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#242 「椿坂」にて見た風景
~ 「椿坂」にて見た風景 ~






 ふと訪ねた山の集落などで、とても印象的な風景に出合うことがある。それが初めて訪れた所の初めて見る風景の時もあれば、これまでに何度か来ていても、なぜか気づかず素通りしてしまっていたという場合もある。そしてお気に入りの場所になると、次からはそこで立ち止まり、しばしその雰囲気を味わう。そのうち、その場所のことをもっと知りたくなってきて、現地の人に尋ねてみたり、様々な資料をかき集めたりなどするようになる。そこから思わぬ展開を見せることもあるし、新たな興味へとつながっていくことも少なくない。自分の場合、このようなふとした出合いこそが、山を訪れる大きな動機となっており、それゆえあてもなく山をウロウロすることが多くなる。確実な目的を持って訪れることもいいが、不確実な目的で訪れるのもなかなかいいものなのだ。









 穏やかな春のある日、滋賀県の最北部に向かった。旧余呉町の福井県境近くの集落を訪れるためだ。木之本ICで降りて北国街道(R365)を北に向かう。この春は、とても暖かい日が続いているが、県境の栃ノ木峠以北はまだ除雪作業が終わっておらず、そこから先は通行止め。この辺りが近畿でも有数の豪雪地帯であることを思えば、峠周辺道路の整備に時間がかかるのも無理はなく、例年ここの開通は4月下旬まで待たなければならない。そして開通までの間はピストン道になるので、交通量はより少なくなり、静かに周辺散策ができる時期となる。





 余呉湖を過ぎ、旧余呉町役場(現在は支所)を越えると左右の山々がより迫ってきて、人家はまばらになる。さらに北へ行けば「柳ケ瀬」、「椿坂」、椿坂峠、「中河内」、そして栃ノ木峠だ。この栃ノ木峠と椿坂峠は、古の時代から大変な難所として多くの人々を悩ませてきた。しかし昨年の11月に椿坂トンネルが完成し、今までのクネクネと曲がる椿坂峠越えの苦労からは解放された。椿坂~中河内間が、峠を越えずに行けるようになったのだ。エンジン音を大きく響かせてゆっくりと登ることを強いられていた大型トラックなどは、ずいぶんと楽になったことだろう。そして何より、豪雪でしばし孤立することもあった最奥集落「中河内」の人たちにとっては、凍てつく山道を越える危険から解放してくれた待望のトンネルであったに違いない。







椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影


 トンネル開通に伴い、これまでの峠越えの道は残念ながら閉鎖されてしまっているが、これについては様々な理由があるようで、それを聞くと大いに納得できてしまう。しかしながら、椿坂峠にある地蔵さんの風景が見れなくなってしまったのは、やはり残念でならない。多くの通行人を見守り続けた峠の‘かりかけ地蔵’は、少し前でさえもうお世話をする人は無いような感じだったが、これからはますます人から遠ざかり、やがては人々の記憶からも消えていく運命にあるのかもしれない。それにしてもこの地蔵さん、一体いつの時代からこの峠で見守り続けてくれていたのだろう。その「かりかけ」という名前の由来や謂れなど、詳しいことを知りたくていろいろな資料を調べたり、現地の人にうかがったりもしたが、結局わからずに終わってしまっており大いに悔いが残る。



椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影




椿坂峠の地蔵さん/2014年撮影


 この日は「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)集落を、まず訪れてみることにした。といっても「中河内」「半明」へ行く前に少し立ち寄ってみようという感じの、軽い気持ちでの訪問だ。余呉湖より10km程北にある静かな集落「椿坂」、今その集落中央を貫くのはかつてのR365で、現在のR365はもっと道幅が広げられてその少し東側にあり、集落を見おろしながら通っている。したがって「椿坂」に行くには、旧国道を入る形となる。





 車窓から「椿坂」を見おろしながらいったん通り過ぎた後、逆戻りする形で北側から旧道を入り集落へ向かう。空き地に車を停め散策するが、しばらくは人と出会うことも無い。といって廃村のような、何も寄せ付けないような雰囲気があるわけではなく、あちこちで生活の温かみを存分に感じることができる山里の雰囲気だ。ようやく人と出会えたのは良福寺というお寺だった。80代くらいの男性が一人、雪除けのシートをはずす作業をしておられる。作業中で申し訳なく思いながらも挨拶をして、少しお話をうかがってみた。









 まず、前から気になっていた片岡小学校椿坂分校の場所をうかがう。残念ながらその痕跡は何も残っていないが、分校はこの寺のすぐ下にあったという。「2階建ての木造校舎で、30人程の生徒が居たかなぁ・・。5年生になると片岡小学校へ通うんや。あの辺が校舎で・・」と、丁寧に教えてくれる。また、集落の北の端から通じる山越えの古道(椿井越の道)で刀根に行き、そこから敦賀に行ったことや、その昔は刀根~杉箸~池河内~獺河内~五幡の「塩買いの道」などがあったこと、買い物は「柳ケ瀬」もしくは雁ヶ谷(かりがたに)まで出て、そこから汽車に乗って木之本へ行ったことなどもうかがえた。それでも「(隣村の)中河内には行ったことないなぁ・・」というのが何か不思議に感じたが、やはり決まった目的などが無い限り「峠を越えて更に奥」の地に行くことはなかったのかもしれない。
 江戸の頃には、加賀の前田公をはじめとした北陸の将軍様の参勤交代がここを通っていたという。江戸に行くのにずいぶん遠回りのように感じるが、それは新潟県の超難所の「親不知」を避けるためだったという。もちろんこの方が当時の様子をご覧になったはずもないのだが、その頃のこのあたりの様子、北国街道の宿場町「椿坂」の繁栄ぶりはきっと代々に渡り語り継がれてきたことなのだろう。そして、そのことを語る時の表情は笑顔がいっぱいだ。





