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#243 「椿坂」にて見た風景
~ 木の又地蔵(長浜市余呉町椿坂) ~






 前回のこのコーナーでお伝えした、「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)の村はずれにある古木と地蔵さん、やはり気になってその後二度現地を訪れた。一度目に訪れたのは、5月の連休の真ん中。その日は大変天気が良くて暖かく、この村はずれの古木も新緑の葉を穏やかな風に揺らしながら、春を大いに感じさせてくれていた。ほとんど葉をつけていなかった前回に比べるとずいぶんにぎやかで、一目で春とわかる、そんな風景だ。ただ、葉の緑の量が多くなっているせいか、前回の訪問時で目立っていた幹を覆う苔の緑は、さほど目立たなくなっている。





 春にしては少々暖かなこの日、木陰では赤い布をつけた地蔵さんや石仏が涼しそうに佇む。前回は赤白黄色の花が供えられていたが、今回は白い水仙。山里の春に多く見られるお馴染みのこの花は、きっとお世話されている方の庭で花開いたものなのだろう。新緑の葉、赤い布、強い光りの影、そして水仙の白い花、これらがほどよいコントラストで互いにひきたて合い、心地よく目立っているのが美しい。木の根の間に置かれた石仏の赤い布が少し色褪せてしまっているが、それはそれで赤一色の強さを柔げてくれているようで、また心地よいものだ。





 この日もどなたかにこの地蔵さんのことをうかがおうとしばらくウロウロしてみた。しかし、結局どなたとも出会うことは無く、ただ1台のバスとすれ違っただけだった。そういえばこの辺りの集落を訪れた際には、このバスとよく出合う。本数がそんなに多くない割に出くわすのは、こちらの滞在時間が知らぬ間に長くなっているからなのだろう。









 それにしても人の姿を見かけない。きちんと発表されているデータを見ると、現在の椿坂は27世帯48名(H.27.5.1)などとなっているのだが、とてもじゃないがそのようには見えない。人の姿がなくても、どこかで人の声や生活の音などが聴こえると賑やかに感じるものだが、ここではそれがほとんどなく静か。これはやはり集落に子どもの存在が無いというのが大きく影響しているのだろう。子どもが居れば賑やかに遊んだり、笑ったり、泣いたりする声が聞こえ、それに伴って周りの大人たちの声も聞こえてくる。この静かな感じは、小さな子どもが居なくなった山深い里の多くで感じる独特なもの、そのような感じがする。ここにはもう小さな子どもたちがいなくなってしまった村、そのことを改めて認識するのである。





 古木と地蔵さんのある所からさらに村はずれ、南の方へ下がると、空き地一面が黄色く染まっているのが見える。タンポポが群生しているのだった。早速空き地へ降り、撮影する。見事な群生だ。前回の訪問では全くその気配を見せてなかったのだが、こういう風景の変わりっぷりが大いに季節を感じさせてくれるのは、やはり山里ならではなのだろう。そういえばこの春は、あまり花の撮影していなかったなぁ・・など思いながら、しばらく春を味わう。
 撮影が終わる頃には陽は一段と高くなり、それにともない温度はさらに上がっている。本当に春?と思えるような陽気になってきて、日差しもかなりきつい。こういった山村の人たちは朝が早い。これからの時間帯にはしばらく人は出てこないだろうなと判断し、この日は地蔵さんの話をきくことをあっさり諦めることにした。それでもせっかくの好天、先だって開通した「栃ノ木峠」を越えて福井県の「二ツ屋」まで足を伸ばし、かつての街道の雰囲気を味わいながら残りの半日をすごすことにした。













 椿坂の古木と地蔵さん、やはり気になる・・ということで、3度目の「椿坂」訪問を実行したのは連休後のことだった。

 古木の葉はさらに多くなっており、その量を増した葉の緑と苔の緑が一体化した感じで、地蔵さんの赤い布がより浮かび上がって見える。緑の量の多さは、このまま一気に夏に突き進みそうな感じさえする。
 何か寂しいな、と思いよく見ると、この日は地蔵さんの前にいつもあるお花が供えられていない。どうしたんだろう?水仙も枯れてしまって、庭の花も無くなってしまったのかな、など思いながら、村はずれから集落方面へと歩いて行く。すると、少し先の道沿いの家屋の玄関前に女性の姿が見える。60~70代くらいのお年だろうか、早速地蔵さんのことを聞いてみた。するとやはり、前々回にうかがった時のように、謂れや名前などは特に無いという。でも「長い間お世話されている方が今でもお元気やから聞いてみたら?何かご存知なんと違うかな。」ということで、その方のお宅を教えていただいた。普段はわざわざお宅を訪問してまで話を聞くということは滅多に無いのだが、この日はもう3度目、なんとかして知りたいという思いが強かったので、失礼ながらお邪魔してみることにした。





