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#236 奥川並(旧伊香郡余呉町)と奥川並分校
~  奥川並(旧・伊香郡余呉町)と奥川並分校  ~






 久しぶりに「奥川並」集落跡を訪れた。「奥川並」は、滋賀県最北部の旧・伊香郡余呉町(現・長浜市)にあった集落で、高時川の支流、奥川並川の上流部に位置する。「奥川並」とともに北丹生六ヶ字と呼ばれていた「針川」「尾羽梨」「鷲見」「田戸」「小原」のいずれの集落も、時期の違いはあるものの廃村の道をたどっているが、その中でも一番早い昭和44年に廃村となったのが「奥川並」だ。村が無くなってから今年で47年、既に半世紀近くもの年月が過ぎたことになる。









1993年(平成5)の奥川並


 後になって、「奥川並」が丹生ダム建設の水没予定区域(「奥川並」集落跡地自体は水没予定ではなかった)となり、それ以降、独立行政法人:水資源機構の管理となったため、周辺は広く一般車両の乗り入れは禁止となった。それでも、ダム建設計画が凍結(その後中止)されて以降は工事もストップし、地元の方以外でも釣り客や登山者など、季節にはけっこうな人が入るようになった。私自身が写真撮影で入った時にも集落跡地に車が停まっていたり、5月の山菜の季節などには他府県ナンバーの車がいっぱいで、少し離れたスペースまで停めにいくことなどもあった。落石などの事故があった場合の責任はもちろん負えないし、業務の邪魔になることもせず、きちんとマナーを守った上での通行であれば水資源機構も黙認している、そんな状態なのかもしれない。なお、このあたりの川は丹生川漁業協同組合の管理となっており、遊漁期間中の釣りは遊漁券が必要となる。また「奥川並」奥の森林は、奥川並生産森林組合の管理下にあるので一般の人の山菜採りなどは一切禁止だ。









 「田戸」から「奥川並」への林道は、道の崩壊や崖崩れなどでしばらく通れなかったが、今は工事も終わって車の通行自体は可能な状態となっている。ただし工事関係者や森林組合、許可を得た車以外の一般車両の通行はできず、「田戸」からの分岐の橋にはチェーンがかけられている。これは落石や崩落の危険があるから一般車の進入を制限しているのであろうが、部外者による山菜や貴重な山野草などの無断採取を防ぐのにも大いに役立っているように思える。
 「奥川並」の奥の森林に栽培されているワサビや山椒などの山菜が、外部者による窃盗被害にあい困っているということは、奥川並の関係の方からは何度かうかがったことがある。もちろん採取禁止や入山禁止の立て看板なども立てられてはいるが、それでも入山し持ち去っていく。これは完全に犯罪である。素人もいれば窃盗のプロもいるのかもしれない。そう考えると、チェーンどころかもっと強固なゲートで塞ぐのもありだと思えるが、私道でない一般の道路をそのように塞ぐことはできないのだろう。現在、別の目的ではられたこうしたチェーンにより辛うじて山が守られているのだとしたら、それは本当に情けない話でもある。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 訪れたのは5月の末、この時期ならまだ雑草はそんなに多くないだろうという判断での訪問だ。この日は「田戸」に車をおいて、人力で「奥川並」集落跡まで行くことにした。ちょうど奥川並川との合流点の、高時川に架かる橋がスタート地点で、そこからは4kmちょっとの道のり。スタートしてしばらくは、奥川並川が谷の下の方に見えるが、林道から川までがさほど深くないため谷底というイメージはそう感じない。それでも両側の山の斜面は急峻で、杉の植林も多いため空は狭く、道の見通しも良くない。だから、「田戸」から「奥川並」方面へと進む道を見ると、いかにも山の奥へ入っていくという感じがする。そして実際、林道を進むほど山深さを感じるのである。









