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#237 小原かご作り、ただ1人の継承者をたずねて
~ 小原かご作り、ただ1人の継承者をたずねて ~






太々野功氏所蔵写真


 「次の後取り・・でけんねえ・・」そして

 「消えてまうかもしれんね、もうじき・・」


 というこのことば、滋賀県は長浜市余呉町の今は無き集落「小原」に伝わる「小原かご」の今後についてうかがった時の、その伝統を受け継ぐ唯一の人物、太々野功(ただのつとむ)氏のことばだ。
(※実際のお名前の「功」の漢字の横の部分は「力」ではなく「刀」なのですが、変換できないため「功」と表示しています。)
 そして上の写真は、村在りし頃の「小原」集落。おそらく川向こうの安蔵山あたりから撮影されたものだろう。9戸の小さな美しい山間集落と、その向こうの段々畑の様子がよくわかる。ちなみにこの段々畑は、小原分校在りし日は学校スキーで使われていたという。





 以前、このコーナーの#215「廃村・小原の、小原かごと白子皇子伝承」でも、小原かごとその創始者とされる白子皇子のことにふれているが、この太々野功さん(昭和11年生)は、現在ではたった1人となった小原かごの作り手で、3年前には、公益社団法人の国土緑化推進機構が毎年選ぶ「森の名手・名人」にも選ばれている。もちろん太々野さんは、小原かご発祥地の「小原」のご出身で、今は「小原かごを復活させる会」の主催するかご作り教室で講師などもされており、その技術を今に伝える。その太々野さんの冒頭のことばの背景を考えた時、やはりそこから読み取れるものは大きい。今回は、その太々野さんにうかがったお話を中心に、小原かごについてお伝えしたい。





 #215にもあるように、この小原かごは「小原」集落独自に伝わるかご細工で、陰明門院(おんめいもんいん:1185~1243年)と土御門天皇(1196~1231年)との間に生まれた白子皇子が、その創始者とされている。しかしそれは、歴史の表舞台上にあるものではなく、言い伝えとして語り継がれてきたものだ。「小原」と同じ余呉町の古刹、菅山寺には仲良く並んだ2人の墓碑が、そして菅山寺縁起書には、お2人について書かれた文書が唯一残る。しかし、文書には陰明門院名が後嵯峨天皇の妃として書かれているなど、史実とは違っている部分があり、史料とはなり得ないようだ。
 また歴史上においては、お二人の間に子どもは無かったことになっており、当然ながら白子皇子ご自身も歴史上においてその名を表すことは無い。つまり白子皇子は、表舞台では存在しない人物となっているのである。それが呼び名のとおり白子(先天性白皮症)であったがゆえに、当時は異形なるものとして存在そのものを抹消されてしまったのか、それともこの話自体が創作されたものであるからなのか、その真偽の程は定かではない。ちなみに上の写真は菅山寺に一昨年訪れた時の、お二人の墓碑だ。そしてこの下の写真は、それよりずっと以前に太々野さんが菅山寺に訪れられた際の写真。今は周辺がずいぶんと整理されていることがわかる。





太々野功氏所蔵写真


 などいっても、実際に「小原」集落においては、何百年にもわたり白子皇子にまつわる多くの伝承が小原かご作りの技術とともに伝えられており、皇子の存在と同様に、小原かごが村の人々の大切な宝とされてきたことは紛れもない事実。そのことを思うと、真偽が確かめようの無いことにこだわるより、その事実を見ることが何より大切なこと、そんな気がする。









 「小原」については、これも本サイトの廃村「半明・鷲見・田戸・小原」の項でご紹介しているように、丹生ダム建設計画に伴って集団移転を果たした集落で、今はもう存在しない。1995年(平成7)の離村だから、「小原」としての長い歴史を終えてもう20年もの月日が流れたことになる。ダム建設による移転であるため、集落に建ち並んでいた美しい家屋は離村後すぐに全てが取り壊され、その後も集落跡の一部には土が盛られるなどして、村があった頃とはずいぶんと違った風景になってしまっている。









 そんな中でも半鐘の支柱と共同水場は、在りし日の姿を思い出させてくれる。しかしながら、ダム建設計画が迷走したあげく、本体着工開始寸前で建設計画がほぼ中止となったことで、放置状態ともいえるかつての集落の跡地の荒れた姿をより晒す形になってしまっているのは、とても残念に感じる。近くに住んでいながら荒れてゆく故郷をどうすることもできないのは、元の住民の方にとっても本当に辛いものがあるだろう。離村時には9戸の家があったものの、豪雪地帯ゆえ、年間を通して住む人はもう少なかったというが、やはりそこは生まれ故郷、多くの思い出やご先祖様の思いのつまった大切な地なのである。補償金をもらって移転したのだから土地はもう他人のもの、と簡単に割り切れないものがあるのも当然のように思える。





