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#205 お盆、そして土倉鉱山跡
~お盆、そして土倉鉱山跡~






今年もお盆の時期には各地の高速道路や交通機関で、お盆休みの帰省ラッシュによる多くの渋滞や混雑が発生した。人混みや渋滞などが苦手な私にとってこれらの状況は苦痛以外の何物でもないのだが、少し見方を変えて‘お盆’を見てみると、これら苦手な渋滞についても印象が変わったりする。

そもそも‘お盆’とは?という話になると、便利なこの世の中、インターネットで少し調べるとすぐにたくさんの情報を得ることができる。起源がどうのということは置いておいて、今の時代のお盆の認識としては、宗派や地域によって様々な形で行われてはいるものの、大まかには「家族や親族が集まって、ご先祖を供養し、亡き人をしのぶ仏教的な行事」ということになるのだろうか。またお盆に、キュウリの馬とナスの牛を作ってお供えするところがある。これは、亡き人の精霊がキュウリの馬に乗って早く帰ってきてほしい、そして帰りは名残惜しいからナスの牛でゆっくりと帰ってほしい、という願いからだそうだ。一見正体不明の不思議な人形も、実は亡き人を思う、残された者の思いが込められているのである。

無宗教の私であるが、このキュウリの馬とナスの牛の人形の由来について妙に納得する部分があったので、一度この馬と牛を作ってみることにした。残念ながら私はこういったお盆の行事を幼い頃に一度も経験したことがない。幼い頃にこういう経験をしていたら、お盆やこれらの手作り馬や牛についてはまた違った印象があったのだろうなぁ・・など思いながらも、作ってみると、今の自分でも何か響くものがある。牛が何とも豚のような牛になってしまったり、馬が首長竜のようになってしまったりはあるが、その愛らしい姿に魅かれるだけではなく何か感じるものがあるのだ。今は亡き愛する人や今の自分を護ってくれているご先祖様、これらの精霊が、お盆のこの時期にキュウリの馬でやってきてナスの牛に乗ってゆっくりと帰ってゆく、そして迎えた者たちはそういった精霊たちを敬い感謝の意を表す。そう考えただけでも、何か心洗われる気持ちになったりする。





お盆のこの時期、お盆休みを利用して海外や国内への旅行をする人は多いだろう。しかし今のこの時代になっても、全国の多くの会社が休みとなり、そして休みを取った人たちの多くが一斉に故郷に帰って亡き人やご先祖様を思い、手を合わせる。これは何百年と続いている我が国の伝統的な風習が今も生きているということ。それを大事にしているがための‘お盆ラッシュ’。そう思うと高速道路の大渋滞も見方が変わるのである。





お盆のある日、亡き人を偲び、土倉鉱山を訪れてみた。最近は土倉を訪問しても選鉱場にはあまり行かず、住居跡を主にまわる。幸い住宅の基礎や無雑作に積み上げられた柱、トイレの便器や流し台など、当時のものを思わせてくれるものが今でも一部残っている。住居跡の端にある、昭和34年の伊勢湾台風災害の慰霊碑にも訪れてみる。春に訪ねた時には花が供えられていたが、残念ながらこの時期は雑草が多く慰霊碑には近づくことができない。遺族や関係者の方が訪れたら「せめてお供えでも・・」と思われるだろう。しかし高齢者の方ではこの雑草や足場の悪さは大変危険で、とても近づくことは無理だ。慰霊碑ができた昭和35年当時は土倉鉱山にも多くの人が住んでいた。慰霊碑の周辺にも多くの住宅が建ち並び、こういう状況になるなんて思いもよらなかったことだろう。ただ今のこの状況、仕方ないとはいえ何とも恨めしく感じたりする。









まだ少し時間があったので選鉱場にも行ってみた。するとそこに5~6人ほどのグループ。小さな子どもからおばあちゃんまで、どうやら一族三世代の人たちのようだ。あいさつを交わすと一番年配の方から「土倉にいた人ですか?」と尋ねられる。「いえ、違いますよ」と答えると少し残念そうにされていたが、それをきっかけに少しお話をうかがう。この方たちは土倉鉱山で働いていた人たちではなく、下の集落に住まわれていたとのこと。幼い頃、土倉の子どもたちと同じ学校(杉野小学校)に通っていたという方は、懐かしそうに「土倉は都会でしたよ」と言われる。当時としては大変珍しい映画館や銭湯など、周囲の村々には無い進んだ施設は、幼い目には大変新鮮に映り、土倉に行くことがとても楽しみだったという。そして、お盆のこの日は、「なつかしくて久しぶりに見にきた」とのことだった。





伊勢湾台風時のことをうかがってみた。するとその方が「同級生の方が亡くなって、教室の机の上にお花を置いてあったのを今でもはっきりと憶えています。」「でも、まだ小さかったのでどういうことなのかはっきりとわかっていなくて・・」と語る。「9人亡くなりました。9人でしたよ。」と言うのは一番年配の方。もう50年、半世紀も前のことだが、この地で起こった悲劇のことが二人の中には今も強い印象として残っているということは、その口調からもはっきりとわかった。もう少しお話を伺いたかったのだが、真夏の暑い中、しかも小さなお子さんもおられるということもあり、早めに切り上げることにした。

土倉の出身ではないが土倉を懐かしみ、お盆のこの時期に訪れたこの方たち、雑草に覆われ崩壊が進みつつある選鉱場跡を前にして何を思ったのだろう。友だちとの懐かしい思い出、楽しかった映画館や銭湯のこと、にぎやかな住宅の風景とたくさんの土倉の人たち、そして閉山時に全国へ散っていった友だちとの寂しい別れ・・多くの思いとともに当時の映像が蘇っていたのかもしれない。今の荒れた風景しか見えない私にとっては、その頃の活気ある鉱山の風景と今の鉱山の風景が重なり合えることを少し羨ましく思ったりする。





お盆のこの時期、ここ土倉の地に帰ってくる精霊たちもあったのだろうか。もし帰ってきていたなら、きっと精霊たちもワイワイガヤガヤ、この地を懐かしんだことだろう。「おぅ!お前も来たのか?」「なーに、お前が寂しがるから来てやったんよ!」と元気な挨拶に始まり、懐かしい昔話に花が咲く。そして「また来年!」と最後に一言かわし、お盆が終わるとともに帰ってゆく。住居跡横を流れる川の音を聞いていると、そんな光景が次々と浮かんでくる。ふと、「ここにはナスの牛が無いから歩いて帰るのだろうか」などあらぬ心配をしてみたりするのも、お盆ならではのことなのだろう。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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