スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
#242 「椿坂」にて見た風景
~ 「椿坂」にて見た風景 ~






 ふと訪ねた山の集落などで、とても印象的な風景に出合うことがある。それが初めて訪れた所の初めて見る風景の時もあれば、これまでに何度か来ていても、なぜか気づかず素通りしてしまっていたという場合もある。そしてお気に入りの場所になると、次からはそこで立ち止まり、しばしその雰囲気を味わう。そのうち、その場所のことをもっと知りたくなってきて、現地の人に尋ねてみたり、様々な資料をかき集めたりなどするようになる。そこから思わぬ展開を見せることもあるし、新たな興味へとつながっていくことも少なくない。自分の場合、このようなふとした出合いこそが、山を訪れる大きな動機となっており、それゆえあてもなく山をウロウロすることが多くなる。確実な目的を持って訪れることもいいが、不確実な目的で訪れるのもなかなかいいものなのだ。









 穏やかな春のある日、滋賀県の最北部に向かった。旧余呉町の福井県境近くの集落を訪れるためだ。木之本ICで降りて北国街道(R365)を北に向かう。この春は、とても暖かい日が続いているが、県境の栃ノ木峠以北はまだ除雪作業が終わっておらず、そこから先は通行止め。この辺りが近畿でも有数の豪雪地帯であることを思えば、峠周辺道路の整備に時間がかかるのも無理はなく、例年ここの開通は4月下旬まで待たなければならない。そして開通までの間はピストン道になるので、交通量はより少なくなり、静かに周辺散策ができる時期となる。





 余呉湖を過ぎ、旧余呉町役場(現在は支所)を越えると左右の山々がより迫ってきて、人家はまばらになる。さらに北へ行けば「柳ケ瀬」、「椿坂」、椿坂峠、「中河内」、そして栃ノ木峠だ。この栃ノ木峠と椿坂峠は、古の時代から大変な難所として多くの人々を悩ませてきた。しかし昨年の11月に椿坂トンネルが完成し、今までのクネクネと曲がる椿坂峠越えの苦労からは解放された。椿坂~中河内間が、峠を越えずに行けるようになったのだ。エンジン音を大きく響かせてゆっくりと登ることを強いられていた大型トラックなどは、ずいぶんと楽になったことだろう。そして何より、豪雪でしばし孤立することもあった最奥集落「中河内」の人たちにとっては、凍てつく山道を越える危険から解放してくれた待望のトンネルであったに違いない。







椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影


 トンネル開通に伴い、これまでの峠越えの道は残念ながら閉鎖されてしまっているが、これについては様々な理由があるようで、それを聞くと大いに納得できてしまう。しかしながら、椿坂峠にある地蔵さんの風景が見れなくなってしまったのは、やはり残念でならない。多くの通行人を見守り続けた峠の‘かりかけ地蔵’は、少し前でさえもうお世話をする人は無いような感じだったが、これからはますます人から遠ざかり、やがては人々の記憶からも消えていく運命にあるのかもしれない。それにしてもこの地蔵さん、一体いつの時代からこの峠で見守り続けてくれていたのだろう。その「かりかけ」という名前の由来や謂れなど、詳しいことを知りたくていろいろな資料を調べたり、現地の人にうかがったりもしたが、結局わからずに終わってしまっており大いに悔いが残る。



椿坂峠(椿坂側)/2014年撮影




椿坂峠の地蔵さん/2014年撮影


 この日は「椿坂」(滋賀県長浜市余呉町)集落を、まず訪れてみることにした。といっても「中河内」「半明」へ行く前に少し立ち寄ってみようという感じの、軽い気持ちでの訪問だ。余呉湖より10km程北にある静かな集落「椿坂」、今その集落中央を貫くのはかつてのR365で、現在のR365はもっと道幅が広げられてその少し東側にあり、集落を見おろしながら通っている。したがって「椿坂」に行くには、旧国道を入る形となる。





 車窓から「椿坂」を見おろしながらいったん通り過ぎた後、逆戻りする形で北側から旧道を入り集落へ向かう。空き地に車を停め散策するが、しばらくは人と出会うことも無い。といって廃村のような、何も寄せ付けないような雰囲気があるわけではなく、あちこちで生活の温かみを存分に感じることができる山里の雰囲気だ。ようやく人と出会えたのは良福寺というお寺だった。80代くらいの男性が一人、雪除けのシートをはずす作業をしておられる。作業中で申し訳なく思いながらも挨拶をして、少しお話をうかがってみた。









