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#225 開拓者
~ 開拓者 ~






太平洋戦争の敗戦(1945年)により荒廃した日本、数百万人にものぼる失業者へ職業と食料を与えるため、政府により緊急開拓事業が実施された。滋賀県内においても40以上もの地で開拓(開墾・干拓)事業が進められ、県内外から多くの入植者たちが、明日への夢を抱いてそれぞれの開拓地へと入っていった。しかし戦後の混乱した時代のこと、開拓地といえば聞こえがよいが、現実には、これまで手をつけようにもつけられない環境にあった山林や原野という所も少なくなかったようだ。
大雪や低温、獣害など自然環境の厳しさ、土地そのものの不適、交通の便の悪さ等々、手つかずになっていた原因がそれなりにある所、そこを開墾し、荒れ地を農地に変えて生活の場を築くのは容易なことではない。それに加えて、入植者たちも十分な情報や準備を得て現地に入る余裕なども無く、まともな道具もほとんどない中での開拓生活は困難を極める。その大変な苦労と努力の末に実を結んだ所もあれば、いかなる努力をもってしても苦難しか残らなかった所もあり、それぞれの開拓地で悲喜様々なドラマが展開していたのである。今回はその時期に入植された方のことを少し紹介する。





秋晴れのある日、滋賀県と福井県との県境近くにある山間部の地を訪れた。それは『新、ふるさと事情(著者:熊谷栄三郎/ 朔風社)』という本に紹介されていた、ある開拓村のその後を確認したかったからだ。この本は、筆者である熊谷栄三郎氏自らが訪れた、京都や滋賀の山間集落の紀行文で構成された短編集で、紹介されている山村の中には後に廃村となっている所もある。いずれもが当時の状況がよくわかる大変貴重なものだ。この本が記されたのが1980年代の初めなので、もう30年も前。その開拓村も当時とはずいぶんと状況も変わっていると思われ、その後どうなっているのかこの目で確かめてみたかったのである。









開拓村があったのは、古くは街道として拓けた山越えの道の途中で、この書の中ではそこに住む一人の開拓者(当時74才)のお宅を訪問した時の様子が紹介されている。おそらくこのあたりであろうと思われる所へ行ってみたが、周辺に人家らしきものは見当たらず原野が広がっているだけ。カメラの望遠レンズで見てみると、のび放題の雑草の中に家屋らしきものの柱や壁の残骸と思われるものが見えるが、それがその開拓者のお宅だったといえるような根拠は見いだせない。また近づくには、あまりに自然にかえりすぎている感じがしてそこに踏み出す勇気も出ない。本に書かれていた方の年齢から考えると、やはり、家の主を失うとともに家屋も崩れ、開拓前の原野へ戻ってしまったとみるのが自然なのかもしれない。そこで確認してみようと、そこから少し離れた所にある数軒の人家のある方へ行ってみることにした。









2~3軒の家屋が建ち並ぶその地へ近づくと、庭で畑仕事をされている女性の姿が見えた。早速挨拶をして、開拓村のことをきいてみる。すると、先程私が行ったあたりにも以前は開拓者の方が住んでおられたという。「わたしより、お父さん(旦那さまのことです)の方が詳しいからきいてみて。家にいるから。」ということば。「それじゃあお邪魔します。」ということで、お宅の方へ向かい玄関から「ごめんください。」と声をかける。すると出てこられたのが、ここの主で89才になられるという男性の方。いつものように「山の集落が好きでいろいろ調べている者です・・」と簡単に自己紹介をしてお話をうかがう。





まず『新、ふるさと事情』に書かれていた、ここより少し奥にあったと思われる開拓者のお宅についてきいてみると、やはりだいぶ前に無くなってしまって今はもう無いとのこと。そして「わしも富山からきたんや」ということばに驚く。そういえば『新、ふるさと事情』にも、富山からの入植者があったとも書かれていたが、この方がそうだったのである。本に書かれていた開拓者と同じ頃に入植された、やはり開拓者だったのだ。そして「富山の大勘場(だいかんば)から来た。」ということをうかがい、さらに驚く。そこは数年前に私も訪れた所で、岐阜県境近くの利賀村(現在は南栃市)の最奥となる大変な山奥の集落。私自身、大変気になっていた所でもあった。









