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#179 土倉の風景
~土倉の風景~





岐阜県の旧坂内村(現揖斐川町)との県境近くにある土倉鉱山跡(滋賀県伊香郡木ノ本町)は、R303の八草トンネルやそれに伴うバイパスの開通により、その周辺の風景が大きく変わった。土倉のシンボルとも言える選鉱場周辺はこれまでと変わりないのだが、「上町」「上新町」「新町」「中町」「下町」といったかつての居住区周辺は、バイパスの巨大橋脚がそこの主人公となり、以前の雰囲気とは一変している。住居跡地は造成により「新町」跡地の全てが姿を消し、「上町」「下町」の両跡地も一部が埋められた状態。幸い残っている住居跡地では、ブロック住宅等の住居の残骸を今も見ることができ、昔の生活の面影を偲ぶことができる。

以前「たまに一言」のコーナーで、土倉を故郷とされる白川雅一氏より土倉の居住地区の自作見取り図をいただいたことを紹介した。そしてそれに基づき各居住地区跡地の現状を取材してまとめていきたいと、私はかねてより思っていた。しかしこれらの住居跡地の残骸の多くは、一年のうちの大部分が雑草や雪に覆われてしまうため、なかなか見ることができない。特に夏場は、その覆い繁る雑草で近づくことさえ拒まれてしまう雰囲気となってしまい、ここに生活があったことも想像し難い状態となる。雪解け後で植物の葉がまだのびる前、それと初冬の雪が降る直前、そのわずかな期間が、土倉の人々のかつての生活にふれることのできる機会といえるのかもしれない。




住居跡にはコンクリートの基礎やかまど、そして排水溝やトイレなどが、冬枯れの植物の間から見ることができる。所々に空く大きな穴は排水関係の遺構か。その存在は、草に覆われる夏場には隠されてしまい、何も知らずに入り込むにはかなり危険と思われる。社宅にはコンクリートブロックで造られたブロック住宅と木造の住宅があったというが、ブロック住宅の多くは、ほぼ全域が造成の土に埋もれてしまった『新町」にあったため、今回見ることができた‘生活の跡’はほとんどが木造住宅のものと思われる。しかし残骸からは、その区別はなかなかつかない。「中町」の住居跡を散策していると、上の道を男女の登山客と思われる二人連れが通り、不思議そうにこちらを見ている。怪しげな人物と思われたのだろう。実際こんな所でゴソゴソ何かしていると不審者と思われても仕方ないのかもしれない。

さて今回の訪問でもう一つ見たかったのは、昭和34年の伊勢湾台風の際に土砂崩れで犠牲となった方の慰霊碑である。それはこの冬の積雪時にバイパスを通行した際に、この下で多くの方が犠牲になっていることを思い、春になったらぜひ訪れたいと思ったからだ。加えて、全ての工事が終了した段階で慰霊碑がどのようになっているのかも確かめたいと思っていた。

「この辺りだったか・・」と道を歩いていると、杉林の中から何か薄く光るものが見える。慰霊碑である。杉林の隙間から差した日差しがちょうど慰霊碑に当たり、それが薄く光っているように見えたのだ。薄暗い杉林の中でそこだけが美しく光る、何か別世界のもののようにも感じる。そういえば、前回の訪問時もそんな感じだったなど思い出す。改めて慰霊碑を見る。裏に刻まれた犠牲となった方々の名前は同じ姓が多い。一家で犠牲となられたのだろうか、そのことを思うと本当に胸が痛む。この台風災害の時に「たすけてくれ、たすけてくれ・・」という声を、救助する際に聞いたという白川雅一氏の悲しげなことばも思い出す。

慰霊碑に行くには段差があり、登り辛い。さらにこれからは雑草が覆い茂り足場が悪くなる。高齢の方が供養のために訪れても、そこまでいくには大変だろう‥というか非常に危険だ。慰霊碑までに階段をつけるだけでも、高齢の方にとっては大いに助かるはず。バイパス工事の莫大な工事費を考えると、慰霊碑周辺のわずかな整備など微々たるものなのだから、一緒に工事ができなかったのだろうか‥すぐ横にそびえ立つ巨大橋脚や造成地を見るとそんなことを思ったりする。もしかして「慰霊碑周辺は静かにしておいて」という声があったのだろうか、などとも考える。一見何も無い風景、でも新しくなった土倉の風景を見て思うことは多いのである。




http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2009/04/05 05:38】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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