 呼び鈴を鳴らすと、すぐにオバチャンが出てこられた。突然の見知らぬ男の訪問に少し驚かれた様子だ。悪徳セールスマンなどには見えないと思うが、不審者には見える。それでも、いつものように「山の集落が好きで・・」と挨拶をし「今日はあの木の地蔵さんのことを教えていただきたくて。お世話をされてるとうかがって・・」と切り出すと、安心された様子でいろいろお話しいただけた。うかがうと、もう90才になられたというが、受け答えはとてもハキハキとお元気そう。でも「足が痛うてなぁ・・、花の水もようやれへんのよ。」ということで、そのため地蔵さんのお供えの花も新しくしてあげられないそうだ。玄関先には、これから花を咲かせるであろう菊が、丁寧に育てられている。きっと花が好きな方なのだろう、向こうに見える庭にも花が植えられているのが見える。これらが花を咲かせると地蔵さんのお供えの花となり、あの一画がきれいに彩られるのだろう。でも、この前の水仙の花は何とか頑張ってお供えできたのだが、今はできず、そのことを気にされている様子だ。





 「地蔵さんのお世話は、もう10代の頃からやってるよ。」というから、なんと80年近くもされていることになる。なんでもかつては、この並びの6軒のお宅が地蔵さんの世話係になっていて、交代でやられていたという。しかし過疎化がどんどん進むとともに、その6軒のお宅も次々とこの地を離れることとなり、とうとうここ1軒になってしまった。季節のよい時はいいが、雨や雪などが続く時などは、ご高齢の身にはかなりこたえることだろう。「そやけどね、ここの地蔵さんは目にご利益があるそうで、おかげさんで私の目も悪くならへんのよ。」と、以前悪くされた目の症状が今は進行すること無く、具合も良いという。地蔵さんからすると、80年近くもお世話し続けてくれたことのせめてものお礼なのかもしれない。





 「お世話し始めた頃は、あの木もこんなに細くてね。」と、両掌だけで表現できてしまうような、そんな太さしかない木だったという。立派に成長し、苔むした今の古木の姿からは到底想像できるものではないが、それだけに80年もの時の長さをそのことばの中に感じる。ただ、それほど長きに渡ってお世話をされてきたその方でも「木の又地蔵?そういうの聞いたこと無いなぁ・・。」と、他の方と同様、その謂れや名前もご存知ない様子だった。それでも「毎年、1月24日がご命日でね、昔はたくさんの子どもが集まったんよ。地蔵さんの所に行って、それからみんなが私の家に来てね、おもてなししてね。」などという行事があったそうで、それは今なお継続されているという。そして「もう子どもはいなくなってしまったんやけどね。」ということばが、その後に寂しげに続く。
 ご命日の行事そのものは今も村で行われている。しかし、時の流れとともに形は変わらざるを得なくなり、今では大人達だけで行われているのである。それでも大方が高齢者となってしまった今でも絶やすこと無く続けられているのは、この地蔵さんのことを大切に思う心があるからこそ、なのだろう。





 以前、ここの地蔵さんを持ち帰り、場所を移し替えてしまった人がいたのだが、その人はその後お腹の具合を悪くされてしまったそうだ。そして、これは地蔵さまを勝手に移してしまったからだということで、慌てて返しに来られたという。これは現地でうかがったお話だ。一方『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の口承文芸の椿坂の項には、ある旅人が地蔵さまを盗んで売って、それを買った人がひどい腹痛に悩まされ、それが地蔵さんの祟りだというので椿坂に返したところ、腹痛が嘘のように治ったという伝え話が書かれていた。おそらく元は同じ話だが、口承ゆえ形が少しずつ変わっているものだと思われる。おもしろいのが、いずれもがけっこう最近のこととして伝えられていることだ。いつの時代から伝えられているのかはわからないが、この地蔵さんにはこうした伝承も残っていたのである。





 現在、古木の枝は道を覆うくらいに広がっており、この道にバスなどが通行することを思うと、枝払いなどが行われても不思議ではない状況になっている。しかしながら、なかなか切り手が現れないそうだ。子どもの頃から親しみ、この木や地蔵さんのことをよく知る人たちにとっては、やはりここは神聖な場所であり、特別な存在であるのだろう。村で地蔵さまをずっと大切にしてこられ、さらに安全上やむを得ないという理由であれば、少しの枝をはらうくらいであれば、おそらく地蔵さんもお怒りになることは無いとは思うのだが、自分がもし同じような立場だったとしても、やはり切ることには大いに躊躇してしまうだろう。





 古木の横にたくさん並んでいる石仏の中には、集落横に大きな道路を通す際に掘り出されて持ってこられたものも含まれているという。ここ椿坂は歴史が大変深く、戦国の世には戦の舞台ともなり、長きにわたり多くの旅人が行き来した街道の宿場町でもある、さらに冬場の豪雪は人々を苦しめ命を落とすことも珍しいことではなかったことなどを考えると、これら石仏の中には悲しい歴史を背負っているものがあっても不思議ではないだろう。というか、石仏が置かれたいきさつを思うと、そこには様々な悲しみのドラマがあったことは間違いない。そういう思いでこの古木と地蔵さんの風景を見ると、この風景から感じる思いもまた変わったものとなってくる。