 まず、前から気になっていた片岡小学校椿坂分校の場所をうかがう。残念ながらその痕跡は何も残っていないが、分校はこの寺のすぐ下にあったという。「2階建ての木造校舎で、30人程の生徒が居たかなぁ・・。5年生になると片岡小学校へ通うんや。あの辺が校舎で・・」と、丁寧に教えてくれる。また、集落の北の端から通じる山越えの古道(椿井越の道)で刀根に行き、そこから敦賀に行ったことや、その昔は刀根~杉箸~池河内~獺河内~五幡の「塩買いの道」などがあったこと、買い物は「柳ケ瀬」もしくは雁ヶ谷(かりがたに)まで出て、そこから汽車に乗って木之本へ行ったことなどもうかがえた。それでも「(隣村の)中河内には行ったことないなぁ・・」というのが何か不思議に感じたが、やはり決まった目的などが無い限り「峠を越えて更に奥」の地に行くことはなかったのかもしれない。
 江戸の頃には、加賀の前田公をはじめとした北陸の将軍様の参勤交代がここを通っていたという。江戸に行くのにずいぶん遠回りのように感じるが、それは新潟県の超難所の「親不知」を避けるためだったという。もちろんこの方が当時の様子をご覧になったはずもないのだが、その頃のこのあたりの様子、北国街道の宿場町「椿坂」の繁栄ぶりはきっと代々に渡り語り継がれてきたことなのだろう。そして、そのことを語る時の表情は笑顔がいっぱいだ。





 訪れたこの日、ピークは過ぎていたようだが、お寺には桜が咲いていた。この桜は毎年きれいに花咲かせてくれるそうで、最後にお寺の中に飾ってある桜の写真を見せてもらった。「A4サイズに引き延ばしてもらってな・・」というように写真はこの方が撮られたもので、壁には額に入れられた大変きれいな桜の写真が飾られていた。この方は、おそらく昭和一桁のお生まれだろう。したがって村の賑やかだった頃から、村からどんどん人が離れ、やがて高齢者が中心の過疎集落へと変わっていく村の変容をリアルタイムで見、そして体験してこられている。80年以上にも渡り見続けてきた故郷、この方の目を通して、一体どれだけの変わりゆく故郷の風景が心の中に収められているのだろうか。見せていただいたのは桜の写真だけだったが、写真にならない無数の「椿坂」の風景がきっと詰まっているに違いない。そして今もここで暮らし、故郷の映像はまだまだ継続していく。









 距離にしたら6~700mくらいの、長細く延びた集落を歩いたが、結局その後は誰とも出会うこと無く、そのまま集落の南端へ。すると、道に覆いかぶさるようにして枝を広げる古木が見えてきた。この時期、枝にはまだ小さな葉しかついておらず、そのぶん太い幹全体を覆った緑の苔や先端に広がる細い枝がやたら目立っている。そして苔の緑と対峙するかのように、横には赤い布が並んで見える。さらに前には、供えられた赤や白、黄色の花。
 地蔵さんなのか石仏なのかなど、詳しいことはわからないが、この古木と地蔵さんの作り出す村はずれの風景は実に素晴らしく、何か尊いもののようにも感じられた。1本道が続いていくこの風景の歴史を知る由はないものの、ただ静かに村から出る人たちを見送り、村に入ってくる人たちを迎え続けてきた、そういう時代を超えた温かさが伝わってくる。





 更に近づいてよく見てみると、古木の根元あたりにも赤い布が見える。根の間の窪みにも3カ所、石仏が置かれているのだった。それが何を意味しているのかはわからないが、その姿が何か妙に可愛らしく親しみを感じる。これまでにもたくさんの石仏や地蔵さん、道祖神などを目にすることがあったが、こういうのは初めてだ。根の間の石仏をよく見ると一つは五輪塔のような形をしているし、その他は自然石のようにも見える。そして木の横にもたくさんの地蔵さんが並ぶ。
 何か違った雰囲気を醸し出しているこの一画、石仏やら地蔵さんやら道祖神やら、見てもほとんど区別のつかない自分ではあっても、そんなことなど関係なく何か伝わってくるものがある。自然を崇め、そこに神なり仏なりを見出だし、長きにわたって自然を大切にしてきた日本人の心、時代や場所を越えて自分にも流れているであろう日本人の心、そういったものを感じたりする。そしてそういう時、「日本人に生まれてよかった・・」など思うのである。





 これまでにも何度かここには訪れているはずなのだが、なぜか気づかなかったこの風景。知らぬ間に車で通り過ぎてしまっていたのかもしれないし、それを見る心の余裕が無かったのかもしれない。いずれにしても、この出合いは自分にとってとても印象深いものとなった。
 など思いながら撮影をしていたが、ふと見ると、すぐ向こうの畑で仕事を終え休憩している2人の女性の姿がある。先程の男性よりはもう少し下の世代の方だが、ここで畑をされているので、地蔵さんに関して何かご存知かもしれないと思い、早速うかがってみた。これだけの地蔵さんなので、きっと地元の誰もが知るような謂れなどあるはずだ。






 ところがうかがってみると、特に謂れや由来はご存知ないという。さらに‘◯◯地蔵’というような呼び名も、「特にないよ」ということだった。「でも子どもの頃、年に1回の行事があって集まってたよ」ということで、やはり村では大切にされてきたようだ。それでもその歴史的な部分は、すでに言い伝えが途切れてしまっている。歴史深い「椿坂」なので、きっと何か謂れがあるはずだと思ったが、この日は結局それ以上のことはわからなかった。





