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#228 木地師の里『君ヶ畑』を訪ねて
~ 木地師の里『君ヶ畑』を訪ねて ~






 二月のある日、木地師発祥の地といわれる『君ヶ畑』(滋賀県東近江市:旧神崎郡永源寺町)集落を訪れた。前日の晩に少し雪が降ったものの、下界?ではほとんど積もっていない程度の雪。そういう状況でも、永源寺ダムを越えるとけっこうの雪が残っており、下界から見ると白く見える鈴鹿の山腹はやはり雪が多い所だということを、改めて感じたりした。ダムより奥の奥永源寺と呼ばれる地域に入るとさらに積雪が目立ち、その一番奥に近い集落『蛭谷』まで来ると、やはり下界とは別世界の雪の風景が広がる。
 『蛭谷』を越え、最奥の『君ヶ畑』へと続く一本道に入っていきなり出合ったのが除雪車。大きな音を立てて力強く道路の雪を押してくる。その作業中の除雪車が、集めた雪を捨てるために道の脇に入るのを少し待ってから、一本道を再び進んで集落へと向かう。そして、いつものように「木地師発祥地:君ヶ畑ミニ展示館」の横に車を停める。以前、雪が降りしきる中『君ヶ畑』に訪れた時は一面が銀世界という感じであったが、今回は雪が多いといっても道路は既に除雪されており、日当りがよくて人に踏まれる道や、南向けの屋根などは雪が融けているので、銀世界というイメージではない。山里の雪景色というには少々イメージは違っていはいるが、やはり下界とは全く違う風景、少し写真を撮っておこうと車を降りる。









 この『君ヶ畑』集落も全国の山深き集落と同様、過疎高齢化が進んでおり、人口は激減している。明治11年には65戸620人もの人々の暮らしがあったものの、昭和37年には56世帯233人、昭和45年に54世帯189人というように、エネルギー革命・高度経済成長期には人口が三分の一以下になってしまっている。そして最近の数字を見ると、平成22年は23世帯32人。一世帯の平均1.4人だ。ここで生まれて育った働き盛りの若い人たちは、故郷を離れて都市部へと出ていく。残った世代もやがては高齢化し、長年連れ添ったパートナーを失って以降は独り故郷を守り続ける。そんな厳しい現実がその数字から読み取れるのである。
 集落そのものは広く、明るく開けたその様子は、多賀町や余呉町の廃村群のように僅かな平地や斜面にへばりつくように存在した集落とは大きく違っている。同じ山の集落ではあるが、ここ『君ヶ畑』は、かつては木地師たちでにぎわい、そして明治に入ってからも600人以上もの人が暮らしていた繁栄の頃がイメージしやすい。ただそれだけに、その広さの中で20数人しか住んでいないということが、逆に寂しく感じたりもするのである。









 道を歩いていても出会う人は少なく、大変静かだ。この日も人との出会いは無いだろうな、と思いながらウロウロしながら写真を撮っていると、元君ヶ畑分校だった建物の方から歩いてくる人のオバチャンの姿を見つけた。手には空き缶の入ったゴミ袋。いつものように少しお話をうかがってみたいなあと思いながらも、寒い中、ゴミ捨てに行かれるところなのだろうと思い、「こんにちは」という挨拶だけですませる。そして再び撮影を始める。民家の軒下には氷柱が見える。しかしこの日の氷柱は、以前の雪の日に訪れた時の氷柱に比べて随分と貧弱だ。気温も高めなのだろう、氷柱からしたたる水滴の量も多い。いつも見に行く水場にも行ってみた。水道からいつも勢いよく流れ出るこの水場の風景が好きで、来ると必ず写真を撮る。しかし、この日は水道の蛇口が閉められているのか水は出ていなかった。この君ヶ畑にはいくつかこういう水場が設けられている。いずれも山水を引いており、夏でも枯れること無く村を潤してくれている。なんでもここは、明治3年、大正13年、昭和33年と大火に見舞われているそうで、そのためこの水場や防火水槽が設置されたという。













 そうこうしていると、道の向こうから重機の大きな音がしてきた。先程見た除雪車が村の道を除雪しながら戻ってきたのである。もう道の雪はほとんど除雪されて、最後の仕上げという感じであった。そしてふと見ると、軒下でその作業の様子を見ている、先程のオバチャンの姿。「昨日はたくさん雪が降ったんですか?」と声をかけてみると「10cmを越えると、こうやって雪をどけてくれはるんよ。」と言われる。昨晩から朝にかけて、ここでは10cm以上の積雪があったようだ。「それでも今年は少ないよ。前の雪が融ける頃に次の雪が降るから、屋根の雪下ろしもほとんどしんでもいいし。」と、例年に比べるとまだ雪による負担は少ないようだ。また村の中心を通る道路については融雪剤がまかれており、少々の雪だと融けてしまうという。それでもここはやはり鈴鹿の山腹の標高450mの地、多い時はかなりの雪が降り、積雪量によっては村への一本道が通れなくなり孤立してしまうことも珍しくはない。
 そしてそのような豪雪時は、やはり屋根の雪下ろしが大変だという。「高齢者ばっかりやしねえ。危ないからねえ・・」それでも「永源寺町の頃は町からすぐに来てくれたから、よかった。」という。そしてそのあとに「東近江市になってからはねえ・・」のことば。折しもこの時は、ちょうど東近江市の市長選挙の直前。2名の候補者の内、1名は地元『蛭谷』のご出身だという。ややもすれば切り捨てられがちになってしまう山間地域、その地域の気持ちがよくわかる地元出身の候補者への期待は、ここ『君ヶ畑』でも大きいようである。









 『君ヶ畑』のある滋賀県神崎郡永源寺町は、今から8年前の平成17年(2005年)2月に八日市市、湖東町、愛東町、能登川町、五個荘町、蒲生町などとともに合併して、広大な面積を持つ東近江市となっている。そうなると、これまでだと行き届いていた細かな配慮などが行き届かなくなるのでは、というのは素人目に見ても明らかである。特にこういった山深い山間の小さな集落だと、それは顕著に表れる。組織や団体が大きくなればなるほど、少数の声が行き届かなくなるのは自明の理。人口の多い都市部が優先され山間部は切り捨てられる、このことは平成の市町村大合併の大きな弊害の一つで、過疎化に追い打ちのパンチを見舞うことにもなる。日常の中でも、そういった地域の人々には様々な面で不便がふりかかる。このオバチャンの場合でも、役場へ行くにも、支所は一応あるものの八日市の本庁まで行かなければならないことも多く「大変やわ・・」という。特に冬場は高齢者にとって車の運転は危険で、一日数本しかないバスを頼らざるを得なくなる。体力十分な若い人なら苦にならないようなことでも、高齢者にとっては本当に大変な負担となる。









 このオバチャンは、昭和の35年頃に『君ヶ畑』に嫁いでこられたそうだ。その頃はここでも林業が活発で、村は多いに賑わっており、「ここ(君ヶ畑)にも製材所が二カ所あってねえ。村の人もそこでたくさん働いてはったんよ。」という。その活発だった林業も安い外材に押されて廃れていき、村の唯一というべき仕事の場は失われることとなる。生業を失った山深き村では、若い人たちや小さな子どもを抱えた家族は生活できない。「冬は雪が(多いから)ねえ、仕事に通えへんの。」というように、ここで生活をしながら町で仕事をするのは距離や気候などの関係で難しく、子どもたちの高校進学などの面から考えても若い家族が生活するのは困難なのだ。それでも昭和57年に政所小学校と中学校の君ヶ畑分校小・中学校校舎が新設されているので、その頃にはまだ児童生徒数もそれなりの数があったのだろう。しかし平成元年に中学校が休校、そして小学校も平成8年に休校となった後に同11年に統合され閉校となる。ちなみに休校となる1年前の平成7年の君ヶ畑分校の児童数は、わずか2名だった。同年、本校である政所小学校の児童数は50名、政所中学校は25名というから、校区内の子どもたちの少なさは、地域にとって極めて深刻なものだったことと思われる。その政所小学校も平成21年3月、中学校はそれよりも前の平成16年3月にそれぞれ閉校となっており、現在、地域から学校は完全に姿を消してしまっている。













 君ヶ畑のことを記す貴重な記録である『ー木地屋のふるさとー君ヶ畑の民俗(著者:菅沼晃次郎)』を見ると、愛知川沿いの道路は大正12年に箕川まで馬車道が通り、政所までバスが通じたのは昭和29年以降とある。今でこそ愛知川沿いの道が普通に使われているが、長い歴史を見ればそうなったのはつい最近のことだった。それまでの『君ヶ畑』の交易は、多賀の川相や彦根方面との交流が主で、八日市に出ることはほとんどなかったとも記されている。古道として、東へは「伊勢~治田峠~茨川~君ヶ畑」北へは「八丁坂(宮坂峠)~萱原・川相(多賀)~彦根」そして西への「蛭谷~大萩~百斉寺」のルートがあったようだ。『茨川』が鉱夫で賑わっていた時期があったり、ここがちょうど湖東地域から伊勢へ向かう道の途中に位置しているなど、昔の『君ヶ畑』が今とは比べものにならないくらいの人の出入りとともに繁栄があったということは、その歴史をふり返ると容易に想像がつく。しかし、やはりここは『蛭谷』とともに木地師発祥の地とされる地、その最も栄えたのは木地師が全国へと散ってゆく前の時代のことで、筒井千軒、小椋千軒、藤川千軒などの古い言い伝えがあるように、古の小椋谷周辺は多くの木地師やその家族などの大集落で活気に溢れていたことだろう。

 下の写真の木製ロクロは、集落内の「木地師発祥地:君ヶ畑ミニ展示館」に展示されているものを撮影したものである。









 『君ヶ畑』は木地師のふるさとでありながら、木地師が姿を消して久しく、先の『ー木地屋のふるさとー君ヶ畑の民俗』では、調査段階(昭和40年代初め頃?)で愛知川谷に木地師は現存せず、ロクロを挽いていた慶応生まれの人がいたという伝承のみが残されていると記されている。慶応といえば明治時代になる直前の頃(1865~67年)なので、おそらくその方が木地師として現役だったのは、戦後少し過ぎたあたりまでのことだったのだろう。しかもそれは『君ヶ畑』ではなく『黄和田』地区でのことだったというから、『君ヶ畑』から木地師が姿を消したのは、それよりもさらに前のことになる。
 現在『君ヶ畑』には、いったん消えた伝統の技を伝承すべく木地職を始めている方がおられるという。その方の何代か前のご先祖様は間違いなく木地職に就かれていただろうから、長い空白の年月を経ての伝統の技の復活ということになるのだろうか。周辺地域には同じようにロクロを挽く人が何人かおられるようで、文化伝統の灯を消さず継承してゆこうというこれらの人々の存在は、木地師発祥の地としても、また過疎で悩む地域においても大変貴重であると感じる。集落が消えていくとともに、そこでの民俗や文化も途絶え消えてゆくという事例を多く聞いてきているだけに、そのことを強く思うのである。





 『君ヶ畑』から帰る途中、『蛭谷』へと向かう下りの坂道を1台の軽トラックが歩くほどのスピードでゆっくゆっくりと走っていた。追い越すにも狭い道なので追い越せず、仕方無くスピードを落としてゆっくり後をついていく。やがて『蛭谷』集落に着くと、そこには何本もののぼりが立ち、多くの人たちが集まっている。どうやら市長選挙の候補者の方の集会があるようだ。集まっている人の大半は高齢者の人たち。そして軽トラのドアが開き、ゆっくりとおりてきたのは100才に手が届きそうにも見えるくらい高齢のおばあちゃんだった。周りにいた人が、ドアを開けてあげて、おりる際に転ばないように手を差し伸べている。このおばあちゃんは、地元地域から市長さんに立候補するということで、なんとか応援したいということで駆けつけたのだろう。そしてその姿を見せてもらって、地域の人たちの期待の大きさを強く感じたりした。

 数日後、この候補者の方が見事当選を果たしたことが報道されていた。切り捨てられようとしている地域の気持ちを一番よく知る市長さんの誕生ということになる。これから、地域の期待にどのように応えてくれるのか大いに期待されるところだ。そして同じような期待を持っている人たちが各地域にたくさんおられるということも、この選挙結果を見て感じるのだった。






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【2013/02/18 19:43】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#227 「次郎九郎」を訪ねて
~ 「次郎九郎」を訪ねて ~






滋賀県甲賀市の神(かむら)にある集落「次郎九郎」を訪れた。2年前の春に訪れて以来のことだ。以前のこのコーナーでもふれているように、正式な集落名としての「次郎九郎」は存在しない。また小字名としてもこの名は存在しないので、「次郎九郎」という呼び名は俗称ということになる。旧地名でいえば、滋賀県甲賀郡甲賀町の大字「神」の小字「藤木」、その「藤木」の北部にある小高い山を越えた僅かな川沿いの平地に、その小さな集落はあった。野洲川に注ぐ次郎九郎川の源流に近い所だ。残念ながら、今は崩れかけた家屋が一軒とプレハブが一棟、かつては村の季節を彩ったであろう柿の木、そして村の共同墓地などが残っているだけで、住む人はもういない。









桃源郷を思わせるような静かで美しかった山村「次郎九郎」に、周辺の山林や田畑跡地が大きく切り拓かれて大規模な産業廃棄物最終処分場「クリーンセンター滋賀(平成20年10月開業)」が建設されたのは、ここ数年の内のこと。これにより周辺の風景は一変した。すでにもう人が住まなくなってかなりの年数が過ぎていたとはいえ、その変貌ぶりには驚かされた。今ではその巨大で荒々しく現れたモンスターのような施設に追いやられるようにして、紅葉の巨木と村の共同墓地、そして一軒の崩れかかった老家屋が、かろうじて昔の面影を残す。踏みとどまるようにして残るこれら在りし日の名残りは、何とも切ないながらも地元の人々の思いを静かに語っているようにも見える。













