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#221 「保月」にて  関ヶ原踏破隊 2012
~「保月」にて  関ヶ原踏破隊 2012 ~






8月の最初の土曜日、滋賀県犬上郡多賀町の集落「保月(ほうづき)」を訪れた。本サイトの廃村 「五僧」「保月」の項に少しふれている、鹿児島県日置郡伊集院町(2005年の合併で日置市となる)から毎年この時期にやってくる関ヶ原踏破隊を見るためだ。以前からずっと「見てみたい」と思っていたのだが、なかなか日程が合わず、これまで残念ながら見ることができていない。多賀町で行われている万灯祭の日に、島津越えルートである「時山」→「五僧」→「保月」→「杉」のルート(通称「島津越え」「五僧越え」)を通るということを聞いていたので、今年こそはと見当をつけて訪れてみたのだった。





関ヶ原踏破隊について少しふれておく。この日、踏破隊の方にいただいた説明資料には、踏破隊の目的として以下のように書かれている。
『私達は、鹿児島の青少年で、温故知新の旗をかざして、陣羽織の勇壮な姿で、昭和35年から毎年、岐阜県の関ヶ原から多賀町、大阪まで踏破しています。
慶長5年(1600年)に、天下分け目で有名な関ヶ原合戦で西軍は、東軍に敗れて、伊吹山方面に逃げましたが、私達の先輩、薩摩の武士達だけは、頑として抵抗し、最後には敵に後を見せるのは、武士の恥とし、正面の敵の中央を突破して四日三晩、大変な苦難を克服して、大阪の堺まで辿り着きました。その時の祖先の勇気と根性を忘れないように、今でも毎年関ヶ原合戦を記念して、「妙円寺詣り」のお祭りが開催され、鹿児島市を始め、近郊近在の青少年を中心に10万人くらいの人々が、島津義弘公の菩提寺跡、伊集院町の徳重神社まで、約20kmの片道、あるいは往復を歩いてお参りしてます。
又、一方、町内の青少年、千数百名が炎天下に鹿児島から伊集院までの妙円寺詣大行進も年々充実し、伝統的行事になってきました。
私達踏破隊は、夏休みを利用して、慶長の関ヶ原戦をしのび、島津勢退路の駒野峠~島津越観の70kmを2日間で踏破して、関ヶ原戦、薩摩義士等の史跡や偉業に直接触れて、薩摩の先輩の生き方を学ぶ、自己錬磨の貴重な体験学習の旅であり、又、この伝統行事を後輩に継承して行く使命を持つ旅でもあります。』





このような目的を持って行われている関ヶ原踏破隊は今回ですでに53回を迎え、50年以上もの長い歴史を持つ伝統ある行事となっている。その間、少しずつ形を変えてはいるが、その目的としている部分は今も変わることは無い。一年の中で一番暑さの厳しいこの時期に、島津隊が命がけで通ったであろう道と同じルートを歩く。関ヶ原の合戦で敗れた西軍の各隊が敗走していく中、敵に後を見せること無く、誰もが予想だにしない中央突破を敢行した島津義弘、その主君を思い自らの命を顧みること無く義弘公の命を守った薩摩の武士たち、そして多大な犠牲を出したものの見事帰還を果たしたこれら郷土の英雄たちは、400年以上たった今でも地元の人達から讃えられ、その魂が語り継がれているのである。













この日、何の下調べも無く「多分この日に踏破隊が通るだろう」という見当だけで、まず現地へ向かった。「大君ヶ畑」を越えた所にある権現谷林道起点から北に向かい、「五僧」と「保月」を結ぶアサハギ林道に入った。お昼前のことだ。ここから見える谷と霊仙山の景色は素晴らしい。その景色を味わいながらしばらく待ってみたのだが、踏破隊がやってくる気配は全く無い。もしかして日を間違っているのかもしれない、ということで「保月」まで行って情報を得ることにした。「保月」に着いてまずは集落の様子を写真撮影する。すると、いつも閉まっている寺(照西寺)の扉が開いている。中から「大きなカメラ持って、何を撮影しているんや?」という声。見ると男性が2人。いつものように「山の集落を・・」と答えると、「寺の中も見るか?」のことば。滅多に無い貴重な機会、それに甘えることにした。そして寺の中を見せていただきながら、お2人に「保月」に関してのいろいろなお話をうかがったが、それについては次回のこのコーナーで紹介させていただこうと思う。





