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#212 谷の集落へ嫁いだ、山の集落の花嫁さん IN 鈴鹿
~谷の集落へ嫁いだ、山の集落の花嫁さん IN 鈴鹿~






「うわぁ~、ここはなんて町(まち:「都会」の意)なんやろ~!」。これは今から約50年前、鈴鹿山中の山の集落『明幸(みょうこう)』から、同じく鈴鹿山中の谷の集落『河内』に嫁いで来られた若い花嫁さんが、嫁ぎ先の河内地区集落を見て思わず出たことばである。生まれてからずっと、麓の鳥居本中学校へ通う時以外、故郷『明幸』からはほとんど出たことがなかったという山育ちの花嫁さんの目には、嫁ぎ先の谷の集落の風景がとてもひらけていて町らしく見えたのである。

「でも、そう言ったら、みんなに笑われてしまったん。」と当時を思い出しながら懐かしそうに笑う。でもそう笑われたのも仕方の無いこと。若い花嫁さんを迎え入れた『河内』の人たちにとっても、自分たちの住む谷の集落はたいそう不便な山の村、決して町なんてことばが似合うはずのないということがよくわかっている。花嫁さんを迎えた人たちはきっと「こんな田舎を町やなんて、おかしいなぁ~」と思いながらも、そのように言う『明幸』からの花嫁さんをさぞかし可愛らしく感じられたことだろう。このエピソード、『明幸』という集落が当時それだけ山深く不便な所だったということがよくわかる。





この話、2010年の大晦日に芹川上流の河内地区を訪れた時、そこにお住まいのオバチャンとの雪の中での立ち話でうかがったものだ。前回のこのコーナーでご紹介した、雪かきをされていたオバチャンである。この時の30分くらいの立ち話の中で、「うわぁ~、ここはなんて町なんやろ~!」と「でも、そう言ったら、みんなに笑われてしまったんよ。」ということばは、何度も出てきた。嫁いで来られてもう半世紀も過ぎているのに、やはり今でもそのことが本当に強い印象として残っているのだろう。そして、そのことばを言う時に出るオバチャンの笑顔は、当時のほのぼのとした様子をよく伝えてくれる。きっとその頃は『河内』の風景も、今とは全く違うにぎやかで活気ある風景が広がっていたのだろう。そのことも笑顔の向こうに感じられたりするのである。





『明幸』は、明治7年までは『明幸(妙幸)村』、その後『武奈村』の大字となり、明治22年に『鳥居本村』に編入されて昭和27年に彦根市となった集落。したがってオバチャンが幼少期をすごされた時は鳥居本村の大字『武奈』の字『明幸』、嫁がれた時は彦根市武奈町の『明幸』だったということになる。10戸にも満たない小さな集落も、すでに廃村となってから長い年月が過ぎ、もう家屋は一軒も残っていない。今は倒れかかった蔵や石垣、神社の祠などがわずかに残るだけ。そこの子どもたちが通っていた小学校、鳥居本小学校武奈分校がこの『明幸』に在ったのだが、それも今は姿は無く、分校跡の石碑と、その時のものだろうかトーテムポールの残骸だけが残る。武奈分校は昭和49年12月に閉校,翌昭和50年1月に休校となっている。分校の建物そのものは平成元年時にはまだ健在であったようであるが、残念ながら私はその姿を実際には見ていない。そればかりか、当時の校舎の写真もあまり目にすることはない。小学校が無くなり人が去ったのか,人が去ったから学校が無くなったのか、いずれにしても廃村となったのも閉校になった頃だと思われるので、『明幸』に人が住まなくなってもう30年以上もの年月が過ぎたことになる。