ダムや原発、産業廃棄物処分場など、俗に‘迷惑施設’といわれるこれらの施設が建設される際には、必ずといっていいほど地元の人たちの反対が起こるものだが、この神地区でも例外なく強い反対があった。安全面に関して万全の対策が施されると説明を受けたとしても、環境汚染、自然破壊、イメージの悪化、搬入用大型車の乗り入れによる騒音や脅かされる交通安全、大切な故郷の破壊など、様々な心配要素が発生することを考えれば当然のことだろう。何かあった時に「想定外だった。」で片づけられてしまっては、たまったものではない。それ以外に今回の場合は、受け入れ派と反対派の間で疑心暗鬼のような気持ちが生まれたりして、それまで平穏に暮らしていたお隣同士の区民の間の空気が非常に悪くなってしまうなど、村の人たちの心をも分断してしまったのである。
これら外部から見ているとわからない様々な問題が、こういった施設建設用地に該当した地域の人々にふりかかっていることを、やはり外部の我々も知っておかなければと感じる。「ゴミ捨て場(迷惑施設)は必要だろう?どうせ人がほとんど住んでいない所だからいいじゃないか。誰かが犠牲にならないとダメなんだから。」というような発想で、これまでどれだけ多くの自然や地元の人たちの心が壊されてきたのだろう。そこに感謝や謙虚な気持ちがあれば、変わっていた部分も多かったのではないのか、など思う。





そのクリーンセンター滋賀だが、折からのエコ・省エネの流れにより、廃棄物の受入量が1/2、処理量金収入が1/4(いずれも平成22年度実績)というように、当初計画から大きく下回ってしまった。それによって、多額の公費負担が強いられ、経営改革が余儀なくされる状況にある。用地は一部を除き、地元の人たちからの借地。15年間(平成20年10月30日から)という期間を決めて、平成35年までには処理された廃棄物が全て埋められ、植林された上で地権者に返されるという約束。そのようにして何とか両者折り合いをつけてスタートした大事業だが、新たに経営の見直しをしなければならなくなったのである。そのことへの不信感、そして新たに進もうとする方向や将来についての不安などが地元で沸き起こるのも無理はない。

経営改革方針を定めるための地元区長との意見交換会の記録を見てみた。そこには地元の人たちの不安な気持ちや憤りの気持ちなどが強く表れている。将来に向けても、この地では地元の人たちの様々な不安が渦巻いているのである。そのあたりのことは、滋賀県のホームページを[ホーム > 組織情報(電話番号) > 琵琶湖環境部(循環社会推進課) > クリーンセンター滋賀の経営改革について]とたどっていくと、資料などで見ることができるので、もし関心をお持ちであればればご覧いただければと思う。





上の茅葺き家屋の写真は、かつての「次郎九郎」だ。これを撮影したのは今から20年前の平成5年(1993年)、その頃はまだ畑仕事をされる人の姿もあったように記憶している。20年前の風景は今の「次郎九郎」とは全く違っており、いかにも隠れ山里といった趣きある風景だった。周囲が山に囲まれたこの集落に行くには、小高い山越えの極細の道をトロトロ行くか、産業廃棄物処理場の横辺りからの薄暗い未舗装路を行くしかなかった。それだけに、その山道を行った後に現れる大きな紅葉の木、そして茅葺き家屋の風景はまさに桃源郷のイメージの美しさで、今でも強く心に残っている。また、集落から次郎九郎川沿いで北へ向かう道は、地図には記されていたもののほとんど廃道状態で車で進むことはできず、夏場など雑草に覆い隠され、通り抜けのできない行き止まりに近い状態の集落でもあった。













それからしばらく訪れる事なく、9年ぶりに訪れた時の「次郎九郎」の風景は何とも切ないものだった。写真は平成14年(2002年)に訪れた時のものだ。ご覧のように、そこには人の姿や温もりを感じさせるものは既になく、あの美しかった茅葺き家屋の屋根は崩れ落ち、ただ崩壊するのを待つだけという現実の風景があった。「あの茅葺き家屋をもう一度見たい。」とずっと思っての訪問だっただけに衝撃は大きかった。トタンが被せられていない、ありのままの茅葺き家屋の維持には大変な手間と多額の費用がかかる。したがって、もう人が住まなくなった家にお金をかけることはできず、自分たちだけでできることをやり尽くした後は、崩れていくのをただ見るしかないのが現実。さらにそこは大規模な廃棄物処理場が建設される所。畑仕事をすることも、もうない。そういったことを考えると、崩れて朽ち果てる風景となってしまうのも当然のことなのであるが、やはり温もりが失われ、灯りが消えていく風景は何とも寂しい。
ただその時、集落内の一画にあるコンクリートの建物から聞こえる「ブキィー!ブキィー!」という豚の鳴き声が、何か妙に不思議な感じでホッとしたのを覚えている。コンクリートの壁が高く姿は全く見えないのだが、鳴き声とガサガサと動く音だけが聴こえてくる。「なぜここに豚?」と当時不思議に思ったものだった。





ところで2年ほど前の秋に「次郎九郎」を訪れた時、たまたま草刈りをされている方がおられたのでお話を少しうかがうことができた。その方は3軒ほど残っていた家屋の真ん中に住んでおられたそうで、おそらく先の写真の茅葺き家屋にお住まいだった方と思われる。しかし、その方のお話によると「昭和50何年かに、ここを出た。」ということだったので、写真撮影の時は既に住居は他所に移され、畑仕事に帰ってこられていたところだったようだ。

これまで「次郎九郎」では、現地におすまいだった方になかなか出会うことができなかったのだが、この日運良くお出会いできたのを機にいくつかのことをうかがってみた。
まず集落のことだが、先に3軒の家屋と書いたが、それ以前は4軒あり、早いうちに1軒がここを出て他所に移られたのだそうだ。また、ずっと昔には8軒もの家があったという。村の広さからいくと3軒では少ないなと思っていたのだが、8軒だとなんだか納得してしまう。
また、この方がここを出られた理由だが、やはり雪が多かったということが大きかったようだ。湖北地域のような桁違いの積雪量ではないにしろ、積もるとなかなか融けず、山越えをしての村への出入りは生活に大変な支障をきたすということは、当時の状況を考えるとすぐにわかる。今の、廃棄物処理場への立派な道が着いてる状況からは、イメージさえも難しいのだが・・。









学校の問題も大きかったという。小学校の4年生までは、隣の集落の「唐戸川」の分校(昭和42年廃校)まで歩いて通い、それ以降は大原小学校までバスで通う。もちろんバス停までは山越えで歩いて行かなければならない。そして中学校はさらに遠くなる。距離的には、彦根市の「男鬼」のように10kmもの道のりを歩いて行くのとは、だいぶ違っているが、やはりこの独特の山越えの隠れ里的な地形が、日常生活の中で大きな負担になっていたのは間違いのないところだ。特に冬場の積雪時や凍結の中の山越えは、小さな子どもの足では困難を極めたことだろう。
こうしてこの方は、家が傷んできて修繕が必要になってきたのを機に、転居を決意されたという。修繕には大変な費用がかかる、それならば引っ越しして便利な所に住もうというのも自然の流れだろう。いずれにしても今の「次郎九郎」の風景からは、なかなか想像がつかない。私が訪れた平成5年の頃でさえ、この集落への道は大変細くなかなか困難だった。昭和の40年、50年代であれば、さらに状況が悪かったということは想像に難くないのである。









『ふるさと神村(編集:神村史編集委員会)』という郷土史書に「次郎九郎」について少しふれられていた。そこには「谷間が狭く高い険阻な山に囲まれているので、日の出や日没が神村の平地とは大きな差があり、・・・(以下省略)」と書かれている。やはり距離はそう離れていなくても、周辺の集落と比べると、生活する上でかなり厳しい条件にあったたようだ。また「平成11年には1戸が残るのみとなった。」とも書かれている。その頃には、まだ人がお住まいだったということなのか、家屋が残っているということなのか判断はつかない。なお次郎九郎という珍しい名の由来だが、「昔次郎九郎という人が住んでいたので神の人たちは次郎九郎といったのである。」と記されている。













今この「次郎九郎」には、その一軒の家屋が健在だ。かなり崩れてしまっているが、家の様子からすると、先のお話をうかがった方よりも長くこの地に住まわれていたように思える。今でもこの「次郎九郎」は僅かではあるが、春には梨の木の花、そして秋には紅葉など季節の花に彩られる。人が住んでいた頃は、それに加えて夏には田んぼの青々とした稲穂や蛍も見られたことだろう。

少し高台にあるこの家屋から見る風景は、過去の風景からは想像つかない風景になっている。それでは、未来はまたどういう風景になっているのだろう。今見えるのは、古びた老家屋や墓地の巨木とともにある巨大施設の風景。時代の流れを凝縮して表しているようなこの風景は、今後どう変わっていくのだろうか。






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html
【2013/02/02 17:48】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#226 「中河内」の 「己知の冷水」と「己知部(コチフ)」
~ 「中河内」の
「己知の冷水」と「己知部(コチフ)」 ~







関西屈指の豪雪地帯で、福井県との県境にある集落『中河内(なかのかわち)』は、著しく過疎化の進んだ山の集落。木之本インターチェンジを下りて北国街道(R365)を北上すること20km余り、急坂道の椿坂峠を越えて、坂を下りきった所にその集落はある。そこからさらに街道を北に4km程進むと、県境の栃ノ木峠。ずっと以前はこの峠付近に茶屋と数軒の民家があり、枝郷『栃木峠』集落が存在していたが、今そこはもう住む人はなく、無人の家屋が一軒と地蔵堂そして樹齢400年以上という栃の木の巨木が残るだけ。なお、このサイトでも紹介している廃村『半明』も『中河内』の枝郷だった。したがって、かつては本郷の『中河内』、そして枝郷の『半明』集落と『栃ノ木峠』集落を合わせて大字『中河内』だったのである。今、人が住むのは『中河内』だけになってしまっているが、いずれにしても椿坂峠と栃ノ木峠という二つの峠の間の集落『中河内』は、滋賀県の一番北に突き出た所に位置する県最北の集落ということになる。







栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より





栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より






『中河内』へ行くための唯一の道となる北国街道(R365)は、雪の降る季節は栃ノ木峠以北、福井県の今庄のスキー場までの間が通行止めとなる。峠手前の滋賀県側にもスキー場があるものの、期間中、道が峠で行き止まりとなるため、スキー関係の車以外はほとんど通ることはない。また全線開通している時期でも、車はたまに通るといった感じで交通量はまばらだ。現在、椿坂峠を避けるトンネル工事がされており、近い将来に完成予定というが、そうなると『中河内』の人たちは、木之本へ出るのに峠を越える必要がなくなるので、ずいぶんと楽にはなるだろう。それでも周囲の環境や道路状況を考えると、人里離れた静かな山深き集落『中河内』の状況は、そう変わりはないのかもしれない。








そんな『中河内』集落も、1884年(明治17)に長浜~敦賀間の鉄道が開通するまでは、近江と越前とを結ぶ街道の重要な宿駅として本陣や宿などがおかれる、旅人たちで賑わう村だった。今も村には本陣跡の碑が建てられ、当時の繁栄を偲ぶことができる。ちなみにこの碑は、明治4年の廃藩置県から100周年にあたる年に、当時の小学校職員、児童、PTAらの奉仕作業によって記念に建てられたという。明治4年から100年目というと昭和46年となるが、その時の児童数は42名。しかしもう廃校になって久しく校舎の姿は無い。それどころか学校跡を示すものさえ残っておらず、残念な気がする。






鉄道開通以降は街道の宿駅としての役目を終えた『中河内』、人々も炭焼きなどを新たな生業とするものの人口は次第に減少し、戦後の高度経済成長や燃料革命など、時代に波のうねりの中で一気に過疎化が進んでゆく。またその間の昭和31年8月には、大火により村の大半を焼失するという悲劇にも見舞われている。大火の前の写真を見ると、見事な茅葺きの家が建ち並ぶ素晴らしい景観を見せてくれている。そして火事で焼けてゆく茅葺きの家屋の写真。いったん火が燃え広がると、もはや何の術もないという状況を写真は語る。



栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より



栃木峠の茶屋
「ふるさと中河内(発行:余呉町)」より


この余呉町北部から福井県の今庄へと抜ける間の北国街道(R365)ルートは大変山深い。集落は街道沿いにポツンポツンと現れる感じで、『中河内』を過ぎると、次は峠越えのクネクネ道を走って福井県の板取まで行かないと集落には出合えない。そしてその辺りもやはり『中河内』同様、過疎が大変進んだ地域で、なんとも静かで寂しい感じだ。便利になった今の時代でも、深い山の中を延々と車で走らなければならない時などは、たとえ小さくても人里に出合えると何かホッとするもの。それを思うと、歩いて旅をしていた時代の頃、こういった山中の街道沿いの里は、旅人に多いに安心を与えてくれるとともに、休憩や宿、そして人足や馬借など、欠くことのできない大きな役割を担っていたに違いない。そして時代が変わった今も、状況は大きく変貌しているものの、この『中河内』集落の存在は街道沿いの静かな山村として、山中を走る者たちに安心感を与えてくれている。ちなみに1882年(明治15)は107戸・530人もの規模を誇っていた『中河内』だが、2010年(平成22)は31戸・48人というように人口は10分の1以下にまで減少している。さらに65歳以上の高齢者が70%以上を占める高齢化集落。それでも冬場に大変な積雪を記録する自然の厳しさは、昔も今も変わらないのである。







「上板取内の案内看板(今庄町教育委員会)」より




椿坂峠を越えて坂を下っていくと、ちょうど『中河内』の手前あたりの右手に湧水があるのをご存知だろうか。‘己知(こち)の冷水’である。湧き水紹介などの本では「おちのれいすい」と紹介されているものもあるが、現地ならびに役場などで何人かにうかがった限り、どの方も「こちのれいすい」と呼ばれていた。漢字の「己知」の読みを「おち」と誤植されてしまったのかもしれないが、ここでは‘己知(こち)の冷水’と呼ぶことにする。飲んでみると、これがなかなか美味しい。訪れた時などはいつもタンクに入れて持って帰る。夏は冷水にして飲んだりすると格別だ。またコーヒーや料理に使ったりするのもよい。道ゆくハイカーの喉を潤している光景もよく目にする。別に湧水ファンというわけではないのだが、『半明』の山水とともに、‘己知の冷水’にはけっこうお世話になっている。いつの時代からあるのかはわからないが、きっと長年にわたって旅人の安らぎの場となっていたことだろう。