太々野功氏所蔵写真






太々野功氏所蔵写真


 この、今も「小原」に残る半鐘の支柱は、この太々野氏による制作だ。「長持ちするように丈夫な電柱の木を使った」というように、離村後も、いかに多くの雑草に覆われようとも、いかにたくさんの雪が降り積もろうとも、我ここにありという感じで元気な姿を見せてくれているのは嬉しい限りだ。村無き後も小原の象徴としてその存在感は実に大きいのである。





 小原かご作りは、山に材料となる木を切り出しにいくことから始まる。素材となる木はイタヤカエデという落葉樹で、紅葉の季節には緑から黄色に変化し、美しい色で秋の山を彩る木だ。ねじれや節の無い木を選ぶが、それでもかご作りの材料として使える所は一部という。その幹を割っていき板材の幅にして、そこから薄い板を作る。それを材料に編んでいくのである。素材調達からかごの完成までを全て自分たちの手で、自分たちの持っている技術でやり遂げて小原かごは完成する。かご作り自体は冬場の仕事であるが、この材料の準備は、炭焼きの合間や、畑作業の合間にしなければならない。待ったのきかない自然の中での仕事は、時間や労力、タイミングをうまくやりくりしないと果たせるものではない、ということなのだろう。





 800年もの歴史を持つ小原かごは、集落内でも「長男にしか伝えない」というほど大事にされてきたもので、太々野さんご自身は長男ではなかったので通常の形で伝えられることは無かった。しかし「誰にも習わんと、近くの専門にやっているおじさんの所へ、子どもの時分からいっとっておぼえた」というから、「小原」という集落の中で、その技術を自然に習得していったという感じだ。もちろんそれだけではなく、家で父親や長男などが作る様子を見ながらの技術習得などもあったことだろう。それにしても今、長男でない太々野さんが現在ただ1人の小原かご作りの継承者となっていることを思うと、太々野さんとそのかご作り職人との間には、やはり運命的なものを感じざるをえない。おそらくその職人さんも、その頃の太々野少年を見て「この子、なかなか筋がいいな・・」など何か感じるものがあって、教えられたことだろう。





太々野功氏所蔵写真


 今の生活の中でかごを使う機会というのは滅多に無いのだが、出来上がったかごは、当時どういったことに使われていたのだろうか。オオツボカゴと呼ばれる大きなかごは、東浅井などでは蚕を飼うかごとして大いに使われ、小さなかごはお茶摘みなどに使われたという。「今でも東浅井の高月とかには、蔵の奥には小原かごがあるんと違うか。」ということばからも、当時の需要の多さがわかる。昔は衣服などが破れた時には、つぎはぎなどをして使い続けた。そのつぎはぎ用のきれを入れておくのにも小原かごは使われたし、山に山菜を採りにいく時、そして仕事に追われて手をかけることのできない時に赤ちゃんを入れておくかごとしても使われた。
 かごの中に入っている赤ちゃんの風景は、いつの時代かまでは全国各地で見られた風景だ。そして太々野家では、小原かごに入った赤ちゃんの姿があったのは言うまでもない。





太々野功氏所蔵写真



 この可愛らしい写真は昭和36年頃のもので、なんとも温かくなる写真の主は太々野さんの娘さんだ。昭和36年といえば、高度経済成長の始まる頃。まだ山で生活ができていた時代で、山村が多くの子どもの声で賑やかだった頃。きっと各家々で、こういった小原かごに入った赤ちゃんの姿が見られたに違いない。以前「針川」にお住まいだった方に見せていただいた写真にも、やはりこうしてかごに入った赤ちゃんの姿が写っていたのを思い出す。その時は、「生まれて10日くらいすると赤ん坊は、もうヒゴ(フゴ)に入れられ、母親は畑仕事に出る。ひっくり返らないようにボロをいっぱい詰めて動けないようにして一日を過す。ヒゴの下に敷く藁は、もち米のものだとかぶれてしまうので、うるち米のものが使われていた。」などということをうかがった。今だったら、やれ消毒やら、悪い菌がつくやらで大騒ぎになりそうだが、人間は本来自然の中で生きる限り強い生き物だったのかもしれない。





