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#95 谷の奥の、その学校
~谷の奥の、その学校~

その学校とは多賀小学校霊仙分校。前々回の「たまに一言」で多賀小学校芹谷分校にふれたが、それの遙か谷深い所にある学校だ。

芹谷深く入ってゆく。いくつかの過疎集落を通り過ぎる。山肌が道に迫り、進むほどに落石も目立ってくる。車一台がやっと通れる道はさらに奥へと続き、道はさらに狭くなる。芹谷の最終の集落『落合』に行き着く頃には、道は極限まで狭まっていた。そこから廃村『男鬼』へと向かう道、そのきわめて細い道沿いの石垣の上に見える、大きくゆがんだ青いフェンス。そしてその石垣の切れ目には石段。よく見ると石段を上ったところには石の門柱も見える。やはり紛れもなく、ここは学校跡。通りすがりの風景だけで「ここに学校があった」と気づく人は、おそらく地元の人か芹谷のことに精通した人くらいのもの。夏は草に覆われ「多賀小学校霊仙分校跡地」と書かれた石碑も姿を消す。日照時間がきわめて短いこともあり、冬場の雪はながらく残る。そのため夏場に見えなかった碑もこの時期はよく目立つ。

それにしても今のこの学校跡の風景を見て、ここに学校があったということがどうしても私の中で映像化できない。多賀町史を見ると三角屋根の二階建ての美しい校舎の写真が載っている。しかし実際の学校の写真を見ても、どうしてもこの風景からはそれが結びつかない。写真に写っている石垣、フェンスは紛れも無くこの地であるのに・・。

今でこそ学校の存在がどうしても信じられない周囲の風景であるが、この学校が休校となったのは昭和60年と、そんなに古いことではない。昭和の燃料革命以前は30数名いた児童も昭和40年以降は急激に減少し、児童数は一桁を推移する。そしてついには休校前の数年間は2名となってしまう。ちなみにこの霊仙分校は1~4年生までが在籍し、5年生になると子供たちは芹谷分校へと通っていた。無理とはわかっていても、この山奥の学校に小さな子供たちが、元気に通っていた風景を何とかして見てみたい、なんてことを思ってしまう。今はもう建物の姿は無く、フェンス、門柱、石碑そして校舎のコンクリート基礎が残っているくらい。またそれに加えてイノシシ捕獲用のオリ、そして後から作られたと思われる小さな倉庫が、荒れた空き地にポツンとある。そしてこの荒涼とした風景に、杉林特有の薄暗い光が追い討ちをかける。

今のこの風景からは到底想像できないかつての活気ある学校風景、今はただ小さな写真のみを手がかりにそれをイメージするだけ。今残る学校存在の証もやがて消え、周辺の集落からも人が去る。その時は学校があったことを思い出されることさえ、無くなってしまうのだろうか。









http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
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【2007/01/28 00:00】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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