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#113 廃村『八草』
~廃村『八草』~

滋賀県の木ノ本町と岐阜県の旧坂内村とを結ぶ国道303号線。今でこそ県境付近の山々を八草トンネルが貫き通行も容易になったが、トンネルとそれに伴う取り付け道路ができる前は、八草峠を頂点とした両県側からのアプローチはともに、‘酷道’と称されるクネクネの極狭路を延々と走らなければならない、大変なルートであった。初めてここを走った時は、その狭ささと山深さに驚いたものの、通行する車が少なく妙に嬉しい気分になったのを覚えている。また時間をかけてたどりついた八草峠から見た山なみの風景の美しさは格別で、今でも鮮明に記憶に残っている。

さて峠やトンネルにつけられている‘八草(はっそう)’という名であるが、これはかつて存在した集落『八草村』の名残である。美濃(岐阜県)の地にあったこの八草村であるが、元々は近江の国から木地師集団が漂泊し定住したもので、八草の人たちも「我々は近江の国の者」と言う意識が強かったようだ。そのため美濃の川上村などに出る時も、美濃の住人でありながら「美濃へ行く」と表現していたという。

その『八草』が廃村となったのは大正8年というから、もう90年近くも前のこと。1824年には27戸124人、廃村となる10年前の明治42年でも15戸105人の規模があったこの村が廃村となったのは、北海道へ集団移住をしたからである。移住を決意した背景には、度重なる水害と焼畑禁止があった。その昔は杓子の生産、その後は製炭を生業とし、自らの食は焼畑による稗に頼っていた人たちは最後まで稲作を受け入れず、遠く北の大地での開拓生活を決意する。この頃は八草村だけではなく、同じように焼畑に頼っていた周辺地域の出作り農家の多くが北海道移住の道を選んだという。移住先での開拓村での生活はどうだったのか、より過酷な生活を乗り越え安住の地を得たのだろうか、など思い巡らしながら集落跡へ向かう。

八草川を左手に緑の林道を歩くこと約20分、離村の記念の碑と供養塔が見えた。離村後、地元の人たちの出作りの地として稲作などもされていたせいか、山深い中にも人跡を感じることができる。また林道は作業用だろうか、車の轍も見られた。

この供養塔ならびに碑が建てられたのは昭和59年9月とある。ということは離村後すでに65年もたってからということになる。年齢的に考えると、働き盛りでこの地を去った方の子の世代の方たちが中心となって建てられたものなのだろうか。遠く離れた開拓の地で何度も両親から聞いた、山深く自然の厳しい、しかし懐かしい故郷の話。何十年が過ぎても故郷の地を忘れず、いつまでも思い続ける親の姿、そして自らの幼い遠い日の記憶、先祖への思い。木々の中に静かに佇むこの碑に、65年間の重みを感じるのである。

この地を訪れて、人々の故郷への思いの強さというものを改めて感じたりする。代々流れてきた血、そして生を受けた地にいつかは帰りたいという思い。これらは何か本能に近いものを感じてしまう。これを望郷というのか‥などなど、いろいろ考えながら歩く林道。その時ふと見上げた時の朴の木の葉(たぶん)、これが何とも美しく爽やかだった。










http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2007/06/04 11:04】 | 岐阜県山村・廃村・自然 | page top↑
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