 帰宅後、町史などいろいろな資料を引っ張りだしてみたのだが、さっぱり書かれていない。ネットで検索してももちろん出てるはずも無く、写真が数枚見つかるだけ。もう一度ていねいに資料を調べ直したところ、「椿坂の木のまた地蔵」ということばが確認できたが、その詳細はわからない。木の根っこの間に置かれた地蔵、ということで「おそらくこれだろう・・」と思うものの、それだけでは不十分。やはりもう一度、現地で確認してみることを決める。





 今、姿や形があるものでも、その詳細がわからないというものは少なくない。どこかに記録が残っていればいいのだが、それがなければ伝える者がいなくなった時点で人知れぬものとなってしまう。そしてその姿も消えてしまった時、存在さえなかったかのように永遠に失われてしまう。今回の地蔵さんがどうなのかはわからないが、古いものの中には後世に伝えていきたいものもあるし、伝えていかなければならないものもあるだろう。ただ、伝えていくべきものであっても、今の時代の流れの中では、なかなか残せない状況があるとしたら、それはやはり悲しむべきことだと感じる。


 などということを別にしても、今回出合ったとても印象的な「椿坂」の風景のこと、やはりもっと知りたくなってくるのである。







http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

テーマ:滋賀県情報 - ジャンル:地域情報

【2015/05/23 09:33】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
#241 桜の木造校舎と廃村、そして林道越前西部3号線
~ 桜の木造校舎と廃村、そして林道越前西部3号線 ~






 久しぶりに越前の林道(広域基幹林道越前西部線)を訪れた。前回の訪問が2007年なので、8年ぶりということになる。その時には越前西部3号線の途中から入り、南に向かって2号線、1号線を走った。ちなみに南から北に向かった場合、越前西部1号線は越前市中津原から越前町六呂師(22.3km)まで、2号線は越前市千合谷町から越前町下山中(14.9km)まで、3号線は越前町下山中から福井市大味町(27.2km)までとなり、総65km程にもなる。4号線もあるようだが、案内図が古いのかどうかわからないが、書かれてはいなかった。
 下の2枚の地図は、いずれも現地の案内地図を撮影したものだ。1号線のものは20年前のものなので、今はもう新しくなっているかもしれない。



1994年撮影




2007年撮影


 南北に連なる山々を縦断する形で走るこれらの林道、特に3号線は東西のそれぞれの山麓の集落からの支線が複雑につながっているので、いつもどこを走っているのかわからなくなり、どれが本線なのか迷いながらの走行となる。今回はその3号線から入り、その周辺を走ってみた。地図でいうと、ちょうど越前岬の東の山の中、という感じだ。下の地図は、現地の案内地図を撮影したもの。



2015年撮影


 これらの林道は、20年程前の訪問では一部未舗装部分も残っていたが、早々に全舗装されている。そういえば滋賀県を含め、周辺各地の林道の多くが閉鎖されたり舗装化されるようになってからは、極端に林道走行をしなくなってしまった。安全管理面や、設置者ならびに主たる利用者の目的や都合に合わせて舗装されるのは仕方の無いことなのだろう。しかし、それとともに失われるものも少なくないと感じる。また、多くの心無い車も入ってくることになり、ゴミや不法投棄・グレーチングなどの盗難などが増えているのは、林道に設置されている警告看板などを見ても明らかなようだ。林道を走っていて、実際にそういう現場を目にすることも珍しいことで無くなっている現実は、やはり悲しく感じる。



1994年の林道越前西部線




1994年の林道越前西部線


 北海道は幹線道路でも未舗装路がけっこう残っていて、何度かの旅の際に走行したりしたのだが、長らく未舗装路と離れていた自分にとっては、なにかとても懐かしい感覚だった。未舗装路では自然とスピードを落とすので、車窓から見える自然いっぱいの風景もじっくりと味わえるし、地面を踏みしめるタイヤの音や鳥のさえずりなども聞こえてくる。非日常のものにふれることができるのである。自分の場合、ダート走行の魅力はまさにそこにあり、そういった所に訪れることで多くのものを目にし、価値観も大いに変わったと感じている。といっても今回走行した林道は全舗装路なので、ダート走行時に感じるような心地よさより、もっぱら景観を楽しむ感じでの訪問だ。



2013年/北海道上士幌町の岩間温泉への林道


 前置きが長くなってしまったが、この日はまず、ある所を訪れた。これより10日ほど前に訪れた木造校舎だ。その時は、そこでの「木造校舎と桜」の風景を見たくて訪れたものの、桜が咲くにはまだ早すぎて見れず、今度こそはと思っての訪問だった。しかし急に暖かくなった春の10日間はちょっと長過ぎたようで、桜は満開が過ぎてかなり葉が多くなってしまっていた。それでもピンクが色鮮やかなしだれ桜が多くの花を咲かせており、春の雰囲気を思い切り醸し出してくれている。また校舎前に植えられているチューリップも開花前の蕾が大変美しく、これから迎えるであろう開花したチューリップと木造校舎の美しい風景をイメージさせてくれた。

