お話をうかがっていく中で、「鹿児島から来た関ヶ原合戦の踏破隊が3時頃にここを通るから、見ていかれたらどうや?」のことば。「それなんです。実はそれを見たくて今日ここに来たんです!」ということで踏破隊が到着するのをしばらく待つ。3時を少し越えた頃だっただろうか、「きた、きはったでぇー!」という声の方を見ると、島津藩の家紋である丸に十字の書かれた「チェスト行け関ヶ原」ののぼり旗の一行が姿を現した。子どもと大人合わせて総勢20人程のそれぞれが、釣りなどによく使われる風通しの良い三角帽子をかぶり、手には杖兼用の島津藩の紋入りの旗を持ち、こちらに向かって歩いてくる。カメラを向けると驚いたようで、「わー、カメラー!」という感じで子どもたちの笑い声が聞こえる。「お疲れさまですー」と声をかけると「こんにちは」という声が返ってくる。この日も炎天下の中、朝から歩き通しているので表情に疲れも見えるが、みんな元気そう。ここ「保月」では、村の人たちが集まり、一行の到着を待ってお茶菓子の用意をされている。そして寺の前で一行はしばらく休憩を取り、出されたお菓子を食べたり水分補給などをする。出発前には、「チェスト行け関ヶ原」ののぼり旗と一緒に、子どもたちが1人ずつ記念写真を撮り、最後に踏破隊と保月の人たち全員で記念写真。これには厚かましく撮影に便乗させていただいた。この後一行は、「保月」と「杉」の間にある地蔵峠の地蔵さんに感謝状を読むというが、残念ながら今回は時間の都合で見ることができず、またの機会となる。





















踏破隊には、伊集院町の小学5年生から中学1年生までの子どもたちの希望者が参加している。今回は13名の子どもと6人の指導者で隊が結成され、少ないながらも女の子の姿も見られる。ある子どもに「どうしてここに参加しようと思ったの?」と聞いてみると、「歴史が好きで・・」という言葉がすぐに返ってきた。その時の薩摩弁が思い出せず、聞き取ったままのことばで表現できないのが残念だ。この遠く鹿児島からやって来た13人の子どもたち、きっと島津義弘公の薩摩魂に憧れて参加を決めた人も少なくないだろう。中には、小5から中1までの3年間に、複数回参加する子ども達もいるという。さらに親子二代に渡って参加するという子どももいるそうだが、そこには50年という歴史の長さを感じたりもする。ちなみに中2以上の参加が無いのは、部活動などが忙しくなってくることへの配慮だという。また、指導者の方々は複数回参加されていれる方が多いが、なんと21回も参加をされている方もおられた。指導される方は、ほとんどがボランティア活動であると思われるが、そうした中での21回もの参加は本当に驚きだ。おそらく郷土の英雄を偲ぶこの行事への参加の意義を感じるだけではなく、何とも言えぬ達成感、またご自身への挑戦のような思いなども持たれての参加なのかもしれない。それにしても21回も続けるということは誠に見事で、ただただ感服する思いである。









