔵の前で火を焚く。これは詣ってくれた人の手を温めるもので、注連縄、書き初めなども一緒に燃やした。焼いた灰が高く上がれば上がる程、手がよくなるという。この時豆のからも燃やす。まめになるようにとの願いからだそうである。これはドンド焼きの名残りで、五〇年前まで行っていた。


 以上『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』より






 椿坂の入り口のヨノミの木の下に俗に木の又地蔵と呼ばれている地蔵がある。余呉町の地蔵の中で子供達によって地蔵祭が行われているのはここだけである。地蔵祭は普通どこでも真夏の七月か八月の二十四日であるのに。椿坂では最も雪の多い一月二十四日に行われる。小学校六年生までの子供は此の日朝早くから宿に集まる。宿は地蔵に最も近い六軒の家が交互に行なう。宿から地蔵までの雪道を広く踏かため道をつくる。地蔵さんを雪の中から掘り出しお参りできるようにする。準備ができると村の各戸から豆からを一束宛集めたものを雪の上で燃やす。そして子供達は宿から地蔵までを供え物を持って何回かはだし参りをする(素足で雪の上を走りながら参る)。通行人や村人達はお菓子やお金を供える。通行人は豆がらのたき火に暖を取り行き過ぎる。一通りお参りが終わると子供達は宿で母親達が煮てくれた熱い豆腐汁や漬物で皆んなで楽しく会食をする。其の後お供えの菓子やお金を分けてもらって帰る、気候の最も厳しい一月が地蔵祭に選ばれている事は、どうかすると家の中に閉じこもり勝な冬の子供達に、雪の中を素足で走らせるなど子供達を強く鍛錬する親心からできたものかも知れない。


 以上『余呉仏教史第二編(鏡岡中学校郷土クラブ/昭和52年度)』より





 というように、現地のオバチャンが語ってくれた内容がほぼ一致しているので、この場所が‘木の又地蔵’と呼ばれていた所であることは疑う余地はない。ただ、いずれも行事の内容については詳しく書かれているが、その謂れなどについては書かれていない。おそらくこの45年前の調査の時点で、すでにそれらの伝承については途絶えてしまっていたのだろう。また、あごなし地蔵という名についても、その詳細はわからない。地蔵祭が冬に行われていることや、木の根に石仏が置かれていること、いつの時代からあったものかなどわからないことばかりではあるが、残念ながら時の流れの中に完全に埋もれてしまったといえそうだ。





 この『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の最後、編集後記にこのような一文がある。

「二度の追跡調査によって、ここに未熟ながらも報告書をまとめることができました。これによって、失われていく山村民俗が少しでも記録にとどめられるならば、私達にとってこれにまさる喜びはありません。」

 自分の場合、こうして貴重な記録を残してくれたことは何よりの喜びであり、それに対してただ感謝するばかりだ。そして、消えつつ、失われつつあるこういったものを、記録に残していくことの重要さを強く感じるのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2015/06/04 16:31】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
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