スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
#201 半明(はんみょう)にて
~半明(はんみょう)にて~






「いやー、なつかしい、なつかしいねぇー!」という、わずかな間を置いた後に発せられた元気なことば。
これは『半明(はんみょう:滋賀県の旧伊香郡余呉町)』にかつてお住まいだった方に、「今こうして故郷をご覧になられてどうですか?」という質問をした時、一拍の間を置いて返ってきたことばである。

先日『半明』を訪れた時のこと。このサイトをご覧の方はご存知かと思うが、『半明』は丹生ダム建設工事によって1995年に集団離村となった集落の一つだ。15年前まで人々の生活があったことの証として、今も石垣とアスファルトの道、そして石段を上ったところにある六体地蔵やかつての墓地跡の地蔵様などを見ることができる。しかしそれも夏場には草で覆われてしまい、注意して見ないと集落の存在には気づかない。わずか15年なのだが、人々の生活の全てが撤去されてしまった地に、人の温もりを感じられる部分は少ない。そうした中で六体地蔵さんは可愛らしく着飾られており、今でも大切にされていることがよくわかる。





訪れたこの日は、春の青空が広がる大変穏やかな日。神社跡への石段を上って、6体の可愛らしい地蔵様や眼下に広がる集落跡の写真を撮る。すると河原に数人の人の姿とにぎやかに話す声が聞こえる。この季節は山菜採りの人たちが多く入ってくるので、そういった方たちなのだろうと思いながら写真撮影を続ける。この場所からは集落の全景を見ることができるので、訪問の際には必ずここに来る。川の横の小さな平地に広がる小さな集落、人が住んでいた頃の風景と今とは大きく違ってしまっているが、当時の風景の写真や実際に訪れた時の村在りし日の風景を思い出しながら重ねてみると、何となくイメージが浮かんでくる。離村の際のニュースのカラー映像は、取り壊された家屋や、間もなく取り壊されるであろう家屋など生々しいものだったが、昔の写真はのどかな風景、やはり思い出すのであればそちらのほうがいい。





撮影を終えて石段を下りると、石段下に止められていた車に一人の男性。先ほどの山菜採りのグループの方のようだったので「こんにちは」と声をかける。すると「いい写真撮れましたか?」と返してくれる。「この季節は何を撮ってもきれいですね。山菜採りですか?」と返すと、予期しない言葉が返ってきた。「山菜採りと言うかー、うん、ここのもんやけどな。」「え?半明の方?」「そう!」
大変元気のよいこの方、今は他府県にお住まいだが、それまではずっと半明にお住まいで、ダム工事による移転でここを離れられたという。早速いろいろお話をうかがってみる。





山間部の過疎集落のほとんどがそうなように、この『半明』も離村前から若い人たちは次々と村を離れ、残されたのは高齢者の方達ばかりだったという。今でこそ『中河内』から『半明』『針川』『尾羽梨』『鷲見』『田戸』『小原』そして『菅並』まで、細いながらも道がつながっているが、その昔は『半明』と『針川』の間は細い山道しかなく、お互いが最奥の集落となっていた。『針川』は行商のような人が来ていたが、この『半明』までは来ることがなく、『中河内』からもそういったものは来なかったという。また田んぼは水が冷たすぎることや場所が無いということでほとんどできず、畑で冬場に備えての作物作りがされていたようだ。そこではもっぱら冬場の孤立状態の時まで保存して食べれるようなものが中心に作られていたらしい。

豪雪地域のこの地が、冬場に孤立するのは周辺の集落と同じだが、冬場の小学校の半明分教場が廃止された後は、朝の登校時には大人が先頭を歩き、子どもたちのために足場を固めて、中河内小学校まで通っていたという。ちなみにこの方は分教場に通っていたそうで、場所を聞くと「そこや!」とすぐに指差し教えてくれた。中河内から向かうと、橋の手前の右側の小さな空き地がそうである。この前の訪問では、そこに猪か熊の捕獲用であろう檻の罠が仕掛けられていた場所だ。「バラック小屋みたいな小さなもんや」という分教場は、資料を見ると昭和27年に総工費25万円で新築落成とある。





中河内が昭和31年8月に大火に見舞われたのに続き、この『半明』も昭和35年12月13日に大火に襲われている。「今とちごて(違って)、消防車なんか来んからなぁ」ということで、小さな平地に並んで建っていた茅葺き家屋は瞬く間に燃え広がり、わずか15戸の集落のうち9戸が全焼してしまった。全55戸中48戸が全焼してしまった中河内の大火に比べると、まだ被害は少なかったといえるのかもしれないが、寒い冬の中焼け出された住民の方の思いはいかなるものだったのか。

そういえば少し前に本サイトの掲示板で、「中河内の集落の一画に、同じ造りの、お風呂と思われる建物が数件並んでいる所があるのですが、あれはどうしてでしょうか。」というご質問を受けたのだが、あれはやはり昭和35年の大火の際に建てられた応急ブロック住宅ということが今回確認できた。この日、『半明』を訪れる前に『中河内』にも訪れ地元の方にうかがったところ、今も残るブロック住宅跡を指差して「私も全部焼けてしまって、そこに住んでいたのよ」という声を聞くことができた。そのブロック住宅は今も各家に残され、母屋とつながって倉庫のように使われているようだ。大火からもう50年以上も過ぎているのに壊さずに残されているブロック住宅、当時のことを忘れないようにという村の人たちの思いが伝わってくる。









また、私の中で以前から不思議に思っていたことも、この日の『半明』にお住まいだった方から聞き取ることができた。それは、ダム工事で下流の『鷲見』『田戸』『小原』が水没のために立ち退きになったのはわかるが、水没しないこの『半明』までが立ち退きになった理由である。それはどうやらここに何か川の水をきれいにする施設のようなものができるということが理由だったようだ。ダムの話になると、その方の元気な表情が少し寂しげに変わるのがわかった。そして「ダム工事もなくなってしもて・・こんなんやったら家だけでも残してほしかったなぁ」ということば・・。

初めて生活のある頃の『半明』を見た時、何とものどかな古里の風景を感じた。それが今では何も無い荒涼とした風景に変わってしまっている。ダム工事の立ち退きでは、家屋などは一切が壊され撤去されてしまう。この日「ダム工事もなくなってしもて・・」というその方のことばが寂しく心に残る。そして最後にその方に聞いてみた質問、冒頭の「今こうして故郷をご覧になられてどうですか?」の答えに大いに心が救われた気がする。「いやー、なつかしいねぇー、やっぱり、なつかしいねー」しかし一拍おいて言われたこのことば、その中に感じるものはやはり少なくはないのである。





※この項の2枚のモノクロ写真は、いずれも「ふるさと中河内(編集:ふるさと中河内編集委員会/発行:余呉町)」からのものです。


http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
関連記事
【2010/04/27 05:44】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。