日程表をいただいたので簡単に紹介してみる。今回この踏破隊は4泊5日での実施だ。

1日目は、朝の6:50に伊集院駅に集合し九州新幹線の鹿児島中央駅へと向かう。そこから新幹線にのり新大阪で乗り換え滋賀県の米原駅に着くのが13:23。九州新幹線が開通してからは、このあたりの日程はずいぶんと楽になったのではないだろうか。そしてそこから合戦の地、関ヶ原へと向かう。関ヶ原では役場で挨拶をすませた後、資料館や関ヶ原合戦の史跡などを訪れ、島津隊の縁の地では祭文を読み上げる。この日は、そのまま関ヶ原で宿を取る。
2日目は6:00起床で、薩摩義士の墓参りで各地域を巡る。薩摩義士とは、宝暦3年((1753)に揖斐川、木曽川、長良川の治水工事の為に、遠く薩摩よりやってきて、多数の犠牲者を出しながらも大変な難工事を立派に成し遂げた薩摩の人々のことで、今でも工事の行われた周辺地域では、寺や神社に眠る薩摩の霊を大切に祀っているという。ここにも薩摩魂があったのである。
3日目も6:00起床で、この日は島津隊の背進ルートの前半である『駒野越え』を歩く。表伊勢街道の駒野から養老山地を越える、約35kmの道のりで、最終地は鈴鹿山脈の集落、上石津町となる。
4日目は島津隊の背進ルートの後半で、岐阜県の上石津町から滋賀県の多賀町へと至る約35kmの道のりだ。出発前に、島津隊の退却戦の際に先鋒をつとめ、さらには義弘を逃すためにシンガリで追撃してくる東軍と果敢に戦い、遂には命を落とした島津豊久の墓のあるカンリ薮や、位牌がおさめられている瑠璃光寺を訪れる。そして鈴鹿山脈を越える島津越え(五僧越え)で、「時山」→「五僧」→「保月」→「地蔵峠」→「杉坂峠」→「栗栖」とたどり「多賀」へと至る。
最終日の5日目は、多賀駅から近江鉄道で彦根まで行き、そこから新快速で大阪城へと向かう。そして踏破隊としての旅は終わる。後は新幹線で遠く鹿児島へと帰ってゆくのである。









以上のように日程はかなりハードである。というか一番暑いこの時期を考えると思いっきりハードだ。それだけに成し遂げた時の達成感は大変なものだろう。最終地点の大阪城では万歳をするようだが、きっと心の底からの「バンザーイ!」が聞かれるはずだ。やった者にしか決して味わえないもの、子どもたちの中にもこの貴重な体験は、この先もずっと残っていくに違いない。なお、多賀町と伊集院町は、この踏破隊が縁となって昭和59年に兄妹都市交流が始まっているが、多賀町の他にもこの踏破隊が縁となって姉妹都市交流が始まった町があったり、周辺の人たちが共感してこの行事に協力したりするなど、いろいろな地域の人たちも交えての行事となっている。当初は数人の有志で始まった踏破隊が、こうして多くの人の共感を得て、50年以上も続く伝統ある行事になっていることに、何とも感動する次第だ。









それにしても、この関ヶ原の合戦においての島津隊の取った行動は、実に見事としか言い様がない。まさにサムライ、そんな感じがする。様々な思惑を持って集まった西軍の各隊の中で、最後まで薩摩魂を忘れること無く前を向き、敵さえも絶賛せざるを得ない中央突破を試み、それを成し遂げ故郷の地へ帰還した。今なお地元の人達だけではなく、多くの人から敬意を持って愛され続けられるのもただ納得である。島津義弘公も、まさか何百年後のこの時代になってまで語り継がれるなど予測もしていなかっただろう。毎年、功績を讃える行事が行われ、それに自分の意志で参加しようという薩摩の子どもたちの姿を、義弘公も大いに喜んでいるに違いない。









普段は人の姿がほとんど無く静まり返っている「保月」集落が、この時はにぎやかになり、子どもたちの声が響く。なんとも素晴らしいことだと思う。鹿児島からの子どもたちの目には、この静かな村がどのように映ったのだろう。もしかすると子どもたちが大人になる頃には、「保月」は大きく姿を変えてしまっているかもしれない、など考えると寂しくなるが、踏破隊の体験を思い出す時、この滋賀県の多賀町にある小さな山の集落のことも思い出してくれたとしたら、それは嬉しい限りだ。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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