一方、オバチャン(花嫁さん)の嫁ぎ先となった『河内』は、その昔は『河内下村』『河内中村』『河内宮前村』『河内妛原村』の四村に分かれていたが,明治7年に合併して河内村、その後、明治22年に芹谷村の大字『河内』となり、昭和16年に多賀町の大字となっている。したがってオバチャンが嫁いできた当時は、すでに犬上郡多賀町の『河内』だったということになる。ここを訪れると今も昔の名が残っており、『河内下村』『河内中村』『河内宮前』『河内妛原』などの文字の消えかけた表示板を見ることができる。地元の方は、それぞれから‘河内’を取って『下村』や『宮前』というように呼んでいるようだ。ちなみに有名な河内の風穴は『河内宮前』にあり、ここには以前に芹谷分校にあった二宮金次郎像が今でも大切に置かれ、訪れる者を和ませてくれる。しかしこの芹川上流の美しい集落郡も全国の山村同様に過疎化が著しく、『妛原』より上流はすでに冬期は無住集落で、除雪なども行われることはない。時代の流れとはいえ、この先を考えると何とも寂しく感じてしまうのである。









で、オバチャンにうかがった話を少し紹介。このオバチャンのご実家は武奈分校のすぐ横で学校まで徒歩1分もかからない便利な所だった。といっても『明幸』自体が小さな集落だったので、ここに住んでいた子どもたちのほとんどが「学校まで徒歩1分以内」ということになってしまう。便利だったというか、もう学校も家みたいなものだったのかもしれない。分校には『明幸』の他『武奈』『男鬼』の集落の子どもたちが通っていた。オバチャンが通われていた当時、全児童数は「30人くらいやったかなぁ・・」というから、山の中の分校ということを考えるとかなりのものである。しかし、3つの集落の子どもたちがそこでどんな生活を送っていたのかを思い浮かべようとしても、今の分校跡の寂しさからはどうしてもイメージすることができない。いずれにしても、山一つ越えて通わなければならない『男鬼』の子どもたちに比べると、『明幸』の子どもたちは通学という面ではずいぶんと恵まれていたことになる。









ところがこの便利さは中学生になると一変する。麓の鳥居本中学校まで何と片道約2時間の徒歩通学となるのである。しかも通学路は昼でも薄暗い山道。もちろん、今のような車の通れる道があるわけではない。「暗くなるから懐中電灯を持って行くんよ。」と普通に話されていたが、今の時代から考えると本当に危険でとんでもないことだ。「怖くなかったですか?」と聞いてみたが「一人やないしね、10人ほどいたかなぁ・・怖いなんて思ったことないよ。」と返ってくる。朝は6時過ぎに家を出てひたすら山道を下り、帰りは同じ道をひたすら登って帰ってくる。日の長いうちは良いが、日の入りが速くなると帰る頃にはすっかり暗くなってしまう。そして先程の「懐中電灯の出番」ということになる。

今、周辺の山道を訪ねると、鳥や獣の声、そして風に揺れる木々の音などがたまに聞こえてくる程度で、静寂な山中というのを強く感じる。そういった中、子どもたちだけで暗くなった山道を懐中電灯を頼りに延々と歩いていた姿を想像すると、なんとも言えない思いがこみ上げてくる。ただ、誰もいなくて待っている人もいない所へと続く道と、誰もいないが待っている人がいる所へとつながる道とでは、同じ歩くにもずいぶんと気持は違うだろう。そして当時は待っている人がいる所へ続く道だった。山中を歩いていた子どもたちは、案外今の周辺の風景から想像するような寂しさは感じていなかったのかもしれない。そのことを話すオバチャンからも寂しさは伝わってこなかったのは、人柄ももちろんあるだろうが実際、寂しさをそんなに感じていなかったからなのだろうと思ったりもする。





この他にも『明幸』や『河内』などについてなど少しお話をうかがったのだが、最後に「今でも、明幸に行かれたりしていますか?」とうかがってみた。すると「もう10年くらい行ってないよ。誰もいないし、何も無いし・・帰ってないねえ。車に乗ってる頃は行ったりもしてたけど・・」というお返事が返ってきた。そして、この『誰もいないし」ということばが、なぜか心に残った。廃村となっているから人がいないのは当たり前。しかしそのことだけを言っているのではないということが伝わってくる。そしてそのことばの裏に、長い長い時間の流れを感じたりするのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2011/01/22 19:09】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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