 前回の訪問時に校舎横の畑で作業されていた方の姿はこの日は無く、周辺にもほとんど人の姿はない。校舎前の道も時折車が通り過ぎるだけで、大変静かな山の中の木造校舎。通常は廃校後の校舎は、他用途での使用が無い限りどんどん荒れ果てていくものだが、ここは今も大変きれい。建物はもちろん、小さな校庭の桜や花壇のチューリップなども手入れされている。きちんとした管理無しではこの姿は保てないだろう・・など思いネットで調べてみると、やはり他用途での使用がされているようだった。実はこの校舎は、取り壊しが決まっていたという。しかしそれを惜しむ卒業生たちが立ち上がり、有効活用しながら今後の保存も実現していこうと、蛍鑑賞会や収穫祭、音楽会・・など様々な活動やイベントなどを行ない、それにより今もこうして美しい姿を見せてくれていたのだった。
 時代の流れとともに消えてゆく古いものの中には、その姿を見せてくれることで多くのことを語りかけてくれるようなものも少なくない。それら大半が失われていく中で、こうして残っていく背景には、やはり人々の温かい思いや行動する力があってこそというのを改めて感じる。













 木造校舎でしばしの時間をすごした後、山へ向かう。越前西部林道3号線とつながる峠に着き、少し撮影。前回の訪問では峠名の標示は無かったが、今回は「海山峠」の看板があった。文字通り、海も山も見える峠だということなのだろう。周辺の案内図を見てみると、このあたりは「県民いこいの森」として整備されているようで、本線を走っている限り道も整備されていて安心だ。杉林も少なく大変開けた感じで、新緑の春や秋の紅葉時には美しい景観となりそう。
 それでも車がほとんど通らず、一般道に比べ道も狭いので、こういう所に不慣れな人には不安に感じられるのかもしれない。峠でウロウロしている時に1台の車が来て「この道、どこへ行くんでしょうか・・」と不安げに声をかけられた。「こっちへ下ると集落に出ますよ」と返事すると安心されたようだが、60代くらいの女性2人のドライブだとこの静かすぎる雰囲気は、やはり少々心配だったようだ。













 前々回のこのコーナーでもご紹介した廃村にも行ってみることにした。
 3号線を北に進むと、再び峠に出る。今度は「花立峠」という標示がある。ここからの眺めはなかなかのもの。視界の良い時は白山が見えるというが、この日はうっすらという感じだった。もちろん海も見える。撮影したのが正午すぎだったのでかなり霞んでしまっているが、朝の澄んだ空気の中や、夕焼けで赤く染まる時のここからの景色は格別のものがあるだろう。そういうシーンを想像すると、泊まりがけで来てみたいなど思ったりする。













 廃村に向かうには、峠を少し行った先の支線に入り谷を下る。前々回のこのコーナーで、その廃村のことをうっすらとした記憶で「山を越えるまでの最奥の集落」など書いていたのだが、実際に行ってみると、山を越えて谷を降りた所にその集落はあった。舗装されているとはいえ、雪解け後の道は落石が多く、走行するには神経を使う。これまでの経験でいくと、スピードを上げて尖った石を踏んだり跳ね上げたりすると、やわなタイヤのサイドウォールはいとも簡単に切れてしまう。この日は、そのやわなオンロードタイヤでの走行だったので、慎重に走る。





 峠から一気に150m以上の標高差を下ると、やがてその集落跡が見えてきた。10年ほど前の訪問では蔵だけが残されていたのだが、今もその蔵は健在だった。かなりの傷みがありはするが、10年もの歳月とこの雪深い地の厳しい自然条件を考えると、こうして残っているのは本当に奇蹟とも思える。道向かいの石段を上ると、そこには墓石が一つあり、ここで生まれ育った人たちの魂が故郷の地に今も眠る。他に残っているのは積み上げられた石段や、倒壊した家屋のものと思われる朽ちた柱と瓦くらい。すぐ近くの小川には、源流に近い澄んだ水が流れ、美しく光る。小さな川だが、村在りし頃は生活の生命線だったことだろう。













 1974年~78年頃の空撮写真を見ると、数軒の家屋とその周辺の田畑が写されている。周りが山に囲まれた谷の、わずかな狭いスペースにあった集落だったということがよくわかり、改めてその生活の厳しさを感じるのである。



「国土地理院ホームページ」より







 再び来た道を戻り、しばらく越前西部林道3号線を走る。そしてわけがわからないまま分岐を曲がったりして走っているとやがて海岸線が見えてくるが、どこを走っているのかイマイチわからない。その海岸線をよく見ると洞穴が見える。なにかずっと以前に、そこを通ったことがあるような記憶があるが、今はどうも使われてはいないようである。帰宅後調べてみると「呼鳥門」という天然トンネルで、10数年前まで実際にトンネルとして使われていたそうだ。