この方は終戦後の昭和21年に南方より復員され、昭和25年にここに入植されている。富山を離れて、もう60年あまりにもなる。当時の『大勘場』は16軒ほどで合掌造りの家屋もあったというが、その頃はまだ奥に『水無』という集落があったので『大勘場』は最奥の集落ではなかった。「水無は5~6軒の合掌集落やった。よく行ったなぁ」というように山の集落同士のつながりは深かったようである。不思議なもので、その方の『大勘場』の生家が、現在、同じ滋賀県の大津市に移築されて蕎麦屋に生まれ変わっているそうだ。屋根にトタンを被せられてはいるものの立派な合掌造りの家屋、「中身は変わってなくて懐かしいー。」というから、遠く離れた滋賀の地で、生まれ育った我が家を感じることができる何とも不思議なご縁だ。ちなみに『水無』から西に向かうと、これももう早くから廃村となった岐阜県白川村の幻の合掌集落『牛首』が、当時まだ健在であった。









その方に、この地での開拓の様子をうかがってみることにした。昭和25年に一番に入植した時は5戸あったというが、途中でやめてしまったりするところなども出て戸数を減らす。しかし、この方が富山から親戚を呼び寄せるなどして最終的に5戸の集落となるが、やはり社会の移り変わりとともに現在は3戸となっているそうだ。
入植した当時は付近一帯が笹に覆われた原野・山林で、機械は無く全て人力で開墾作業を行うしか術はなかった。朝5時に起きて夜の9時になるまで働き続けたというから、何とも過酷な毎日が続いていたのである。それでも努力と苦労が実を結び、やがて周囲が驚くほどの米の収穫を得るようにもなったというから、今の時代からは計り知れない努力がそこにあったということは想像に難くない。今、家屋の建ち並んでいるあたりはひらけた風景が広がっており、原野のイメージはほとんど無い。しかし周辺の山々を見ると、開拓される前の現地の様子が何となくイメージできる。それを見るとやはり、人力のみで切り拓き、生活の場を築き上げるまでに費やした努力と苦労が並大抵なものでないことが、よくわかる。山深き故郷『大勘場』で培った生活力、そして根気や忍耐強さが、この地を築く上で大きな力になったことだろう。





途中、酪農もされていたそうだ。13頭ほどのホルスタインを飼っていたが、そのための生活は大変厳しく、朝早く起きてきっちり時間を決めて搾乳しないと乳が出なくなるので、休むことは全く許されなかった。眠る間も無い中での開墾作業と酪農。遂には大切な家族が病で倒れることとなってしまい、それを機に断念されたという。今もその頃に使っていたサイロ跡が残るが、そこには開拓者の歩んできた苦難の歴史を見ることができる。

こんな話もうかがった。子どもさんが小学校に通っている時のこと。小学校までの6kmもの道のりを、国道を歩いて通う。その当時、トラックがよく通っていたそうで、中にはいつも通る子どもたちと顔見知りになるトラック運転手もある。そのトラックが来るのを見ると子どもたちがサッと手を挙げる。するとトラックが止まって、乗せていってくれたそうである。まず疑うことから始めなければならない今の時代からでは考えられないことだが、温かい昭和の風景として何かすごく懐かしく感じてしまう。「おう、ぼうず!乗れや!」という威勢のいい運転手と、「おっちゃん、ありがとー!」とお礼を言う子どもたちの姿が目に浮かぶ。