 結局、現地でもその謂れなどの詳細について知ることはできなかった。おそらく現地で他の方にお話をうかがったとしても、これ以上の詳しいことはわからないものと思われる。ただそれでも、村の人たちからは大切にされ続けている地蔵さんだということは伝わってくる。「花はね、畑に咲く花をね。前掛け?それはちょちょっとすぐにできるよ。」ということだが、やはりお一人で長年にわたってお世話を続けるのは、本当に大変なことだろう。そして過疎・高齢化がますます進んでいくであろうことを思うと、これから10年後、20年後のことが、やはり気になってくるのである。





 帰宅後、もう一度あらゆる資料をさがしてみた。すると昭和44年度に調査報告された『余呉村の民族(東洋大学民族研究会)』ならびに、地元の鏡岡中学校郷土クラブの昭和52年度の報告『余呉仏教史第二編』に、これら椿坂の地蔵さんについての記述があった。いずれもPCに保存しておいたもので、当初は見逃してしまっていたものだ。そこからの記述を原文のままご紹介しておく。






 あごなし地蔵と木のまた地蔵
 椿坂にある。一月二四日がお地蔵様の御命日にあたる。朝九時から、六軒町の人々が地蔵様に御仏さんといって、ご飯や珍しいおかず(わらびやぜんまいの白あえなど)を供えた。花などは、町から買ってくる。この時のお金は、昨年の御賽銭などを持って詣る。詣り終わると、六軒町の家を全部「御命日様で、おめでとうございます。」と言って訪れる。すると、六軒町の人はお茶やお菓子などを振舞う。また、この日地蔵の前で火を焚く。これは詣ってくれた人の手を温めるもので、注連縄、書き初めなども一緒に燃やした。焼いた灰が高く上がれば上がる程、手がよくなるという。この時豆のからも燃やす。まめになるようにとの願いからだそうである。これはドンド焼きの名残りで、五〇年前まで行っていた。


 以上『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』より






 椿坂の入り口のヨノミの木の下に俗に木の又地蔵と呼ばれている地蔵がある。余呉町の地蔵の中で子供達によって地蔵祭が行われているのはここだけである。地蔵祭は普通どこでも真夏の七月か八月の二十四日であるのに。椿坂では最も雪の多い一月二十四日に行われる。小学校六年生までの子供は此の日朝早くから宿に集まる。宿は地蔵に最も近い六軒の家が交互に行なう。宿から地蔵までの雪道を広く踏かため道をつくる。地蔵さんを雪の中から掘り出しお参りできるようにする。準備ができると村の各戸から豆からを一束宛集めたものを雪の上で燃やす。そして子供達は宿から地蔵までを供え物を持って何回かはだし参りをする(素足で雪の上を走りながら参る)。通行人や村人達はお菓子やお金を供える。通行人は豆がらのたき火に暖を取り行き過ぎる。一通りお参りが終わると子供達は宿で母親達が煮てくれた熱い豆腐汁や漬物で皆んなで楽しく会食をする。其の後お供えの菓子やお金を分けてもらって帰る、気候の最も厳しい一月が地蔵祭に選ばれている事は、どうかすると家の中に閉じこもり勝な冬の子供達に、雪の中を素足で走らせるなど子供達を強く鍛錬する親心からできたものかも知れない。


 以上『余呉仏教史第二編(鏡岡中学校郷土クラブ/昭和52年度)』より





 というように、現地のオバチャンが語ってくれた内容がほぼ一致しているので、この場所が‘木の又地蔵’と呼ばれていた所であることは疑う余地はない。ただ、いずれも行事の内容については詳しく書かれているが、その謂れなどについては書かれていない。おそらくこの45年前の調査の時点で、すでにそれらの伝承については途絶えてしまっていたのだろう。また、あごなし地蔵という名についても、その詳細はわからない。地蔵祭が冬に行われていることや、木の根に石仏が置かれていること、いつの時代からあったものかなどわからないことばかりではあるが、残念ながら時の流れの中に完全に埋もれてしまったといえそうだ。





 この『余呉村の民族(東洋大学民族研究会/昭和44年度)』の最後、編集後記にこのような一文がある。

「二度の追跡調査によって、ここに未熟ながらも報告書をまとめることができました。これによって、失われていく山村民俗が少しでも記録にとどめられるならば、私達にとってこれにまさる喜びはありません。」

 自分の場合、こうして貴重な記録を残してくれたことは何よりの喜びであり、それに対してただ感謝するばかりだ。そして、消えつつ、失われつつあるこういったものを、記録に残していくことの重要さを強く感じるのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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