で、気になるのはこの「己知(こち)」ということばだ。中河内(なかのかわち)の河内は「こうち」とも読め、その「こうち」から「こち」が来ている。つまり「河内(己知)の冷水」と考えるとすんなりいいってしまうのだが、どうもそれだけではないような気がする。そのあたりが、平成10年発行の‘ふるさと中河内(発行:余呉町)’の中でふれられている。以下はそこからの抜粋である。

古き日本書紀の中にも、次の記録が見られる
「越しの国に通ず古代よりの道路(要路)亦官路越前六道の内、虎杖越謂ゆる北陸道東近江路の集落中河内とあり、欽明天皇元年(西暦540)春2月百済人、己知部の条にみゆる己知(河内)チコベ(知己部)とあり、平坦な坂を越ゆれば池の河内、獺の河内に通じ角鹿(敦賀)に至る」とあり、これより先、越前角鹿より天之日槍一族が近江の国に進出し来る道程としてこの地に住みつき、土地開発に努力したと思われる。


以上は‘ふるさと中河内’からの引用であるが、己知についてはこれだけしか書かれておらず詳細がわからないものの、己知部と天之日槍の両渡来人と『中河内』との関連を示唆している。「」内の部分はどこかからの引用とも思えるが、引用元はわからない。

日本書紀を調べてみると「欽明天皇元年(五四〇)二月。百済人己知部投化。置倭国添上郡山村。今山村己知部之先也。」という記述がある。これは「日本書紀-全現代語訳-(宇治谷孟:講談社学術文庫)」によると「二月、百済の人己知部(こちふ)が帰化してきた。倭国の添上郡山村(そえのかみのこおりのやまむら)に住まわされた。今の山村の己知部の先祖である。」となる。
この己知部という人物は秦氏の系統の帰化人で、帰化後は現在の奈良県に住み、その地周辺に多くの子孫を残した一族の祖となる存在の人だ。己知という以外にも己智、許知、巨智なども同じ。己知部という一人の人物なのか、己知部姓の一族を指すのかはわからないが、日本書紀では己知部という帰化人の存在が記されているのである。
また文中の天之日槍(あめのひぼこ)というのは、己知部より先に新羅の国より日本にやって来た渡来人で、畿内を中心に多くの言い伝えが残されており、この余呉町においても土地を拓いたという伝承がある。神として崇められているところからすると、当時の日本に大きく貢献された人物だというのは間違いないだろう。そして「中河内」にも天之日槍を祭神とした大上宮跡が残っていると余呉町誌に書かれており、このあたりの地域と渡来人とのつながりの歴史の深さを物語る。




では、なぜ渡来人の己知部が『中河内』と関係するのか、‘ふるさと中河内’の記述をもとに勝手に推測してみる。

当時、朝鮮半島から日本に渡るにはいくつかの海路があったようである。半島東岸から海流に乗り敦賀に至るルート、半島の西岸より海流に乗って九州を経て瀬戸内から畿内へ入るルートなどで、この己知部もいずれかで渡来したと考えられる。先の天之日槍が敦賀(角鹿)よりわが国に入ったと言い伝えられていることからすると、己知部も敦賀から入ったと考えても別に無理があるわけではない。そして敦賀に渡ってきた渡来人はどのようなルートで畿内へ至ったのか、そのことを考えていくと『中河内』が浮かび上がってくる。

歴史を振り返ってみると、『中河内』は敦賀との関係が非常に深い。『中河内』の裏山には角鹿山という名の山があり、敦賀との関係の深さを物語る。そしてつい最近の時代まで『中河内』の人々は、買い物は山越えの道を歩いて敦賀へ行くのが普通だった。現地の高齢の方にうかがうと、今でこそ車で北国街道を南下して木之本まで出て買い物をするのが当たり前であるが、北国街道がまだ十分に整備されておらず、個人での車の移動が一般的でない頃は、椿坂峠を越えて木之本へ出ることは少なく、西に向かって山越えで福井県の『池河内』へ出て、そこから敦賀へ行くというのが一般的だったという。つまりこの集落では、長い歴史の中でその大半が滋賀県内より敦賀との方が交流が深かったのである。それは地図を見れば納得する。木之本へ行くには、難所の椿坂峠を越えてからも大変な距離を歩かねばならない。それに比べると敦賀へのルートは遥かに近い。行って帰ってくることを考えると、西に向かって敦賀に出る方が時間的にも体力的にも楽。したがって中河内~敦賀間には古の時代から、深いつながりと人や物の往来があったと考えられる。




次に中河内~敦賀までの具体的なルートを考えてみる。『中河内』から西に山を越えて『池河内』へ向かうルートは問題ない。次に池河内~敦賀を考えてみる。『池河内』から直接に西の敦賀へ向かう西谷川の谷を通る西のルートは急峻な谷を歩かなければならず、また川幅広い木の芽川も渡らなければならない。それを思うと、距離的には遠回りすることになるが、『池河内』から北の『獺河内』を経由して、古くから拓けていたという木の芽峠~越坂~樫曲~敦賀という古道に合流するというルートの方が安全に行ける。実際『中河内』の聞き取りの中で、「池河内から獺河内、そして敦賀への道はよく使った。」という声を聞いた。それが古代においても、敦賀~獺河内~池河内~中河内というルートが使われていたと考えても不思議ではない。しかし地名辞典などを見ると『池河内』『獺河内』ともにその発生は中世とある。つまり、どちらも渡来人がやって来るその頃には存在していなかった村ということになる。ただ、人が通る所に道ができる、道がある所には人が住む。山中の長い道の途中に里があることは大変重要なこと。古代においても、この周辺の山中を練り歩いて道ができ、山の中の少し平な地(河内)に人が住み始め集落ができていたということも、十分に考えられる。そう考えると古代、敦賀に渡ってきた大陸の一行が敦賀~獺河内~池河内~中河内、そして南下して畿内を目指したと考えても、決して無理があるとは思えないのである。





「上板取内の案内看板(今庄町教育委員会)」より


いささか強引ではあるが、敦賀にやって来た渡来人の畿内への南下ルートとして、敦賀~獺河内~池河内~中河内という道順を作ってみた。そしてさらにこれを‘己知の冷水’に関連づけると面白い。なんと地元では、『池河内』から山越えで『中河内』へとやってくる山の道の周辺が「チコベ谷」、そして『中河内』へと至る坂が「チコベ坂」と名づけられているのである。小字名としても残っている。そしてその坂にあるのが‘己知(コチ)の冷水’。コチベとチコベ、ひっくり返ってはいるものの、何か関連があるように思えてならない。

帰化人の己知部が畿内へ向かうのに、敦賀~獺河内~池河内~中河内というルートを使っていたとしたらどうだろう。コチフ(ベ)という人が通った跡にコチ(河内)のつく名の集落が3つ。そしてチコベの坂を経てコチの水場からコチ(河内)の集落へ。「中河内」と「池河内」をつなぐ古道横の谷がチコベ谷、行きついた所がチコベ坂、そしてその前の己知(コチ)の冷水、ややこしいが、そんな感じになる。はるばる海を越えてやって来た尊貴な方が、我が村にお立ち寄りになったというので、小さな山の部落は大変な騒ぎになったことだろう。そしてそのことが伝承され、山越えの旅で己知部がやってきたあたりの湧水にもコチ(己知)の名をつけ、己知部が越えて来た坂を知己部坂と名づけた、など考えられはしないか。コチとチコ、なぜ字が逆になっているかはわからないが、由来を同じものと考えると、強引ではあるがこのようにつなげられないこともない。「河内のつく地名の語源は、山の中の平地だから・・」などと片づけてしまうには余りに惜しいような、「中河内」と「己知部」と「己知の冷水」なのである。




残念ながらこれに関する資料は見つからず、また地元でこのことをうかがっても、己知の冷水やチコベ坂・チコベ谷のことは誰もが知っているが、その名の由来などは一切わからず、明らかにする術も無かった。余談であるが、現地取材の時に「コチの由来?チコベ谷?それのいわれなんか、そんなもんあれへんよ。ここはどこの山もずっと昔から名前ついてるよ。」とオバチャンに笑われてしまったが、その後の「昔のこと?知ってる人はみんなおらんようになったからなぁ・・。」ということばに、何か時の流れの中に埋もれていくものの重要さを感じたりしたものだった。そういえば、先述の角鹿山についても「それ、どこ?」という声も地元で聞かれた。私のようなよほどの物好きでないとわざわざそんなことに興味を持ったり調べたりしないし、ましてや地元の人は、昔から普通につけられてる土地の名前など普通のものでしかないのかもしれない。




一世代前の者なら普通に知っていることが、次の世代には必要がなくなって伝えられず消えていく。環境の変化や人の移動、意識の希薄さや心の余裕の無さなどから消えていくものも数知れずあることだろう。山の村や集落が次から次へと消えていく中で、伝えていきたいものがあるに関わらず伝えられず消えていくものが数多く存在していることを思うと残念でならない。知識として残すだけではなく、それを考える時、そこに人の心の存在があることを思うと、伝えることの重要性を強く思うのである。ただ、そのような難しいことを考えて頭を悩ますより、素直に‘己知の冷水’を味わうのが一番など思いながら、新春の妄想をするのもなかなかのもの。できれば初夢で、『中河内』のチコベ坂を歩く己知部ご一行の姿を見たかった、など思うのである。






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【2013/01/19 21:00】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#225 開拓者
~ 開拓者 ~






太平洋戦争の敗戦(1945年)により荒廃した日本、数百万人にものぼる失業者へ職業と食料を与えるため、政府により緊急開拓事業が実施された。滋賀県内においても40以上もの地で開拓(開墾・干拓)事業が進められ、県内外から多くの入植者たちが、明日への夢を抱いてそれぞれの開拓地へと入っていった。しかし戦後の混乱した時代のこと、開拓地といえば聞こえがよいが、現実には、これまで手をつけようにもつけられない環境にあった山林や原野という所も少なくなかったようだ。
大雪や低温、獣害など自然環境の厳しさ、土地そのものの不適、交通の便の悪さ等々、手つかずになっていた原因がそれなりにある所、そこを開墾し、荒れ地を農地に変えて生活の場を築くのは容易なことではない。それに加えて、入植者たちも十分な情報や準備を得て現地に入る余裕なども無く、まともな道具もほとんどない中での開拓生活は困難を極める。その大変な苦労と努力の末に実を結んだ所もあれば、いかなる努力をもってしても苦難しか残らなかった所もあり、それぞれの開拓地で悲喜様々なドラマが展開していたのである。今回はその時期に入植された方のことを少し紹介する。





秋晴れのある日、滋賀県と福井県との県境近くにある山間部の地を訪れた。それは『新、ふるさと事情(著者:熊谷栄三郎/ 朔風社)』という本に紹介されていた、ある開拓村のその後を確認したかったからだ。この本は、筆者である熊谷栄三郎氏自らが訪れた、京都や滋賀の山間集落の紀行文で構成された短編集で、紹介されている山村の中には後に廃村となっている所もある。いずれもが当時の状況がよくわかる大変貴重なものだ。この本が記されたのが1980年代の初めなので、もう30年も前。その開拓村も当時とはずいぶんと状況も変わっていると思われ、その後どうなっているのかこの目で確かめてみたかったのである。









開拓村があったのは、古くは街道として拓けた山越えの道の途中で、この書の中ではそこに住む一人の開拓者(当時74才)のお宅を訪問した時の様子が紹介されている。おそらくこのあたりであろうと思われる所へ行ってみたが、周辺に人家らしきものは見当たらず原野が広がっているだけ。カメラの望遠レンズで見てみると、のび放題の雑草の中に家屋らしきものの柱や壁の残骸と思われるものが見えるが、それがその開拓者のお宅だったといえるような根拠は見いだせない。また近づくには、あまりに自然にかえりすぎている感じがしてそこに踏み出す勇気も出ない。本に書かれていた方の年齢から考えると、やはり、家の主を失うとともに家屋も崩れ、開拓前の原野へ戻ってしまったとみるのが自然なのかもしれない。そこで確認してみようと、そこから少し離れた所にある数軒の人家のある方へ行ってみることにした。









2~3軒の家屋が建ち並ぶその地へ近づくと、庭で畑仕事をされている女性の姿が見えた。早速挨拶をして、開拓村のことをきいてみる。すると、先程私が行ったあたりにも以前は開拓者の方が住んでおられたという。「わたしより、お父さん(旦那さまのことです)の方が詳しいからきいてみて。家にいるから。」ということば。「それじゃあお邪魔します。」ということで、お宅の方へ向かい玄関から「ごめんください。」と声をかける。すると出てこられたのが、ここの主で89才になられるという男性の方。いつものように「山の集落が好きでいろいろ調べている者です・・」と簡単に自己紹介をしてお話をうかがう。





まず『新、ふるさと事情』に書かれていた、ここより少し奥にあったと思われる開拓者のお宅についてきいてみると、やはりだいぶ前に無くなってしまって今はもう無いとのこと。そして「わしも富山からきたんや」ということばに驚く。そういえば『新、ふるさと事情』にも、富山からの入植者があったとも書かれていたが、この方がそうだったのである。本に書かれていた開拓者と同じ頃に入植された、やはり開拓者だったのだ。そして「富山の大勘場(だいかんば)から来た。」ということをうかがい、さらに驚く。そこは数年前に私も訪れた所で、岐阜県境近くの利賀村(現在は南栃市)の最奥となる大変な山奥の集落。私自身、大変気になっていた所でもあった。









