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#227 「次郎九郎」を訪ねて
~ 「次郎九郎」を訪ねて ~






滋賀県甲賀市の神(かむら)にある集落「次郎九郎」を訪れた。2年前の春に訪れて以来のことだ。以前のこのコーナーでもふれているように、正式な集落名としての「次郎九郎」は存在しない。また小字名としてもこの名は存在しないので、「次郎九郎」という呼び名は俗称ということになる。旧地名でいえば、滋賀県甲賀郡甲賀町の大字「神」の小字「藤木」、その「藤木」の北部にある小高い山を越えた僅かな川沿いの平地に、その小さな集落はあった。野洲川に注ぐ次郎九郎川の源流に近い所だ。残念ながら、今は崩れかけた家屋が一軒とプレハブが一棟、かつては村の季節を彩ったであろう柿の木、そして村の共同墓地などが残っているだけで、住む人はもういない。









桃源郷を思わせるような静かで美しかった山村「次郎九郎」に、周辺の山林や田畑跡地が大きく切り拓かれて大規模な産業廃棄物最終処分場「クリーンセンター滋賀(平成20年10月開業)」が建設されたのは、ここ数年の内のこと。これにより周辺の風景は一変した。すでにもう人が住まなくなってかなりの年数が過ぎていたとはいえ、その変貌ぶりには驚かされた。今ではその巨大で荒々しく現れたモンスターのような施設に追いやられるようにして、紅葉の巨木と村の共同墓地、そして一軒の崩れかかった老家屋が、かろうじて昔の面影を残す。踏みとどまるようにして残るこれら在りし日の名残りは、何とも切ないながらも地元の人々の思いを静かに語っているようにも見える。













ダムや原発、産業廃棄物処分場など、俗に‘迷惑施設’といわれるこれらの施設が建設される際には、必ずといっていいほど地元の人たちの反対が起こるものだが、この神地区でも例外なく強い反対があった。安全面に関して万全の対策が施されると説明を受けたとしても、環境汚染、自然破壊、イメージの悪化、搬入用大型車の乗り入れによる騒音や脅かされる交通安全、大切な故郷の破壊など、様々な心配要素が発生することを考えれば当然のことだろう。何かあった時に「想定外だった。」で片づけられてしまっては、たまったものではない。それ以外に今回の場合は、受け入れ派と反対派の間で疑心暗鬼のような気持ちが生まれたりして、それまで平穏に暮らしていたお隣同士の区民の間の空気が非常に悪くなってしまうなど、村の人たちの心をも分断してしまったのである。
これら外部から見ているとわからない様々な問題が、こういった施設建設用地に該当した地域の人々にふりかかっていることを、やはり外部の我々も知っておかなければと感じる。「ゴミ捨て場(迷惑施設)は必要だろう?どうせ人がほとんど住んでいない所だからいいじゃないか。誰かが犠牲にならないとダメなんだから。」というような発想で、これまでどれだけ多くの自然や地元の人たちの心が壊されてきたのだろう。そこに感謝や謙虚な気持ちがあれば、変わっていた部分も多かったのではないのか、など思う。





そのクリーンセンター滋賀だが、折からのエコ・省エネの流れにより、廃棄物の受入量が1/2、処理量金収入が1/4(いずれも平成22年度実績)というように、当初計画から大きく下回ってしまった。それによって、多額の公費負担が強いられ、経営改革が余儀なくされる状況にある。用地は一部を除き、地元の人たちからの借地。15年間(平成20年10月30日から)という期間を決めて、平成35年までには処理された廃棄物が全て埋められ、植林された上で地権者に返されるという約束。そのようにして何とか両者折り合いをつけてスタートした大事業だが、新たに経営の見直しをしなければならなくなったのである。そのことへの不信感、そして新たに進もうとする方向や将来についての不安などが地元で沸き起こるのも無理はない。

経営改革方針を定めるための地元区長との意見交換会の記録を見てみた。そこには地元の人たちの不安な気持ちや憤りの気持ちなどが強く表れている。将来に向けても、この地では地元の人たちの様々な不安が渦巻いているのである。そのあたりのことは、滋賀県のホームページを[ホーム > 組織情報(電話番号) > 琵琶湖環境部(循環社会推進課) > クリーンセンター滋賀の経営改革について]とたどっていくと、資料などで見ることができるので、もし関心をお持ちであればればご覧いただければと思う。





上の茅葺き家屋の写真は、かつての「次郎九郎」だ。これを撮影したのは今から20年前の平成5年(1993年)、その頃はまだ畑仕事をされる人の姿もあったように記憶している。20年前の風景は今の「次郎九郎」とは全く違っており、いかにも隠れ山里といった趣きある風景だった。周囲が山に囲まれたこの集落に行くには、小高い山越えの極細の道をトロトロ行くか、産業廃棄物処理場の横辺りからの薄暗い未舗装路を行くしかなかった。それだけに、その山道を行った後に現れる大きな紅葉の木、そして茅葺き家屋の風景はまさに桃源郷のイメージの美しさで、今でも強く心に残っている。また、集落から次郎九郎川沿いで北へ向かう道は、地図には記されていたもののほとんど廃道状態で車で進むことはできず、夏場など雑草に覆い隠され、通り抜けのできない行き止まりに近い状態の集落でもあった。