太々野功氏所蔵写真


 こうしていろいろな用途で使われた小原かごだから、当時は嫁入り道具としても用いられたという。大小、形など様々なものが用途に応じて使われ、重宝されたのだろう。かごは大事に使うと100年、柿渋などを塗るなどして手入れをきちんとされたものは200年前のものでも現存するほどだから、雑な使い方をしない限り耐久性の面でも大変すぐれていたといえる。使い捨ての今の時代からは想像がつかない数字だ。こわれなければ商売にならないという今の時代、それとは正反対の社会がわが国にあったことを改めて感じさせてくれる。
 こうして様々な用途で使われるという利便性、丈夫で長持ちする耐久性、そして見た目の美しさ、それらの点があいまって、小原かごは何百年にもわたって消えること無く使い続けられ、作り続けられてきたといえそうだ。





太々野功氏所蔵写真


 この小原かごは、「小原」と交流の深かった「奥川並」でも作られていたというが、そのあたりを太々野さんにうかがうと、奥川並と小原では形が明確に違っていたようだ。「(奥川並では)ストンとした形のかごやった。曲がった木を使わないと、小原かごにあるような形のかごは作れんから、形を見ると小原のかごはすぐにわかった。」という。なるほど、見ると小原かごは独特の形をしている。
 2つの集落は婚姻による交流もあったりして、小原から奥川並へ嫁ぐ人も少なくなかった。いつの時代かに、そうして嫁いだ人の中に小原かご作りを伝えた人がいたのかもしれないが、その奥深い部分までは伝え切ることはできず、そのような形になったのだろう。かご作り自体は、この時代は他でも行われている集落があったようなので、そこに小原かごの要素が少し入った、そんな感じだったのかもしれない。





1993年の「奥川並」


 唯一無二の存在といえるこの小原かご、ネットなどで調べると、秋田県の角館(かくのだて)に同じようにイタヤカエデを素材にかごなどを作る「イタヤ細工」があることがわかった。秋田新幹線ならびに第3セクターの秋田内陸縦貫鉄道の駅のある角館は、歴史をふり返ると京都の公家とのつながりが深い町で、こちらのイタヤ細工は200年程の歴史だという。イタヤカエデという同じ素材となる木から板材を作り出し、かごなどを編むという点では共通しているが、板材を作り出す過程や作り上げる製品には違いがあるようだ。その発祥が800年程も前という小原かごの方が遥かに歴史は古いといえそうだが、この両者に何かの関係があったのだろうか。
 一つ気になることがある。それは木地師についてお話しをうかがっていた時の太々野さんの「小原には、かごの木はどこの山に行っても切ってもいいという伝説が残っていた。菊の紋の証明みたいな・・」ということばだ。太々野さんご自身はそのことを「どうかな・・と思っている。違うとは言えんけど・・」とおっしゃっておられたが、気になる。これはまさに菊の紋を背景に、全国の山を自由にわたって木地材となる木を切ることを許された木地師と同じではないか。

 そういえばこけしで有名な秋田県も木地師が多く入った地域である。もし小原かごの技術の発祥を木地屋と考えると、良木を求めて全国の山を渡り歩いた小原かご作りの技術を持った木地師たちが秋田に定着し、そこでイタヤ細工として発展したと考えられなくもない。白子皇子の伝説の形態が典型的な貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)であることを思うと、そのように関連づけることもできなくはない。
 とはいえ、小原かご作りは、あまりにも地域限定であり、もし木地屋をその発祥としているとすれば、もっと全国的に同じような技術のかご作りが見られたはずだろう。そう思うと、やはり白子皇子をその起源とする方が無理なく自然な感じがするのである。





 丹生ダム建設に伴い実施した水没地域の民俗文化財調査をまとめた『高時川建設地域・民俗文化財調査報告書(発行者:余呉町)』に木篭作りについて書かれている。
 それによると、作られたかごはほとんどが注文生産で、余呉町内だけの注文でもさばききれず、中之郷や木之本へ卸したり、町内を行商で売りにいったりすることもあったという。行商だと値切る人もあったようで、苦労して作ったかごを値切る人もいて嫌だったという苦労話も添えられている。また木篭は、日にあてると目が透くのであまりよくないと中継ぎの店で売れなくなり、農協で売ってくれと頼まれて、びわ町(東浅井郡)あたりまで売りに行ったことなども書かれている。太々野さんがおっしゃられていたのは、この頃のことかもしれない。いずれにしても、時代の流れによる生活様式の変容や、安価で大量生産されるプラスチック製のものなどが一般的になっていくことで、古くからの木篭が次第に追いつめられていく様子が、そこには見てとれる。
 それら以外にも、これまでだと山仕事が中心だった「小原」にも会社勤めの人が増えていき、そのためますますかごを作る機会が減っていったということも考えられる。太々野さんご自身も、何十年もの間、小原かご作りから遠ざかられていたというから、高度経済成長期以降は、9軒程の小さな集落の中で細々と伝えられてきた、そんな感じだったのかもしれない。それでも長い目で見ると、白子皇子の伝えたかご作りの技術は何百年にわたり「小原」の人々の生活を支え続けた。そしてそれは、村人たちの伝統を大切に守りたいという強い思いがあったからこそ、現代まで引き継がれてきたことは間違いない。