この方は終戦後の昭和21年に南方より復員され、昭和25年にここに入植されている。富山を離れて、もう60年あまりにもなる。当時の『大勘場』は16軒ほどで合掌造りの家屋もあったというが、その頃はまだ奥に『水無』という集落があったので『大勘場』は最奥の集落ではなかった。「水無は5~6軒の合掌集落やった。よく行ったなぁ」というように山の集落同士のつながりは深かったようである。不思議なもので、その方の『大勘場』の生家が、現在、同じ滋賀県の大津市に移築されて蕎麦屋に生まれ変わっているそうだ。屋根にトタンを被せられてはいるものの立派な合掌造りの家屋、「中身は変わってなくて懐かしいー。」というから、遠く離れた滋賀の地で、生まれ育った我が家を感じることができる何とも不思議なご縁だ。ちなみに『水無』から西に向かうと、これももう早くから廃村となった岐阜県白川村の幻の合掌集落『牛首』が、当時まだ健在であった。









その方に、この地での開拓の様子をうかがってみることにした。昭和25年に一番に入植した時は5戸あったというが、途中でやめてしまったりするところなども出て戸数を減らす。しかし、この方が富山から親戚を呼び寄せるなどして最終的に5戸の集落となるが、やはり社会の移り変わりとともに現在は3戸となっているそうだ。
入植した当時は付近一帯が笹に覆われた原野・山林で、機械は無く全て人力で開墾作業を行うしか術はなかった。朝5時に起きて夜の9時になるまで働き続けたというから、何とも過酷な毎日が続いていたのである。それでも努力と苦労が実を結び、やがて周囲が驚くほどの米の収穫を得るようにもなったというから、今の時代からは計り知れない努力がそこにあったということは想像に難くない。今、家屋の建ち並んでいるあたりはひらけた風景が広がっており、原野のイメージはほとんど無い。しかし周辺の山々を見ると、開拓される前の現地の様子が何となくイメージできる。それを見るとやはり、人力のみで切り拓き、生活の場を築き上げるまでに費やした努力と苦労が並大抵なものでないことが、よくわかる。山深き故郷『大勘場』で培った生活力、そして根気や忍耐強さが、この地を築く上で大きな力になったことだろう。





途中、酪農もされていたそうだ。13頭ほどのホルスタインを飼っていたが、そのための生活は大変厳しく、朝早く起きてきっちり時間を決めて搾乳しないと乳が出なくなるので、休むことは全く許されなかった。眠る間も無い中での開墾作業と酪農。遂には大切な家族が病で倒れることとなってしまい、それを機に断念されたという。今もその頃に使っていたサイロ跡が残るが、そこには開拓者の歩んできた苦難の歴史を見ることができる。

こんな話もうかがった。子どもさんが小学校に通っている時のこと。小学校までの6kmもの道のりを、国道を歩いて通う。その当時、トラックがよく通っていたそうで、中にはいつも通る子どもたちと顔見知りになるトラック運転手もある。そのトラックが来るのを見ると子どもたちがサッと手を挙げる。するとトラックが止まって、乗せていってくれたそうである。まず疑うことから始めなければならない今の時代からでは考えられないことだが、温かい昭和の風景として何かすごく懐かしく感じてしまう。「おう、ぼうず!乗れや!」という威勢のいい運転手と、「おっちゃん、ありがとー!」とお礼を言う子どもたちの姿が目に浮かぶ。





生まれ故郷の『大勘場』に行かれることは、今ではほとんどなくなってしまったという。「行こう、と約束した人たちも先におらんようになってしまって、残っているのは自分ともう一人くらい・・」のことばに、積み重ねられた年月の重さを感じる。原野から切り拓き、60年以上も住み続けたこの地だが、やはり故郷は「大勘場や!」と即答。この地に祀られている八幡宮、そういえば『大勘場』も八幡宮。故郷を思う心はいつまでも変わることがない、そういう思いを感じる。「故郷の風景で一番思い出されるのは?」という質問には少し間を空けて、「釣りをしていた風景やな。50cm級の岩魚がたくさん釣れたなー。」という答えが返ってきた。この時、その方の中には故郷の風景がいくつも思い浮かんでいたのかもしれない。そして私も、その釣りをしていたという山深き地の風景をイメージしてみる。すると、無性に『大勘場』へ行きたくなってきたりするのだった。

お話をうかがったのは小一時間くらい。突然の訪問の見ず知らずの者に対して、とても丁寧に話していただいた。その上、帰り際に「おーいお茶」まで頂いてしまって、ただただ感謝である。





それからしばらくして『大勘場』(正確には‘奥大勘場’)を訪れてみた。以前訪れた時は写真撮影もできていないので今回はじっくりと写真撮影もしてみた。どこで釣りをされていたのだろうと探してみたが、山の中腹にある集落なので周辺に釣りができるような川は見当たらず、結局、思い出の風景の場所はわからなかった。谷に下りるには大変だし、もしかするとお話にも出てきた『水無』方面なのかもしれないなぁ、など考えながらあちこち撮影する。













集落内をうろうろしていると分校跡にオバチャンの姿が見える。早速うかがってみる。「ここから滋賀県の開拓地に入植された方がおられまして・・」と切り出すと「あ、それ○○さんやろ!よう知ってるわ。あそこに家があったんやわ」とすぐに返答がかえってきた。小さな集落だったとはいえ、60年もの歳月が流れているのにすぐにわかったことに何か感動。人同士のつながりも深かったんだろうなぁ、など感じる。「ここは涼しいよ。夏でもクーラーなんかいらんし。」という山の集落『大勘場』、今でも人々の生活はあるが、やはり空き家や更地などが目立つ。そんな、もの寂しく感じる集落の風景の中で、八幡宮のしかめっ面の狛犬の頭の上にバッタが乗っていたのが何かおかしく、ホッとする。












『大勘場』をあとにする頃、まだ4時前だというのに山なみに日が沈もうとしていた。その日を浴びて鈍く光る山なみを見ながら、60年前にこの村を離れ滋賀の開拓地へと入植を決意された頃は、いったいどのような風景がこのに広がっていたんだろう、など考える。魚釣りをした子どもたちが、沢山の岩魚を抱えてにぎやかに帰ってくる姿が普通に見られた風景は今は無い。しかし、その頃の元気溢れる村の姿をイメージしてみると、子どもたちの元気な声が谷合に響いて聞こえてくるような気もする。そして、富山の山深い地の集落『大勘場』と滋賀の県境の山の開拓地、大津のにぎやかな通りにある合掌家屋の蕎麦屋など、一見なんのつながりのないこれらのものが、実は長い年月の中でつながっていることなども何か不思議に感じたりもした。













今回ご紹介した方は、戦後の緊急開拓事業の中で計り知れない努力の末、苦難を乗り越えて結果を出されている。しかし冒頭にもふれたように、この緊急開拓事業については、その場所場所により悲喜様々なドラマが展開していた。というか、もしかすると全体を見れば、喜の部分は僅かだったのかもしれない。苛酷な労働のため愛する家族を失い、命をすり減らす努力と苦労を重ねても何も残らず借金だけが残り、村をあとにした人たち、結果として新しい村を作り上げたものの、借金返済に人生を捧げることになった人たちなども存在する。そして、それらの悲しい歴史のしみ込んだ大地が、滋賀県にも多く存在していることを忘れたくないと思うのである。






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【2012/12/31 19:30】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#224 芹谷の、花咲く村とオバチャン
~ 芹谷の、花咲く村とオバチャン ~






鈴鹿山脈の最北部を水源として琵琶湖に注ぐ芹川、その水源に近い山峡の地の芹谷(滋賀県犬上郡多賀町)にはいくつかの集落が点在するが、既に廃村となってしまった所も少なくない。現存集落も、その大部分で過疎が進行し、空き家や廃屋が目立つ。特に谷の奥、ならびに谷を形成する山の中腹に位置する集落は、廃村もしくはそれに近い状態となっているところが多い。そして、それらの集落や集落跡の風景は、山の多くを占める杉林の薄暗さと相まって何とも寂しく感じる。季節でいえば、ちょうど冬枯れで荒涼とした感じ、そんな雰囲気を漂わせている。









そんな中で、一つだけ異質な雰囲気を感じさせてくれる集落がある。周囲が、いかにも廃村という風景を見せている中で、そこだけが別世界の感じがするのだ。「石垣のきれいな所ですよ」という話を聞いてはいたのだが、初めて訪れた時は、その美しさに驚いたものだ。周辺の集落が見せる荒れ果て、荒涼とした雰囲気は全くなく、各家屋はきれいに手入れされ、庭先には色鮮やかな花が咲く。ごく普通に人々が暮らす美しい山村、そんな感じだ。この周辺集落とのギャップは一体何なのだろう。もし廃村群のイメージのまま、何も知らずにここを訪れたなら、それこそ桃源郷のように感じても不思議ではない。それだけに、いつ訪れてもそのような風景を見せてくれるこの村に、「なぜここだけ、こんなに美しいんだろう」という疑問が私の中にはずっとあった。自分の中でこの美しき花咲く村は、長きに渡っての「芹谷の謎」だったのである。









夏のある日、その村へ向かった。一度、村の人にお話をうかがってみたいと思って、これまでにも何度も行ってはいるが、残念ながらタイミング良く出会うことができずにいた。訪れたこの日は、村へと続く道の少し手前に車を停めて歩いて行くことにした。途中、眼下に芹川を見おろすことができるポイントがある。暑さのせいか、クッキリとは見えず霞がかかっているが、両側からの山の斜面と底部に流れる川は、いかにも谷の底という風景を作り出していた。この日は晴れたり曇ったり、パラパラと雨が降ったりの変な天気。そのため深緑の斜面にはガスも見える。標高は400mほどなのだが、下まで見おろせるせいか、実際よりはるかに高く感じる。車1台で目一杯という何とも心細い舗装路は、もちろんガードレールもなく、運転を誤れば一気に谷底へという感じ。さらに路面にはいくつもの落石。そのどれもが尖っているのは、このあたりの岩の特徴なのだろうか。運転中に気づかず踏んでしまうと簡単にパンク、なんてことも普通にイメージできてしまう。













そんなことを考えながら歩いていると、その村が見えてきた。やはりいつものように美しい。そして人の姿が見えないのもいつもと同じ。鈴鹿の中に静かに佇む天空の里、そんな感じだ。ここの集落の駐車場横には、大きなムクゲの木がある。つい一ヶ月ほど前に訪れた時には全く咲いていなかった花が、この日は木全体にたくさんの白い花を咲かせ、とても美しくにぎやかな感じになっている。そのムクゲの木のまわりをウロウロしながら、しばらくの間、写真撮影をする。覗き込んだり見上げたり、接近したり離れたり。撮影を終えふと見ると、ムクゲの木の向こう側の家の縁側に、オバチャンの姿。「誰かいな?」という感じでこちらを見ている。無理も無い、駐車場に車も停まっておらず、人がきた様子も無いのに、見かけぬ変なおっさんがカメラを持って木のまわりをウロウロしているのだから。そこで声を大きく挨拶をして、そちらへと向かう。









いつものように「山の集落が好きで、写真を撮らせてもらっている者で・・」と簡単に自己紹介。この挨拶の段階で、話がうかがえそうか、忙しかったり怪しまれたりでうかがうのが難しそうかが大体わかるのだが、この時のオバチャンは大変親切に応対してくれた。そういえば、こういう場で迷惑そうにされたことは、これまでに数えるほどしか無いのは、本当に運がいいんだなぁなど思う。今の時代、見ず知らずの人に話しかけるなど街中などでは考えられないことだと思うし、こちらもそういう気持ちになることはない。それが、山の集落では挨拶したり、声をかけたりなどが自然にできる雰囲気のあるのが不思議だ。集落の風景、そしてそこに住む人々が、そういう雰囲気を作ってくれているのかもしれない。もしかすると、流れゆく時代の中で失われつつある大事なもの、そういうものの一つなのかもしれないと感じたりもする。





縁側の椅子に腰掛けたオバチャンと静かな山の集落の風景は、何とも自然な感じだ。「まあ、すわってちょうだい。」のことばにカメラを置き、腰をかけさせてもらう。そういえば、縁側というものに座るのは映画やドラマではよく見る風景だが、自分自身は全く初めての体験。そこに座って前を見ると、さっきまで自分がいた風景が見える。そのさらに先には遠くに谷の川向こうの山が見える。時間が静かに流れていることを体感させてくれる風景だ。そして、その場にいる自分が何か不思議にも思える。いつもは見る側にいたのが、その中に入っていけたようなそんな感覚だ。
この心地よい雰囲気を満喫しながらいろいろお話をうかがう。現地の人から聞く様々な話は、どれもが興味のあるものばかりで、ついつい話が長くなるのだが、この日はいつも以上に話し込んでしまった。そして、そういう私に申し訳なく思われたのか、「申し訳ないね、どうぞ中に入ってちょうだい。」のことば。そしてそのことばに甘えさせてもらい、途中からは中でお話をうかがうこととなった。「こんなんしかないけど・・」と次から次へとお茶菓子を出してくれるオバチャンに恐縮しながらも、結局2時間あまりもお邪魔して、いろいろ貴重なお話を聞かせていただいたのである。





その集落にオバチャンが嫁いできたのは昭和16年というから、今から70年も前のことになる。その頃は、今ある自動車が通れる道などもちろんなく、芹川の流れる谷底からの山道を歩いて登るしか無かった。畑で採れた収穫物や炭俵、薪材、そして町で購入したコメや生活用品など全てのものが、人力による運搬。女でも、背中に30kgもの米や生活用品などを背負って山の上り下りをしたという。しかもこのオバチャンは、19歳で嫁いでくるまで山の生活など全く経験のない、町で育った娘さん。さぞかし山の生活は苦しかったことだろうと思う。