生まれ故郷の『大勘場』に行かれることは、今ではほとんどなくなってしまったという。「行こう、と約束した人たちも先におらんようになってしまって、残っているのは自分ともう一人くらい・・」のことばに、積み重ねられた年月の重さを感じる。原野から切り拓き、60年以上も住み続けたこの地だが、やはり故郷は「大勘場や!」と即答。この地に祀られている八幡宮、そういえば『大勘場』も八幡宮。故郷を思う心はいつまでも変わることがない、そういう思いを感じる。「故郷の風景で一番思い出されるのは?」という質問には少し間を空けて、「釣りをしていた風景やな。50cm級の岩魚がたくさん釣れたなー。」という答えが返ってきた。この時、その方の中には故郷の風景がいくつも思い浮かんでいたのかもしれない。そして私も、その釣りをしていたという山深き地の風景をイメージしてみる。すると、無性に『大勘場』へ行きたくなってきたりするのだった。

お話をうかがったのは小一時間くらい。突然の訪問の見ず知らずの者に対して、とても丁寧に話していただいた。その上、帰り際に「おーいお茶」まで頂いてしまって、ただただ感謝である。





それからしばらくして『大勘場』(正確には‘奥大勘場’)を訪れてみた。以前訪れた時は写真撮影もできていないので今回はじっくりと写真撮影もしてみた。どこで釣りをされていたのだろうと探してみたが、山の中腹にある集落なので周辺に釣りができるような川は見当たらず、結局、思い出の風景の場所はわからなかった。谷に下りるには大変だし、もしかするとお話にも出てきた『水無』方面なのかもしれないなぁ、など考えながらあちこち撮影する。













集落内をうろうろしていると分校跡にオバチャンの姿が見える。早速うかがってみる。「ここから滋賀県の開拓地に入植された方がおられまして・・」と切り出すと「あ、それ○○さんやろ!よう知ってるわ。あそこに家があったんやわ」とすぐに返答がかえってきた。小さな集落だったとはいえ、60年もの歳月が流れているのにすぐにわかったことに何か感動。人同士のつながりも深かったんだろうなぁ、など感じる。「ここは涼しいよ。夏でもクーラーなんかいらんし。」という山の集落『大勘場』、今でも人々の生活はあるが、やはり空き家や更地などが目立つ。そんな、もの寂しく感じる集落の風景の中で、八幡宮のしかめっ面の狛犬の頭の上にバッタが乗っていたのが何かおかしく、ホッとする。












『大勘場』をあとにする頃、まだ4時前だというのに山なみに日が沈もうとしていた。その日を浴びて鈍く光る山なみを見ながら、60年前にこの村を離れ滋賀の開拓地へと入植を決意された頃は、いったいどのような風景がこのに広がっていたんだろう、など考える。魚釣りをした子どもたちが、沢山の岩魚を抱えてにぎやかに帰ってくる姿が普通に見られた風景は今は無い。しかし、その頃の元気溢れる村の姿をイメージしてみると、子どもたちの元気な声が谷合に響いて聞こえてくるような気もする。そして、富山の山深い地の集落『大勘場』と滋賀の県境の山の開拓地、大津のにぎやかな通りにある合掌家屋の蕎麦屋など、一見なんのつながりのないこれらのものが、実は長い年月の中でつながっていることなども何か不思議に感じたりもした。













今回ご紹介した方は、戦後の緊急開拓事業の中で計り知れない努力の末、苦難を乗り越えて結果を出されている。しかし冒頭にもふれたように、この緊急開拓事業については、その場所場所により悲喜様々なドラマが展開していた。というか、もしかすると全体を見れば、喜の部分は僅かだったのかもしれない。苛酷な労働のため愛する家族を失い、命をすり減らす努力と苦労を重ねても何も残らず借金だけが残り、村をあとにした人たち、結果として新しい村を作り上げたものの、借金返済に人生を捧げることになった人たちなども存在する。そして、それらの悲しい歴史のしみ込んだ大地が、滋賀県にも多く存在していることを忘れたくないと思うのである。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2012/12/31 19:30】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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