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#145 奥川並分校
~奥川並分校~

皆さんは‘分校’ということばに、どのようなイメージを持たれるだろう。山の中の小さな校舎、そして山や川で元気に遊びまわる子どもたち。もちろん学校だから勉強が本業だが、ことばからのイメージは、教室で学習する風景よりむしろ野山を駆けまわり川で魚捕りをする子どもたちの姿などを、私はイメージしてしまう。イメージ映像は個々に違っても、‘分校’に対して感じる大らかで温かなイメージは共通しているのではないだろうか。

その分校であるが、昭和40年代あたりから次々と姿を消してゆき、今ではその存在は貴重なものとなってる。10年前の1997年の滋賀県を見ると、県内の分校はマキノ町立マキノ北小学校在原分校ただ一校。そしてこの在原分校も、平成13年(2001年)度から遂に休校となり、県内の分校は姿を消すことになる。現在は滋賀県に限らず、全国各地で分校ではなく本校が統廃合により次々と姿を消してゆく時代。それを考えると、分校という存在は‘遠い昔にあったもの’となりつつあるのかもしれない。何とも寂しいものである。それは‘分校’ということばの中に、温かさや大らかさ、人情など、今の時代の中で薄れつつあるものを勝手に重ねているからなのだろうか。

奥川並分校(丹生小学校奥川並分校)、この山奥の小さな学校になぜか特別のものを感じる。15年程前に初めて『奥川並』を訪れた時、丸太橋の架けられた川向こうの林の中に崩れかかった奥川並分校の姿を見た。木々の葉にさえぎられ、ほとんど姿は見られなかったのだが、その姿がとても強く印象に残っている。ここで子どもたちが本当に勉強をしていたのだろうか、それより以前に本当に学校として機能していたのだろうか‥など思わせるほど、朽ち果て崩れゆくその姿は哀しげなものだった。しかし考えてみれば、私が見た時は廃村後既に20年以上が過ぎていたのだ。豪雪地帯のその地で、その姿をまだ残していること自体が驚くべきことだったのかもしれない。

長らくの間、私の中では奥川並分校は木々に隠れた崩れかかった校舎のイメージしかなかったが、それが木造校舎としての元気な姿に変わったのは『記念誌:ふるさと丹生小学校』でその姿を見た時だ。ようやく奥川並分校が生きたものとして認識できるようになった。その写真には当時の校舎はもちろん、先生の姿や元気な生徒の姿も写っている。それを初めて見た時、何とも言えぬ感動をおぼえたものだ。

そして先日、何とその写真に写っている、かつて奥川並分校で教鞭をとられていた方にお話をうかがうことができた。昭和39年より3年間の分校赴任された林尊(はやしたかし)先生である。私にとって、どれもが大変貴重なお話だった。その時にうかがったいろいろなエピソードなど、またまとめてゆきたいと思っている。初めて見た時の‘木々に隠れた崩れかかった奥川並分校’が、私の中で完全に生きたものとして生まれ変わった、そのことが何とも嬉しく感じたのである。



マキノ北小学校在原分校




「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より
/発行:余呉町


http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2008/03/23 23:52】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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