そのことをうかがうと、「道は、こんな狭い狭い道で・・こんなとこや思わなんだ・・」というように、来るまでは山の見える田園風景の山里をイメージされていたようだ。それが「着物の裾をまくって、下駄をわら草履に履き替えて・・」というほどの険しく細い山道を登って行かなければならない所。山道を登っていくほどに不安が大きくなっていったのも無理は無い。しかも嫁いできた当時は戦時中、心の支えとなる夫はすぐに招集されて戦地へ赴かれ、多くの親類の人たちがそこに疎開されてきたというから、嫁いできたばかりの娘さんにとっての気苦労は大変なものだったことは想像に難くない。さすがにオバチャンのお兄さんも心配になって、実家へ帰ることもお話しされたという。しかし、それに対し「兄さん、(主人は)遊びにいってはるんとちがうんやで、戦争に行ってはんねんやで。家にいるもんがこの家守っていかんなん。そんなんしたら主人の顔が汚れるし、たちまち私が笑われる」ときっぱり。









二十歳そこそこの娘さんのこのことばや姿勢、そこには今の時代の同年代の若い人からは考えられないものがある。もちろんその背景には、ご主人への深い愛情とご主人からの愛情、そして家の人たちや家族たちの愛情や支えがあったことは間違い無いだろう。そういえばそのことも含めて、山の様々な生活のことをうかがったが、オバチャンからは最後まで愚痴のようなことばは一切出てこなかった。むしろ教えてもらったこと、お世話になったことのお話が多かった。町の娘さんが山奥の村に嫁いできて、周りも知らない人ばかり。苦労や辛いこともあったに違いないことだが、そこにオバチャンの人柄と村の雰囲気が見えるような気がした。





この村から一気に人が減ったのは昭和50年頃。芹谷にあったセメント鉱山が閉鎖された時だ。この頃はもう、製炭は衰退し山の仕事だけでは生活できなくなっていた時代で、村も鉱山に頼らざるを得ない状況にあった。そういう中での閉山。それ以前からも社会の変貌による人口減少はあったが、そういう時代の中で、村はこの鉱山に生活を支えられていたといえる。それだけに閉山は、村にとっては決定的なダメージとなった。これにより村の若い人たちの地元での仕事は無くなり、職を失った人々は家族とともに生活のために山を下りることとなる。これはこの村だけではなく、セメント会社に努める人が多かった他の周辺集落も同様だった。
こうして村に残ったのは、地元に勤務してる人たちとその家族、そして高齢者くらいとなる。資料から当時の人口を拾ってみた。昭和45年が38人、同50年が23人、同55年が10人となっているが、やはりオバチャンの言われるとおり50年以降人口が激減しているのがわかる。「セメント会社が無くなったら若い人はいなくなり、年寄りだけになったのよ。」ということばのままに村は変わっていったのである。





通常であれば山を下りた若い人たちは、新しい生活の慌ただしさもあり、なかなか山に帰ってくることはない。帰ってくるとしても、村に残った両親が健在の間に里帰りで年数回帰ってくるくらいだろう。しかしこの村では、この時に村を下りた若い人たちが今でも月に1回帰ってくる。50代、60代の人たちだけではなくて、30~40代の人たちも帰ってこられるという。帰ってきた時には各自が家の様子を確認し、そして寺に集まる。その後は村の草を刈ったり、途中の道の落石を取り除いたりなど村の整備が行われる。中には既に家屋が無くなってしまっている人もいるが、その方も帰ってくるとまず屋敷跡を見に行かれるという。遠い昔に離れ、両親もいなくなり、生まれ育った家屋も倒壊してしまった故郷であるが、今でも大切にする気持ちは変わらない。「それがすごいなぁ・・」というのはオバチャンのことば。

こういった状況の集落で、このように定期的に、それも長年にわたって若い人たちが帰ってきている例は、本当に稀なのではないだろうか。少なくとも、私自身今まで見たことも無いし、聞いたことも無い。各自が時々自分の家を見に来たり修理する、帰ってきている親を迎えにくるなどは、けっこうあるのだが、この村のような例は知らない。









冬の積雪の時期や激しい悪天候の時を除き、ここで暮らす方は2~3人という。もちろんどの方も高齢の方だ。その方たちは、昔のままに庭の花を手入れしたり、生活のための薪を作ったりなどをしてすごす。もちろん、もう昔のように仕事に追われることは無い。そしてそういう高齢者の方に加えて、若い頃や子どもの頃にこの村を去った人たちも月に1回、生まれ故郷に集まる。その時、静かな村はにぎやかになる。
そこでオバチャンのことば。若い人たちが村に帰って来た時の、オバチャンとの会話の様子だ。

「おばさん、おばさん、ゆうて帰ってきてくれるからな。嬉しいよ」
「おばさん、おばさんらがいてくれるで、こうしておれらが帰って来れる。おばさんらがいてくれんかったら村は草でボウボウや。こんなきれいなんは、おばさんらがいてくれるからや」
「まだ、おばさんがいるばっかりに、こうして帰ってきてもらわんなん。負担かけて苦労かけるね、すまんね。どうか苦労かけるけど、助けてくだいね。」
「おばさんらがいてくれるから帰ってこれるんや」
「よう言うてくれるわ、そう思うとってくれるか。おばさん嬉しいわ。なんちゅうエエ村なんやろな。ここみたいな村は他にはあらへん」

そして若い人たちが村から帰る時、オバチャンは縁側から見送る。そのオバチャンにみんなは声をかけていく。
「おばさん、かえるでなー。こけたらあかんでー。こけたらしまいやでなー」
これは足が悪いおばちゃんへの心配のことばだ。おばちゃんはそのことを話された後、しみじみと言った。
「どんな嬉しいことか・・」

村に帰ってくる若い人たちはどの人たちも、オバチャンが小さい頃から知っている子ばかり。芹谷の分校まで、山道を15分で駆け下りていた子どもたちだ。小さな山腹の村で共にすごしてきて、人が次々と減って周囲の村が消えていく中でも、村が生き続けていく姿をずっと見守り続けてきた同胞。その両者の間で交わされている会話。その中には、互いに相手を思いやるやさしさや温かさが溢れている。それを聞くと、お互いに感謝し思いやる気持ちにより人も村も支えられている、そのように思えてならない。
また、生前、長きに渡って村の区長さんをされてきたオバチャンのご主人は、ずっと「12軒が背中合わせてしてたら何にもまとまらへん。あんじょうやっていこまいか。」という思いを、村のみんなと話しされていたという。美しい村が保たれている影には、多くの人々が村を去った後も、村の人たちのこういった思いが礎となって残っていることも強く感じるのである。このように、村の美しさの背景には、昔から築かれてきた人と人とのつながり、さらに思いやりや温かさなどが見えてくる。

この日、最後にオバチャンに「写真を撮らせてもらっていいですか?」ときいてみた。すると「いやぁー、恥ずかしいわー。」と言われながらもOKの返事。そして「玄関前に行きましょう。」ということで写真を撮らせていただいた。









それから後、その写真をお渡ししようと何度かこの村を訪れたのだが、タイミングも悪かったのか、なかなかお会いすることができず、そのまま1年が過ぎてしまった。そして先日ようやくお出会いできて、写真を渡すことができた。お話を聞かせてもらえたことへの本当にささやかなお礼だったのだが、「うわー、額に入れてくれはったん?嬉しいわー。ありがとうー。」と喜んでいただけた。そのあと「ちょっとまってね」「こんなんしかないんやけど。」と奥から持ってきてくれたのが、ビールと栄養ドリンク。かえって悪かったかなと思いながらも、ありがたくいただく。そういえば1年前も、帰り際にドリンクをもらったなぁ・・など思い出す。帰る時、縁側から見送ってくれながらの「ビールは車で飲んだらあかんよ。持って帰って飲むんやでー!」ということばは大変温かく、そして感謝の気持ちとともにその縁側からのオバチャンの光景は忘れられない大切な思い出となった。





高度経済成長期以降、芹谷周辺の多くの山峡の集落が廃村となり、残った村々も過疎化が深刻で、それは未だ止むことはない。昭和のある時代までは、この村のような美しい山里の風景が、芹谷のあちこちで見られたことを思うと本当に残念でならない。山間部では生活ができない、そういう時代の中、今でも当時の面影を残してくれているこの美しき花咲く村が、これからも末長く続いていってくれることを願うばかりである。






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【2012/12/12 01:02】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#222 「保月」 井原耕造氏の写真
~ 「保月」 井原耕造氏の写真 ~





井原耕造氏:撮影


前回のこのコーナーで「保月」での関ヶ原踏破隊のことをご紹介したが、その中で「保月」のお寺「照西寺」でお出会いしたお二人の方について少しふれた。今回はそのお二方にうかがったお話や、見せていただいた貴重な写真について紹介させていただく。

私が踏破隊が通るのを待っている間に「保月」集落の写真を撮ろうとウロウロしていて、その時にお寺の中のお二人から「大きなカメラ持って、何を撮影しているんや?」と声をかけていただいたというのは、前回書いたとおり。この日お二人は、関ヶ原踏破隊を迎えるために「保月」に帰って来られており、その時はお寺の準備も終わって踏破隊の到着を待っているところだったようだ。

「中を見るか?」
「お寺の中、見せていただいていいんですか?」
「どうぞ。そうぞ」

ということで、思わぬ展開で急遽お寺の中を見せていただくことなった。以前から一度見てみたいと思っていたので嬉しい限りだ。住職がいなくなってもうかなりの年数が過ぎていることもあり、さすがに古さは隠せないものの、何百年に渡り地元の人々の信仰の場となっていただけに、中は何とも厳かな感じがする。太く立派な柱、そして柱に吊るされた大きな太鼓。いずれも長い歴史を感じさせてくれる。




お寺の中に「保月」の全景を写した写真が飾られていた。そのことをうかがってみると、そのうちの1人の方が撮影されたものだという。「わしもここの写真を撮ってるんや。」ということをうかがい、あることをふと思い出した。実は本サイトの廃村「保月」のページを制作するにあたって、井原耕造さんという「保月」の方から写真をお借りしている。といっても直接ご本人からお借りしたものではなく、多賀町立博物館で催された「多賀のむかしの写真展」で展示されていたのを私自身が撮影して、本サイトで使わせていただいたものだ。使用にあたっては、サイトでの写真使用の許可を得るためにまず博物館に連絡をし、博物館の方から井原さんに連絡を取っていただいたという経緯だったため、その時、撮影者の井原さんとは直接お話しすることは無かった。

そこで「失礼ですが、もしかすると井原さんではありませんか?」と尋ねてみた。すると驚いたように「そうですが・・」というお返事。で、「実は私は以前、井原さんにお世話になっている者です。ホームページで井原さんのお写真を・・」ということの経緯を伝えると、井原さんもご自分の写真がサイトで使われていることを、息子さんに聞かれてご覧になっていたようで、「ああ、あの時の・・」ということで、すぐに事態をわかっていただいた次第だ。「家の方にも写真があるから見せてあげるよ」ということばにも甘えさせていただき、お寺近くの自宅の方にもお邪魔して、貴重な「保月」の写真を見せていただくことができた。以下にご紹介する井原耕造さん撮影の写真は、いずれも昭和40年代以降に撮影されたもので、正確な年月は明らかではない。また額装のものを私が複写したものなので、ガラスに光が反射していたり、カメラレンズの歪みがあったりしている。それを考慮した上でご覧いただければと思う。




井原耕造氏:撮影


「保月」集落全景の写真。照西寺の大きな屋根の上の方に脇ヶ畑小学校の姿が見える。そういえば中学校の写真は残っていても、これまで小学校の写真を見たことが無い。したがって私の中では幻の小学校であったが、これを見ると、遠景ではっきりとはしないものの小学校の様子がわかる。




井原耕造氏:撮影


役場の写真である。当時、建物には役場、郵便局、森林組合が入っていた。脇ヶ畑村だった頃は村役場、多賀町と合併して以降は多賀町保月支所となっている。写真ではこれまで崩れかけているものしか見たことが無かったのだが、木造の立派な建物であったことがわかる。下の写真は現在の役場跡。雑草の斜面にはコンクリート基礎の一部が残っている。また、手前にある大きな木は切られて、今は根だけが残っている。









雪の脇ヶ畑中学校の写真だ。これも木造の立派な建物だが、現在は取り壊されて手前のトイレだけが空き地の隅に小さく残る。




井原耕造氏:撮影


空き地に残るトイレ。ここには学校跡地の石碑もあるが「脇ヶ畑小学校跡」と刻まれており、間違った碑になってしまっている。正しくは中学校跡だ。









五僧側から照西寺への道を見たところだ。道は舗装されていない。手前の茅葺き家屋の痛みはかなり激しい。




井原耕造氏:撮影


右端に見える茅葺き家屋は、今もトタン屋根がかぶせられて健在である。





雪の茅葺き家屋。これも一軒の屋根はかなり損傷してしまっている。もう一軒の方も壁は土壁がむき出しとなっているところを見ると、もはや手入れはされていなかったように思える。




井原耕造氏:撮影


屋根に無数に咲くユリの花。ここももう人の手は入っていないように見える。




井原耕造氏:撮影


この日「保月」をまわってみると、やはり同じように崩れかけた家屋の屋根に咲くユリの花を見ることができた。つい最近まで人の温もりが感じられていた家屋だけに、寂しさは隠せない。それにしても自然はたくましい。こうして自然と同化していくのだろう。





そしてこれは「保月」と「杉」の間にある地蔵峠。荷物を背負ったもんぺ姿の婦人が「保月」へと帰っていく様子だ。町で買い物をした帰りだろうか、実に素晴らしい貴重な写真だ。道はまだ未舗装。この頃には「保月」にも毎日の生活があったのである。この日お話をうかがったもう一人の方の幼い頃には、この五僧~保月~杉の道は、多賀大社詣りなどに行く人の多くの往来があったという。また、その頃に今の道の工事がされており、それまでは今の「栗栖」へと下りる道ではなく「八重練」へと下りる道であった。その山道を、男は5俵、女は3俵の炭俵を担いで下りたということだ。




井原耕造氏:撮影


地蔵峠は今も祠、と地蔵さまが健在。家が無くなり、人が去っても地蔵さまはいつまでもその地を守り続ける。
そして、今も祠の前には真新しい花が供えられる。





最後は、このコーナーのトップでも使わせていただいた朝もやの中の「保月」の風景。朝もやの中に浮かぶ家屋のシルエットが本当に美しい。朝日に照らされて、屋根の茅に含まれていた水分が湯気のように立ちのぼる。真ん中の家屋は既にトタン屋根がかぶせられている。




