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#222 「保月」 井原耕造氏の写真
~ 「保月」 井原耕造氏の写真 ~





井原耕造氏:撮影


前回のこのコーナーで「保月」での関ヶ原踏破隊のことをご紹介したが、その中で「保月」のお寺「照西寺」でお出会いしたお二人の方について少しふれた。今回はそのお二方にうかがったお話や、見せていただいた貴重な写真について紹介させていただく。

私が踏破隊が通るのを待っている間に「保月」集落の写真を撮ろうとウロウロしていて、その時にお寺の中のお二人から「大きなカメラ持って、何を撮影しているんや?」と声をかけていただいたというのは、前回書いたとおり。この日お二人は、関ヶ原踏破隊を迎えるために「保月」に帰って来られており、その時はお寺の準備も終わって踏破隊の到着を待っているところだったようだ。

「中を見るか?」
「お寺の中、見せていただいていいんですか?」
「どうぞ。そうぞ」

ということで、思わぬ展開で急遽お寺の中を見せていただくことなった。以前から一度見てみたいと思っていたので嬉しい限りだ。住職がいなくなってもうかなりの年数が過ぎていることもあり、さすがに古さは隠せないものの、何百年に渡り地元の人々の信仰の場となっていただけに、中は何とも厳かな感じがする。太く立派な柱、そして柱に吊るされた大きな太鼓。いずれも長い歴史を感じさせてくれる。




お寺の中に「保月」の全景を写した写真が飾られていた。そのことをうかがってみると、そのうちの1人の方が撮影されたものだという。「わしもここの写真を撮ってるんや。」ということをうかがい、あることをふと思い出した。実は本サイトの廃村「保月」のページを制作するにあたって、井原耕造さんという「保月」の方から写真をお借りしている。といっても直接ご本人からお借りしたものではなく、多賀町立博物館で催された「多賀のむかしの写真展」で展示されていたのを私自身が撮影して、本サイトで使わせていただいたものだ。使用にあたっては、サイトでの写真使用の許可を得るためにまず博物館に連絡をし、博物館の方から井原さんに連絡を取っていただいたという経緯だったため、その時、撮影者の井原さんとは直接お話しすることは無かった。

そこで「失礼ですが、もしかすると井原さんではありませんか?」と尋ねてみた。すると驚いたように「そうですが・・」というお返事。で、「実は私は以前、井原さんにお世話になっている者です。ホームページで井原さんのお写真を・・」ということの経緯を伝えると、井原さんもご自分の写真がサイトで使われていることを、息子さんに聞かれてご覧になっていたようで、「ああ、あの時の・・」ということで、すぐに事態をわかっていただいた次第だ。「家の方にも写真があるから見せてあげるよ」ということばにも甘えさせていただき、お寺近くの自宅の方にもお邪魔して、貴重な「保月」の写真を見せていただくことができた。以下にご紹介する井原耕造さん撮影の写真は、いずれも昭和40年代以降に撮影されたもので、正確な年月は明らかではない。また額装のものを私が複写したものなので、ガラスに光が反射していたり、カメラレンズの歪みがあったりしている。それを考慮した上でご覧いただければと思う。




井原耕造氏:撮影


「保月」集落全景の写真。照西寺の大きな屋根の上の方に脇ヶ畑小学校の姿が見える。そういえば中学校の写真は残っていても、これまで小学校の写真を見たことが無い。したがって私の中では幻の小学校であったが、これを見ると、遠景ではっきりとはしないものの小学校の様子がわかる。




井原耕造氏:撮影


役場の写真である。当時、建物には役場、郵便局、森林組合が入っていた。脇ヶ畑村だった頃は村役場、多賀町と合併して以降は多賀町保月支所となっている。写真ではこれまで崩れかけているものしか見たことが無かったのだが、木造の立派な建物であったことがわかる。下の写真は現在の役場跡。雑草の斜面にはコンクリート基礎の一部が残っている。また、手前にある大きな木は切られて、今は根だけが残っている。









雪の脇ヶ畑中学校の写真だ。これも木造の立派な建物だが、現在は取り壊されて手前のトイレだけが空き地の隅に小さく残る。




井原耕造氏:撮影


空き地に残るトイレ。ここには学校跡地の石碑もあるが「脇ヶ畑小学校跡」と刻まれており、間違った碑になってしまっている。正しくは中学校跡だ。









五僧側から照西寺への道を見たところだ。道は舗装されていない。手前の茅葺き家屋の痛みはかなり激しい。




井原耕造氏:撮影


右端に見える茅葺き家屋は、今もトタン屋根がかぶせられて健在である。





雪の茅葺き家屋。これも一軒の屋根はかなり損傷してしまっている。もう一軒の方も壁は土壁がむき出しとなっているところを見ると、もはや手入れはされていなかったように思える。




井原耕造氏:撮影


屋根に無数に咲くユリの花。ここももう人の手は入っていないように見える。




井原耕造氏:撮影


この日「保月」をまわってみると、やはり同じように崩れかけた家屋の屋根に咲くユリの花を見ることができた。つい最近まで人の温もりが感じられていた家屋だけに、寂しさは隠せない。それにしても自然はたくましい。こうして自然と同化していくのだろう。





そしてこれは「保月」と「杉」の間にある地蔵峠。荷物を背負ったもんぺ姿の婦人が「保月」へと帰っていく様子だ。町で買い物をした帰りだろうか、実に素晴らしい貴重な写真だ。道はまだ未舗装。この頃には「保月」にも毎日の生活があったのである。この日お話をうかがったもう一人の方の幼い頃には、この五僧~保月~杉の道は、多賀大社詣りなどに行く人の多くの往来があったという。また、その頃に今の道の工事がされており、それまでは今の「栗栖」へと下りる道ではなく「八重練」へと下りる道であった。その山道を、男は5俵、女は3俵の炭俵を担いで下りたということだ。




井原耕造氏:撮影


地蔵峠は今も祠、と地蔵さまが健在。家が無くなり、人が去っても地蔵さまはいつまでもその地を守り続ける。
そして、今も祠の前には真新しい花が供えられる。





最後は、このコーナーのトップでも使わせていただいた朝もやの中の「保月」の風景。朝もやの中に浮かぶ家屋のシルエットが本当に美しい。朝日に照らされて、屋根の茅に含まれていた水分が湯気のように立ちのぼる。真ん中の家屋は既にトタン屋根がかぶせられている。




井原耕造氏:撮影


この日、写真を井原さん宅で見せていただいた後、教職員住宅が道沿いだけではなく、小学校跡下にもあるとうかがい案内していただいた。こちらは夏場は大変な雑草で覆われてしまうためなかなか姿を見ることができないが、建物は健在で部屋の蛍光灯などもそのまま残されていた。













現在お住まいの自宅の方には「保月」の写真がもっと残されているということであったが、機会があったらぜひ見せていただきたいなど感じる。次から次へと消えていく里山の風景や山の集落。しかしこうして記録に残されている方もいるということにホッとするとともに、大変嬉しくも感じた。これらの貴重な写真がもっともっと多くの人に見てもらえる機会があることを切に望む。それらの写真を見て「懐かしいなぁー」と感じるだけでなく、かつての風景に触れることで、もっともっといろんなことを知りたく感じたり、今の時代に失われてしまったものを感じたりなど、時代を少しだけでも振り返ってみる機会になるような気がするのである。今回踏破隊を見に行く目的で訪れた「保月」。そこで思いもよらずこのような機会を与えてくれたお二方には、心より感謝いたします。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2012/10/30 19:44】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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