 「奥川並」の集落の起源は、岐阜から山越えでやってきた木地屋にあり、しばらくの間は下流の集落にその存在が知られていなかったという。ある日、奥川並川の上流から木のお椀などが流れてきて下流の集落の人が驚き、その存在が知られたという言い伝えが残っている。これは全国のこういった山深い木地屋関係の集落でも同様の言い伝えがけっこうあるようだ。しかし、こうして深い山々の奥から細々と流れてくる奥川並川を見ていると、そういう伝説も決して作り話とは限らないのではと思えてくる。
 昔は当然、今のような道は無く、上流を見ても山と川が見えるだけ。まして「奥川並」は下流から遡った人たちに作られた集落ではなく、遠く山向こうからやってきた美濃の人たちによって作られた集落。当然、最初は下流との交流は無かったのだろう。そう思うと、下流の者たちにとっては、存在さえ知られぬ隠れ里であったとしても不思議ではない。伝説も普通に受け入れられてしまうような環境にあったことは、今のその風景を見ても理解できるのである。その真偽はともかくとして、それだけ山深い集落の、そこからさらに奥にある集落だったということが、この話から読み取れそうだ。

 それにしても思った以上に、もう緑が濃い。集落跡あたりはどうなんだろう・・など考えながら先に進む。









 やがて谷が低くなり、川が近くに見えるようになる。こうして川と道が近くなったのは、集落跡まであと少しという証でもある。それでももう草木の葉が伸びているせいか、すんなりと川の姿を見ることはできない。写真の橋は、奥川並川に流れ込む小さな谷に架かる橋だ。この日はけっこう暑かったのだが、ここに来ると空気がひんやりとして、とても気持ちがいい。集落跡まではもう1kmもないのだが、心地よいのでここで少し休憩をする。





 ここから集落跡までの間に、ずっと以前、江戸の享保の頃には「口河並」という集落が存在していた。「奥」に対して「口」だ。おそらくこのあたりが彦根藩御用達の炭焼きの村として一番繁栄していた時のことだろう。その頃は75戸もの家が建ち並び、人々が炭焼きに従事していたというから、平地がごく僅かなこの地域からすると大変な数字である。しかし江戸時代中には「奥川並」に吸収されて、既にその存在は無くなっている。以前、地元の方にうかがった時は、「口川並」は「奥川並」より少し下流の平地にあったということだったが、確かにそのあたりには、川近くに少しの平地を見ることができる。しばし周辺を歩きながら「口河並」のことを思うも、その場所はわかるはずも無く休憩を終える。









 程なくして「奥川並」の共同墓碑が見えてきた。このあたりは豪雪地帯。雪どけ後はかなり荒れるであろうことを思うと、共同墓碑や地蔵さまともに小ざっぱり整備されている感じがする。かつての住民の高齢化や道の崩落、通行止め等々でなかなか訪れにくくなっているのだろうが、その様子を見ると今でも奥川並出身の人々が故郷を訪れ、手入れをされていることがわかる。それでも離村後半世紀も過ぎていることからすると、今ここに来られているのは当時の働き盛りだった世代よりも、村で少年時代を過ごした世代の人たちが中心になっていることだろう。
 墓碑の横には、これから伸びてくるであろう雑草を押しのけて自生する花々の姿が見える。その花も雑草と呼ばれる類いのものなのだろうが、日照の少ない緑と濃い緑ばかりの風景の中にそれがあることだけでも、何だか清々しくホッとせてくれる。













 ここから集落跡まではすぐ。先にも書いたように5月にしては、やたら雑草が多いように感じるが、その雑草いっぱいの林道を歩いて行くと集落跡が見えてきた・・というか、もう、すごい雑草。覆いかぶさるような雑草で、集落を思わせるようなものがほとんど見えなくなってしまっていた。





 奥川並の表示板や水資源機構の警告看板も、今にも木々や草の葉に隠れてしまいそうで、石垣などはほとんど見えない。5月の終盤とはいえ、こんなに草は多かったのだろうか、など考えるが、これが夏本番になるとさらに草木が伸びるはず。集落跡の痕跡さえ覆い隠してしまいそうな自然の勢いを、この日の「奥川並」からは感じる。それでも少し集落内の道を入ってみると、村の中央を流れる小川や石垣などを見ることができた。先程、軽トラで人がやってきたが、その方はそのまま集落跡の奥へ入り、山へと向かった。おそらく山仕事なのだろう。それにしても集落内の予想外の雑草は、軽装の私などとても入れそうになく、入るのを拒まれ、はね返されたというような感じさえした。いろいろな時期に「奥川並」を訪れたが、こんなに草が多い印象を受けたのは初めてだった。