井原耕造氏:撮影


この日、写真を井原さん宅で見せていただいた後、教職員住宅が道沿いだけではなく、小学校跡下にもあるとうかがい案内していただいた。こちらは夏場は大変な雑草で覆われてしまうためなかなか姿を見ることができないが、建物は健在で部屋の蛍光灯などもそのまま残されていた。













現在お住まいの自宅の方には「保月」の写真がもっと残されているということであったが、機会があったらぜひ見せていただきたいなど感じる。次から次へと消えていく里山の風景や山の集落。しかしこうして記録に残されている方もいるということにホッとするとともに、大変嬉しくも感じた。これらの貴重な写真がもっともっと多くの人に見てもらえる機会があることを切に望む。それらの写真を見て「懐かしいなぁー」と感じるだけでなく、かつての風景に触れることで、もっともっといろんなことを知りたく感じたり、今の時代に失われてしまったものを感じたりなど、時代を少しだけでも振り返ってみる機会になるような気がするのである。今回踏破隊を見に行く目的で訪れた「保月」。そこで思いもよらずこのような機会を与えてくれたお二方には、心より感謝いたします。





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【2012/10/30 19:44】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#221 「保月」にて  関ヶ原踏破隊 2012
~「保月」にて  関ヶ原踏破隊 2012 ~






8月の最初の土曜日、滋賀県犬上郡多賀町の集落「保月(ほうづき)」を訪れた。本サイトの廃村 「五僧」「保月」の項に少しふれている、鹿児島県日置郡伊集院町(2005年の合併で日置市となる)から毎年この時期にやってくる関ヶ原踏破隊を見るためだ。以前からずっと「見てみたい」と思っていたのだが、なかなか日程が合わず、これまで残念ながら見ることができていない。多賀町で行われている万灯祭の日に、島津越えルートである「時山」→「五僧」→「保月」→「杉」のルート(通称「島津越え」「五僧越え」)を通るということを聞いていたので、今年こそはと見当をつけて訪れてみたのだった。





関ヶ原踏破隊について少しふれておく。この日、踏破隊の方にいただいた説明資料には、踏破隊の目的として以下のように書かれている。
『私達は、鹿児島の青少年で、温故知新の旗をかざして、陣羽織の勇壮な姿で、昭和35年から毎年、岐阜県の関ヶ原から多賀町、大阪まで踏破しています。
慶長5年(1600年)に、天下分け目で有名な関ヶ原合戦で西軍は、東軍に敗れて、伊吹山方面に逃げましたが、私達の先輩、薩摩の武士達だけは、頑として抵抗し、最後には敵に後を見せるのは、武士の恥とし、正面の敵の中央を突破して四日三晩、大変な苦難を克服して、大阪の堺まで辿り着きました。その時の祖先の勇気と根性を忘れないように、今でも毎年関ヶ原合戦を記念して、「妙円寺詣り」のお祭りが開催され、鹿児島市を始め、近郊近在の青少年を中心に10万人くらいの人々が、島津義弘公の菩提寺跡、伊集院町の徳重神社まで、約20kmの片道、あるいは往復を歩いてお参りしてます。
又、一方、町内の青少年、千数百名が炎天下に鹿児島から伊集院までの妙円寺詣大行進も年々充実し、伝統的行事になってきました。
私達踏破隊は、夏休みを利用して、慶長の関ヶ原戦をしのび、島津勢退路の駒野峠~島津越観の70kmを2日間で踏破して、関ヶ原戦、薩摩義士等の史跡や偉業に直接触れて、薩摩の先輩の生き方を学ぶ、自己錬磨の貴重な体験学習の旅であり、又、この伝統行事を後輩に継承して行く使命を持つ旅でもあります。』





このような目的を持って行われている関ヶ原踏破隊は今回ですでに53回を迎え、50年以上もの長い歴史を持つ伝統ある行事となっている。その間、少しずつ形を変えてはいるが、その目的としている部分は今も変わることは無い。一年の中で一番暑さの厳しいこの時期に、島津隊が命がけで通ったであろう道と同じルートを歩く。関ヶ原の合戦で敗れた西軍の各隊が敗走していく中、敵に後を見せること無く、誰もが予想だにしない中央突破を敢行した島津義弘、その主君を思い自らの命を顧みること無く義弘公の命を守った薩摩の武士たち、そして多大な犠牲を出したものの見事帰還を果たしたこれら郷土の英雄たちは、400年以上たった今でも地元の人達から讃えられ、その魂が語り継がれているのである。













この日、何の下調べも無く「多分この日に踏破隊が通るだろう」という見当だけで、まず現地へ向かった。「大君ヶ畑」を越えた所にある権現谷林道起点から北に向かい、「五僧」と「保月」を結ぶアサハギ林道に入った。お昼前のことだ。ここから見える谷と霊仙山の景色は素晴らしい。その景色を味わいながらしばらく待ってみたのだが、踏破隊がやってくる気配は全く無い。もしかして日を間違っているのかもしれない、ということで「保月」まで行って情報を得ることにした。「保月」に着いてまずは集落の様子を写真撮影する。すると、いつも閉まっている寺(照西寺)の扉が開いている。中から「大きなカメラ持って、何を撮影しているんや?」という声。見ると男性が2人。いつものように「山の集落を・・」と答えると、「寺の中も見るか?」のことば。滅多に無い貴重な機会、それに甘えることにした。そして寺の中を見せていただきながら、お2人に「保月」に関してのいろいろなお話をうかがったが、それについては次回のこのコーナーで紹介させていただこうと思う。





お話をうかがっていく中で、「鹿児島から来た関ヶ原合戦の踏破隊が3時頃にここを通るから、見ていかれたらどうや?」のことば。「それなんです。実はそれを見たくて今日ここに来たんです!」ということで踏破隊が到着するのをしばらく待つ。3時を少し越えた頃だっただろうか、「きた、きはったでぇー!」という声の方を見ると、島津藩の家紋である丸に十字の書かれた「チェスト行け関ヶ原」ののぼり旗の一行が姿を現した。子どもと大人合わせて総勢20人程のそれぞれが、釣りなどによく使われる風通しの良い三角帽子をかぶり、手には杖兼用の島津藩の紋入りの旗を持ち、こちらに向かって歩いてくる。カメラを向けると驚いたようで、「わー、カメラー!」という感じで子どもたちの笑い声が聞こえる。「お疲れさまですー」と声をかけると「こんにちは」という声が返ってくる。この日も炎天下の中、朝から歩き通しているので表情に疲れも見えるが、みんな元気そう。ここ「保月」では、村の人たちが集まり、一行の到着を待ってお茶菓子の用意をされている。そして寺の前で一行はしばらく休憩を取り、出されたお菓子を食べたり水分補給などをする。出発前には、「チェスト行け関ヶ原」ののぼり旗と一緒に、子どもたちが1人ずつ記念写真を撮り、最後に踏破隊と保月の人たち全員で記念写真。これには厚かましく撮影に便乗させていただいた。この後一行は、「保月」と「杉」の間にある地蔵峠の地蔵さんに感謝状を読むというが、残念ながら今回は時間の都合で見ることができず、またの機会となる。





















踏破隊には、伊集院町の小学5年生から中学1年生までの子どもたちの希望者が参加している。今回は13名の子どもと6人の指導者で隊が結成され、少ないながらも女の子の姿も見られる。ある子どもに「どうしてここに参加しようと思ったの?」と聞いてみると、「歴史が好きで・・」という言葉がすぐに返ってきた。その時の薩摩弁が思い出せず、聞き取ったままのことばで表現できないのが残念だ。この遠く鹿児島からやって来た13人の子どもたち、きっと島津義弘公の薩摩魂に憧れて参加を決めた人も少なくないだろう。中には、小5から中1までの3年間に、複数回参加する子ども達もいるという。さらに親子二代に渡って参加するという子どももいるそうだが、そこには50年という歴史の長さを感じたりもする。ちなみに中2以上の参加が無いのは、部活動などが忙しくなってくることへの配慮だという。また、指導者の方々は複数回参加されていれる方が多いが、なんと21回も参加をされている方もおられた。指導される方は、ほとんどがボランティア活動であると思われるが、そうした中での21回もの参加は本当に驚きだ。おそらく郷土の英雄を偲ぶこの行事への参加の意義を感じるだけではなく、何とも言えぬ達成感、またご自身への挑戦のような思いなども持たれての参加なのかもしれない。それにしても21回も続けるということは誠に見事で、ただただ感服する思いである。









日程表をいただいたので簡単に紹介してみる。今回この踏破隊は4泊5日での実施だ。

1日目は、朝の6:50に伊集院駅に集合し九州新幹線の鹿児島中央駅へと向かう。そこから新幹線にのり新大阪で乗り換え滋賀県の米原駅に着くのが13:23。九州新幹線が開通してからは、このあたりの日程はずいぶんと楽になったのではないだろうか。そしてそこから合戦の地、関ヶ原へと向かう。関ヶ原では役場で挨拶をすませた後、資料館や関ヶ原合戦の史跡などを訪れ、島津隊の縁の地では祭文を読み上げる。この日は、そのまま関ヶ原で宿を取る。
2日目は6:00起床で、薩摩義士の墓参りで各地域を巡る。薩摩義士とは、宝暦3年((1753)に揖斐川、木曽川、長良川の治水工事の為に、遠く薩摩よりやってきて、多数の犠牲者を出しながらも大変な難工事を立派に成し遂げた薩摩の人々のことで、今でも工事の行われた周辺地域では、寺や神社に眠る薩摩の霊を大切に祀っているという。ここにも薩摩魂があったのである。
3日目も6:00起床で、この日は島津隊の背進ルートの前半である『駒野越え』を歩く。表伊勢街道の駒野から養老山地を越える、約35kmの道のりで、最終地は鈴鹿山脈の集落、上石津町となる。
4日目は島津隊の背進ルートの後半で、岐阜県の上石津町から滋賀県の多賀町へと至る約35kmの道のりだ。出発前に、島津隊の退却戦の際に先鋒をつとめ、さらには義弘を逃すためにシンガリで追撃してくる東軍と果敢に戦い、遂には命を落とした島津豊久の墓のあるカンリ薮や、位牌がおさめられている瑠璃光寺を訪れる。そして鈴鹿山脈を越える島津越え(五僧越え)で、「時山」→「五僧」→「保月」→「地蔵峠」→「杉坂峠」→「栗栖」とたどり「多賀」へと至る。
最終日の5日目は、多賀駅から近江鉄道で彦根まで行き、そこから新快速で大阪城へと向かう。そして踏破隊としての旅は終わる。後は新幹線で遠く鹿児島へと帰ってゆくのである。









以上のように日程はかなりハードである。というか一番暑いこの時期を考えると思いっきりハードだ。それだけに成し遂げた時の達成感は大変なものだろう。最終地点の大阪城では万歳をするようだが、きっと心の底からの「バンザーイ!」が聞かれるはずだ。やった者にしか決して味わえないもの、子どもたちの中にもこの貴重な体験は、この先もずっと残っていくに違いない。なお、多賀町と伊集院町は、この踏破隊が縁となって昭和59年に兄妹都市交流が始まっているが、多賀町の他にもこの踏破隊が縁となって姉妹都市交流が始まった町があったり、周辺の人たちが共感してこの行事に協力したりするなど、いろいろな地域の人たちも交えての行事となっている。当初は数人の有志で始まった踏破隊が、こうして多くの人の共感を得て、50年以上も続く伝統ある行事になっていることに、何とも感動する次第だ。









それにしても、この関ヶ原の合戦においての島津隊の取った行動は、実に見事としか言い様がない。まさにサムライ、そんな感じがする。様々な思惑を持って集まった西軍の各隊の中で、最後まで薩摩魂を忘れること無く前を向き、敵さえも絶賛せざるを得ない中央突破を試み、それを成し遂げ故郷の地へ帰還した。今なお地元の人達だけではなく、多くの人から敬意を持って愛され続けられるのもただ納得である。島津義弘公も、まさか何百年後のこの時代になってまで語り継がれるなど予測もしていなかっただろう。毎年、功績を讃える行事が行われ、それに自分の意志で参加しようという薩摩の子どもたちの姿を、義弘公も大いに喜んでいるに違いない。









普段は人の姿がほとんど無く静まり返っている「保月」集落が、この時はにぎやかになり、子どもたちの声が響く。なんとも素晴らしいことだと思う。鹿児島からの子どもたちの目には、この静かな村がどのように映ったのだろう。もしかすると子どもたちが大人になる頃には、「保月」は大きく姿を変えてしまっているかもしれない、など考えると寂しくなるが、踏破隊の体験を思い出す時、この滋賀県の多賀町にある小さな山の集落のことも思い出してくれたとしたら、それは嬉しい限りだ。





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【2012/08/18 08:42】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#220 故郷、最後の夏・・
~故郷、最後の夏・・~






その地区の住民は、わずか1名。たった1人の集落だ。当然、集落としての機能は失っており、区長なども置かれていない。そういう状態になっていると聞いたのがだいぶ前なので、たった1人の集落となってから、もうかなりの年月が過ぎていることになる。そこは昭和50年代初めに既に6世帯だったというから、その後の時代の移り変わりの厳しさを考えると、早い時期にわずかな戸数の集落となっていたことは間違いない。かなりの積雪量のある地域ゆえ、周囲の家から次々と人が去った後、空き家となった老家屋に冬場の雪が重くのしかかり崩れていくのに、そう長い時間は要しない。私が初めて訪れた時と比べてもその風景は大きく変貌し、過疎の大変進んだ山村の荒廃した風景へと変わってしまっている。それでも1人でそこに住み続ける、その気持ちは如何なるものなのだろう。また、他の住民が1人もいなくなっても、去ること無く故郷の地を護り続けるその理由は一体なんだったのか。勝手に様々な想像はできても、当事者からの答えが無い限り真実は決してわからない。