 このあたりでは「熊出没注意!」の看板をよく見かけた。これまで一度だけ林道で熊と出合ったことがあるが、その時は車の中だったので何事も無く終わった。一番危険なのは、はち合わせてしまって熊が驚いて攻撃態勢に入った時だろう。そうならないように熊鈴などでこちらの存在を知らせるように気をつけてはいるが、それでも出合うことがあるかもしれない。そうなったらどうしよう・・など思って歩いていると、道に熊の糞らしきものを発見。この真っ黒な感じからすると、熊のものかもしれない。しかもまだ新しそうな感じだ。









 熊は自分にとってけっこう興味深い存在なので、行く先々で出会った人に熊のことを聞いたりする。北海道では「もう何十年も山登りしているが、未だ熊に出合ったことが無い。」という人もいれば「おるおる、普通におるよ。」中には「何度も出合って格闘もした。」という猛者もいた。先日、余呉町の半明で名古屋から来られた山菜採りの人に聞くと「そんなん、おらへんおらへん。大丈夫や」と言っていたが、地元の人に聞くと「あそこの木が折れてるやろ。あれは熊が折ったんや。朝方に見ることはあるな。」とのこと。つまり出合ったことの無い人は「おらへんで」と言うし、出合った経験のある人は「おるよ」というのだろう。でもこうして糞があったり目撃があったりなどからすると、確実に周りにいるのだから、こういった山での注意は怠るべきではないということなのだろう。









 また少し走ると見えてきたのが梨子ヶ平の千枚田の風景。案内板の説明によると、千枚田の名であるが、今ではその大半が越前水仙に転作されてしまったとある。米作りをしていた頃の夕暮れの水田の風景を見たかったなど思うが、一斉に咲く水仙の風景もそれはすごいものがあるだろう。ここでもオーナー制度があるようで、12月下旬にオーナー会員の一斉収穫がされるというから、咲き始めはその頃からのようだ。私が山里でよく見る水仙は3月頃から咲き始めるので、ずいぶんと開花時期が違うものだ。













 帰宅後、現地で見た行き先案内の標示「城有町」「八ツ俣町」「梨子ヶ平」などを元に地図で確認してみると、六所山を西に進んで海岸線まで出たことがわかった。途中で越前西部3号線を離れていたようである。地図で越前西部3号線を確認しようとしたのだが、略図では「なるほどー」と思ってそれを地形図に当てはめてみようと試みるものの、地形図ではたくさんの細い道が複雑に入り組んでいてやっぱりわからず・・。結局今回も、林道越前西部3号線は途中で訳が分からなくなってしまった。それでも分岐や支線が多いぶん、いろいろなものに出合えそうなので、細かく行き先など考えずに走ってみるのもおもしろいような気がする。また景観の良い所も多く、周囲の木々の緑も大いに楽しめるので、周辺のキャンプ場などで泊をとって、ゆっくりとまわるのもいいのかもしれない。













 距離にすれば短かいものの、桜と木造校舎、山里、峠からの山の風景、海、棚田などいろいろなものに出合うことができる林道越前西部3号線の周辺。地図などを見ると、この他にも様々な見所がありそうなので、またぜひ訪れてみたいものだ。

 など思っていても、訪れるのはまた8年後・・くらいになってしまうかな・・






http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

テーマ:☆北陸(富山・石川・福井)の情報☆ - ジャンル:地域情報

【2015/05/10 12:01】 | 林道 | トラックバック(0) | page top↑
#240 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿)
~ 春の桃原にて  (スキー場、ゴボウそして猿) ~






 昨年見た美しい‘しだれ桜’、今年もそれが見たくて、芹谷のかつての高原集落「桃原(もばら/滋賀県犬上郡多賀町)」を訪れた。鈴鹿山脈の中腹に位置する「桃原」は、過疎化が大変進み廃屋や倒壊した家屋などがあちこちに見られるものの、今も村は健在。住んでいる人たちはもちろん、今はここを離れてしまったかつての住人たちもけっこう頻繁に帰ってきておられ、手入れされた庭や新しく作られた畑など、村を大切にされる人々の気持ちが大いに伝わってくる。そのため、訪れた時に地元の方と出会うことも珍しいことではない。









 『かつての高原集落』ということばを使ったのだが、実際に「桃原」が高原集落という感じだったのかどうかはわからない。芹川が流れる谷底と桃原集落との標高差は140m。そこを埋める斜面一面に広がる畑とその間を縫うように走る小道、中腹に見える数10軒の民家や庭の木々、それらが作る開けた風景はきっと『高原集落』というイメージにピッタリだったはず、という思い込みから勝手に使っていることばにすぎない。
 斜面に広がっていた畑が全て杉林に変わってしまった今でも、谷向かいの斜面の林道からは、季節によっては少しだけ「桃原」が見える。ただ、山肌全体が杉林の濃い緑に覆われてしまっているので高原のイメージは全く感じない。せめてその頃の、桃原地区全景を写した写真があるといいのになど思うのだが、それも叶わず、当時の風景を思い浮かべるしかないのが現状だ。それでも集落を歩くと、所々に高原の雰囲気は残っており、木々が濃い緑になる前の春先や葉の落ちる秋には、かつての雰囲気を感じることもできる。









