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#197 鈴鹿の廃村『向之倉』にて思うこと
~鈴鹿の廃村『向之倉』にて思うこと~






久しぶりに訪れた芹谷の集落『向之倉』。人が住まなくなって40年が過ぎようとするこの鈴鹿の中腹にある集落跡も、流れゆく年月とともに家屋たちが次々と崩壊し、ついにあと1軒を残すのみとなっている。そしてその最後に残った老家屋も大きくゆがみ、少しの負荷がかかっても崩れ落ちてしまいそうな状態。20年ほど前に初めて訪れた時は、当時残っていた寺もまだ寺らしい佇まいを見せており、集落にも人の温かみを感じることができた。「人がいるのかな?」そんな風に感じたほどである。しかしその寺も今は姿は無く、石垣と残骸が残るだけとなっている。





訪れたこの日は、冬としては暖かい日。廃村へ至る林道の大部分は路面が顔を見せ、山の影になる部分にだけ雪が残るという状況。落石と所々に残る雪に注意しながら九十九折りの林道をのぼっていく。林道の終点となる集落前の空き地は、湿った雪ではあるが全面が白く覆われ、Uターンする車の轍の跡にのみ雪が解けて路面が見える状態。私が訪れた時に1台の車が停まっており、そこに無線機を持った男性が一人。一目見てハンターとわかるいでたちだ。どうやら猟は終わったものの、パートナーである犬たちがまだ獲物を追ったまま帰ってこないということらしい。そういえば林道途中でも、犬を荷台に積んだ軽トラックを見た。その人たちと連絡を取り合って、発信機をつけた犬の位置を確認しあっているようだ。そのハンターと少し立ち話。この日、害獣駆除ということで鹿を撃ちに来たが、鹿の姿を見るまでに至らず帰るところだったという。

山をうろうろしていて猟犬と出会うことは珍しくない。中には飼い主とはぐれたままで、やせ細ったまま山をさまよい歩く犬もいる。取り付けられた発信機がそのままの状態になって主を捜し続ける犬たち、その姿は何とも哀しいものだ。人を見るとやはり恋しくなるのか、はぐれた猟犬たちは近寄ってくる。つかの間の空腹を癒す食べ物を与えたところで彼らを連れて帰るわけにはいかず、いつも後味の悪い思いでその場を去ることになる。この日の犬は、その後幸いにもすぐに見つかったようである。二匹の白い犬ということしか聞いていなかったが、ホッとする犬たちと二匹の主の姿が思わず浮かんで安心する。









久しぶりに『向之倉』を散策する。影になる部分は雪で覆われている。しかしその上を歩くとすぐに靴底が地面に達する。水分の多い、薄く積もった雪だ。夏場は雑草に覆い隠されているために見えない部分が、この時期には見ることができる。訪れるたびに目にしていた自転車の残骸も、この日は何にも邪魔されること無くその姿を見せていた。しかしこれを見ていつも疑問に感じる。この自転車は集落の人たちが使っていたものなのだろうかということ。不法投棄にしては奥まった所にあり、型も古い。じゃあ集落の人が使っていたものなのだろう、かというとそうも思えない。なんせ、この『向之倉』という集落は今でこそ車で登れる林道があるが、林道ができたのは廃村後ずっとたってからのこと。それまでは芹谷の谷底から登る細い山道があっただけ。そんな所から自転車を担いで上り下りをするとは考えにくい。もちろん集落内を自転車で走り回るということもあり得ないというか、必要の無いこと。じゃあ一体何なんだろう、など思うがいつも結論は出ない。





集落最後に残った老家屋を見に行ってみた。大変立派な茅葺家屋であったことは、崩れかかった今の様子を見てもすぐにわかる。醸し出す威厳は今も十分に感じることができるのである。やはり崩れかかった門に目をやる。すっかり崩れてしまっているが、原型はまだとどめており、柱の所には郵便受けと思われるものが今もその形を残す。郵便配達人もしくは新聞配達人が、この山の集落まで毎日上り下りして配達していたのだろうか。今では考えられないことが、昔の生活の中では当たり前のことであったというのはよくある話。この山の集落『向之倉』にも、谷底からの山道を何十分もかけて上り下りした配達人がいたことだろう。





廃村などを訪れていると、そこに残されたものから当時の様々な生活を感じることができる。生活を思い浮かべると、そこには人の姿も浮かんでくる。しかしそれは、今を基準にしたイメージにすぎない。現実は、今思い浮かべる当時の姿を遙かに越えた厳しいものだったのだろう。しかし「そういう生活、つらくなかったですか?」と廃村となった集落に住んでいた方にうかがった時、多くの方から「それが当たり前だったから、つらいとか思ったことはない。」ということばが返ってくる。その時の‘当たり前’は、時代とともに変わってゆくもの、時代を反映するもの。その時には正しかったことでも,時代が変わると悪に変わってしまうことも歴史を振り返ると珍しいことではない。





それでは今の時代の‘当たり前’って一体何なのだろう、など考えてみる。するとこの‘当たり前’ということば、なかなか深い意味を感じ、いろいろなことを考えさせてくれる。時の流れとともに変わるべき‘当たり前’、変わるべきではない‘当たり前’様々あると思うが、それらが区別無く変わっていってしまっている今の時代は、未来に向けてのどのような礎となっていくのだろう、など考えてみたりもするのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2010/02/06 12:12】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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