 長きにわたってかご作りからも遠ざかられていた太々野さんが、再び小原かごを作るようになった。そのきっかけは、東北から「誰か小原かごを作る人はいないだろうか」ということで人が訪ねて来られたことに始まる。その時は誰も作る人がいなかったので、「わからない」ということで終わってしまったようであるが、それを機に「誰か作る人はいないだろうか?作り方を教えてほしい。」と太々野さんに声がかかったという。そして有志による「小原かごを復活させる会」の主催により小原かご作り教室が開催され、太々野さんはその講師を務めることとなって再びかごを作り始められ、その技術を伝えていくことになるのである。









 しかしながら小原かご作りは技術的な面でも、制作環境面でも大変難しいところがある。先にも書いたが、まず素材となるイタヤカエデを手に入れることが容易ではない。一般に木材として出回っているわけでないので、どこででも手に入るわけではなく、山に自生しているものが対象となる。しかし、イタヤカエデの自生する山を持っている人など、ほんの一握りの人たちだ。もちろん他人の山の木を勝手に切ることも許されるはずも無い。
 もし仮にその問題がクリアできたとしても、今度は技術面が大きなネックとなる。今、小原かご作り教室が10月から3月に渡り、月1回実施されているが、やはりそこから本格的に取り組もうという人は出てきていない。リピーターで来られる方も少なくないようだが、やはり6回程度の講習でその技術を取得するのは不可能なようだ。特に難しいのは、板材の幅に切られた幹から薄い板材を切り出す作業で、熱心に取り組む人でもなかなか取得するまでには至らないという。慣れた者でも、材料が全部揃った状態からかごの形に編んでいくのは1日がかりという小原かご作り、生活の中で小原かごを作るという環境が普通にあったからこそ、小原の人々はかご作りの技術を習得できたといえるのかもしれない。このように、生活が別にあり仕事も別にある中では、なかなか技術習得までには至らないのが現状のようだ。





太々野功氏所蔵写真


 昭和11年のお生まれの太々野さんは、現在はもう自ら山に出向き木を切り出すというのが難しくなっており、「あの木を切ってきてくれ」という形で素材の木を集めてもらっているそうだ。

 「だれかやってくれるとええけんど・・。わしももう何年もできるもんでないさかい」と静かな口調で語る太々野さんの中には、これまで何百年と続いてきた伝統の火を、自分たちの代で消してしまうことになるかもしれないという無念な思いを強く感じる。





 危険な道しか通っていなかった山奥の村に、とても立派なトンネルができ、安全な道が着いた。しかしその時はもう村も人も消えており、道は大きなダンプが走るための工事用の道だった。そして、道を作るための目的であったダム建設計画は、今、中途で消えつつある。残ったのは、故郷というイメージからはかけ離れた荒廃とした集落跡と、旧道を脇目に見ながら走る太い立派な道。その風景を見ると、これまでに費やした何10年という歳月と膨大な予算、それに振り回された多くの人々の思いを感じるのである。





 村、人、ダム、多額の金、労力、時間など多くのものが消えた地に、その伝統を伝えるべく、今も辛うじて灯り続けている灯りがある。今年も小原かご作り教室が、10月から3月まで開かれる予定だそうだ。問い合わせてみると、詳細が決まる8~9月頃に、会場となっている「ウッディパル余呉」のホームページ上で発表されるという。「リピーターの方も多いので、もし参加希望される場合は早めにご連絡下さい。」とのことなので、関心をお持ちの方はぜひご覧いただければと思う。

 灯りが消えることなく小原かごが今後も続いていくなら、それとともに「小原」集落や村人と白子皇子、陰明門院名などとの心温かい伝承も埋もれることなく語り続けられることだろう。そして将来になってふり返ってみた時、それを残そうという心が周囲にあったことが何よりも素晴らしいこと、そのように思えるのかもしれない。





太々野功氏所蔵写真



http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2014/07/10 19:44】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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