 静かで季節感がたっぷりのこの村が好きで、いつからか年に何度かは必ず訪れるようになった。まずは福寿草に始まり、続いて梅、桜などの花が春を彩る。梅雨の頃になると道沿いにたくさんの紫陽花が咲き、秋には周囲に見える杉林に負けまいと赤や黄色の木々の紅葉が色鮮やかに輝く。冬場の積雪時に見られる銀世界の桃原の風景も、また見事である。
 ただ、木々の花が美しく咲いていた道沿いの家屋が取り壊されて更地になったり、道に咲く紫陽花の花の多くが鹿に食べられてしまったりなどで、村の風景は確実に変わっている。それでも静かに春を感じさせてくれるのは、やはりそこを大切にしている人たちの存在があり、集落に動きがあるからに他ならない。時の流れとともに変わってゆく「桃原」ではあっても、季節季節に見せてくれる風景は今も大変美しい。

















 今回見にきた‘しだれ桜’だが、以前から「しだれ桜がきれいよ。」と地元のオバチャンに教えてもらってはいたものの、なかなかタイミングが合わず、咲き誇るその姿を初めて見たのは昨年のこと。その時はまた最高のタイミングで、見事な‘しだれ桜’を見ることができた。そして「来年も必ず見たい!」という思いを実現させたくて今年の訪問となったのだが、その時期に続いた雨で少々不安を持っての桃原行きとなった。



昨年(2014年)のしだれ桜


 集落に着き、しだれ桜のある方へと向かう。この日は何だか賑やかに人の声が聴こえる。見ると畑を新たに作っておられるご夫婦と地元のオバチャンが大きな声でお話をされている。畑の横には、これも色鮮やかな赤い桜。挨拶がてらに「こんにちは、この赤い桜、撮らせてもらっていいですか?」と声をかける。すると、ご夫婦の「ええ、どうぞどうぞ、いいですよ。でもこれは桜じゃなくてハナモモよ。」というお返事。「あ、そうだったんですか。ずっと桜だと思ってました。」ということで、桜ならぬハナモモを撮影する。









 それにしても本当に鮮やかな赤い色だ。「確か去年もこのハナモモを撮ったなぁ」「もう少し朝早く来ていたら、もっと優しい光りだったのに」など思いながらシャッターを押す。そしてハナモモの撮影を終え、この日の目的のしだれ桜の方に目をやると、なんだか花が少ない。「雨で散ってしまった?それとも時期が遅かったのかな・・」など思って、そのことをうかがいにいく。





 ご夫婦と元気にお話をされているオバチャンをよく見ると、これまでにも何度かお話をうかがったことのあるオバチャン。髪の毛がまっ白に変わっておられたので以前とは少し違った印象だった。そのオバチャンに
 「あの、すいませんが◯◯さんですか?以前お話を何度かうかがったことがあるんですよ」と声をかける。
 少しお耳も遠いので、横のご夫婦の奥さんが伝えてくれる。
 「あー、そやけど、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 「◯◯といいます。霊仙分校のことでいろいろ教えてもらった者です。」
 「・・あかんわ、思い出せへんわー、かんにんな」と、茶目っ気いっぱいに笑う。
 「今日はしだれ桜を見せてもらいにきたんですけど・・」
 「ああ、そうか・・そやけど今年は花が少ないんよ。去年はほんまにきれいに咲いて多かったんやけど、なんでやろなぁ・・」
 そう話すオバチャンは、花の少なさが心配そう。





 実はこの日の訪問は、このオバチャンにお会いできたら・・と思っての訪問でもあった。地元でお生まれになり、地元で育ち、ずっと地元の学校(芹谷分校、霊仙分校)で教鞭をとられ、仕事を終えられたあともここで暮らし続ける、まさに芹谷一筋、桃原一筋で生きてこられた方、その方に見ていただきたい古い写真があったのだ。
 「実は今日見ていただきたい写真があるんやけど、持ってきていいですか?」と切り出すと、「え?そうなん?そしたら家の方で見せてもらおかな。ここでずっとおしゃべりばっかりして(ご夫婦の畑仕事の)邪魔ばっかりしてたんやわー。」と元気に笑う。ご夫婦は「いろいろ教えてもらって、邪魔なんてとんでもないですよー」と恐縮。ということで車に写真をとりに戻り、オバチャンのお宅へ。