それからしばらく訪れる事なく、9年ぶりに訪れた時の「次郎九郎」の風景は何とも切ないものだった。写真は平成14年(2002年)に訪れた時のものだ。ご覧のように、そこには人の姿や温もりを感じさせるものは既になく、あの美しかった茅葺き家屋の屋根は崩れ落ち、ただ崩壊するのを待つだけという現実の風景があった。「あの茅葺き家屋をもう一度見たい。」とずっと思っての訪問だっただけに衝撃は大きかった。トタンが被せられていない、ありのままの茅葺き家屋の維持には大変な手間と多額の費用がかかる。したがって、もう人が住まなくなった家にお金をかけることはできず、自分たちだけでできることをやり尽くした後は、崩れていくのをただ見るしかないのが現実。さらにそこは大規模な廃棄物処理場が建設される所。畑仕事をすることも、もうない。そういったことを考えると、崩れて朽ち果てる風景となってしまうのも当然のことなのであるが、やはり温もりが失われ、灯りが消えていく風景は何とも寂しい。
ただその時、集落内の一画にあるコンクリートの建物から聞こえる「ブキィー!ブキィー!」という豚の鳴き声が、何か妙に不思議な感じでホッとしたのを覚えている。コンクリートの壁が高く姿は全く見えないのだが、鳴き声とガサガサと動く音だけが聴こえてくる。「なぜここに豚?」と当時不思議に思ったものだった。





ところで2年ほど前の秋に「次郎九郎」を訪れた時、たまたま草刈りをされている方がおられたのでお話を少しうかがうことができた。その方は3軒ほど残っていた家屋の真ん中に住んでおられたそうで、おそらく先の写真の茅葺き家屋にお住まいだった方と思われる。しかし、その方のお話によると「昭和50何年かに、ここを出た。」ということだったので、写真撮影の時は既に住居は他所に移され、畑仕事に帰ってこられていたところだったようだ。

これまで「次郎九郎」では、現地におすまいだった方になかなか出会うことができなかったのだが、この日運良くお出会いできたのを機にいくつかのことをうかがってみた。
まず集落のことだが、先に3軒の家屋と書いたが、それ以前は4軒あり、早いうちに1軒がここを出て他所に移られたのだそうだ。また、ずっと昔には8軒もの家があったという。村の広さからいくと3軒では少ないなと思っていたのだが、8軒だとなんだか納得してしまう。
また、この方がここを出られた理由だが、やはり雪が多かったということが大きかったようだ。湖北地域のような桁違いの積雪量ではないにしろ、積もるとなかなか融けず、山越えをしての村への出入りは生活に大変な支障をきたすということは、当時の状況を考えるとすぐにわかる。今の、廃棄物処理場への立派な道が着いてる状況からは、イメージさえも難しいのだが・・。









学校の問題も大きかったという。小学校の4年生までは、隣の集落の「唐戸川」の分校(昭和42年廃校)まで歩いて通い、それ以降は大原小学校までバスで通う。もちろんバス停までは山越えで歩いて行かなければならない。そして中学校はさらに遠くなる。距離的には、彦根市の「男鬼」のように10kmもの道のりを歩いて行くのとは、だいぶ違っているが、やはりこの独特の山越えの隠れ里的な地形が、日常生活の中で大きな負担になっていたのは間違いのないところだ。特に冬場の積雪時や凍結の中の山越えは、小さな子どもの足では困難を極めたことだろう。
こうしてこの方は、家が傷んできて修繕が必要になってきたのを機に、転居を決意されたという。修繕には大変な費用がかかる、それならば引っ越しして便利な所に住もうというのも自然の流れだろう。いずれにしても今の「次郎九郎」の風景からは、なかなか想像がつかない。私が訪れた平成5年の頃でさえ、この集落への道は大変細くなかなか困難だった。昭和の40年、50年代であれば、さらに状況が悪かったということは想像に難くないのである。









『ふるさと神村(編集:神村史編集委員会)』という郷土史書に「次郎九郎」について少しふれられていた。そこには「谷間が狭く高い険阻な山に囲まれているので、日の出や日没が神村の平地とは大きな差があり、・・・(以下省略)」と書かれている。やはり距離はそう離れていなくても、周辺の集落と比べると、生活する上でかなり厳しい条件にあったたようだ。また「平成11年には1戸が残るのみとなった。」とも書かれている。その頃には、まだ人がお住まいだったということなのか、家屋が残っているということなのか判断はつかない。なお次郎九郎という珍しい名の由来だが、「昔次郎九郎という人が住んでいたので神の人たちは次郎九郎といったのである。」と記されている。













今この「次郎九郎」には、その一軒の家屋が健在だ。かなり崩れてしまっているが、家の様子からすると、先のお話をうかがった方よりも長くこの地に住まわれていたように思える。今でもこの「次郎九郎」は僅かではあるが、春には梨の木の花、そして秋には紅葉など季節の花に彩られる。人が住んでいた頃は、それに加えて夏には田んぼの青々とした稲穂や蛍も見られたことだろう。

少し高台にあるこの家屋から見る風景は、過去の風景からは想像つかない風景になっている。それでは、未来はまたどういう風景になっているのだろう。今見えるのは、古びた老家屋や墓地の巨木とともにある巨大施設の風景。時代の流れを凝縮して表しているようなこの風景は、今後どう変わっていくのだろうか。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2013/02/02 17:48】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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