 村の雰囲気がほとんど感じられなくなった集落跡の反対側、川向こうも見てみる。そこは村在りし頃、丹生小学校奥川並分校のあった所だ。しかしその分校跡周辺はさらにすごいことになっている。そこに学校があったことなど100%信じられないほどのワイルドな光景だ。かろうじて学校へと架かる丸太橋を見ることができたが、それも草をかき分けてのぞきこまないと見えない。とはいえ、この丸太橋が今も健在だったことをとても嬉しく感じる。かなり苔むし、腐食もあるようなので、当然渡ることはできない。それにしても、半世紀以上もこうして村と学校をつないでいるのには驚くばかりだ。当時、子どもたちが渡るための大切な橋ということで、立派な木を使って作られたのだろう。今は残念ながら渡れないし、渡る人もいない。それでもこの橋がある限り、ここに小さな村の分校があったことは伝え続けてくれる。









1993年(平成5)の分校への橋


 初めて「奥川並」を訪ねて以来、この丸太橋を渡って川向こうの分校跡地へ行きたくてずっと決心がつかなかったのだが、5年程前、ついに学校跡へ行ってみたことを思い出す。ただし、今にも落ちそうな丸太橋を渡る勇気は結局無く、川を渡って跡地へ行ったのだった。川幅は狭くても、水の中を歩かないと渡ることはできない。しかし、その時は3月。一応長靴を履いて川に入ったものの、水量が多く水はあっという間に膝を越え、長靴の中に入ってきた。川の水は凍るように冷たく、その水のため長靴は重くなる。「奥川並」の3月はまだまだ寒く、流れる水は雪どけ水だ。そのことを思うと水が冷たいのは当たり前なのだが、草に覆われない時期といえば、この時期か雪降る前しかない。したがって、学校跡の様子が一番良くわかるのは、いずれにしても寒い時期しかないということになる。そのためにこの時期を選んだのだが、やっぱり冷たく寒かった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 結局、長靴に入った水を捨て、太腿あたりから下がドボドボになった状態で、寒さに震えながら分校跡地の写真を撮影したのだが、あまりの寒さと冷たさで長時間は耐えられず、そうそうに引き上げたのを覚えている。車に戻って、靴下やらズボンやら下着やら全部を取り換えた時の幸福感は、今も忘れることはできない。
 「2009年(平成21)撮影」と書かれている写真は、全てその時の写真だ。倒れかけた電柱は残っていたが、学校を思わせるようなものは玄関前の石段と校舎の基礎くらいしか見つけることはできなかった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 それにしてもこのスペースに学校があったとは信じられない。立派なグランドはもちろん無く、庭のようなスペースがあっただけといっても、今のこの鬱蒼とした感じからは想像がつかないのである。当時の2階建ての小さな木造校舎を古い写真で見ることはできても、それがここにあったということはなかなかイメージできない。むしろ現地を見て、よりイメージしにくくなったという気さえする光景だった。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 学校在りし頃は、学校への橋が2つあったそうだが、離村後に1本が完全に落ちてしまい、今あるのはその残った1本。ただし上にはられていた板は落ちて丸太ん棒だけになっている。雑草の無い雪降る前や雪どけ後すぐであれば、集落跡などからも、もっといろいろなものが見られるのだろうが、今の奥川並の風景を見た時、かつての存在をはっきり示してくれるような当時のものは、結局この丸太橋と石垣くらいしかないのかもしれない。そしてこの丸太橋も、そう遠くない将来、朽ちて落ちてしまうかもしれない。そうすると残るのは石垣のみ。そういった、石垣だけが残るという古い集落跡をこれまでにも見てきたが、「奥川並」集落跡もただそれと同じ道をたどるだけということなのだろう。