 まずは写真を見ていただく。持ってきた写真は、古い芹谷小学校時代の校舎と、その前で写る先生や子どもたちの写真。「これはわからんなぁ・・、◯◯先生やろか・・、いや、違うなぁ・・」ということで、この写真はオバチャンとは違う世代の写真のようだった。
 ところが別の写真を見ていただくと、「これは◯◯先生。これは◯◯さん。こちらは霊仙の◯◯さん」「あ、私も写ってる、恥ずかしいわー。」というように次から次にことばが出てくる。そして「(霊仙分校に勤務している頃は)帰りになると道に猿がズラーッと並んでてね、それ見ていったん学校に戻ってね、怖かったよ。30分くらいするとサーッといなくなって、それから帰るんやけどね。猿はたくさんいたよ」「うん、霊仙分校の写真は少ないね。何か行事の時は芹谷分校の方へ行ってたから、あっちではあんまり撮影しなかったからと違うかな。」「芹谷分校の閉校式には私も参加しててね・・。」など、当時の様々な様子をきかせてくれた。うかがう前は「ボケてしもうて、なんもわからへんよ。」とおっしゃっていたのだが、全くそんなことなく、いろいろなお話が出てくる。また、小学校の頃のオバチャンの教え子が、今は地元の学校の偉いさんになって活躍されており、その方が先日、私が霊仙の集落や分校についてお話をうかがおうとお願いした方だったりで、年代を越えた地域のつながりなども、おもしろく感じた。幼い頃の恩師、その偉いさんの先生もきっとこのオバチャンには頭が上がらないことだろう。



霊仙分校跡




霊仙分校跡




芹谷分校(2002年)


 ここ「桃原」に昔あったスキー場、以前もうかがったことがあったが、そのことについてもう少し詳しく聞いてみた。
 ゴボウやサトイモなどの畑をしていた山の斜面一面が、冬場にはスキー場となる。昭和9年に小学校に入学したオバチャンが小学校3~4年の頃に、その多賀スキー場ができたそうなので、おそらく昭和10年代初めの開業のようだ。スキー場に来るのに彦根から歩いてきたという時代もあったが、バスも運行されていた。遠くからやって来たスキー客は、今は大きなブロックが積んである芹川沿いの「桃原口」でバスを降りる。昭和39年頃に現在ある集落までの林道ができたというから、それまでは桃原口からひたすら斜面を歩いて登っていく感じだったのだろう。当時はもちろんリフトなどはなく、スキーをかついで雪の中を徒歩で登る。それでも「ここはすごくいい斜面でね、お客さんが多かったんよー」という。









 スキー場の経営は近江鉄道グループだったが、全部で4つあったヒュッテのうち1つだけが近江鉄道の経営で、残りは地元の方がされていたという。最盛期には、大阪など遠方からのお客さんも多数あったらしく、泊まりがけで来る人たちも少なくなかった。そのためこの集落では多くのお宅が民宿を経営されており、オバチャンのお宅でも冬場は民宿をされていたという。もちろん地元の利用者も多く、地元で生まれ育った方で60歳代以上の多くの人たちは、このスキー場での学校スキーがとても楽しい思い出となっている。そういった世代の方々にお話をうかがうと、作った竹スキーやそりで楽しんだ当時の思い出話などがよく出てくるが、これもスキー場が長きにわたり地元に根ざしていたということなのだろう。
 しかしそんな多賀スキー場も、新たに伊吹山に大きなスキー場ができたり、雪が少なくなってしまったことなどで、昭和30年代後半から40年代あたりに閉鎖となってしまう。今はこのあたりの観光といえば『河内の風穴』くらいだが、当時はスキー場や芹川での渓流釣りなどでかなり賑わっていたということが、少し年代を遡ると見えてくるのである。






 今スキー場の存在を伝えるものは、残念ながら現地にはほとんど残っていない。ゴボウやサトイモ畑のスキー場も、全てに杉が植林されてしまって鬱蒼とした林となり、スキー場があったことすら想像することは難しくなってしまった。写真などもほとんど残っておらず、経験した人たちの記憶と、訪れた人たちが写したわずかな写真のみにその存在が伝えられているのだろう。何か寂しく感じたりするが、閉鎖後半世紀も過ぎたことを思うと仕方の無いことなのかもしれない。





 この「桃原」で一番盛んだったのは、ゴボウ作りだ。桃原では、他の山の集落のような炭焼きは行われず、ゴボウやサトイモの生産、そして割木生産などで生計を立てていたところが多かったという。中でもゴボウは有名で「お多賀ゴボウ」として京都まで出荷されていた。見かけは細く、ヒョロ長くてかっこよくはなかったらしいが、太く短いものは見かけはよくても鬆(す)ができやすい。一方で、細く長く成長する桃原のゴボウは鬆が無い。加えて味は良く、日が経ったものでも水に戻すと元に戻り美味しくいただけるというので、京都では高級食材として珍重されていた。ところが彦根などでは太いものが好まれていたそうで、ここでの生産されたものは京都への出荷が主だった。
 桃原のゴボウは独特の赤土で育つ。それと同じような土壌の谷向かいにある「屏風」集落でもゴボウの生産が行われていたという。また川沿いの集落「河内」などでも生産されていたが、これは太く短いゴボウだったので彦根方面への出荷が主だったようだ。