 訪れたこの日、ピークは過ぎていたようだが、お寺には桜が咲いていた。この桜は毎年きれいに花咲かせてくれるそうで、最後にお寺の中に飾ってある桜の写真を見せてもらった。「A4サイズに引き延ばしてもらってな・・」というように写真はこの方が撮られたもので、壁には額に入れられた大変きれいな桜の写真が飾られていた。この方は、おそらく昭和一桁のお生まれだろう。したがって村の賑やかだった頃から、村からどんどん人が離れ、やがて高齢者が中心の過疎集落へと変わっていく村の変容をリアルタイムで見、そして体験してこられている。80年以上にも渡り見続けてきた故郷、この方の目を通して、一体どれだけの変わりゆく故郷の風景が心の中に収められているのだろうか。見せていただいたのは桜の写真だけだったが、写真にならない無数の「椿坂」の風景がきっと詰まっているに違いない。そして今もここで暮らし、故郷の映像はまだまだ継続していく。









 距離にしたら6~700mくらいの、長細く延びた集落を歩いたが、結局その後は誰とも出会うこと無く、そのまま集落の南端へ。すると、道に覆いかぶさるようにして枝を広げる古木が見えてきた。この時期、枝にはまだ小さな葉しかついておらず、そのぶん太い幹全体を覆った緑の苔や先端に広がる細い枝がやたら目立っている。そして苔の緑と対峙するかのように、横には赤い布が並んで見える。さらに前には、供えられた赤や白、黄色の花。
 地蔵さんなのか石仏なのかなど、詳しいことはわからないが、この古木と地蔵さんの作り出す村はずれの風景は実に素晴らしく、何か尊いもののようにも感じられた。1本道が続いていくこの風景の歴史を知る由はないものの、ただ静かに村から出る人たちを見送り、村に入ってくる人たちを迎え続けてきた、そういう時代を超えた温かさが伝わってくる。





 更に近づいてよく見てみると、古木の根元あたりにも赤い布が見える。根の間の窪みにも3カ所、石仏が置かれているのだった。それが何を意味しているのかはわからないが、その姿が何か妙に可愛らしく親しみを感じる。これまでにもたくさんの石仏や地蔵さん、道祖神などを目にすることがあったが、こういうのは初めてだ。根の間の石仏をよく見ると一つは五輪塔のような形をしているし、その他は自然石のようにも見える。そして木の横にもたくさんの地蔵さんが並ぶ。
 何か違った雰囲気を醸し出しているこの一画、石仏やら地蔵さんやら道祖神やら、見てもほとんど区別のつかない自分ではあっても、そんなことなど関係なく何か伝わってくるものがある。自然を崇め、そこに神なり仏なりを見出だし、長きにわたって自然を大切にしてきた日本人の心、時代や場所を越えて自分にも流れているであろう日本人の心、そういったものを感じたりする。そしてそういう時、「日本人に生まれてよかった・・」など思うのである。





 これまでにも何度かここには訪れているはずなのだが、なぜか気づかなかったこの風景。知らぬ間に車で通り過ぎてしまっていたのかもしれないし、それを見る心の余裕が無かったのかもしれない。いずれにしても、この出合いは自分にとってとても印象深いものとなった。
 など思いながら撮影をしていたが、ふと見ると、すぐ向こうの畑で仕事を終え休憩している2人の女性の姿がある。先程の男性よりはもう少し下の世代の方だが、ここで畑をされているので、地蔵さんに関して何かご存知かもしれないと思い、早速うかがってみた。これだけの地蔵さんなので、きっと地元の誰もが知るような謂れなどあるはずだ。






 ところがうかがってみると、特に謂れや由来はご存知ないという。さらに‘◯◯地蔵’というような呼び名も、「特にないよ」ということだった。「でも子どもの頃、年に1回の行事があって集まってたよ」ということで、やはり村では大切にされてきたようだ。それでもその歴史的な部分は、すでに言い伝えが途切れてしまっている。歴史深い「椿坂」なので、きっと何か謂れがあるはずだと思ったが、この日は結局それ以上のことはわからなかった。





 帰宅後、町史などいろいろな資料を引っ張りだしてみたのだが、さっぱり書かれていない。ネットで検索してももちろん出てるはずも無く、写真が数枚見つかるだけ。もう一度ていねいに資料を調べ直したところ、「椿坂の木のまた地蔵」ということばが確認できたが、その詳細はわからない。木の根っこの間に置かれた地蔵、ということで「おそらくこれだろう・・」と思うものの、それだけでは不十分。やはりもう一度、現地で確認してみることを決める。





 今、姿や形があるものでも、その詳細がわからないというものは少なくない。どこかに記録が残っていればいいのだが、それがなければ伝える者がいなくなった時点で人知れぬものとなってしまう。そしてその姿も消えてしまった時、存在さえなかったかのように永遠に失われてしまう。今回の地蔵さんがどうなのかはわからないが、古いものの中には後世に伝えていきたいものもあるし、伝えていかなければならないものもあるだろう。ただ、伝えていくべきものであっても、今の時代の流れの中では、なかなか残せない状況があるとしたら、それはやはり悲しむべきことだと感じる。


 などということを別にしても、今回出合ったとても印象的な「椿坂」の風景のこと、やはりもっと知りたくなってくるのである。







http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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