2009年(平成21)撮影


 「奥川並」の子どもたちは、小学校の1年生から4年生までをここ奥川並分校で学び、五年生からは「小原」にある丹生小学校小原分校で学んだ。奥川並分校の先生は2人だけで、小さな学校の1~4年生の子どもたちを指導されていたという。当時は滋賀県にも多くの分校があり、その中でもこの余呉村立丹生小学校奥川並分校は「へき地等級」が4級だったというから、大変な立地環境であったことがわかる。なお中学校は、昭和23年に丹生中学校が中之郷の鏡岡中学校に統合されてからは学校に通うことができなくなったため、全員が鏡岡中学校の寄宿舎で3年間をすごしていた。





記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より







記念誌「ふるさと丹生小学校のあゆみ」
(編集:ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会、発行:余呉町)より



 以前、この奥川並分校で教鞭をとられていたという林尊先生にうかがったお話だ。先生が赴任された昭和39年は東京オリンピックの年で、それを機に「奥川並」でもテレビを購入する家が何軒かあったという。学校にテレビがついたのもその年で、自宅にテレビの無い家の人たちは、学校に集まってオリンピックを見たそうだ。東洋の魔女で有名な女子バレーが優勝した時など、おばあさんたちは皆感激して泣いていたという。
 「奥川並」など北丹生六ヶ字に電気が通じたのは昭和36年で、オリンピックの3年前。林先生が「奥川並」を離れる昭和42年頃には大方の家でテレビがついていたというから、電気がつく前までだとラジオの北京放送くらいしか入らなかった状況を思うと、短期間で急激な変容とげたということになる。様々な情報が流れるテレビの出現は、外の世界をほとんど知らない子どもたちにとっては大変なカルチャーショックだったことだろう。写真は7年前に写した「奥川並」集落跡で見た壊れたテレビ。このテレビの前に陣取り、目を輝かせて画面に見入る子どもたちの姿が目に浮かぶ。





2007年(平成19)撮影


 林先生が赴任されている時から「炭もあかんし、もうこの村も・・」という話は出ていたという。そしてその言葉どおり、先生が奥川並分校を転出された2年後に「奥川並」の人々は集団移転し学校は廃校、村は廃村となる。そのことを聞いた時、「やっぱり来たか・・」という思いとともに何とも言えない寂しさを感じられたという。
 その後、先生が「奥川並」を出られて二十年ほど過ぎた頃に奥川並分校を見に行かれている。その時はもうほとんどの家が倒壊してしまっていたが、学校はまだ残っていたそうだ。その光景を見て「木の橋が落ってもて、丸太ん棒だけが残ってた。もう涙が出た。」という。それは、当時のいろいろな出来事、学校や村の風景、子どもたちや村人たちの姿、温かい交流、そしてそこでガムシャラにがんばっていた若い日の自分、それらあまたの思い出が湧き出るとともに、今のその荒れ果てた光景との余りもの違いに、ことばにならない寂しさや切なさが感じられたからに違いない。





2009年(平成21)撮影






2009年(平成21)撮影


 今の分校跡の光景を見てそれらのことを思うと、やはり時の流れを感じざるを得ない。ここに学校があったことさえわからず、それを伝えることさえされないまま、この先、静かに自然へとかえっていく。この地にあった人々の生活は人がいなくなるとともに消え、その痕跡は時が流れるとともに朽ち、やがては周りと同化し見えなくなる。そしてあとは自然に覆い隠される。それが自然の流れなのだろう。





 幸い周辺はダムに沈むことなく、自然環境も残されそうだが、この中途半端に終わってしまったダム計画の裏には多くの人たちの大切な故郷や、故郷への思い、生活、そして国民の多額の血税などが犠牲になっていることを忘れてはいけない。感傷に浸るのではなく、また時代に流されたなどという簡単なことばだけで済ますのではなく、なぜ村々や人々がそこから消えていかなければならなかったのか、そのことを考えると、新しく多くのものが見えてくるような気がする・・など思えてならない。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2014/06/17 00:47】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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