 その桃原のゴボウ作りも、人々が山を離れるとともに廃れていき、遂には幻の食材となってしまう。ところが、最近になって、この桃原のゴボウを復活させようと地元の方や関係者が中心となってゴボウ作りが始められ、昨年も収穫されたそうだ。このオバチャンも長年ゴボウ作りをされていたので「何かコツみたいなものはあるんですか?」とうかがってみたが「ゴンボ作りのコツ?そんなんあらへんよ」と一言。でもいろいろうかがっていくと、ゴボウは連作は良くなくサトイモと隔年で作っていたことや、種まきの時期によって出来具合が大きく影響すること、そして油かすなどの堆肥を使うとダメで化成肥料を使っていたこと、などいろいろ出てきた。おそらくこれらどれもが、オバチャンの長年の身に染み込んだ経験で、ごく普通にされてきたことばかりなのだろう。だからご本人にしたら「コツなんて無いよ」ということになってしまうのだが、それは貴重な経験の裏づけがあったからこそといえそうだ。





 10~11月に収穫された桃原ゴボウは、背駄で背負って谷まで下ろし、そこに積んでおく。そして京都へ出荷される。今なら車で林道を使ってすぐに行けてしまうが、その当時は多くの人たちがゴボウを背負って畑の道を通り、何度も谷を登り降りして運んだ。ゴボウの収穫は冬を迎える前の最後の大仕事、この時の風景は、きっと桃原の秋の風物詩といえるものだったのだろう。









 最近の「桃原」は猿が多い。「桃原」だけではなく、芹谷では当たり前のように猿を見かける。車で走っていて、目の前に猿が落ちてきたこともあった。電線を渡っていて落ちてきたようだが、何とも驚いた。桃原地区でいうなら、人間の何十倍も猿が多く、どちらが主役なのかわからないくらいだ。そしてその猿も、これまでとは違う行動が見られるようになってきたという。
 例えばオバチャンの家の桜の花を、昨年は猿が食べてしまったという。そんなことはこれまでには無かったこと。その桜の木には、今年は全く花が咲かなかったというが、何か関係があるのだろうか。また庭の池に毎年産みつけるモリアオガエルの卵も、昨年は猿が食べてしまった。これも初めてのことだったそうだ。
 「猿も食べ物が減ってるんでしょうかね」
 「そやろか・・、うん、そうかもしれんなー」

 鹿や猿が山の植物や、人の庭の花、畑の作物を全て食べ尽くすのはこれまでにもうかがったが、食糧難の猿はそれだけでは足りず、これまで食べなかったものにまで口にするようになっているのかもしれない。杉林ばかりになってしまった周辺の山々、そこに住む動物たちの食糧事情がなかなか厳しいものがあることは想像がつくが、それによってさらには山全体のバランスまでも崩れてきてる、そんな気がする。









 ある日、オバチャンの家の屋根の上で猿が群れで大騒ぎをしていた。今まで群れで猿がやって来ることがあっても庭に来るのはせいぜい数匹で、屋根の上に登ったり、そこで大暴れすることは決してなかった。何事とかと思って庭に出ると、庭の鹿よけのネットに子猿がからみついて動けなくなっている。それを心配して大騒ぎしていたようだ。いろいろやってみたものの子猿を網から脱出させてやることができない。仕方無いので地元の方に応援を頼んで、網を切り取ってようやく子猿を助けることができた。するとそれを機に大騒ぎしていた猿たちは急に静かになり、そのまま子猿とともに山に帰っていったそうだ。
群にとって大事な子猿、猿たち皆で心配していたのだろう。
 「いつかきっと、その子猿が恩返しに来ますよ。」
 「そうか? そうやといいな」
 「猿の恩返しですね」
 「ハハハー」


 など話していると、庭に三毛猫が走っていくのが見えた。
 「あれも2~3日前から来てるん。誰か捨てていったんやろか・・。前はおらんかったのにな。」
 「◯◯さんの周りにはいろいろなものが集まってきますね」
 「そうやろか、ハハハー」





 この日、満開の‘しだれ桜’は見ることができなかったが、オバチャンと出会えたことで、いろいろな貴重なお話がうかがうことができた。そして何よりも素晴らしい春のひと時をすごさせてもらった。いろいろと被害を受けることの多い猿に対しても、どこか愛情を持って接しておられ、決して憎々しげに語るなどということは無かった。受け入れるところは受け入れる、そんな姿勢が感じられるのである。自然と接する時に、人間は自然を支配する、コントロールするという立場をとりがちだが、受け入れるところは受け入れる、そういうことも大事だと感じてならない。





 オバチャンとは何年かに1回お出会いできるかできないかなので、次にお出会いできた時もたぶん
 「あー、だれやったかいな??忘れっぽうなってしもてなー。」
 という会話から始まりそうだが、それはそれで楽しいもの。難しいことは無くてもいいので、これからも末永く「桃原」のことをいろいろ語り続けてほしい、そう願うのである。





http://www.geocities.jp/kondodoraibuiko_ne021/index.html

テーマ:滋賀県情報 - ジャンル:地域情報

【2015/04/30 21:01】 | 滋賀県山村・廃村・自然 | トラックバック(0) | page top↑
前ページ | ホーム | 次ページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。