荒廃が進み、一見もう誰も住んでいないのでは思えるような山村風景だが、その一画だけが季節になると庭に色鮮やかな花を咲かせ、人の温かみを思いっきり感じさせてくれる風景となる。古びた平屋の家と木の手作り柵で覆われた庭、間違いなく人が住み、生活を感じさせてくれるのである。これまでに何度か訪れているが、その都度生活の温もりがあり、なんだかホッとした気分になったのを覚えている。その家の主にいつかお話をうかがいたいなどと思いながらも、残念ながらこれまで機会に恵まれず一度も出会えたことが無い。「だめだろうなぁ」など思いつつ、この日も訪れてみたのだった。









訪れたのは7月の中頃の蒸し暑い日。いつものように集落横を通る道に車を停める。この道は最近まで主要道として使われていて、車の往来もけっこうあった道だ。しかし今はすぐ上に立派な道ができて主要道が取って代わり、ほとんど車が通ることは無い。新しい道の完成とともに、集落がそのエンジン音から解放された、そんな感じもする。集落全体の写真を撮る前に、まずその家に向かった。庭が見えてきたが、いつものようににぎやかに咲いているはずの花の姿が見えない。「もしかして、ここに住んでいる方はもうこの地を離れてしまった・・?」と不安な気持ちになる。この3月に訪れた時には、かなりの雪が集落を埋めていたものの、この家の前はきちんと除雪されており、庭が雪で覆われていても人の気配は感じることができた。それなのに、やはり時の流れはここを無人の集落としてしまったのだろうか、そんな思いもよぎるのだった。それでも、とりあえず玄関口まで行ってみる。









すると玄関口に人が座っている。女性だ。「こんにちは」と挨拶をしようとすると、あちらから「ごくろうさんです」と声をかけてきた。「こんにちは、山の集落が好きで・・」といつものように挨拶をすると、「そうか○○の人かと思った。」ということば。どうやら誰かが訪れてくる予定で、その人を待って玄関前に座っておられたようだ。年の頃は80歳前後といったところだろうか。それでも口調はずいぶんとはきはきとしており、大変聞き取りやすい。「今年はお花が咲いてないんですね」と声をかけるとやや曇った表情になって「全部、猿にやられてしもたん・・」という悔しそうなことば。うかがってみると、例年のように今年もいろいろな花の種や球根を植えたが、それが全て猿に抜き取られてしまったのだという。「見て!グラジオラスや○○・・せっかく植えたのに、あんなにされてしもたん。」と言う庭の方を見ると、植木鉢が転がっていたり、畑の土が荒らされたりしている。また猿だけではなく、鹿による被害も多いようだ。「今年もいろんな花が咲いているのかな、と思って来てみたんです。」と伝えると、残念そうな表情の中にも少し笑顔をみることができた。









「昔は9戸も家があってねぇ・・ここの道も人がよく通ったんやけどねぇ。」ということで、その昔も今のように玄関口に座って、通る人とよくおしゃべりをされていたらしい。昭和20年代の半ばになるのだろうか、その頃は「大八車もすれ違いできひん」という程の道幅の狭い山道で、人々はそこを通って町へ向かったり、学校へ通ったりしていたという。ここより他に道が無かったため、奥の集落の人たちは必ずこの道を通ったらしく、それなりの人の往来もあったようだ。その当時、この方はここで田んぼをやっておられたが、その田んぼの中央をぶち抜く感じで自動車道が着けられた。「あそこまで、ずーっと田んぼやった」という田んぼは、道路工事の影響でずいぶんと狭められてしまったが「10年くらい前まで(田んぼ)やってたかなぁ・・」という。一年間の自宅で食べる量にも満たない収穫量であったというが、獲れたお米は独立してこの地を離れて生活をする息子さんたちにも送られていた。





「1人よー、1人で(田んぼを)やってたん」と話すオバチャンは、家横の小屋や庭の周りの長い柵、屋根の手入れ、雪囲い作りなども全て自分でこなしてしまう。「実家が大工やったから」と言われていたが、実際に教えてもらったことは一度も無く、子どもの頃に一度建てている様子をずっと見ていただけだが、その時に簡単な手順が頭に入ったのかもしれない。多少歪んでいたりはするが、雪の多い冬も十分に越す程の強度を保っているから立派なものだ。「何でも自分でやる」という時代の中で生きてきたから、ということだけで片づけられるものではないだろう。いずれにしても、最低限のことさえ自分でしない、という世代で生きている人間からは想像つかないことである。ちなみに田んぼをやめた跡地にはミョウガを植えられており、毎年息子さんの会社の方たちが息子さんと一緒にやって来て飲んだり食べたりする時の、新鮮な食材になっているそうだ。





先にも書いたが、この日オバチャンは人を待っていた。うかがうと、山からひいている水が連日の大雨のため停まってしまい困っているという。この暑い日に水が出ないとどうしようもない。このように何かが詰まって水が停まってしまうということは時々あるようで、村として機能していた頃は自分たちで直していたが、年を経るに従ってそれも難しくなって、今はこうして業者に頼んでいるのだそうだ。「ほれ、そこ水来てませんやろ」と指差す方向を見ると、空っぽの石の水槽。また玄関横の水場の流し台の水道も止まったままになっている。そういえば先日、芹谷の「桃原」を訪れた時も、山からの水が停まっていて、業者さんが身体中を蛭だらけにしながら復旧工事をされていた。やはり山深き生活では、こういうことは普通にあることなのかもしれない。









こうしてしばらくお話をうかがった後で、今のここでの生活のことを聞いてみた。4人の息子さんはそれぞれこの地を離れて大阪など遠方で生活をされており、ここで1人で住むようになってもう10年以上にもなるという。そういえば初めて訪れた10年程前には、この家ともう一軒、犬がいつも吠えている家があったように記憶している。しかし常時人が住んでいたのは、このオバチャンだけだったのかもしれない。「だんだん人がいなくなってきてどうでしたか?」「そら寂しいよー。そやけどね」のことばの後で力強く出てきたのが「ご先祖さん!そらぁ、ご先祖さんに申し訳ない。だからもうずっとここにいて、ご先祖さんを護ってきたん」という力強いことば。これが長い間、集落がたった1人になってもここで生活し続けた理由。なるほどなぁ・・と心の中で大きくうなづく。しかしその次に出てきたことばに大いに驚くことになる。









「そやけど、今年で最後!今年でもう大阪の息子のとこへ行く。」「え!?ここを離れるんですか?」「そう、最後!」「夏場にも帰ってこられないの?」「そう!もう離れると決めた以上、ここには帰ってこない!」ときっぱり。「もう30年間ずっとここを護ってきた。宇宙から見てるご先祖さんも、ずっとそのことを見てくれてたと思う・・」実はこの前の冬も、その大阪の息子さんの元へ帰っておられたという。そしてその時も、ご先祖様の位牌などを持ち帰られて、毎日拝んだ。「宇宙から見てるご先祖さんに伝わってるかなぁって思いながら、拝んでましたんよ」と、やはり遠く離れてもご先祖様のことを心配しながら、この地を思っておられたようだ。

21歳の時にこの山奥の地に嫁いでこられて以来60年以上。最初はその生活の違いにずいぶんと戸惑いもあったようであるが、子どもさんを立派に育て上げられた後も過疎に悩む故郷の地での生活を続け、そしてご先祖様を護り続けた。「自分はもちろん、子どもたちにとってもここは大事な故郷。そのためにここにずっと残って、ご先祖さんとともにいた。」ということばには積年の重みを感じる。しかし一方では、遠く大阪の地から毎週片道2時間をかけて食材などの日用品を運んできてくれる息子さんに対しての申し訳ない気持ちも、持っておられたのかもしれない。周囲にはもちろん店も無い、店どころか人家さえも無いのだから、何かあった時などの助けを求めることもできない。さらに冬はかなりの積雪があり、外に出るのも困難な状態となる。そういった状態の中で年老いた母を1人残すことに、息子さんたちもさぞかし心配だったはず。週に一度の休みのたびに片道2時間以上もかけて、遠い故郷の地の母を訪ねる息子さんに、故郷を思う母への思いの深さを強く感じるのである。





「いろいろあったけど、今は楽しかったことしか思わへんよ」ということばの中には、60年間のここでの生活の様々なできごとの積み重ねが見てとれる。「ここに来て、じーっと風景を見るだけでも、いろんなことが思い出されるん。あの山の木も全部私らが植えたんよ。」と、家の目の前に広がる杉の木の植林された山々をしみじみと眺める。今では海外からの安い輸入材に押されて、木を切ることさえできない状態になってしまっているが、時代の移り変わった今も、成長した木々を見守る。そして山だけではなく、周囲の風景全てが、そういう長年の思い出に満ち溢れている。そんな思いのたくさん詰まった故郷を遂に離れる。寂しさが無いわけが無い。そして愚問とは思いながらも「寂しいですよね・・」と聞いてみる。すると一瞬間があいて「ここを出ると決めた以上、もう、そういうことは考えへん!」ということば。きっぱりと言い切ったその答えの中に、大事にしてくれる息子さんへの感謝の思いを強く感じたりするのである。





その言葉を聞いて胸が熱くなる。その時、近くからガボッ、ガボッという妙な音が聞こえてきた。一瞬「何の音?」と思ったが、それが先程の石の水槽からというのはすぐにわかった。水だ!水がきた!とわかった私は「水が通ったんと違いますか?ほら、この音!」とオバチャンに言うと「あ、ほんまや!きたんやわー」と嬉しそうな声。「ほらー、見てここ!」というオバチャンの指す方を見ると、水道の蛇口からも勢いよく水が流れ始めている。茶色く濁っているが、これはすぐに透明になるはずだ。停まっていた山からの水が通ったのである。石の水槽にも水が少しずつたまってきている。この水の流れる先には間違いなく人の生活がある、そう感じさせてくれる一瞬だった。思わず水の流れに見とれる。

そしてその時、「あー、アンタにも見てもらえてよかったわー!」というオバチャンのことば。その思いもかけないことばが、何かとても嬉しく感じた。しかしながらその嬉しさと、今また一つの村が消えようとしている寂しさ、それらが微妙な割合で混じり合う。









「今ある幸せは、30年間ご先祖様をお護りしたおかげやと思うとるん。」という感謝の気持ちを持って、オバチャンは故郷を離れる。そしてもう間もなく雪の降り始めるのを機に、何百年という歴史を持ったこの地はその歴史を閉じ廃村となる。自分の中で大変思い出深い地となったこの集落、何年後かにここを訪れてこの石の水槽を見る時、はたしてどんな思いを抱くのだろう。その時も透明な山水を満々と湛えていてくれたら、本当に嬉しく感じるのである。





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【2012/08/03 10:24】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#219 芹谷を走って下りる
~芹谷を走って下りる~






芹谷を走って下りる。「え?ここから谷まで?」と驚いて聞き返した私に、「そんなん、10分くらいで下りれたんよ。」というオバチャンのことば。それに更に驚いた。「10分で、山道を走って?」「そう、そう。今の道やったら40分くらいかかるけどねぇ。」
このオバチャンにはこれまでにも何度かお話をうかがっていて、この谷を走って下りる話は以前にも聞いたことがある。このコーナーでもそのことを既に書いたと思っていたのだが、調べてみても出てこない。どうやら前回お話をうかがった時に、書くつもりでいながら書いていなかったようだ。ということで、今回再びお話をうかがうことができたので改めて書いてみたのだが、それにしても芹谷中腹から谷の底まで10分で行けるなんて、本当に驚きだ。

















ここは芹谷の中腹に位置するある山村「桃原」、谷底の芹川沿いの道から分岐して車で車道を10分くらい登った所にある小さな集落だ。春は福寿草、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は雪化粧を施した老家屋の風景など四季折々の山村の美しさを、訪れる者に見せてくれる。私もそれが見たくて、年に何度かは必ず訪れる。それでもやはり時の流れの容赦なさは確実にこの村の形を変えている。歪みながらも体裁を保っていた廃屋の屋根は落ち、力尽きたとばかりに、ただ崩れるのを待つばかり。道路沿いにあった立派な土塀のある堂々とした老家屋も、昨年には解体されたのか跡形も無く、現在は更地となっている。集落内の家屋も、外観は普通に保っていても実はかなり傷んでいると思われるものも少なくない。そんな中、今でも庭がきれいに手入れされ、人の温かさが伝わってくる家屋も何軒かあり、そのうちの一軒にお住まいなのが、冒頭のお話を聞かせてくれたオバチャンだ。













その方は、この地で生まれ、この地で育ち、就労後もここを離れること無く生活をし、やはり同じ「桃原」生まれの方との結婚の後もここで生活を続けて子どもたちを育て上げた。そして老いた今もこの地で暮らす。「桃原」一筋に生きてきた、生粋の「桃原」の人なのである。「この辺は全部畑やったん。ゴンボ(ごぼう)とサトイモやったねぇ。タバコも作ってたよ。」ということで、現在杉が植林されている所はほとんど全てが畑だった。そしてその畑は冬場になると、そのままスキー場に変わる。スキー場自体は昭和30年代に廃業していたみたいだが、その頃のここの景色は今のうっそうとした感じとは全く違い、大変見通しのよい高原の風景だったという。そして学校に通う子どもたちは、畑の間の山坂道を駆けるようにして下って、谷底の学校に通っていた。芹谷小学校ならびに多賀小学校芹谷分校だ。そして、その谷底までの通学時間が10分。
それにしても、そのお話をうかがっても、どうしても10分で谷まで下りるということが、今の風景からは想像できない。以前、地元の方にこの地周辺の古い航空写真を見せてもらったことがある。その写真を改めて見てみた。その写真には、現在の「桃原」への道の、橋を渡ってから一つ目の大きなカーブあたりから上が全て畑になっている風景を見ることができる。開けた畑の風景の中に家屋が点在するという感じで、まさに高原の風景がそこに広がっていた。それを見ると「うん、これならば元気な子どもの足なら10分で駆け下りれるかもしれない」と納得できるのだが、やはり今の杉林の暗い風景からはなかなか想像がつかない。













有名な作家である大仏次郎(おさらぎ じろう:1897年~1973年)が、昭和42年7月にこの「桃原」の地を訪れ、その時のことが『今日の雪』という随筆集に書かれているという。「桃原」集落の集会所に掲示されている『私たちの字「桃原」の紹介』という掲示物の中でそのことが書かれており、随筆集に書かれている内容が紹介されている。そこには当時の「桃原」の、山の斜面が耕されてゴボウやタバコ畑になっている様子や、日当りの良い所は畑にあてられ人々は日陰に住んでいる様子、さらには家の周囲や畑に雑草が多く、歪んだ廃屋なども見られるなど、当時の過疎が進みつつある情景なども描かれている。また「桃原」の人たちが、相当裕福らしかったという表現も見られる。そして最後は、何も無い高い山の村で、「桃原」は決して桃源でなくわびしく淋しい、というようなことばで閉められていた。

これは当時の「桃原」の様子が書かれた大変貴重なものであるが、「裕福ではなかったよ。そんなんあんたー、ゴンボとサトイモだけで1年間暮らせるはずないやん」というオバチャンの切実なことばが、そのパッと見の印象とは違った当時の実態を物語る。確かにそうだ。ゴボウとサトイモだけで十分な収入があったなら、畑を潰して植林することもないだろうし、何より人々が山を下りる必要も無いはず。もちろん中には持ち山の豊富な巨木を切り売りして裕福な生活をしていたところもあったかもしれないが、大多数はそうではなかったはずだ。実は私もこのオバチャンのお話を聞くまでは「桃原」は周辺の中では裕福な山村だと思っていた。他の芹谷集落に比べると土地も広く、一軒一軒の家屋も大きい。しかしやはり現実は、山の生活の厳しさだけではなく、高度経済成長の影で進む過疎化にも、大いに苦しんでいたのである。
大仏次郎さんは彦根の取材に訪れた時に、「桃原」のような村が山中にあるということを運転手に聞き立ち寄ったという。そして「桃原」を去る際に、お話をうかがった現地のおばあちゃんに、お昼ご飯として東京から持ってきた稲荷寿司を差し出している。めっそうもないと断るおばあちゃんだったそうであるが、何とか渡すことに成功したようだ。何かこのエピソードに、当時急激な変化を遂げつつある社会と、そこから取り残されようとしている山の村の光と影の部分、そのギャップがうかがわれるような気がしてならない。都市部が活気に溢れ、それとは対照的に全国の中山間地で過疎化減少が目立ち始めた時代の中で、この小さな山村の風景に、都会からのふいの訪問者は少なからず衝撃を受けたことだろう。













この日、オバチャンはたくさんの話を聞かせてくれた。そのどれもが嘘偽りの無い現実の話ということで、全てが大変興味深く貴重なお話だった。「私、年代が苦手やから、いつの話かはっきり言えんで申し訳ないわ」と何度も気にしてくれていたのだが、こういった地元の方の生活に密着したお話というのは何よりも説得力がある。お話ししてくれたこと全てが、生粋の桃原の人だからこそ話せる内容ばかりで、学者や研究者からは決して得ることはできない本当に貴重なものだ。そしてそこから得るものや学ぶことは大変多いと、聞く度に感じるのである。





今「桃原」には、1年を通してここで生活をされる方以外にも、冬場のみここを離れ子どもたちと暮らす方、年に何度か遠方からこの地に帰ってくる方、住んではいないが頻繁にここに帰ってくる方、離れていたがこの地を消さないよう再び畑を始めようとしている方等々、様々な思いで様々な立場で人々が帰ってくる。しかし帰ってきている人の大部分は、この「桃原」で生まれ、故郷として「桃原」を見ている人たちである。当たり前と言えば当たり前なのだが、それより若い世代になると故郷は別の地となるのでほとんどこの地への関心は無いという。このオバチャンの息子さんも「桃原」育ち。「息子は、いずれここに帰ってきたいって言うてるん。そやけど、やめとき!って言うてんのよ。そんなん、ここはなんにもあらへんでしょう。生活できひんよ。それに何かあった時に危ないやん」と言いつつも、その息子さんの望郷の思いが何より理解できているだけに、そのことを語る時の表情は何とも言えない笑顔になる。そして今、自分自身が息子さんから同じような心配をされていることもよくおわかりなのだろう。









雪どけを待つようにしてこの「桃原」の地に帰ってきてからは、静かになった故郷で静かに暮らす。「なんでやろう、ホッとするん。なんでかってことは説明できひんのやけど、ほんとうホッとするんよ。」「息子も嫁もほんまにようしてくれるし、下の生活には何の不満も無いんやけど、それでもここに帰ってくるとホッとするん。」これまでにいろいろな地で、いろいろな方に消えゆく故郷や、既に消えてしまった故郷のお話をうかがったが、大部分の方がこのオバチャンと同じような思いを話される。不便極まりない山奥の地、それでもそこはその人たちにとっては心の拠り所となる場所。これこそまさに故郷への思い、それ以外の何ものでもないということを強く感じる。





10分で谷へ下りた道、そのことが最後まで気になって「子どもだった頃に走って下りた道は、今どうなっていますか?」と尋ねてみた。今はもう杉が植林されてしまい、当時の面影はほとんど残っていないという。それでも「行ったらすぐにわかるよ。わたしも足が大丈夫やったら、すぐに行って教えてあげるんやけどなぁ・・」と何度も残念そうに言ってくれた。ぜひ教えていただきたかったのだが、やはり健康と安全は第一である。それでもそう言ってもらえたことが、とても嬉しかった。そして、オバチャンからこの話をうかがって以来、杉の木で鬱蒼とした桃原の風景の中にも、明るく爽やかだった頃のかつての風景を普通に感じられるようになった。山村を訪れる度に好きになっていくのは、やはり今の風景だけではなく昔の風景もそこに見ることができるようになるから、そのことを改めて思ったりするのである。





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【2012/07/18 05:08】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
#215 廃村「小原」の、小原かごと白子皇子伝承
~廃村「小原」の、小原かごと白子皇子伝承~






滋賀県は長浜市余呉町坂口にある大箕山、その中腹に今なお健在の歴史深き古刹「菅山寺」を訪れた。古く奈良時代の764年(天平宝字8)に孝謙天皇の命を受けた照壇上人という僧により建立され、当初は龍頭山大箕寺と称されていたが、菅原道真公の中興により大箕山菅山寺と呼ばれるようになった。しかし、鎌倉時代には3院49坊の寺院が存在したという大変歴史の古い寺も、明治維新の改革以降は一気に衰退したという。廃寺になって以降、長年が過ぎているにもかかわらず、それでもまだ威厳あるその姿を残しているのは、それを守ろうとした先人たちの努力と苦労があったからに他ならない。現在ここは野鳥観察でも有名らしく、本堂の少し下にある朱雀池では探鳥会なども開催されているという。









私が訪れたのは、もちろん野鳥観察を目的としたわけではなく、ある母子の墓碑を見たいと思ったからである。その母子とは、白子皇子(しらこおうじ)とその母の陰明門院(おんめいもんいん)。この二人は、余呉町の廃村「小原」に伝わる‘小原かご伝説’の中で語られている人物で、今も仲良く二つ並んだ墓石が、この菅山寺に残されているという。実は以前にも訪れて探したのだが見つからず、今回は場所を事前に確認しての訪問となった。

それでは、この‘小原かご伝説’とはどういう話なのか。昭和50年に発行された『余呉の民話』(編集:余呉町教育委員会)、それと丹生ダム建設に際して実施された水没地域の民俗などの調査報告書である『高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書』さらに『余呉町誌』などそれぞれで微妙に違っている所があるが、それらを以下にまとめてみた。なおこの伝承は菅山寺に伝わる縁起書の中に記されており、言い伝えもこれに基づいたもののように思われる。また地元では、これらを平家の落人と関連づけた伝承もあったようである。






ある年、後嵯峨天皇の皇后である陰明門院が、めでたく男の子を出産されたのだが、その子は白子(先天性白皮症)であった。そして陰明門院は世をはばかり、皇子を伴のものに託して、都と縁ある菅山寺に秘かに隠棲させた。




ある時、都から高貴な方が山深い「小原」にやってきて館を建てて住みつかれた。しかし、家の主は姿を見せることが無い。「小原」の人たちも最初は遠くから様子を見ているだけであったが、そのうち骨身おしまず協力して手伝いをするようになった。そんなある時、村人たちは家の主の姿を見る。そして髪の毛やまつ毛、肌の色までも真っ白なその姿にたいそう驚く。そういう姿を初めて見る村の人たちは驚き怖れたが、お供の人たちが懸命に事情を説明することで、元来心優しく純朴な村人たちは事情を理解して、これまで以上に身の回りの世話を一生懸命するようになった。そして、四季折々の山の幸、川の幸を主の元に届けたり、また皇子を家に招いたりして同じ時をすごすようになる。

やがて主は村人たちから白子皇子と呼ばれて親しまれるようになり、皇子も村人たちとのふれあいを喜ぶようになった。そんなある時、いつものように村人と一緒に山に入って木を切っていた皇子は、ある木が薄くはがれることを知り、それで篭を編むことを考案する。そしてその篭の作り方を村人たちにも教えた。白い木のはだが美しく、たいそう丈夫でもあったこの篭は評判となり、遠くまで売り出されるようになったという。これが小原篭の起りで、村人はこの皇子からの篭作りの技術を大切にし、後世に伝えていくようになる。

こうして、当初は逃れるようにして都を離れた皇子だったが、人知れぬ余呉の山深き地にたどり着いてからは「小原」の人たちと温かく暮らす。一方、都にいる母の陰明門院も、幼くして遠き山中に送った我が子のことが心配で、長年を経ても心から離れることはなく日々思いを募らせてゆく。そしてある時遂に意を決して都を離れ、自らも余呉の地へ行き朝廷と縁の深い菅山寺に身を寄せ仏門に入る。そこで読経と写経の日々をすごしながら、時折、白子皇子に会う日を心の慰めとするが、やがてこの地で生涯を終えることとなる。

生まれつき身体も弱く、この地の厳しい自然環境の影響もあったのか、ほどなくして皇子も小原の地で短い生涯を終える。村の人たちは白子皇子の死をたいそう悲しみ、皇子が暮らしておられた所を御所平、お供の方の屋敷のあった所を屋敷下、皇子がよく行かれた山を君ヶ谷、吹く風の音が都で聞いた鈴の音に似ていると皇子が懐かしがられた所を鈴ヶ森と呼び、いつまでも後世に伝えていくようになる。そしてそれらは今も、御所ヶ平、牛隠し谷、屋敷ノ平、君ヶ谷、鈴谷などの小字としてその名を残す。また、陰明門院と白子皇子はともに菅山寺に丁重に葬られ、今もその地に墓石を見ることができるという。






以上が大体の流れであるが、書かれているものによっては先に白子皇子が亡くなったとされているなどの細かな点での相違が見られる。白子皇子という人物は歴史上にその名は見られないが、母である陰明門院(1185~1243)はその名を見ることができる。しかし伝えられている後嵯峨天皇ではなく、それより5代前の土御門天皇の中宮で、子を産むことの無きまま1243年にその生涯を終えたとされている。また、1221年に出家され、同年の承久の乱で土御門天皇が土佐に配流された際にも京にとどまられたとある。子を産まれることが無かったということや、出家されたこと、天皇配流の際も同行せず京にとどまられたということは、いずれも遠く山中に隠棲させてしまった不憫な我が子を思う母の気持ちにつながるものを感じさせ、白子皇子の伝承と関連づけられなくもない。

この『小原かごと白子皇子』の伝説の真偽の程はともかくとして、由緒ある菅山寺にこのような記録や白子皇子と陰明門院の墓碑が残っているということは、これの元となるような何かがあったことは間違いないのだろう。また小原かごは、「小原」でも長男にしか伝承をしないというほど秘伝の技として村で継承されていったというが、それは皇子から授かった大変尊きものとしての意識が村人の中に宿り続けていたことに他ならない。









訪れたこの日は、ウッディパル余呉横の林道からいったん山頂まで行き、そこから菅山寺に向かうことにした。山頂からは余呉湖が美しく見える。この日は残念ながらモヤでかすんでいたが、空気の爽やかなときなどは本当に美しく見えることだろう。そこからは山道で菅山寺まで下ることになる。途中、首の取れてしまった小さな石仏や歴代の菅山寺僧侶の墓石などを目にする。そういえば出てきたばかりのマムシにも出会うことができた。気づかず踏みそうになって、思わず道を譲った次第だ。













そして教えてもらった親子の墓石のある場所へ向かうと、そこには仲良く二つ並んだ墓碑があった。すぐ下には、かなり傷んではいるが今なお威厳ある姿を保つ本堂が見える。その厳かな空気の流れる中で、二つの墓石には時折木漏れ日があたり、小鳥の声しか聞こえない静寂な森の中でただ静かに佇む。何百年もの歳月が過ぎているのだろう、苔むしてしまっていて、何か文字は書かれているようだがもはや判別はできない。また、かなり劣化も進んでいる。その古びた様子を見ながら、いったいいつ頃に建てられたのだろうなど考えたりするが、何より2人仲良く今も残ることに多くの人の努力と愛情を感じる。そして手を合わせる。













「小原」の人たちの生業の一部となっていた小原篭は、1965年(昭和40)頃まで売り篭が作られていたというが、もしこの時代にまで「小原」の人々の生業となっていたとしたら、白子皇子と村人の絆は何百年にもわたって、村人を支え続けていたということになる。白子皇子の話はあくまで伝承であり史料的な価値はないのかもしれないが、村人たちの中で長年にわたって言い伝えられ、生き続けてきたことの意味は実に深いものがある。なお小原篭については、村がダム移転という形で「小原」集落が無くなった後も、「小原かごを復活させる会」が立ち上げられたり、「小原かご作り教室」が地元施設で催されるなど、今も大事にされているのは誠に嬉しい限りなのである。






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【2012/05/23 11:26】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | page top↑
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